通信稽古のススメ
これで経済が動き始めても、ソーシャルディスタンスを確保しての能楽公演は補償がなければ成立しません。 私たちにとってはまだまだ先が見えません。
報道などでもご存知かと思いますが、狂言師の善竹富太郎さんがこのウィルスの犠牲になってしまいました。学校巡回公演では子供たちの心を一挙に掴む独特のトークで、人気を独占する異才の人でした。先日荼毘に伏されたとの連絡が入りましたが、このウィルスの残酷なところは、親族でさえ立ち会うことが出来ないということで、残されたご親族の方々の悲しみを思うと、本当にやりきれない気持です。
富太郎さんのご冥福をお祈りし、ご遺族へ哀悼の意を捧げたいと思います。
そのような中、私の所属する九皐会では、先日、今後の催しについての話し合いが持たれ、七月例会より観客を半分に絞り、二番立ての番組を一部二部に分けた形で、再開させるということになりました。
今後どのような展開になるかわかりませんが、能を当代で途絶えさせることのないよう、
力を尽して行かなければなりません。
能の世界も、明治維新以来の大きな転換を迫られていますが、単に流れに迎合するのではなく、これまで伝承され続けてきた本質的な部分を崩さないようにしなければなりません。
何が本質的で何がそうではないのか。それぞれ問い合わせながら、やれることをやって行きたいと思います。
さて、私はここ数年二松学舎大学で能の実技を指導する場を得ているのですが、本学でも今年度の開講は通信による授業を余技さくされています。まだ一般学生への授業は始まったばかりですが、ゼミナールの学生に対しては、先月からプレゼミと称して通信による稽古を始めていました。 もちろん実際に対面しての稽古に比べれば制約も多く、なかなか思い通りに行きませんが、それでもそれなりに伝えられることもあるように感じています。
そしてこれは学生に限らずとも可能なのです。転居により稽古に通えなくなってしまった謡曲愛好者の方々を始め、海外に出て始めて能に興味を持ったという方もいらっしゃると思います。現在、月一回の稽古場の方が通信で複数回のお稽古を始められています。
能は、室町時代に始まり、江戸時代に武家の式楽として大成されました。しかしその根っこには古代からの芸能の息遣いが閉じ籠められています。式楽たる能がその母体である武家階級がなくなってなお、何世代も伝承されて来たのは、そこに人間としての普遍性を獲得したからです。
コロナ以後の世界は、ウィルスを含めた自然との共生が、より求められる世界になりそうです。その時こそ能が本当に必要とされると信じています。
この自宅待機の中、新しい時代を見据えて、伝統の中に浸ってみるのは如何でしょう。
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