2017年8月22日火曜日

能と縄文

能と縄文

小泉保著『縄文語の発見』と
大島直行著『月と蛇と縄文人』
を読んで思うこと



能は室町時代初期に世阿弥を初めとする人々がデザインし、江戸時代中期に武士たちがその世界観を結集して完成したものですが、どこか古代の呪術に通じるところがあります。

一つは「言霊」がそれに当たりますし、また「歌舞の菩薩」もその一つです。

「言霊」は言葉には魂があり、発語する事が、現実の世界を動かす力を持っているという事です。例えば『羽衣』の天女が「いや疑いは人間にあり。天に偽りなきものを」と言えば、頑なな漁夫を「あら恥ずかしや・・・」と改心させて羽衣を取り返す事が出来ました。天上界に本当に偽りがあるかないかは関係ありません。

「歌舞の菩薩」は『杜若』で在原業平を評する言葉ですが、舞う事と歌う事によって現実世界から精神世界へ昇華する過程を表していて、世阿弥と七郎元能が遊楽の最重要課題としています。

そしてその呪術性の淵源を遡るならば、古墳時代や弥生時代ではなく、縄文時代まで行かざるを得ないと思います。縄文と弥生には表面上厳然たる文化の違いがありますが、そこに人種的な大変動が認められない以上、基本的な世界観は形を変えて受け継がれている可能性があります。

『縄文語の発見』では、縄文から弥生への変化の中で、大規模な民族の入れ替わりがない事を踏まえて、縄文語を列島固有の発生によるものとして論じています。この視点は私には心強いものです。独自な言語を生み出すのならば、そこには独自の文化があったはずです。

私がここで独自の文化としてあげたいのは、顔より小さな仮面とスリ足の舞です。現在の能が、世界中のあらゆる芸能と全く似ていない二つの要素が、この「顔より小さな仮面」と「スリ足の舞」だと思います。



顔より小さな仮面


世界中に様々な仮面劇があります。生身の人間では演じられない神や悪霊、精霊などを役者が演じる時、生身の身体では霊の憑依に耐えられません。そこで役者の肌を見えない様に覆ってしまい、仮面を用いれば憑依の危険を回避することができます。この場合大きな仮面を用いるのが普通の考えでしょう。実際世界の仮面劇は顔より大きな仮面です。能面のように顔より小さな仮面は、発生時の考え方が全く違っているはずです。大陸や半島に顔より小さな仮面の痕跡はありません。

一方、遮光器土偶の中には仮面の紐が明確に見て取れるものもあります。私は何も、遮光器仮面から能面への直線的な変容を主張しているのではありません。実際、古形を伝えていると思われる能面には大振りなものが多い様にも見えます。大陸伝来の舞楽面・伎楽面は明らかに顔より大きな仮面ですが、その影響を受けて猿楽の面が創作されているうちに、次第に顔より小さな仮面となって行ったのではないか、そう言う方向に向かわせる磁場が、仮面と言えば顔より小さなものなのだと言う認識が、縄文一万年の間にこの列島に形成されたのではないかと言うのです。


スリ足の舞


また、スリ足の発生を、私は縄文の語り部に求めています。全くの思い付きに過ぎませんが、反閇の運足法や水田の中での歩行法、或いは平安貴族の衣冠束帯姿での歩行法にその淵源を求めるより、説得力を持っている様に思います。

縄文における語り部の存在は、最初は無文字社会での知識の蓄積方法についての考察から始まりました。語り部と言うと、記憶力に優れた特殊能力を持つ特別な人が、何百と言う物語を記憶して語る姿を想像するかも知れません。しかしそれでは、物語の再現精度と伝承方法に限界があります。何百年も同じ物語を伝承する為には、大勢が言語に固有の音律を付けて朗誦する事が必要だと思われます。

実際、能の世界では二百番を超える演目を皆で暗誦しています。現代は文字の洗礼を受けて久しい為に、残念ながら完全と言う訳には行きませんが・・。そしてこれも能楽師の多くがやっているのですが、謡を覚える時には歩きながらブツブツ謡うのです。時に不審者と間違えられながらも、この方法を手放さないのは、歩行と記憶に相関関係があるからだと思います。

現在の能楽師は謡本を見ながらブツブツ言いながら歩いているのですが、縄文の語り部たちは既に暗誦を習得している、周りの人々とともに声を揃えて唱えながら、集中力を高めるように工夫された歩行法で歩きながら、物語を暗誦して行ったと思います。勿論それ以前にかなりの精度で聴き覚えてしまっていたこととは思います。

さてこの歩行法ですが、大昔は世界中が無文字社会でしたから、語り部たちはそれぞれの言語社会の中にそれぞれ存在していたと思います。記憶と歩行の関係が人間の生理的なものだとすれば、多くの社会で語り部たちの歩行暗誦が行われていたはずです。

しかし、スリ足が日本に固有のものとすれば、言語に固有の音律によるものでなければなりません。アクセントや長母音短母音の混在、子音の強調などの特徴がある言語ならば、跳びはねるような上下動がその音律に相応しいのだと思います。しかし、母音に重心を置き、アクセントをつけず、一音一音を均一な長さで繋いでゆく音律ならば、朗誦歩行も均一な動きになり、上下動を極力抑える方向に向かったのではないでしょうか。『縄文語の発見』では原縄文語にはアクセントがなかった可能性が大きいとされています。裏付けるという程ではありませんが、これは縄文の語り部たちの朗誦からスリ足歩行が生まれた可能性を少し高めていると思います。


『月と蛇と縄文人』


『月と蛇と縄文人』はその縄文の人々の世界観を探ろうとする本です。私などは、縄文についての断片的な知識を都合の良い様に引っ張ってきて、ああでもないこうでもないと言うのですが、考古学の学者が最新の発掘・研究の成果を元に、その精神世界を紐解こうと言うのですから、大いに耳を傾けたいところですし、実際この本から様々な啓発を受けました。

縄文の価値観の根幹には、死からの再生があります。人には必ず訪れる死。縄文人は其処からの再生を願っていました。そして生の全てを再生の為に捧げました。その象徴として第一に挙げられるのが月であり、蛇がそれに続きます。抑も縄文の縄目模様自体が、蛇の生殖の象徴であり、土器の形状や、竪穴式住居のあり様、集落の形など、生きる為のあらゆる事が再生の為の呪物だと言うのです。

死者の手足を折り曲げて甕棺に入れて埋葬したのは、胎盤を模していますし、墓も月に捧げる円形です。竪穴式住居がそのまま墓になっている事もあり、また、家を焼いて、その焼け跡に重ねて新しい家を建てている例もあるとの事で、一世代毎に家を建てていたのかも知れません。

縄文から少し離れますが、古代大和王朝に於いて、天皇が変わる度に新しい都を建設したのは、この縄文の哲学が習慣となっていたのではないかと思えます。

また、縄文が円の文化であるのに対して、列島に移住してこの地を支配した弥生の支配者たちが、四角即ち方の文化であったとすれば、円を後方に配置して、方を前方に置いた、前方後円墳は縄文から弥生へ移行する象徴的な姿とも見えます。


縄文の語り部


さてその縄文文化は、一万年に亘り継続されました。海に隔てられているとはいえ、周辺地域で農耕が始まってなお数千年もの間、農耕生活を拒否して、森と共に月に従いながら生き続けたのです。此処に森と共に全てを再生の為に捧げながら生きる為の哲学があったはずです。その哲学を人々に伝える儀式があり、その儀式の中核には芸能があったのではないでしょうか。

生命の誕生から死に至り、そして再生する世界の有様を、詩に作り声に託して、語り部たちは円く廻りながら朗誦しました。

晦日と朔日を含む三日間は夜は闇に閉ざされます。おそらくこの「死の三日」は、胎盤の象徴である竪穴式住居の中で、魔物から身を守る為に、声を出すのも憚りながら、静かに夜を過ごすはずです。

月が姿を見せ始めるにつれ、少しづつ儀式が増えて行きます。月が満ちて行く間は成長の時です。新しい学びや創造が積極的に行われ、満月の日に備えて力を蓄えます。

そして満月の夜こそ語り部たちの舞台です。円形に整えられた広場に人々は集い、円周をスリ足で廻りながら、先祖から語り伝えられた物語を朗誦します。四季の移り変わりにつれて、語る物語は変わったに違いありません。

物語によっては仮面を掛けたかも知れません。ある者は蛇になり、ある者は蛙になる。その他再生の呪物に相応しい様々のものに、自身を託して舞を舞うのです。自身が再生の呪物となる為ですから、己の顔の一部や肌は見えていなければなりません。顔より小さな仮面です。

語り部たちの舞の終わりは即ち衰退の始まりです。世界は死に向かって廻り始めます。力の満ち溢れた満月の夜、人々は再生の為に最も重要な生殖の儀式を行なったはずです。或は、出産即ち新しい生命の誕生も、この儀式の中で行われたかも知れません。

それからは衰退の日々です。死の三日に備えて、食料の確保、備蓄などの準備が主な仕事となります。この時期には新しい試みなどはせず、儀式も死の三日の直前まで行われないかも知れません。そしてまた、再生に備える三日の沈黙が訪れます。

ところで、言語の音律から偶々生まれたスリ足ですが、スリ足と言う行為には、特別の力が秘められていました。これは能を愛好している方ならば皆さん頷く事と思います。氣の循環に満たされ、体幹を鍛え、頑強な身体を作ります。語り部たちは他の人々よりも、健康で長生きの集団だったに違いありません。それによって一万年の伝承が可能になったのではないでしょうか。


語り部の変容


さて、時は移ります。何千年も拒み続けて来た農耕が、遂にこの列島にも入って来ます。

おそらく大陸で民族移動があり、一部の人たちがこの地へ入って来たのです。少しの揉め事はあったでしょう。しかし、移民たちは僅かな人数です。広大な森の中に生きる人々は、森の外の僅かな土地に農耕を許し、移民たちを受け入れます。しかし移民は増え続け、農耕地も広がります。森を切り開く人々も出て来ました。やがて閾値を超えると、青銅器の武器を駆使して、移民たちは内陸部に進出し、どんどん森を切り開いて行きます。争いを好まない縄文の人々は、森の精霊たちの魂を鎮魂し、農耕の民に土地を明け渡します。そして、どうせ明け渡すのならば、耕作の稔りの豊穣を地の神に祈り、儀式を捧げます。

更に時は移ります。農耕が広がり、國が作られ、その土地を治める者が支配者となります。

かつての語り部たちは、支配者の物語を語り、その正統性を人々に啓蒙する機関となります。國が争い、敗れた國の語り部たちは、抹殺されてしまったかも知れません。

更に時が移り、支配者は王となり、國は国となります。

天地創造から神々の國産み物語が創造され、英雄譚が加わって、語り部の物語が膨大になり、その能力の限界に迫る頃、大陸から文字が齎されます。最早語り部たちは不要となり、衰退して行きます。迫害を受けたかも知れません。しかし、元々森に生きていた者たちです。迫害を逃れ、深い谷に小さな集落を作り命を繋いで行きます。語り部の伝承の技術とスリ足の舞は、小さな集落の中で伝えられ、世代を繋いで行きます。

王権が確立し、語り部の事など忘れられてしまった頃、山間の隠れ里からスリ足の舞を伝承する人々は、芸能の民として歴史の舞台に登場します。私たちの知る歴史では、平安時代中期に当たります。


翁舞


観阿弥が起こした大和猿楽の一座である観世座は、春日大社の庇護に預かる大和四座の中の結崎座を母体としていました。その他、円満井座は金春座、外山(とび)座は宝生座、坂戸座は金剛座とそれぞれ母体となるざから名前を変えて一座が作られます。これは、大和四座が翁舞を伝承する座であり、その構成員の中の一部が、季節労働的に臨時の一座を組んで猿楽の興行に出て行ったため、その座長の姓から、名前がつけられた様です。

ところで翁舞とはどんな芸能だったのでしょうか。

猿楽より遥か昔から伝えられる舞、と言い伝えられる能の翁は、最初に千歳が勢い良く舞台を廻り、次いで翁が言祝ぎの言葉を述べた後、静かに舞台を廻りながら、要所で地鎮めの足拍子を踏みます。この役は特別に歳を重ねた長老によるものとされていました。次に三番叟が登場し、揉之段を力強く舞い、最後に黒い尉の面を掛けて鈴之段を、鈴を鳴らしながら田植えの所作などを交えて何回も舞台を廻ります。

これは縄文の語り部たちが農耕の民に土地を明け渡し、農耕の民の為に豊穣を祈る儀式を源流としている様に見えます。或いは三番叟は、農耕民から出たのかも知れません。

能には様々な謎が秘められていますが、その中に農民が登場しないと言う事があります。室町から現代に伝えられる二百以上の演目の中に、農民は唯の一人も登場しません。大和猿楽の母体となる芸能の民が、私の考える様な淵源による存在であったならば、その謎の一つの答えになるのではないでしょうか。


最後に


最後に、四本柱について考えてみましょう。円の縄文に対して、弥生文化が方を重んじるものであった可能性は高い様に思われる事は、先に前方後円墳を例に挙げました。森であった土地を農耕に明け渡す儀式について考えてみます。

東西南北を定めない縄文の舞に対して、田畑を方形に作る弥生の人々は、東西南北に従って土地を方形に定めなければなりません。かつての森であった土地の霊を治める為に、四方を定めるに相応しい神木を森から選び出し、御柱として土地に立てました。

聖なる土地に立てた四本柱の中は神域となり、その神性は儀式によってその外へ流れ出て行きます。陵墓においては、前方に方を作り、後方に円を収めましたが、儀式の舞台は、円を内に取り込みつつ森の力を集約する神木の四本柱で方を定めました。やがて大陸から伝えられた雅楽が律令の式楽となるに至って、その寸法が翁舞にも当てはめられる様になったのではないでしょうか。

それならば、現在能舞台で四本柱の外側に設けられている、地謡座、横板、橋懸りなどの装置は何を淵源としているのか、また、鏡板、鏡の間とある鏡の重要性はどこから来ているのか、まだまだ色々な謎が残されていますが、それはまたの機会に考えてみたいと思います。




0 件のコメント:

コメントを投稿