前略 病禍猖獗甚しき折から深くお見舞い申し上げます
皆様より誕生祝いの言葉を頂戴致しました。有難うございました。お蔭様で本日62歳になりました。
先月来の伝染予防体制により、演能その他の催しは軒並み延期・中止となり、お弟子様へのお稽古も休止状態で、かろうじて Zoom による通信稽古をしてはいますが、掃除と稽古と創作で毎日を送っています。
この様な情勢の中で、能には何が出来るのか、何をすべきなのかを自らに問わねばならないとは思うのですが、今の、家に籠もって稽古に励んで、来るべき舞台に備える日々と言うのは、経済的な問題さえなければ、私にとってはある意味居心地が良いのです。しかし、その経済的な問題は既に喫緊の課題になりつつあり、そういう居心地の良さに浸っている場合ではないのが直視しなければならない現実なのでしょう。
現在、通信稽古をしてはいますが、やはり対面でなければ伝わらない事が、能にはとても多く、そしてそれこそが能の存在価値だと思います。能の価値は生でなければ伝わらないのです。これは他の芸能も同様ではありますが、生の現場と記録との落差の大きさが、能では致命的なものになります。
コロナ以後の世界で能はどの様にあらねばならないのか、どの様な方向ならば生き残れるのか、これからそういう意識を持って考えていかなければならないでしょう。
いっときを凌ぐ方策としては、
1) 舞台の記録としてストックされている演能の映像を、YouTube などで公開したり、その画像を見ながらのお話会
2) 私が以前やっていた「能楽らいぶ」を固定カメラで配信する
3) 通信での謡・仕舞講座を開講する
・・・
などがありますが、どれも本質的ではない様に思われます。
能が他の芸能と大きく異なる要素として、例えば俗界から隔たって修行をする禅僧や修道院の様な部分があります。舞を舞うことによって、舞台を勤めることによって、国家の平安、霊魂の安息、健全な精神などを実現するというものです。勿論これを核として、人々の楽しみ歓びを盛り込んで舞台化したことにより、広く親しまれるものになったのですが、武家の式楽として完成された背景にはこの核の部分があったことを忘れてはならないと思います。
そして「武家の式楽」が、武士がなくなってなお4、5世代を経て継承されていることは、武士の持っていた価値観が人間存在の普遍的な部分に親和性を持っていた証左だと思います。
今、明治以降走り続けてきた近代というレールが行き止まりになっている事が周知されて来ています。江戸時代に戻れと言うのではありません。しかし、江戸時代に実現されていた循環型社会、それの精神的支柱であった能の存在、それをこれからも見つめて行きたいのです。
何か、まとまらない上に、結局今まで思っていた事をまた書いているような事になりましたが、この奇貨とも言える非常時に迎えた誕生日に思うことを書いてみました。
最後に。これは、全く私の個人的な思いであって、能楽界で能の伝承のために様々な角度から取り組んでいる方々を批判するものではありません。私の不得手な社会的な活動をして下さる方々を、私は尊敬しています。有難うございます。
もう一つだけ。能を次の世代へつなげるための私なりの一つの試みとして、能が生み出される現場を、小説に書きたいと思っています。発起してより2年、ようやく少しずつ形になって来ました。現在 note に随時発表しています。是非読んでみてください。まだほんとに始まったばかりですが、ご意見ご感想を頂戴出来れば嬉しく存じます。
0 件のコメント:
コメントを投稿