『誓願寺』と言う能があります。凡そ二時間を要する大曲の上に、例えば『野宮』も二時間に及ぶ大曲ながら、「源氏物語」中でも珠玉の名場面「賢木」の物語を背景に、六条御息所の美しい姿を描いて人気曲であるのに対し、その様な文学的情趣に乏しく、またワキに一遍上人、シテに和泉式部を配しながら、踊念仏の開祖たる融通無碍の魅力を描くでもなく、恋多き宮廷歌人の苦悩を描くでもない、つまり演劇としてこの曲を見た時、その構成に興趣をそそられない事などが相まって、長いばかりで退屈な能と言うのが、大方の評価かと思います。
しかし私は、世阿弥の創作過程を辿る上で、この曲を大変重要な曲と考えています。そして、何故世阿弥がこの曲を書いたのかを考えてみる時、この曲ならではの魅力が見えて来るのだと思います。
私は六月十四日(日)に緑泉会例会(於 目黒・喜多六平太記念能楽堂)でこの曲を舞います。本来ならば舞台の前にこの様な事をくだくだ書くのは本義に外れているのかも知れません。しかし短くもない二時間です。どんな曲か全然知らなかったけれど、舞台上のシテを観ているうちに語ろうとする事が分かり、その姿から目を離す事が出来なかった、と言う様な理想は未だ未だ先の事です。また何よりこの曲について、私の様な事を考える人も余りいないようですので、その辺りを少し書いておきたいと思います。
先づ、能『誓願寺』の概略です。
熊野に参籠し、夢の告を受けた一遍上人(ワキ)は、「六十萬人決定(けつじょう)往生」の御札を配ろうと都に上る。念佛の教えに多くの聴衆が集まる誓願寺。一遍から御札を受ける人々の中に、信心深げな気品高い一人の女がいる。札を見て「六十萬人しか往生出来ないのですか」と女が尋ねるのに、一遍は熊野の夢想で示された四句の文の頭の字が「六十萬人」なのだと答え、その子細を語る。
六字名号一遍法(南無阿弥陀佛の六文字で表される佛の名前は、それだけで一つにして普遍の世界の有り様を表している。)
十界依正一遍体(それが分かれば、この世界全体が一つにして普遍の存在であると感得する事になる。)
萬行離念一遍証(そうすれば全ての修行が雑念を離れ、世界が一つにして普遍である事を明らかにしてくれる。)
人中上々妙好華(この念佛行を行う人は、人の中でも上々の位の人であり、蓮の花の様な存在である。)
女は忽ちに了解し、一遍と共に教えを喜ぶ。やがて念佛は夜半に及び、法悦境も頂点に至るかと見えた頃、女は思わぬ事を口にする。
「いかに上人に申すべき事の候」「何事にて候ぞ」「誓願寺と打ちたる額を除け。上人の御手跡にて。六字の名号になして給わり候へ」。
余りの事に住処を尋ねる上人に、「わらわがすみかはあの石塔にて候」と答え、あれは和泉式部の墓だと聞いていますと言う一遍に、それこそが私の名前ですと答えて、石塔に寄って行く。俄かに石塔から光が射して姿を消す。
一遍が六字名号の額を掲げると、和泉式部が歌舞の菩薩として、二十五菩薩と共に現れる。辺りは清浄な光に照らされて、極楽世界のようだ。この誓願寺が極楽世界に変じるのは何の不思議もないのですと、式部は曲舞を謡い舞を舞う。
「此処は天智天皇の創建の尊い寺で、その上、ご本尊は春日明神がお作りになったもの。神佛の違いは水と波の様なもので、この日の本では春日明神が二人の菩薩の姿となってこれを作り、衆生を済度して下さるのです。つまりこの如来様は毎日一度は西方浄土に通って、死後の往生を約束して下さっているのです。
歌舞の菩薩が語る様は阿弥陀如来の姿と重なる様だ。
辺りには天上の歌が響き、尊き方々が来迎されている。昔お釈迦様は霊鷲山に一人いらしたが、今は有難い事に、西方浄土から阿弥陀如来が観音菩薩として様々な姿で衆生の前に現れて助けて下さる。この恩恵に浴する念佛の行者は、何の苦労もなく浄土に至り、その楽しみには限りがない。その道を辿っていると知れば、邪心の引き起こす迷いも無くなる。悟りを得る西方浄土も、この誓願寺からは遠くない。ただ心の持ち方一つで此処こそが浄土なのだと拝むのです。」
歌舞の菩薩が様々な佛事をなし、清浄の気が辺りに満ちる。暫しその法悦境に浸っていると、思いは現実世界に生きる自分に帰って来る。
其処で一人なお、南無阿弥陀佛と称えるのです。
その一人一人の称名の声が大きな響きとなり、虚空には天上の歌が流れ、甘やかな香りに包まれて花が雪の様に降る。菩薩たちは舞い乱れ、一遍上人の教えを讃えて、六字の額に礼を尽くす。
この誓願寺で繰り広げられたこの有様は、本当に得難く尊い、有難い事であった。
大変長くなってしまいましたが、お読みいただければ分かる通り、此処に恋多き女流宮廷歌人としての和泉式部の姿は全く描かれていません。和歌の一首さえ歌われないのです。
和泉式部をシテとするもう一つの『東北(とうぼく)』と言う曲は、明らかに、その奔放さ故に眉を顰めて語られるその人の生に、文芸者故の超越を重ねて、歌舞の菩薩としての美しい舞を舞わせています。二つの曲を比べて見た時、明らかに『誓願寺』が前で『東北』が後の作品です。一曲の構成や詞章の洗練もそれを裏付けています。
『誓願寺』は偶々誓願寺に和泉式部の墓と伝えられる石塔があったので、シテを和泉式部に設定したのであって、もし其処に清少納言の墓があれば清少納言をシテとしたと思われます。そう言う意味で、この曲の主眼はむしろ一遍上人に据えられていると言えます。
ところが一遍上人の生涯に目を転じれば、確かに三熊野での霊夢は時宗草創の一大画期ではありますが、御札賦算時の女信者との六十萬人問答や、和泉式部の幽霊との遭遇説話(この説話自体、本曲以後の創作である可能性も高いのです)などは、後々踊り念佛を創出した後の諸国遍歴の姿などに比べれば、さして魅力を感じません。作者の目は一遍上人の上にもそれ程の重きを置いていないのです。
それでは作者は本曲で何を描こうとしたのでしょう。それは私には、霊夢を得て己れの道を定めて歩き始めた者を、歌舞の菩薩が祝福する、その一事にあると思われます。
哲学者の井筒俊彦氏によれば凡そ東洋哲学に共通する神秘主義には、例えば坐禅による悟りや、神の啓示、霊夢などの神秘体験が実体験としてあり、また多くの優れた芸術家にもそれを窺わせるものが確かにあるとの事です。最近の人では宮澤賢治は当に神秘家でしょうし、古代では空海がそうでしょう。夢幻能を作り出した世阿弥がこれに列なるのは当然の事と思います。
観阿弥は非常に優れた役者であり劇作家でしたが、物狂いや神懸かりと言う現実世界の現象としてしか超越世界を捉えていません。世阿弥の天才と特異さはこの点にあります。
他でもない世阿弥が何処かで何らかの神秘体験をしたのです。歌舞の菩薩と言う存在を作り出す訳ですから、それは本番か稽古かはわかりませんが、舞を舞っている最中の事かも知れません。
それでは何故、己れの神秘体験を投影する素材として一遍を選んだのでしょうか。おそらくは芸能民も含めた「道々の者」達にとって、一遍は念佛の教えを自分達に広めた特別な存在だった事もあり、また、一の谷近くで終焉を迎えた上人の足跡が大変に親しいものだったからだと思います。
以前に「『自然居士』と『東岸居士』」を論じて、『東岸居士』を、世阿弥が初めて曲舞を作り、其処に自分の独自性を確立して行こうとする宣言の曲だと断じた事がありますが、その『東岸居士』の曲舞も一遍法語の引き写しでした。
私はこの『誓願寺』こそ、世阿弥の最初の夢幻能だと思います。後々の多くの傑作に繋がる「歌舞の菩薩」が登場する最初の曲でもあるでしょう。
今回シテをするに当たり、比較的早くから稽古に取り組む事が出来ました。夜念佛の一段ではその法悦境がひしひしと押し寄せて来るのを感じます。願わくはそれを当日見所の皆様と共有できます事を。
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