能の師弟関係と言っても、それこそ師も様々、弟子も様々で、類型化して語るのは殆ど不可能です。しかし現在能に携わっている人たちに一つ言える事は、後継者の育成を何より大切に考えていると言う事です。七百年に及ばんとする能の歴史の突端に危うく立って、先人の修練の累積を思い、「今」と言う断崖絶壁に新たな歴史を刻もうとする時、そしてその自らの携る芸道に誇りを持って未来を思うならば、後に続く人材の育成は、一つの舞台に心血を注いで素晴しい成果を上げる事と、同等以上の重さを以って評価される事なのです。
能は、江戸時代に武士の式楽となりましたので、「封建的」と言う言葉と共に、子弟の教育に関しては、閉鎖的で頑迷であると思っている方が多いのではないでしょうか。何よりも世襲が重視され、家の子は否応なくその道に進むことを義務付けられ、また世襲以外の家の者は低く見られて格段の差別をつけられるのではないかと。そんな側面が全くないとは言えませんが、世間の人が思っているよりももっと実利的に開かれた側面もあります。想像してみて欲しいのですが、先祖から受け継ぐものを子供や弟子に伝えようとする時、厳しくはあっても、注ぐ愛情や、養育に当たっての心配りは相当に細やかなものになるのは至極当然の事です。
世阿弥が観阿弥の教えを纏めたと言う『風姿花伝』の最初は、有名な「年来稽古条々」です。ここに「七歳」「十二三より」「十七八より」「二十四五」「三十四五」「四十四五」「五十有余」と項立てをして細々と書かれている事は、教育や修身の手本として、今では広く知られる様になりました。その内容に触れれば能がその成立当初より、伝承に重きを置いていた事が分ります。師から弟子へ伝えられた数々の言葉は、観阿弥から世阿弥への教えであるばかりでなく、世阿弥からその弟子たちへの教えでもあります。因みにここに記された年齢は当然数え年ですから、現在の満年齢にすれば一歳か二歳下と言うことになります。
「七歳」は五六歳で、今で言えば就学前です。その頃に稽古を始めるのですが、何より子供の好きな様にやらせなさい、色々やる中に必ずその子の得意なものがあるはずで、またあまり細々した事を教えたり、強く叱ったりしては、能が嫌になってしまうから、気をつけなさいとしています。
「十二三より」は、今の小学三四年生ぐらい。子方の完成の時期で、とにかくこの頃は伸び伸びやれば宜しいとしています。ただ一つ気をつけるのは、この頃の成功は決して「真の花」ではない事を充分心得ておく事です。テレビなどで、達者な子役が良い役者にならないのもこれですね。
「十七八より」は、今で言う思春期の頃。何より「この頃は、また、あまりの大事にて、稽古多からず」と冒頭に書かれていて、この年頃の重要さを認識している事が素晴しいと思います。声変りして身体も急速に大きくなり、精神的にも不安定になる。思春期などと言う言葉がなくとも、世阿弥(観阿弥)は後継者を育成する観点から、当然のようにこの年頃の難しさを認識していました。この時期を乗り越えるのは、ただ本人の覚悟です。「心中には願力を起こして、一期の境ここなりと、生涯にかけて能を捨てぬより外は、稽古あるべからず。」少し表現が独特ですが、要するに、一生これでやって行くのだと覚悟を決めない限り、稽古しても仕方がない、と言う事でしょうか。また最後に、声の調子は出し易い高さで謡えば良いのであって、無理な声を出すと、「身形に癖出で」来て、「声も年寄りて損ずる相なり。」と退けています。
そうして稽古して行けば「二十四五」まではそのまま真っ直ぐ伸びて行くようですが、そこで少々良い舞台をしたからと言って、それを「真の花」と思ってはいけない、例え名人に勝つ事があっても、それは「一旦珍らしき花なりと思ひ悟りて、いよいよ物まねをも直ぐにし定め、名を得たらん人に、事を細かに問ひて、稽古をいやましにすべし。」と記されています。ここで言う「物まね」は、どうも今の舞台演劇などの演技全般にあたる様です。
世阿弥は「三十四五」を以って芸の盛りと考えている様です。この頃に「真の花」を究めていなかったならば、四十を過ぎてから芸が落ちる。先に行けば明確なのだけれど、今はそれとは分らないので、相当の舞台を勤め得ても、慢心することなく励む必要があるとの事です。
ここまでは年齢に沿った稽古心得として、現代においても無条件で得心し得る所でした。さて愈々能の能たる所以でしょうか。「四十四五」から「五十有余」では、年寄って行くのに若やいだ曲などをするのを戒め、そうでない曲でも演技で見せたりするのではなく、ただ淡々と演じる事を勧めています。
さて『風姿花伝』は世阿弥が観阿弥の教えを記したものです。観阿弥は五十二歳に亡くなっていますから、「年来稽古条々」も五十有余までで終っています。『風姿花伝』は飽くまで伝書であり、一般に公開されたものではありません。その為、例え能楽師であってもその内容は、殆ど知られていませんでした。明治になって吉田東伍博士が安田財閥の蔵からこの伝書を発見するまで、能楽師たちの寄って立つ教育の教科書は存在しなかったのです。しかし、弟子は師匠に教えられたように、弟子に教えるものです。それは細かい内容よりも、教え方に如実に現れる様に思います。例えば就学前の子供にはやりたい様にやらせて、しつこく直しを入れたり、怒ったりしないなどと言う様な事は、もちろん例外もありますが、実際の能の家家に実践されているように思います。これは遠く流祖の観阿弥・世阿弥から、代を重ねる度毎に、教え伝えられて来たのではないでしょうか。
最後に少し私自身の事を書く事に致しましょう。私は、一般の会社員の子として生まれ、父の趣味に影響される形で能と出会い、大学のクラブ活動を経て、能の世界に飛び込みました。私が入門した観世喜之先生の元には、一門の能楽師の師弟ばかりではなく、私のような学生上りや就職先を辞めて内弟子となった者もいて、一時は六人の内弟子が本拠地の矢来能楽堂に起居しておりました。それを稽古するだけでも大変な事でしたが、師はどの内弟子にも分け隔てなく接して下さり、私は家の者でない事に負い目を感じる事が殆どありませんでした。師の元からは十五人が能楽師となって、現在盛んに活動しています。
また、小学生の頃から私の下で謡と仕舞を学んでいた子が、現在は私の後輩として内弟子に入っています。
現代においては世阿弥の頃のような後継者育成は望むべくもありません。能の家に生まれても、学校の勉強が忙しくて能の稽古ばかりしているわけにはいきません。多くが大学を出て内弟子となります。外の世界から能に入る者と、能の家の者との差は、それ程無くなって来ています。しかし、その様な状況の中でも、やはり代々の家の使命を自覚した人たちは素晴しく、その人たちを中心に能はまだまだ伝承されて行くと思います。
しかし、私たちがこれから迎えようとしている未来は、人類がこれ迄に経験した事のない様な社会かも知れません。私はその危機を乗り越えるのは、能に縋るしかない、と考えています。聊か手前味噌ではありますが、本気でその様に思っています。
0 件のコメント:
コメントを投稿