2018年8月24日金曜日
9月17日(月祝) 「放下僧」 のご案内
舞台のご案内を申し上げます。
9月17日(月祝)に緑泉会例会にて「放下僧(ほうかぞう)」を致します。4月18日還暦記念の「卒都婆小町」で一区切りをつけ、この舞台からまた新たな一歩を踏み出します。
「放下僧」は敵討ちの曲です。
しかし他の多くの敵討ちの曲とは異なり、芸尽しを主眼としています。しかもその「芸」がよく分らないのが面白いという、とても変な曲です。
まづ前段で兄を敵討ちに誘う弟が、中国の故事を語るのですが、本来は敵討ちとは関係のないお話を、むりやり孝行譚に仕立てています。そして後段前半の仇に取り入るための禅問答は、何しろ禅問答ですからわけがわかりません。仇に近づいてから座興で舞う曲舞も、禅問答の続きみたいです。
しかし、それらをさも意味があるかのように演じる設定になっていて、能の演出とも言うべきしかけが、大きな力を発揮しています。
そして、お腹の前につけた鼓を打ちながら舞う「羯鼓」があり、続いて都の名所を謡い込んだ「小歌」の舞になります。この小歌は上べは名所尽しと見えて、実は裏に大変卑猥な内容を隠しており、それに気がついた仇が思わず笑い転げてしまいます。
世阿弥の美意識にこういうものはありません。しかしこの曲は、舞の美しさよりも、劇的な展開を指向したひとつの傑作です。
その笑い転げた隙をついて敵討ちを成就するのですが、その場面、仇役のワキは笠を残して退場し、その笠を仇に見立てるのも面白い演出です。
最後に「名を末代に留めけり」とありますが、シテの牧野某もワキの利根信俊も、それらしいモデルは実在しません。
いろいろ不審なことが多いこの曲ですが、私にはこのシテの舞姿に、嘉吉の変で赤松満祐が将軍義教を討つ時に、舞台で「鵜羽」を舞っていた音阿弥の姿が重なって見えるのです。音阿弥は最大の庇護者よりも、佐渡にある世阿弥を思って芸の限りを尽したのではないか。とすればこの曲は、人を殺すために芸の力を使ってしまったことに対する禊の曲なのかもしれません。
如何なる次第になりますか、是非見届けて頂きたく、ご案内申し上げます。
2018年4月5日木曜日
卒都婆小町について
『卒都婆小町』は、世阿弥の父の観阿弥の作品として伝えられていますが、シテの登場の場面などは、多くの世阿弥の作品の持つ味わいに近く、「世子六十以後申楽談儀」にも、もっと長かったものを世阿弥が切り詰めたと書かれていますので、かなり世阿弥改作の手が施されていると思われます。その結果、観阿弥の劇的興趣と世阿弥の世界観の深さが、絶妙に交じり合う傑作として、今私達の前に伝えられています。
以下は、当日のパンフレット用に書き始めたのですが、パンフレットには字数制限がありますので、それをもう少し詳しく書きました。かなり長いですが、おつきあいいただければ嬉しく存じます。
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「卒都婆小町」鑑賞の手引き
あらすじと言うには詳し過ぎ、
現代語訳と言う程詳しくなく、
勝手な解釈も交えた演能メモ
高野山の二人の僧(ワキとワキツレ)が都へ上ろうとしています。「山は浅きに隠れ家の。深きや心なるらん。」(世俗を離れて隠れ棲むについては、山に籠って修行をしても山の深さは問題ではなく、心の深さが問題です。)と、仏縁を喜び悟りを目指して修行に励む徳の高い僧のようです。この僧が世俗の中心たる都へ上るのですから、何か相当のことがあるのかも知れません。そのあたりは各自で想像してみましょう。
それにしても「生まれぬ先の身を知れば」以下、(縁あって人間としての生を得た今だけれど、その生を得る以前の事を感得してみれば、全てが一つであり、親だとか子だとかの区別も溶解してしまう。)と述懐する僧の徳の高さは相当なものだと思えます。
一方、一人の年老いた乞食女が、何のためかわかりませんが、こちらも都を目指して歩みを進めています。この登場は老女物独特の約束事と位取りがあり、重厚な雰囲気に包まれます。杖なしでは十分な歩行もままならない窶れ果てた老婆ですが、その実かつては宮廷の耳目を恣にした小野小町です。そういう演劇的な難題を、能では型の伝承として解決している、言葉を変えれば、能の修行を怠らずに続けて行けば、その難題をある程度越えて行くことが出来るわけです。
さて登場して来て「身は浮草を誘う水。なきこそ悲しかりけれ。」(昔、文屋康秀と言う人が三河へ下る時に、私はもう既に年寄りになっていたのをからかって、「三河へ一緒に下ってください。」と言うので、「わびぬれば身をうき草の根を絶えて誘う水あらばいなむとぞ思う」と歌を返して、こちらも鼻であしらったことがあったけれど、今ではそんな風に私を誘う水さえもない。悲しい悲しい。)と嘆いています。
昔は美しいともてはやされて華やかな一時を過したけれど、今は自分を恥じながら都の周辺を行き来しています。
「月もろともに出でて行く」以下、
(月が東から西へ行くのと一緒に、私も東から西へ都を目指して行きます。雲の彼方の内裏の人々も、その大内を山守のように守っている取り巻きの公卿たちも、この哀れな身を見咎めたりはしないでしょう。まして木の陰に隠れてしまえば月明りも届きません。おお。あの辺りに鳥羽の恋塚があるはず。あそこには無体な男の誘いを撥ね除けきれずに自分を殺させた、袈裟御前の霊が眠っている。その北には鳥羽離宮の秋の山が見える。さらにその北を見れば桂川の流れに舟が浮かんでいる。懸命に舟を漕がせて過ぎて行くけれど、乗っているのは誰なのかしら。)
と一つ一つの情景に心動かせながら歩んで行きます。
さてこの乞食の老女、疲れて朽木に腰をかけて休むのですが、その朽木は卒塔婆でした。
東からやってきた老女と南から来た僧が出会います。
実はこの出会いの場所が不明なのです。世阿弥の改作で省略された部分があると思いますが、それはこの曲の鑑賞とは直接関係ないので、別の機会に譲ることとします。小町の時代にはなかったはずの、鳥羽離宮の秋の山が出てくることも気になります。
僧は乞食が卒塔婆に腰掛けて休んでいるので、説教して退けようとします。
少し長いけれどこの曲の大切な部分です。詳しく辿ってみましょう。
僧「これこれ。あなたが腰をかけているのは、勿体なくも卒塔婆ですよ。他の所で休みなさい。」
老女「そんな有り難そうに仰いますが、ただの朽木にしか見えません。」
僧「山奥の朽木でも花が咲けばそれと分る。まして仏の形に刻んでいるのだから、ただの朽木のわけはないよ。」
老女「花と言うなら私だって、山奥の朽木みたいになってしまっているけれど、まだ心に花はあるのです。だから私が腰をかけていると言うことは、花を手向けているのと同じです。
ところで卒塔婆が仏の形だと言うのはどういうわけですか。」
従僧「金剛薩埵が大日如来のために姿を変えて、三摩耶形(さまやぎょう)を行っているのが卒塔婆なのだ。」
老女「その行いによって作った形はどんなものですか。」
僧「地水火風空ですよ。」
老女「それはこの世界を構成する五大ですね。それを輪塔にして五輪と言うのは知っています。でも五輪って人の頭と両手両足のことですもの。私と卒塔婆と区別があるなんて変ですね。」
従僧「五輪という形は同じかも知れないが、そこに宿る心と、それによってもたらされる功徳が違うのだよ。」
老女「それでは卒塔婆の功徳って何ですか。」
僧「一見卒塔婆(卒塔婆を一見すれば)永離三悪道(永く三悪道を離れる)と言います。」
老女「よく言われますね。でも一念発起菩提心(一念発起して菩提心を育む)とも良く言われていて、これもとても大切です。それならば私だって負けていませんよ。」
従僧「菩提心があると言うなら、 どうして出家しないのでしょう。」
老女「姿形で出家するのではありません。心の中で俗世を厭っているのです。」
僧「心の中で厭っていると言うけれど、そのような心がないから卒塔婆が仏体だと知らなかったのではありませんか。」
老女「おや、いつ私が知らないと言いましたか。仏体と知っていればこそ卒塔婆に近づいたのですよ。」
従僧「ではどうして敬いもしないで尻に敷いているのでしょうか。」
老女「卒塔婆だってこうやって寝ているのですから、どうして私が休んでいけないことがあるでしょう。」
僧「それは仏の教えに素直に従う態度ではないですね。」
老女「でも教えに背いてもそれは逆縁となって成仏の種となるのでしょう。」
ああ言えばこう言う問答で、少し屁理屈っぽいけれど、最初侮ったこともあり、二人の僧はとうとう老女に同調してしまいます。以下三人が交互に言葉を継いで行きます。
(仏陀を苦しめた提婆達多の悪も、試練を与えた観音菩薩の慈悲に他ならず、仏弟子の槃特の愚かさも、熱心な学びの心を引き出す文殊菩薩の知恵なのです。悪は善であり、煩悩は菩提です。菩提と言っても植木のようにそこに形としてあるものではありません。同じように、全てを映す鏡と言っても台に据えられてあるものではありません。真に本来世界は無であり、一つ一つの物が別々にあるのではありません。ですから仏も衆生も同じ一つのものなのです。)
いやいや老女に合わせて語り始めたら大変なことになって来ました。事は仏の教えの深淵に及んでいます。ただの乞食と侮っていたのを恥じる心もあるのかも知れません、高野山で修行を積んだ徳の高い僧二人が、乞食の老女を思わず三拝するのです。
力を得た老女は
「極楽の内ならばこそ悪しからめ外は何かは苦しかるべき(ここが極楽だったら悪いかも知れないけれど、外だから何も差し障りはないはず)」
と戯れ歌を読んで、やっと立ち上がります。
帰ろうとする老女に素性を尋ねると、小野小町のなれの果てであると聞かされ、僧は聞き及ぶ小町の美しさを並べたてるのですが、目の前の小町は衰え果てた姿です。地謡によって謡われる有様は真に痛ましく、小町は思わず恥じて顔を隠します。
いったいどうやって日を送っているのか尋ねる僧に、
「背中の袋に粟豆(ぞくとう)の乾飯(かれいい)を入れている他、着替えやくわいなどを持ち歩き、破れ蓑と破れ笠で身を覆うのですが、顔さえ隠しきらない有様なので、霜雪や雨露の時などは、とてもつらい思いで徘徊しています。往来の人に物乞いをするのですが、何もくれなかったりすると悪心が湧きおこり、物狂おしい気持になって・・・。のうお恵み下さい、お坊さま。」
と身の上を物語るうちに物憑きの様を見せます。
「小町という人は、罪深いほど美しい上に、度重なる文にも一度の返事もない奢りゆえ、今百歳の老残を晒すはめとなりました。それにしても何とも人恋しいことです。」
憑依したのは深草の少将でした。
毎夜毎夜小町の元へ通う少将。夕暮れともなれば諫める人がいても、とても止めることは出来ません。
いつしか(舞台奥の後見座で装束を変え烏帽子を冠ります)老女の姿に少将の出で立ちが重なり、その百夜通いを僧の面前に再現します。
白い袴の裾を取り、立烏帽子だと身分が分るので風折れに折って、狩衣の袖を被って人目を忍び、月夜でも闇夜でも雨の夜も風の夜も通って行く。落葉が時雨のように降っても、雪の深い日も・・・。見れば軒から雨垂れがとくとくと落ちている。それが「疾く疾く(早く早く)」と急かしているよう。行っても会えずに帰り、帰ればまた行く。ひと夜ふた夜と数えてみれば今日が九十九夜目。やれ嬉しやと思うなり眩暈に襲われ、そのまま亡くなってしまった。
その深草の少将の怨念がこの小町に憑いているのです。
すっかり語り終えた少将は小町から離れます。
小町は、後世の平安を願って日々を送るように諭され、教えられた通り、毎日小さな善行を積み重ねて徳を磨き、花を仏に手向けつつ余生を送ります。小町はやがて悟りの道へ至り、感謝の心を合掌の姿に表して、一曲の終りとなります。
舞台からシテの老女が退場します。これは既に僧と問答をしていた小町ではありません。その後善行を積み重ねて菩提の道を辿って行く小町かも知れません。或いは、もう死んでしまって浄土へ昇って行く魂かも知れません。見所の皆様がそれぞれに何かを感じていただければと思います。
シテとは離れてワキとワキツレが退場します。現実には小町と出会った日から何日も過ぎてしまっているのかも知れません。世俗の坩堝である都へ上ろうとしていた二人の僧は、小町と別れた後、どのように修行を続けて行くのでしょうか。
一曲の始めから能の場を立ち上げてきた囃子方が退場します。笛、小鼓、大鼓の順に登場と同じ順番で退場して行きます。合わせて地謡も退場し、舞台は空となります。
何もなくなった能舞台に何かを感じていただければ、演者としてはとても嬉しく思います。
2018年3月13日火曜日
2018年3月4日日曜日
『雲林院』を舞います
3月11日に九皐会の例会で『雲林院』を致します。 4月18日には自主公演『卒都婆小町』を控えていますが、 こちらもとても大切な舞台で、 本来ならもっと日程に余裕を持って臨みたいところです。しかし、 鎮魂の日に能を舞うのですから、 その意味をしっかり噛み締めて臨みたいと思います。
雲林院は世阿弥の作品とされていますが、 残されている自筆本とは特に後場が全く異なります。 しかし世阿弥の娘婿の金春禅竹の著作で言及されている雲林院は現 行のものと見られているとの事で、 かなり早い段階で現行の雲林院に近い改作がされていたようです。
雲林院について
雲林院は世阿弥の作品とされていますが、
前場は、伊勢物語マニアの芦屋公光(ワキ)が、
原典に当たっていないので心許ないのですが、
それに対して現行雲林院の後段は、ワキの夢に業平の霊が現れ、
但し、語って聞かせると言っても、実際にはその語り(
そのクセ舞に続いて太鼓入り序之舞を舞うのですが、
この、舞を目的とする後シテのあり方は、 世阿弥の考案した所謂複式夢幻能の趣きです。
舞の波動は、
その様な要素を能に組み込んだのは紛れもなく世阿弥でしょう。
余談ながら、『杜若』も大方は金春禅竹作かと思いますが、
私は『能の裏を読んでみる〜隠れていた天才』(kindle版)
演能の曲目と言うのは、
能は特にそう言う曲ではなくとも、
2018年3月1日木曜日
卒都婆小町を致します
この春の催しをご案内申し上げます。
- 3月11日(日)九皐会例会『雲林院』 公演情報はこちら
- 4月18日(水)中所宜夫能の会『卒都婆小町』
『雲林院』についてはまた改めて書きます。
今回は自主公演での『卒都婆小町』について、何故平日なのかと言うことも含めてのお知らせです。
私は、大学卒業後能の世界に飛び込み、観世喜之先生の内弟子になりました。独立したのが昭和63年ですので、舞台活動の殆どを平成と共に歩んできたことになります。多くの方々に助けられ順調に能楽師としての道を歩んで来られたと思います。そして今年平成30年、私は60歳の還暦を迎えます。今の時代還暦と言って何も珍しくありませんが、何かひとつ節目の舞台をしたいと思い、一昨年に師匠に相談したところ、お許しを頂き、卒都婆小町を披くことになりました。
公演日は私の還暦の誕生日です。平日の昼公演ですが、是非多くの方に観て頂きたいと思います。
チケット申込 TEL&FAX 042-550-4295
Email: nakashonobuo@nohnokai.com
卒都婆小町について
能には老女物と呼ばれる一連の曲があります。「卒都婆小町」「鸚鵡小町」「姨捨」「檜垣」「関寺小町」です。姨捨以下の三曲は特に三老女として重く扱われ、近年までその全てを披いた演者は殆どいませんでした。これは権威的な側面よりも、寧ろそこに能の最高の到達点を定め、力量・経験に不足の演者が軽々に演じることを戒めて来たためです。
卒都婆小町は百歳の小野小町をシテに据えて、その老女物の最初の曲に定められていますが、他の曲が老女の舞を中心に据えているのに対し、深草少将が憑依する物狂いに焦点を当てているのが特色です。言わば三老女が天上的な世界を描くのに対し、卒都婆は人間存在を突き詰めている曲です。
作者は観阿弥とされており、「自然居士」と並んで最も観阿弥らしい作品に数えられています。確かにその劇的構成の巧みさは観阿弥ならではの見事なものですが、しかし老女になってなお物狂いする姿を、決して悲惨なものとして描いていない、寧ろ見詰める視線の愛おしげな優しさの中に、私は世阿弥ならではのものを感じます。
これは謡の詞章だけからはわからないかも知れませんが、数年前に卒都婆小町を目標に定め、自分なりに稽古をして来た中で思っていることです。
皆様とともに、当日の舞台でそれを確かめたいと思います。
卒都婆小町は百歳の小野小町をシテに据えて、その老女物の最初の曲に定められていますが、他の曲が老女の舞を中心に据えているのに対し、深草少将が憑依する物狂いに焦点を当てているのが特色です。言わば三老女が天上的な世界を描くのに対し、卒都婆は人間存在を突き詰めている曲です。
作者は観阿弥とされており、「自然居士」と並んで最も観阿弥らしい作品に数えられています。確かにその劇的構成の巧みさは観阿弥ならではの見事なものですが、しかし老女になってなお物狂いする姿を、決して悲惨なものとして描いていない、寧ろ見詰める視線の愛おしげな優しさの中に、私は世阿弥ならではのものを感じます。
これは謡の詞章だけからはわからないかも知れませんが、数年前に卒都婆小町を目標に定め、自分なりに稽古をして来た中で思っていることです。
皆様とともに、当日の舞台でそれを確かめたいと思います。
2017年8月22日火曜日
能と縄文
能と縄文
小泉保著『縄文語の発見』と
大島直行著『月と蛇と縄文人』
を読んで思うこと
能は室町時代初期に世阿弥を初めとする人々がデザインし、江戸時代中期に武士たちがその世界観を結集して完成したものですが、どこか古代の呪術に通じるところがあります。
一つは「言霊」がそれに当たりますし、また「歌舞の菩薩」もその一つです。
「言霊」は言葉には魂があり、発語する事が、現実の世界を動かす力を持っているという事です。例えば『羽衣』の天女が「いや疑いは人間にあり。天に偽りなきものを」と言えば、頑なな漁夫を「あら恥ずかしや・・・」と改心させて羽衣を取り返す事が出来ました。天上界に本当に偽りがあるかないかは関係ありません。
「歌舞の菩薩」は『杜若』で在原業平を評する言葉ですが、舞う事と歌う事によって現実世界から精神世界へ昇華する過程を表していて、世阿弥と七郎元能が遊楽の最重要課題としています。
そしてその呪術性の淵源を遡るならば、古墳時代や弥生時代ではなく、縄文時代まで行かざるを得ないと思います。縄文と弥生には表面上厳然たる文化の違いがありますが、そこに人種的な大変動が認められない以上、基本的な世界観は形を変えて受け継がれている可能性があります。
『縄文語の発見』では、縄文から弥生への変化の中で、大規模な民族の入れ替わりがない事を踏まえて、縄文語を列島固有の発生によるものとして論じています。この視点は私には心強いものです。独自な言語を生み出すのならば、そこには独自の文化があったはずです。
私がここで独自の文化としてあげたいのは、顔より小さな仮面とスリ足の舞です。現在の能が、世界中のあらゆる芸能と全く似ていない二つの要素が、この「顔より小さな仮面」と「スリ足の舞」だと思います。
顔より小さな仮面
世界中に様々な仮面劇があります。生身の人間では演じられない神や悪霊、精霊などを役者が演じる時、生身の身体では霊の憑依に耐えられません。そこで役者の肌を見えない様に覆ってしまい、仮面を用いれば憑依の危険を回避することができます。この場合大きな仮面を用いるのが普通の考えでしょう。実際世界の仮面劇は顔より大きな仮面です。能面のように顔より小さな仮面は、発生時の考え方が全く違っているはずです。大陸や半島に顔より小さな仮面の痕跡はありません。
一方、遮光器土偶の中には仮面の紐が明確に見て取れるものもあります。私は何も、遮光器仮面から能面への直線的な変容を主張しているのではありません。実際、古形を伝えていると思われる能面には大振りなものが多い様にも見えます。大陸伝来の舞楽面・伎楽面は明らかに顔より大きな仮面ですが、その影響を受けて猿楽の面が創作されているうちに、次第に顔より小さな仮面となって行ったのではないか、そう言う方向に向かわせる磁場が、仮面と言えば顔より小さなものなのだと言う認識が、縄文一万年の間にこの列島に形成されたのではないかと言うのです。
スリ足の舞
また、スリ足の発生を、私は縄文の語り部に求めています。全くの思い付きに過ぎませんが、反閇の運足法や水田の中での歩行法、或いは平安貴族の衣冠束帯姿での歩行法にその淵源を求めるより、説得力を持っている様に思います。
縄文における語り部の存在は、最初は無文字社会での知識の蓄積方法についての考察から始まりました。語り部と言うと、記憶力に優れた特殊能力を持つ特別な人が、何百と言う物語を記憶して語る姿を想像するかも知れません。しかしそれでは、物語の再現精度と伝承方法に限界があります。何百年も同じ物語を伝承する為には、大勢が言語に固有の音律を付けて朗誦する事が必要だと思われます。
実際、能の世界では二百番を超える演目を皆で暗誦しています。現代は文字の洗礼を受けて久しい為に、残念ながら完全と言う訳には行きませんが・・。そしてこれも能楽師の多くがやっているのですが、謡を覚える時には歩きながらブツブツ謡うのです。時に不審者と間違えられながらも、この方法を手放さないのは、歩行と記憶に相関関係があるからだと思います。
現在の能楽師は謡本を見ながらブツブツ言いながら歩いているのですが、縄文の語り部たちは既に暗誦を習得している、周りの人々とともに声を揃えて唱えながら、集中力を高めるように工夫された歩行法で歩きながら、物語を暗誦して行ったと思います。勿論それ以前にかなりの精度で聴き覚えてしまっていたこととは思います。
さてこの歩行法ですが、大昔は世界中が無文字社会でしたから、語り部たちはそれぞれの言語社会の中にそれぞれ存在していたと思います。記憶と歩行の関係が人間の生理的なものだとすれば、多くの社会で語り部たちの歩行暗誦が行われていたはずです。
しかし、スリ足が日本に固有のものとすれば、言語に固有の音律によるものでなければなりません。アクセントや長母音短母音の混在、子音の強調などの特徴がある言語ならば、跳びはねるような上下動がその音律に相応しいのだと思います。しかし、母音に重心を置き、アクセントをつけず、一音一音を均一な長さで繋いでゆく音律ならば、朗誦歩行も均一な動きになり、上下動を極力抑える方向に向かったのではないでしょうか。『縄文語の発見』では原縄文語にはアクセントがなかった可能性が大きいとされています。裏付けるという程ではありませんが、これは縄文の語り部たちの朗誦からスリ足歩行が生まれた可能性を少し高めていると思います。
『月と蛇と縄文人』
『月と蛇と縄文人』はその縄文の人々の世界観を探ろうとする本です。私などは、縄文についての断片的な知識を都合の良い様に引っ張ってきて、ああでもないこうでもないと言うのですが、考古学の学者が最新の発掘・研究の成果を元に、その精神世界を紐解こうと言うのですから、大いに耳を傾けたいところですし、実際この本から様々な啓発を受けました。
縄文の価値観の根幹には、死からの再生があります。人には必ず訪れる死。縄文人は其処からの再生を願っていました。そして生の全てを再生の為に捧げました。その象徴として第一に挙げられるのが月であり、蛇がそれに続きます。抑も縄文の縄目模様自体が、蛇の生殖の象徴であり、土器の形状や、竪穴式住居のあり様、集落の形など、生きる為のあらゆる事が再生の為の呪物だと言うのです。
死者の手足を折り曲げて甕棺に入れて埋葬したのは、胎盤を模していますし、墓も月に捧げる円形です。竪穴式住居がそのまま墓になっている事もあり、また、家を焼いて、その焼け跡に重ねて新しい家を建てている例もあるとの事で、一世代毎に家を建てていたのかも知れません。
縄文から少し離れますが、古代大和王朝に於いて、天皇が変わる度に新しい都を建設したのは、この縄文の哲学が習慣となっていたのではないかと思えます。
また、縄文が円の文化であるのに対して、列島に移住してこの地を支配した弥生の支配者たちが、四角即ち方の文化であったとすれば、円を後方に配置して、方を前方に置いた、前方後円墳は縄文から弥生へ移行する象徴的な姿とも見えます。
縄文の語り部
さてその縄文文化は、一万年に亘り継続されました。海に隔てられているとはいえ、周辺地域で農耕が始まってなお数千年もの間、農耕生活を拒否して、森と共に月に従いながら生き続けたのです。此処に森と共に全てを再生の為に捧げながら生きる為の哲学があったはずです。その哲学を人々に伝える儀式があり、その儀式の中核には芸能があったのではないでしょうか。
生命の誕生から死に至り、そして再生する世界の有様を、詩に作り声に託して、語り部たちは円く廻りながら朗誦しました。
晦日と朔日を含む三日間は夜は闇に閉ざされます。おそらくこの「死の三日」は、胎盤の象徴である竪穴式住居の中で、魔物から身を守る為に、声を出すのも憚りながら、静かに夜を過ごすはずです。
月が姿を見せ始めるにつれ、少しづつ儀式が増えて行きます。月が満ちて行く間は成長の時です。新しい学びや創造が積極的に行われ、満月の日に備えて力を蓄えます。
そして満月の夜こそ語り部たちの舞台です。円形に整えられた広場に人々は集い、円周をスリ足で廻りながら、先祖から語り伝えられた物語を朗誦します。四季の移り変わりにつれて、語る物語は変わったに違いありません。
物語によっては仮面を掛けたかも知れません。ある者は蛇になり、ある者は蛙になる。その他再生の呪物に相応しい様々のものに、自身を託して舞を舞うのです。自身が再生の呪物となる為ですから、己の顔の一部や肌は見えていなければなりません。顔より小さな仮面です。
語り部たちの舞の終わりは即ち衰退の始まりです。世界は死に向かって廻り始めます。力の満ち溢れた満月の夜、人々は再生の為に最も重要な生殖の儀式を行なったはずです。或は、出産即ち新しい生命の誕生も、この儀式の中で行われたかも知れません。
それからは衰退の日々です。死の三日に備えて、食料の確保、備蓄などの準備が主な仕事となります。この時期には新しい試みなどはせず、儀式も死の三日の直前まで行われないかも知れません。そしてまた、再生に備える三日の沈黙が訪れます。
晦日と朔日を含む三日間は夜は闇に閉ざされます。おそらくこの「死の三日」は、胎盤の象徴である竪穴式住居の中で、魔物から身を守る為に、声を出すのも憚りながら、静かに夜を過ごすはずです。
月が姿を見せ始めるにつれ、少しづつ儀式が増えて行きます。月が満ちて行く間は成長の時です。新しい学びや創造が積極的に行われ、満月の日に備えて力を蓄えます。
そして満月の夜こそ語り部たちの舞台です。円形に整えられた広場に人々は集い、円周をスリ足で廻りながら、先祖から語り伝えられた物語を朗誦します。四季の移り変わりにつれて、語る物語は変わったに違いありません。
物語によっては仮面を掛けたかも知れません。ある者は蛇になり、ある者は蛙になる。その他再生の呪物に相応しい様々のものに、自身を託して舞を舞うのです。自身が再生の呪物となる為ですから、己の顔の一部や肌は見えていなければなりません。顔より小さな仮面です。
語り部たちの舞の終わりは即ち衰退の始まりです。世界は死に向かって廻り始めます。力の満ち溢れた満月の夜、人々は再生の為に最も重要な生殖の儀式を行なったはずです。或は、出産即ち新しい生命の誕生も、この儀式の中で行われたかも知れません。
それからは衰退の日々です。死の三日に備えて、食料の確保、備蓄などの準備が主な仕事となります。この時期には新しい試みなどはせず、儀式も死の三日の直前まで行われないかも知れません。そしてまた、再生に備える三日の沈黙が訪れます。
ところで、言語の音律から偶々生まれたスリ足ですが、スリ足と言う行為には、特別の力が秘められていました。これは能を愛好している方ならば皆さん頷く事と思います。氣の循環に満たされ、体幹を鍛え、頑強な身体を作ります。語り部たちは他の人々よりも、健康で長生きの集団だったに違いありません。それによって一万年の伝承が可能になったのではないでしょうか。
語り部の変容
さて、時は移ります。何千年も拒み続けて来た農耕が、遂にこの列島にも入って来ます。
おそらく大陸で民族移動があり、一部の人たちがこの地へ入って来たのです。少しの揉め事はあったでしょう。しかし、移民たちは僅かな人数です。広大な森の中に生きる人々は、森の外の僅かな土地に農耕を許し、移民たちを受け入れます。しかし移民は増え続け、農耕地も広がります。森を切り開く人々も出て来ました。やがて閾値を超えると、青銅器の武器を駆使して、移民たちは内陸部に進出し、どんどん森を切り開いて行きます。争いを好まない縄文の人々は、森の精霊たちの魂を鎮魂し、農耕の民に土地を明け渡します。そして、どうせ明け渡すのならば、耕作の稔りの豊穣を地の神に祈り、儀式を捧げます。
おそらく大陸で民族移動があり、一部の人たちがこの地へ入って来たのです。少しの揉め事はあったでしょう。しかし、移民たちは僅かな人数です。広大な森の中に生きる人々は、森の外の僅かな土地に農耕を許し、移民たちを受け入れます。しかし移民は増え続け、農耕地も広がります。森を切り開く人々も出て来ました。やがて閾値を超えると、青銅器の武器を駆使して、移民たちは内陸部に進出し、どんどん森を切り開いて行きます。争いを好まない縄文の人々は、森の精霊たちの魂を鎮魂し、農耕の民に土地を明け渡します。そして、どうせ明け渡すのならば、耕作の稔りの豊穣を地の神に祈り、儀式を捧げます。
更に時は移ります。農耕が広がり、國が作られ、その土地を治める者が支配者となります。
かつての語り部たちは、支配者の物語を語り、その正統性を人々に啓蒙する機関となります。國が争い、敗れた國の語り部たちは、抹殺されてしまったかも知れません。
かつての語り部たちは、支配者の物語を語り、その正統性を人々に啓蒙する機関となります。國が争い、敗れた國の語り部たちは、抹殺されてしまったかも知れません。
更に時が移り、支配者は王となり、國は国となります。
天地創造から神々の國産み物語が創造され、英雄譚が加わって、語り部の物語が膨大になり、その能力の限界に迫る頃、大陸から文字が齎されます。最早語り部たちは不要となり、衰退して行きます。迫害を受けたかも知れません。しかし、元々森に生きていた者たちです。迫害を逃れ、深い谷に小さな集落を作り命を繋いで行きます。語り部の伝承の技術とスリ足の舞は、小さな集落の中で伝えられ、世代を繋いで行きます。
天地創造から神々の國産み物語が創造され、英雄譚が加わって、語り部の物語が膨大になり、その能力の限界に迫る頃、大陸から文字が齎されます。最早語り部たちは不要となり、衰退して行きます。迫害を受けたかも知れません。しかし、元々森に生きていた者たちです。迫害を逃れ、深い谷に小さな集落を作り命を繋いで行きます。語り部の伝承の技術とスリ足の舞は、小さな集落の中で伝えられ、世代を繋いで行きます。
王権が確立し、語り部の事など忘れられてしまった頃、山間の隠れ里からスリ足の舞を伝承する人々は、芸能の民として歴史の舞台に登場します。私たちの知る歴史では、平安時代中期に当たります。
翁舞
観阿弥が起こした大和猿楽の一座である観世座は、春日大社の庇護に預かる大和四座の中の結崎座を母体としていました。その他、円満井座は金春座、外山(とび)座は宝生座、坂戸座は金剛座とそれぞれ母体となるざから名前を変えて一座が作られます。これは、大和四座が翁舞を伝承する座であり、その構成員の中の一部が、季節労働的に臨時の一座を組んで猿楽の興行に出て行ったため、その座長の姓から、名前がつけられた様です。
ところで翁舞とはどんな芸能だったのでしょうか。
猿楽より遥か昔から伝えられる舞、と言い伝えられる能の翁は、最初に千歳が勢い良く舞台を廻り、次いで翁が言祝ぎの言葉を述べた後、静かに舞台を廻りながら、要所で地鎮めの足拍子を踏みます。この役は特別に歳を重ねた長老によるものとされていました。次に三番叟が登場し、揉之段を力強く舞い、最後に黒い尉の面を掛けて鈴之段を、鈴を鳴らしながら田植えの所作などを交えて何回も舞台を廻ります。
猿楽より遥か昔から伝えられる舞、と言い伝えられる能の翁は、最初に千歳が勢い良く舞台を廻り、次いで翁が言祝ぎの言葉を述べた後、静かに舞台を廻りながら、要所で地鎮めの足拍子を踏みます。この役は特別に歳を重ねた長老によるものとされていました。次に三番叟が登場し、揉之段を力強く舞い、最後に黒い尉の面を掛けて鈴之段を、鈴を鳴らしながら田植えの所作などを交えて何回も舞台を廻ります。
これは縄文の語り部たちが農耕の民に土地を明け渡し、農耕の民の為に豊穣を祈る儀式を源流としている様に見えます。或いは三番叟は、農耕民から出たのかも知れません。
能には様々な謎が秘められていますが、その中に農民が登場しないと言う事があります。室町から現代に伝えられる二百以上の演目の中に、農民は唯の一人も登場しません。大和猿楽の母体となる芸能の民が、私の考える様な淵源による存在であったならば、その謎の一つの答えになるのではないでしょうか。
最後に
最後に、四本柱について考えてみましょう。円の縄文に対して、弥生文化が方を重んじるものであった可能性は高い様に思われる事は、先に前方後円墳を例に挙げました。森であった土地を農耕に明け渡す儀式について考えてみます。
東西南北を定めない縄文の舞に対して、田畑を方形に作る弥生の人々は、東西南北に従って土地を方形に定めなければなりません。かつての森であった土地の霊を治める為に、四方を定めるに相応しい神木を森から選び出し、御柱として土地に立てました。
聖なる土地に立てた四本柱の中は神域となり、その神性は儀式によってその外へ流れ出て行きます。陵墓においては、前方に方を作り、後方に円を収めましたが、儀式の舞台は、円を内に取り込みつつ森の力を集約する神木の四本柱で方を定めました。やがて大陸から伝えられた雅楽が律令の式楽となるに至って、その寸法が翁舞にも当てはめられる様になったのではないでしょうか。
それならば、現在能舞台で四本柱の外側に設けられている、地謡座、横板、橋懸りなどの装置は何を淵源としているのか、また、鏡板、鏡の間とある鏡の重要性はどこから来ているのか、まだまだ色々な謎が残されていますが、それはまたの機会に考えてみたいと思います。
2017年8月15日火曜日
秋の催しのご案内
異常気象が常態となり
多くの災害には心痛められます
皆様のご健勝をお祈り申し上げます
この秋の催しをご案内申し上げます。遠方のものもございますが、ご旅行を兼ね、日本の美しさに思いをはせていただけましたらと存じます。
十月八日(日)井上内親王生誕千三百年祭
新作能「斎王」 於 奈良県五條市・御霊神社本宮
http://ow.ly/cFQx30eqbk7
十月十一日(水)近世能装束の世界「用の美」
特別公演「装束付」と「羽衣」 於 愛知県田原市・華山会館
http://ow.ly/qnFZ30eqbs2
十月十二日(木)第八回翡翠能楽らいぶ「いにしえ人の息づかい」 於 箱根翡翠
http://ow.ly/nyHS30eqbxE
十一月十二日(日)観世九皐会十一月例会
能「熊坂 替之型」 於 矢来能楽堂
http://ow.ly/9PIs30eqbBs
先日縄文関係の本数冊とたて続けに出会い、縄文について色々考えています。スリ足の起源は益々縄文の語り部たちにあるように思えてきました。そして現代の私たちは生活や経済と宗教や芸能を別々のものと考えていますが、縄文人にその区別はなく、全ての人が神に仕えて命を育んでいたのだと感じています。狩りも土器や土偶の製作も祭りも、家もお墓も皆一つだったようです。
そしてそんな縄文の人々の世界を今に届けているのが、芸能民たちによって形作られ、武士によって完成された能だと言うことを面白く感じます。その道に導かれて今ある自分を再確認しています。
お申込み・お問合せは、各チラシの記載先へお願い致します
多くの災害には心痛められます
皆様のご健勝をお祈り申し上げます
この秋の催しをご案内申し上げます。遠方のものもございますが、ご旅行を兼ね、日本の美しさに思いをはせていただけましたらと存じます。
十月八日(日)井上内親王生誕千三百年祭
新作能「斎王」 於 奈良県五條市・御霊神社本宮
http://ow.ly/cFQx30eqbk7
十月十一日(水)近世能装束の世界「用の美」
特別公演「装束付」と「羽衣」 於 愛知県田原市・華山会館
http://ow.ly/qnFZ30eqbs2
十月十二日(木)第八回翡翠能楽らいぶ「いにしえ人の息づかい」 於 箱根翡翠
http://ow.ly/nyHS30eqbxE
十一月十二日(日)観世九皐会十一月例会
能「熊坂 替之型」 於 矢来能楽堂
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先日縄文関係の本数冊とたて続けに出会い、縄文について色々考えています。スリ足の起源は益々縄文の語り部たちにあるように思えてきました。そして現代の私たちは生活や経済と宗教や芸能を別々のものと考えていますが、縄文人にその区別はなく、全ての人が神に仕えて命を育んでいたのだと感じています。狩りも土器や土偶の製作も祭りも、家もお墓も皆一つだったようです。
そしてそんな縄文の人々の世界を今に届けているのが、芸能民たちによって形作られ、武士によって完成された能だと言うことを面白く感じます。その道に導かれて今ある自分を再確認しています。
平成二十九年八月吉日
中所宜夫
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