砧と言うのは、洗った衣を木の棒に掛けて、木槌で打って皺を伸ばしたり、柔らかくしたり、艶を出したりする民具で、古代より近代に至るまで庶民の中に広く行われていました。
〈曲の内容〉
九州芦屋の領主(ワキ)が若い侍女夕霧(ツレ)を伴って登場して身の上を語る。「訴訟の為に上京し、直ぐに終わるつもりが三年になってしまった。故郷の事が心配なので夕霧を使いに下すことにする。」
夕霧は、年の暮には必ず帰るとの言伝てを胸に、急いで下って行く。
一方、上京して三年の間音沙汰ない夫を田舎で待ち続ける女。「鴛鴦(エンノウ。おしどりの事)の様に仲睦まじい夫婦でも、通って来た夫が朝には立ち去ってしまう、その時の妻の思いを想像すると、悲しくてたまらない。比目(ヒボク。必ず雌雄連れ立って泳ぐとされる魚で、ヒラメの事とも言われる)の様に枕を並べて睦み合っていても、いつか波に隔てられてしまうのではないかと心配でたまらない。男女の中とはそう言うものであるのに、かつてあれ程深く愛を交した人と、こんなに長く会えない日が続くなんて。悲しくて泣き暮らしてばかりいるのです。」
そこに夕霧が、年の暮れには戻ると言う知らせを届けて来た。夕霧の所為ではないと知りながら、都の華やかさに引き比べて、田舎に一人残された寂しさを、恨み事のように言い募る女、その耳に、冴えた秋の夜の静けさの中、哀愁を帯びた砧を打つ音が聞こえる。
昔、漢の蘇武と言う将軍が匈奴に囚われた時、残された妻子が夫に届けと、高楼に登って砧を打った。その時の音が万里の彼方の蘇武の旅寝に届いたと言う。
身分賤しい者の仕事だが、女たちの思いは自然、衣の主たる男への思慕へと向かう。今、この女もその故事に習って砧を打つ。
衣を打つ砧の音と松を吹く風の音が交じり合い、夜の寒さを風が教えてくれるようだ。秋風は絶え絶えに吹き、夫からの便りのない私にはいっそう寂しい思いが募る。この美しい月を夫も眺めているのだろうけれど、その月に私の寂しさが映って夫がそれを知るなどと言うことはきっとないのでしょう。
この情趣溢れる秋の夜の気色は、私の悲しみを映しているようだ。古い詩に『宮漏(きゅうろう)高く立ちて風北に廻り。隣砧(りんてん)緩く急にして月西に流る』(具平親王の詩句から引用。宮殿の水時計が高く立ち、風が北に廻って行き、隣の砧打つ音はゆったりだったり慌しかったり、そして月は西に流れて行く)とあるけれど、蘇武の旅寝は北の国の事で、我が夫は東の空のにいるのだから、西から来た秋風がこの砧の音と私の思いを東の空に吹き送ってくれるように、衣を打ちましょう。
女は健気に一途に夫を慕う。西から吹く秋風には、「どうかこの音を届けるように吹いて下さいね」と語り、「でも余り強く吹くとあの人の夢を破ってしまうから気をつけて。破ってしまったらこの衣も着られない。いえ衣だったら裁ち直せば良いけれど、あの人との仲が、恨めしいことにこの夏の衣のように薄いのだから・・・」思いが七夕の織女に及べば、水草を運ぶ波へと思慕を託し、秋の夜長に砧を打つ。その悲しみの声は虫の音に交じって、また涙を誘うのだ。
しかし、そこにまた都からの使いが、年の暮れにも帰れないと知らせて来た。女の落胆は酷く、物思いに沈むうちに寝込んでしまい、とうとう亡くなってしまった。
夫はこれを知り、急いで帰国する。何度後悔しても戻らぬ妻を想い、砧を据えて梓弓を鳴らす。女の幽霊がこの音に導かれて姿を現わす。
三瀬川沈み果てにしうたかたのあわれはかなき身の行く方かな女は幽霊となっても悲しみの淵に沈んでいる。「標梅(ひょうばい。『詩経』より仲の良い夫婦の象徴)は幸せの標として春に光を並べ、後生の標となる弔いの燈は秋の夜の月のように、真如の悟りを示してくれるものなのに、私はこうして弔いをしてもらっても、邪淫の罪に成仏することが出来ません。地獄の鬼は、砧を打てと鞭で責めます。妄執の涙が砧にかかると、涙は火炎となり、その烟にむせんで、叫んでも声が出ません。いくら打っても砧も音がしないし、松風も聞こえません。これでは私の想いはあの人に届かない。そして鬼が私を責める声ばかりが聞こえるのです。」
恐しさにうずくまる女だったが、気がつけば目の前に夫の姿がある。
ある時は屠殺場に引かれて行く羊の歩みのようにのろのろと、ある時は路地の隙を一瞬で通り過ぎる馬のようにあっと言う間に、生死流転の六道を次々と廻って行くのに、妄執に縛られて、廻り廻れど生死の苦しみから逃れられない。
「あなたをどうしても恨めしく思ってしまう、その姿が恥かしいので帰ろうと思うのだけれど、やっぱり思い切ることが出来ません。」女は夫の不実を責め、恨みをぶつける。「砧で例えた蘇武が旅雁に文を付けて万里の南国に便りをしたのも、妻子を思う情の深さ故ですのに、あなたはいったいどういうつもりなのでしょう。砧の音さえ夢に聞かないなんて。」
一瞬、女の想いは男に迫るが、男が法華経を唱えると、恨みの心は溶けて、成仏の道が開かれる。思えばやはり夫を思って打った砧の声の中に、成仏の種があったのだと、幽霊は合掌して帰って行く。
〈内容終り〉
長くなってしまいました。内容の要約と言うより、大切な部分はほとんど現代語訳に近いですね。でもこうして訳してみると、この女性の心理描写が本当に細やかで、その優しさ一途さが良く分ります。ともするとその美文調の壮麗さに圧倒され、また重習曲としての格の高さに眩まされて、この人の可憐さを見失いがちですが、本番に向けて私なりの意を尽せるように稽古致します。
さて、『砧』と言えば、世阿弥晩年の名作として名高く、特に次男とされる七郎元能が『世子六十以後申楽談儀』の中で、「静かなりし夜、きぬたの能の節を聞きしに、かようの能の味わいは、末の世に知る人有るまじければ、書き置くもものくさき由、物語りせられし也。」と書いているために、より特別の曲という趣きがあります。
もちろん曲そのものに向き合えば、その特別さは充分に感じられるのですが、私の「裏読み」妄想力はここでも発動してしまいました。お陰でこれだけの文章を書くのに随分日にちがかかりました。さてその思い付きが、この次に形になりますかどうか。
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