お祀りしているのは井上内親王(いのえ、いうえ、いがみ等々に読み慣わしています)。この方の事も余程平城京から平安京へ移る辺りを興味を持って調べた人でなければご存知ないと思います。
井上内親王は聖武天皇の長女で、伊勢斎宮を長く勤めた後、白壁王と言う天智系の傍系の皇族に嫁ぎました。直ぐ下の妹は阿倍内親王と言い、後に孝謙・称徳と皇位を重祚する有名な女帝です。二人は共に藤原氏の権力争いに巻き込まれ、数奇な運命を辿ります。
妹は一見華やかですが、政治の実権を藤原氏と争った揚句、弓削道鏡とあらぬ噂を立てられて、色情狂ででもあるかの如き不名誉を背負わされてしまいます。
姉の方の不遇は本当に酷い。生母が藤原氏でないとこの様な仕打ちに合わされるのです。
五歳の時伊勢斎宮に卜選され、十一歳で任地に赴きます。斎宮自体が人身御供ですし、しかも身内に死者でも出ない限りは解任される事もありません。弟の安積親王の死により任を解かれた時、内親王は既に二十代後半でした。
しかし斎宮としての十六年に亘る奉仕の功徳は強大でした。不遇の王子であった白壁王との間に最初の女の子を設けたのは三十七歳。さらに四十五歳に至って男の子を授かります。現代でも考え難い高齢出産を、見事に成し遂げます。しかもその九年後、称徳天皇か崩御すると、嫁した白壁王が光仁天皇となり、自らは皇后、息子の他戸親王も皇太子となります。
このまま順調であれば、如何にも高齢出産とあげまんの功徳新たかな神様の様ですが、もしそうであれば神として祀られる事もなかったでしょう。藤原氏の権力闘争は、この母子二人の僥倖を無惨に踏み躙ります。
二年後の事です。その頃光仁天皇の信任を得ていた藤原式家の百川は、山部親王擁立を目論み、巫蠱(ふこ。虫や爬虫類を使う呪い)の罪をでっち上げて、廃皇后、廃太子を実行、更に翌年厭魅(えんみ。人形を使った呪い)の罪により二人を流罪とします。
その上にその二年後、母子は二人同時に亡くなってしまいます。幽閉されて病を得たとしても、二人同時の死は如何にも不自然で、地元では暗殺されたのだと言われています。
この後都に天災悪疫が続き、巷では井上廃皇后の祟りだと恐れられました。その御霊を鎮める為に霊安寺と共に建立されたのが御霊神社です。寺の方は現在では地名としてしか残っていません。
さてこの御霊神社ですが井上内親王の生年(717年)から、2017年に千三百年歳が巡って来ます。その鎮魂の為の新作能創作のお話を頂戴しました。
さて大変な事になりました。
そこで先づは、能の創作者達が怨霊をどの様に扱っているかを勉強しようと思います。折しも『道明寺』と言う曲の地頭を承りました。近いうちに纏めて見たいと思います。
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