2016年5月8日日曜日

演能のお知らせ----『葵上』----

 既に来週となってしまいました。緑泉会例会にて『葵上』を致します。
近頃は小書「梓之出」なしの上演は珍しくなりました。しかし、梓の出では省略されてしまう冒頭のシテの謡の部分は秀逸な心理描写であり、また、中入せずに舞台上で面を変える物着の方が、自分の存在を滅しようとする山伏の加持祈祷により面貌が変化すると言う意味で、曲本来の意に叶っているように思います。
是非、小書ナシの『葵上』をお楽しみ下さい。

『葵上』について 

『葵上』は「源氏物語」に取材した名曲であり、現在最も演能頻度の高い曲かと思います。おそらくは犬王道阿弥の作品であったものを、世阿弥が改作しています。
シテは曲名と異なり六条御息所です。知的で優しい貴女が、自分の心の醜さを受け入れられず、押し込めた感情が生霊と化してしまいます。梓弓の巫女(ツレ)に見あらわされ、山伏行者(ワキ)に祈伏されながら、最後は法華経の功力で成仏して行きます。

原作では、必死の加持祈祷も空しく、葵上は亡くなってしまい、怨霊の正体が能のように実体化されることはありません。そして光源氏はその後も長く怨霊に悩まされることになります。
ところで世阿弥は、多くの曲で妄執に彷徨う霊魂を描いていますが、怨霊については殆ど扱っていない様に思います。それは道真に触れていながら『老松』『道明寺』の様な描き方をしている点に現れているのですが、神秘家であった世阿弥にとって、文芸で身を立てた道真が、怨霊と化すのを良しとしない、つまり霊の中で怨霊を最も低く見ているからだと思います。映画「もののけ姫」で「たたり神」が忌避されるべきものと描かれているのと同じです。
もしこの曲が、私が考える様に、犬王道阿弥の持ち曲を世阿弥が改作したのだとすれば、殆ど唯一の怨霊作品だと思います(『鉄輪』はおそらく世阿弥のものではありません)。「怨霊を成仏させる」ことが世阿弥の意図であるならば、怨霊を実体化させ、さらにその怒りを増幅させて、行きつくところまで行きついて初めて成仏が可能となるのです。
最後、山伏に祈り伏せられ「あらあら恐しの般若声や」と言う呻吟の中にこそ、成仏への転換が隠されています。

と、そんな事を思いつつ稽古を重ねて来ましたが、本当に成仏する姿を見せるなど、なかなか出来る事ではありません。しかし、そこを目指しているからこそ、能は能であるのではないでしょうか。

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