私、先週の土曜日に『砧』を披かせて頂きました。能楽堂にお越し下さり、見所から、また共演者として、場を共有した皆様のみならず、このブログやSNSの投稿を通して応援して下さった皆様にも、篤く御礼申し上げます。
この写真は前シテで夫を思いながら砧を打っている場面です。打っている場面と言っても、舞では心象をなぞって舞台全体を使います。心凄き秋の夜の情景を映して、「月の色・風の気色」に続いて「陰に置く霜までも」と見込んだ場面です。
この写真は前シテで夫を思いながら砧を打っている場面です。打っている場面と言っても、舞では心象をなぞって舞台全体を使います。心凄き秋の夜の情景を映して、「月の色・風の気色」に続いて「陰に置く霜までも」と見込んだ場面です。
京都の山口能装束研究所より拝借の唐織は、黒紅・鼠地段秋草模様の唐織。同じく能面は、天下一河内の深井で、裏面には喜多七太夫のきわめがありました。江戸初期の物です。
次の写真は、後シテの幽霊となった女が、地獄の攻めに苦しみながらも、自らの因果を嘆いている場面です。手前に砧の作り物があります。前段では舞台の右手に置かれていた砧ですが、ワキの男が妻を供養する為に、正面に移動しました。その供養に惹かれて幽霊は現れた訳です。
同じく拝借の装束は、裾に見えている腰巻が萩網代模様銀縫箔、上に壺折に着付けてある唐織が、白地秋野模様唐織で、能面はこちらは少し下った江戸中期の泥眼です。
これらの素晴らしい品々を使用出来るのは、山口能装束研究所の山口憲さんとのご縁のお陰です。有難い事です。今後とも装束や面に恥ない舞台が出来るように、弛まず精進して参ります。
なおこの写真は、ずっと私の舞台を追いかけてくれている芝田裕之さんの撮影です。このブログの為に、急いで送って下さいました。
さて、以前にも書きましたが、この砧の女は本当にいじらしい健気な女性だと思います。三年帰らぬ夫を恨んで幽霊になって現れる、と言うと恐ろしい様に思ってしまいますが、前段の砧を打つ時の心理描写も、後段の恨みを言い募る場面も、恋々と煩悶に行きつ戻りつしています。
ところで、この曲は世阿弥作とされていますし、私もずっとその様に思って来ました。しかし、『砧』の特色である細やかな心理描写は、私の思う世阿弥の創作とは、少し毛色を異にしています。世阿弥の視点はもっと高所にあり、心理的煩悶その物を仮象の物として突き放して捉えています。これは恐らく『班女』と比べてみるとはっきりするのではないでしょうか。(それはまた別の機会に)
『砧』は、「申楽談儀」で世阿弥を語る冒頭に世阿弥の言葉と共に曲名が挙げられている為に、その作品である事に疑義を唱える人は殆どいない様です。しかし、私が拙著『能の裏を読んでみた』で考えた様な七郎元能の存在を思えば、世阿弥ではなく、元能の作品である可能性が高くなります。元能は意図的に名前を隠し、世阿弥を神格化しようとしています。
そしてその様に考えてみると、元能と「弟」元雅との間の一つのドラマが浮かんで来ます。
『砧』の前シテが橋掛りに登場し、遠く三の松に佇んで心境をこの様に謡います。
「それ鴛鴦(えんのう)の衾(ふすま)の下には。立ち去る思ひを悲しみ。比目(ひぼく)の枕の上には波を隔つる愁いあり。」(仲の良い夫婦は、睦み合っている時でも、別れの事を思うと悲しくて仕方がない。また何時も寄り添って過ごしていても、ふとした事が二人を隔ててしまうのではないかと、不安でたまらない。)
如何にも何か出典となる漢詩でもありそうな対句表現ですが、そう言う物は見つからない様です。だとすればこれは能の作者の創作に違いありません。
ところでこの対句は『弱法師』にも出て来ます。勘当され放浪の中に視力を失った俊徳丸が、盲杖を突きながら登場し、やはり三の松に佇んでこの謡を謡うのです。前掲の拙著にも書きましたが、私はこの弱法師に元能の姿を重ねて見ています。
『弱法師』との関係を伺わせる『砧』の詞章がもう一箇所あります。
後シテが登場し、冥界に沈んだ悲しみを歌に謡ったのに続けて、
「標梅(ひょうばい)花の光を並べては。娑婆の春を現わし。後の標の灯は真如の秋の月を見する。」(新婚の門辺にさす標の梅の花は、春の光の輝きを並べて、現世の栄を表し、秋の月は仏の導きをその完全無欠な姿で照らして後世の標となっている。)
と謡うのですが、これにも明確な出典は無く、『詩経』から取られたらしいこの標梅と言う言葉も、当然作者の意図によるものです。私は此処に『弱法師』の梅花問答との繋がりを感じます。
元雅が元能の姿に重ねて『弱法師』を作り、元能はそれに応えるように『砧』を創作した。
世阿弥の後継者たるべく成人に当たって「能」の字を名付けられた元能でしたが、何らかの事件(恐らくは将軍義教がそれに絡んでいます)により視力を失ってしまいます。自らの境遇を嘆きつつも、矜持を保ち、清澄な心持ちの元能の姿に、弟の元雅は深く感じて『弱法師』を創作します。
元能はそれに応えて、それまでの父からの薫陶の全てを傾けて渾身の一作を手掛けます。それが『砧』です。創作の過程で、その節付けについて尋ねた時、父はそれには答えず、「この様な謡の味わいは、後世の人々には到底分からないだろうね。」などと少しずれた感想を言ったのでしょう。
元能の心中には究理への想いが渦巻いていました。神に通ずる芸能として申楽の修行を積んで来て、その道は絶たれてしまったのですが、道を求める志は必然的に仏道に向かいます。出家するに当たって『申楽談儀』を残しました。
と、凡その時間軸はこの様に推移したのではないでしょうか。
さて、砧の女の原型は元雅の妻なのでしょうか。それとも、原作には登場した、弱法師が伴っていた妻、即ち元能の妻なのでしょうか。そこにどんな物語が隠れているのでしょうか。
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