ご挨拶
酷暑一転して秋の風の身に沁む頃となりました
皆様にはご健勝でお過しのことと存じます
今年最後の能は、師走も半ば十二月十七日(日)の緑泉会での『遊行柳』となります。十月の『實盛』に続き、ワキに遊行上人を配する大曲です。
この曲は、世阿弥の甥にあたる観世小次郎信光の作品です。応仁の乱後の混乱した時代に活躍した信光は、『船辨慶』『紅葉狩』など今も人気の高い、劇性の秀れた能を多く創作しています。その信光が晩年になって、世阿弥の確立した幽玄の能への回帰を提唱したのがこの『遊行柳』です。
当時早くも難解と思われた世阿弥の作品に対して、信光はいわば「幽玄の世界」への手引きとしてこの曲を作ったとも言えるでしょう。
現代において、その試みが有効かどうかは微妙ですが、私自身は、作者の信光とともに世阿弥の本道を尋ねてみようと思います。どうぞ皆さまも、共にその世界を味わってみてください。
『遊行柳』について
みちのくを旅する遊行上人を呼び止めて、「昔の遊行上人はそちらの新道ではなく、こちらの古道を通りましたよ」と案内した老人は、古塚の上の柳を西行が歌に詠んだ名木と教えます。
名木の柳は、水流から離れた川岸に朽ち残り、蔦葛が這いまとって苔に覆われています。その古びた有様を二人は愛でています。
この曲の作者観世小次郎信光は、応仁の乱後の荒れ果てた世に、人々に楽しくわかり易い能を提供したのですが、晩年に至り、目先の面白さや表面的な美しさに走る風潮に抗い、この曲を作ることで、再び幽玄の世界へ人々を誘っています。
「古臭くて難解だけれども、能は能として味わってみてください。」
と、まるで現代の私たちに向けて、信光が語っているようです。
後段に古塚から現れた老いた柳の精は、遊行上人の念仏によって成仏の道が開けたことを喜び、クセ舞、太鼓入りの序之舞と舞い進めます。
クセ舞は、彼岸に至るに必要な舟について、その起こりの中国古代の貨狄{かてき}の故事に柳が関わっていたことから語り起こし、様々な柳の徳を並べて、今の老いの姿で舞い納めます。
太鼓入りの序之舞は、西方浄土に至る過程となり、ついには老人の舞ながら、それは四人の乙女が舞う柳花苑{りゅうかえん}の舞かと思われるほどでした。
夜明けが迫り、報謝の舞もこれまでと老人が別れを告げると、秋風が西へ吹き渡り、老人は姿を消し、朽ちた柳ばかりが残ります。
作者信光は、世阿弥の創造したいわゆる複式夢幻能の形式を踏襲して、歌舞の菩薩を舞台上に再現させ、見る者を西方浄土に生まれ代わらせようとしているのかも知れません。
『奥の細道』と『遊行柳』
ところでこの『遊行柳』は十月に舞った『實盛』と同様、俳人芭蕉が『奥の細道』に取り上げた題材でもあります。
道のべに清水流るる柳かげしばしとてこそ立ちどまりつれ 西行法師田一枚植て立去る柳かな 芭蕉
小澤實著『芭蕉の風景』(ウェッジ)によれば、芭蕉は西行法師の足跡に憧れてこの地に寄り、「しばし」の時間を、熟練の早乙女が田を一枚植えて立ち去るほどの長さであったと、具体的に示していて、そこに俳諧があるとしています。
芭蕉の目には遊行柳の世界とは全く異る景色が広がっていて、實盛に取材した「むざんやな甲の下のきりぎりす」が丸ごと能を切り取っているのに対して、こちらは能の香りから遠ざかろうとしています。
芭蕉はこの曲をさして好んでいなかったのかも知れません。
あらすじ(チラシに記載)
遊行上人(ワキ)が供を連れて旅をしている。奥州を目指して白河の関を越えると、分れ道で呼びかける老人(前シテ)がいる。老人は先代の遊行が通ったという荒れた古道に導き、朽木の柳という古歌に詠まれた名木を見せる。新古今集の西行の歌「道の辺に清水流るる柳蔭暫しとてこそ立ちとまりつれ」を引いて、老人は柳の下の塚に寄るかと見えて姿を消す。
里人(間狂言)に柳の謂れを聞き、老人との子細を語れば、さては朽木の柳の精に違いないと、上人は夜もすがら念仏を称える。塚の中から声が響き「柳は別離の恨みの徴しとなっているが、今の上人の御法により成仏への道が開けた」と喜びながら、老柳の精(後シテ)が現れる。精は、浄土への道を喜び、弥陀の功徳を船に例え、船の発明に柳が一役買っていた故事、清水寺縁起の楊柳観音、蹴鞠の庭の柳、源氏物語柏木の一場面などを語り、老いて夢に漂う自らを儚なむ曲舞を舞う。また、御法によって月とともに西方浄土へ赴く有様を、太鼓入り序之舞に舞って、上人への報謝の舞とする。夜明けが迫り名残りを惜しむ。昔、別れには柳の枝の輪を送ったと聞くが老木ゆえそれも叶わず、ただこの遊行上人との縁を喜ぶ。秋風が吹き抜け、朽木ばかりが残る。
0 件のコメント:
コメントを投稿