昨日ある方と話していて、ちょっと驚いた事を聞きました。そして、なるほどそうだろうなと腑に落ちました。能に関係したお話ですが、能に限らず、しかしまさに能がそのことを象徴している、というお話しです。
江戸時代までの意匠・文様などでは、例えば向い鶴などの絵柄があると、必ず片方が口を広げ、片方は口を閉じていたのだけれど、明治以降ではそれが崩れて来て、今では両方とも口を閉じているのが殆どなのだそうです。言うまでもなく、口を開いているのが阿型で閉じているのが吽型であり、サンスクリットの最初の文字と最後の文字、則ち森羅万象がそこに包摂されているわけです。江戸以前は、文様を使用する場合その背後にある意味を承知していて、それを託したので、そういう些細な部分も決してゆるがせにしなかったのに対し、明治以降文様は単なるデザインに過ぎなくなり、見た目の面白さだけで細かなところはどうでも良くなってしまったというわけです。
しかもそれは日本だけの話ではないと言うのです。つまり産業革命以降近代が進むにつれその傾向が顕著になるとのこと。文様の意味などと言うものは、要するに呪術であり、近代以前のものであると言うことなのでしょう。
私が私淑する哲学者の井筒俊彦さんに依れば、空海は「世界は文字で出来ている」と言っているのだそうです。この場合の「文字」はもちろん私たちが言葉を表すのに使用する決まった形の文字だけでなく、全ての「もの」にはその物質的な側面と、それが意味する象徴的な側面が備わっている、と言うことなのだと思います。文様も言葉もその背後に或る象徴を包摂していると言う意味で、空海は両者を同じものだと言っているわけです。
さて近代が文様の象徴を無視し始めたと言うことは、最近になって言葉が空疎になって来ていることと繋っているのではないでしょうか。本来意味や象徴で満ち溢れているはずの世界がどんどん希薄になっている。それが人間にとって歓迎すべきものとはどうしても考えられません。
言葉が空疎になっていると言うことは、表現の上にも影響しているような気がします。「悲しい」と言えばそれで十分であるのに、悲しさを表現するために大袈裟な身振りをしたり声色を使ったりするのも、そういうことなのかも知れません。能ではそういう表面的な表現を本来嫌っていたように思うのですが、最近ではそれでは見所に伝わらないからと色々工夫しているわけです。しかしその工夫と言うものに、うっかりすると本来の言葉の力を蔑ろにする落とし穴が潜んでいるのかも知れません。