2014年10月29日水曜日

豊橋での能楽らいぶ『中尊』

11月13日(木)の夜に愛知県豊橋市の駅前のホールで能楽らいぶを致します。曲は拙作の新しい能『中尊』です。登場人物のシテとワキ、それに地謡一人、囃子は笛一人という四人構成の「らいぶ」です。
 そして何とゲストにあの内田樹さんをお招きして、能についてのお話や私との対談もする事になっています。内田先生がどのようなお話しをして下さるのかも楽しみなのですが、それのみならず先生と対談出来るのをとても楽しみにしています。
 聞くところによると、能などそっちのけの内田ファンの皆様も相当数ご来場とのことで、そのような皆様には私との対談などは邪魔かも知れません。しかし、平素内田先生の仰っている「身体感覚で考える」ための手段として、能は合気道と共に、その実践の為に知っておくべきものだと思います。合気道のみならず、武道の経験の全くない私には、内田先生の課題は当に能のための言葉としか思えないのです。
 また、能を目当てのお客様にも、能が何故何百年も伝承されているのか、何故意味も分らないのに感動を与えられるのか、そしてこれから先どのようにして能が生き伸びて行くのか、など、きっとそんなお話しを聞くことが出来ると思います。このお話を聞くと、この先能楽堂で能を鑑賞する時にも大きな助けとなるはずです。

 どうぞ皆様。このような催しはおそらく暫くはないと思います。是非、会場にお運びいただき、同じ時間を共有して下さい。何卒宜しくお願い致します。

 さて、当日演じる能『中尊(ちゅうぞん)』ですが、これについては京都イーハトーブプロジェクトの浜垣誠司さんが、以前に詳細に論じて下さっていますので、こちらを参考にして下さい。ここには簡単にあらすじをご紹介します。宮澤賢治の詩の世界・能『中尊』について



能『中尊』あらすじ

 一人の詩人(ワキ)が登場し、福島浜通りを廻り来て、さらに北に下り、昔の「日高見」の国を訪ねる。彼の地と思しき所に休んでいると、道端の小さな地蔵の祠に女(シテ)が蓮の実を捧げて一心にお参りをしている。尋ねてみると福島の中通りからこの地に避難して来たのだと言う。
 女は請われて更に詳しく身の上を語る。新潟水俣病の被害者として差別を受け、今、更に過酷な仕打ちにうち拉がれている。そしてその心にひとすじの光を齎しているのが、地蔵に捧げた「中尊寺蓮」の花だった。その花の謂れを語るうちに、女は地霊に取り憑かれ、祈りの言葉として一編の詩「花を奉る」を口上し花を捧げる。
(あらすじ終り)


 さて、当日のパンフレットの為に以下のような文章を書きました。いらっしゃれない方のために、ここに掲載します。



能楽らいぶ「中尊」によせて
新しい能を創作すると言う事


 第八回吉田城薪能と言う場を頂戴して、私の新しい作品『中尊』を皆様にご披露出来ます事を大変嬉しく存じます。主催の三河三座の皆様には篤く御礼申し上げます。また、予てより敬愛する内田樹先生との交流の機会を設けて下さりました事にも、重ねて御礼申し上げます。
 古典の作品を演じる事が私の第一の仕事なのですが、その傍ら、第六回吉田城薪能で演じました『光の素足』を第一作として、私は新しい能の創作と言う仕事をしています。これは何処から依頼されたのでもなく、全く私が好き好んでやっている事です。
 能は十四世紀末に観阿弥と世阿弥によって大成されました。二人の大才の出現もさる事ながら、社会の中に果すべき役割があったからこそ、能はその後の数百年を生きた芸能として伝承されて来ました。戦乱の世にあって太平を祈念するとか、殺し殺された人々の鎮魂とか、本来宗教が果すべき役割を、芸能と言う外観を纏いつつこれまで担って来たのです。
 そして江戸時代には、武士の式楽として完成されたとも言われています。江戸時代の武士の美意識の高さは、とても現代人の及ぶものではなかったようです。武士はその美意識・価値観の発露の場として能を必要としました。明治以降の近代化の中では、その完成した芸術性の高さ故に、愛され伝承されて来ましたが、それは嗜好として、趣味として、孝養として大切にされて来たと言う事で、生きて行く上でどうしても必要なものではなくなってしまいました。
 今、私たちの社会は急速に変っています。この変化は今まで近代の歪みを吸収していた自然の力が、その歪みの級数的な増大に対処しきれなくなったために起っているようです。この様な世の中に能でなければ出来ない何かがあるはずです。例えば三・一一の後に時を経ずして内田先生の口にされた「原発の鎮魂」と言う言葉。新しい能を創ると言う事は、そう言う要請に答える時、大変に大きな意義を持つ事となるのだと思います。

中所 宜夫

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