2014年10月30日木曜日

講演「生き抜くために能に学ぼう」

まだ大分先の話ですが、来年の二月七日(土)午後二時より、相模原市の市民会館で能についての講演を致します。先日会館の方に頼まれて講演のレジュメを書きました。まだまだ先の事なので本当にこう言うお話をするのかどうか少し、心配ではありますが、自分としては、思う処をなかなか上手く纏められたので、ここに宣伝方々載せることにします。



「生き抜くために能に学ぼう」
相模原市民会館より依頼の講演骨子案


能は南北朝の戦乱から生まれ、
戦国時代を経て江戸時代に武士の式楽になりました。

江戸期の武士の精神性を今の私たちは見失っています。
自らを律っして日々を送る武士たちにとって、
己の価値観や美意識を培い、
それを表現するための手段として、
能はなくてはならないものだったと思います。
そして能は江戸中期の文化文政の頃、
一つの確固たる芸術として完成されます。

明治維新で武士が失くなった後も、
到達した美意識の高さ故、
今日まで生きた舞台芸術として命脈を保ち続けています。
しかしそれは残念ながら趣味として楽しみとしての能です。

しかし時代は変りました。
美が余技や趣味であった時代は終り、
この厳しい現実の中で私たちは、
生きる頼りとして美に縋らなければならなくなります。
満たされない経済や社会に対する不満と怒りに支配されて生きて行くのか、
それともその現実を受け入れて美を心の拠り所として生きるのか。

幸いここに能という芸能があります。
これを知ることは今後の生きる糧となると思います。

三・一一の後、石牟礼道子さんの詩「花を奉る」に出会いました。
そして『苦海浄土』を読みました。
日本が水俣に対してして来たことを、
今度は世界が日本に対してする事になると思いました。
今のような日本では早晩滅んでしまいます。
私たちは武士の矜持を学び、
能を学び、
その「美」によってこれからの時代を生きる力とする必要があります。
(以上)



冒頭の写真は、講演とは関係ありませんが、世阿弥の代表作とも言える『井筒』です。
能面は「ある出会いと記憶の不思議」http://nohsyura.blogspot.jp/2014/07/blog-post_9.html
でご紹介した新井達矢氏の「小姫」です。
自分の舞台写真はなかなか気に入ったものがないのですが、
これは面(能では「めん」とは言いません。「おもて」と読んでください。)の美しさを引き出していて、
大変気に入っている一枚です。
『能の裏を読んでみた 隠れていた天才』にも掲載しましたが、
ここでもご紹介します。
写真の撮影は芝田裕之氏です。

2014年10月29日水曜日

豊橋での能楽らいぶ『中尊』

11月13日(木)の夜に愛知県豊橋市の駅前のホールで能楽らいぶを致します。曲は拙作の新しい能『中尊』です。登場人物のシテとワキ、それに地謡一人、囃子は笛一人という四人構成の「らいぶ」です。
 そして何とゲストにあの内田樹さんをお招きして、能についてのお話や私との対談もする事になっています。内田先生がどのようなお話しをして下さるのかも楽しみなのですが、それのみならず先生と対談出来るのをとても楽しみにしています。
 聞くところによると、能などそっちのけの内田ファンの皆様も相当数ご来場とのことで、そのような皆様には私との対談などは邪魔かも知れません。しかし、平素内田先生の仰っている「身体感覚で考える」ための手段として、能は合気道と共に、その実践の為に知っておくべきものだと思います。合気道のみならず、武道の経験の全くない私には、内田先生の課題は当に能のための言葉としか思えないのです。
 また、能を目当てのお客様にも、能が何故何百年も伝承されているのか、何故意味も分らないのに感動を与えられるのか、そしてこれから先どのようにして能が生き伸びて行くのか、など、きっとそんなお話しを聞くことが出来ると思います。このお話を聞くと、この先能楽堂で能を鑑賞する時にも大きな助けとなるはずです。

 どうぞ皆様。このような催しはおそらく暫くはないと思います。是非、会場にお運びいただき、同じ時間を共有して下さい。何卒宜しくお願い致します。

 さて、当日演じる能『中尊(ちゅうぞん)』ですが、これについては京都イーハトーブプロジェクトの浜垣誠司さんが、以前に詳細に論じて下さっていますので、こちらを参考にして下さい。ここには簡単にあらすじをご紹介します。宮澤賢治の詩の世界・能『中尊』について



能『中尊』あらすじ

 一人の詩人(ワキ)が登場し、福島浜通りを廻り来て、さらに北に下り、昔の「日高見」の国を訪ねる。彼の地と思しき所に休んでいると、道端の小さな地蔵の祠に女(シテ)が蓮の実を捧げて一心にお参りをしている。尋ねてみると福島の中通りからこの地に避難して来たのだと言う。
 女は請われて更に詳しく身の上を語る。新潟水俣病の被害者として差別を受け、今、更に過酷な仕打ちにうち拉がれている。そしてその心にひとすじの光を齎しているのが、地蔵に捧げた「中尊寺蓮」の花だった。その花の謂れを語るうちに、女は地霊に取り憑かれ、祈りの言葉として一編の詩「花を奉る」を口上し花を捧げる。
(あらすじ終り)


 さて、当日のパンフレットの為に以下のような文章を書きました。いらっしゃれない方のために、ここに掲載します。



能楽らいぶ「中尊」によせて
新しい能を創作すると言う事


 第八回吉田城薪能と言う場を頂戴して、私の新しい作品『中尊』を皆様にご披露出来ます事を大変嬉しく存じます。主催の三河三座の皆様には篤く御礼申し上げます。また、予てより敬愛する内田樹先生との交流の機会を設けて下さりました事にも、重ねて御礼申し上げます。
 古典の作品を演じる事が私の第一の仕事なのですが、その傍ら、第六回吉田城薪能で演じました『光の素足』を第一作として、私は新しい能の創作と言う仕事をしています。これは何処から依頼されたのでもなく、全く私が好き好んでやっている事です。
 能は十四世紀末に観阿弥と世阿弥によって大成されました。二人の大才の出現もさる事ながら、社会の中に果すべき役割があったからこそ、能はその後の数百年を生きた芸能として伝承されて来ました。戦乱の世にあって太平を祈念するとか、殺し殺された人々の鎮魂とか、本来宗教が果すべき役割を、芸能と言う外観を纏いつつこれまで担って来たのです。
 そして江戸時代には、武士の式楽として完成されたとも言われています。江戸時代の武士の美意識の高さは、とても現代人の及ぶものではなかったようです。武士はその美意識・価値観の発露の場として能を必要としました。明治以降の近代化の中では、その完成した芸術性の高さ故に、愛され伝承されて来ましたが、それは嗜好として、趣味として、孝養として大切にされて来たと言う事で、生きて行く上でどうしても必要なものではなくなってしまいました。
 今、私たちの社会は急速に変っています。この変化は今まで近代の歪みを吸収していた自然の力が、その歪みの級数的な増大に対処しきれなくなったために起っているようです。この様な世の中に能でなければ出来ない何かがあるはずです。例えば三・一一の後に時を経ずして内田先生の口にされた「原発の鎮魂」と言う言葉。新しい能を創ると言う事は、そう言う要請に答える時、大変に大きな意義を持つ事となるのだと思います。

中所 宜夫

2014年10月26日日曜日

砧と弱法師

 前回の記事で、『弱法師』と『砧』について書きました。まだ、数日も経っていませんが、少し考えを変えた方が良いようなので、それについて書きたいと思います。
 前回は、十郎元雅の『弱法師』に影響を受けて七郎元能が『砧』を書いたのではないかと書きました。これは「標梅」の言葉から弱法師との呼応を考えたのですが、今日『弱法師』の謡を謡っていて、これは『砧』が先で『弱法師』が後でなくてはおかしい様に感じたのです。

それ鴛鴦の衾の下には。立ち去る思いを悲しみ。比目の枕の上には波を隔つる愁いあり。

これに続く詞章を今日謡ってみると、『砧』の方が言葉の意味合いが素直に繋がり、その分深い所へ達しています。『弱法師』は言葉の繋がりが変則です。これは、『砧』を元に『弱法師』の詞章が作られたと見るべきでしょう。それぞれ意訳してみます。


『砧』のシテの出。
 男女の仲と言うものは、睦み合っている時でも、別れを思うと悲しくなり、寄り添って愛を語っても、世間の波が二人を隔てるのではないかと不安になるものなのです。まして来世までも愛を誓って、深く契り合った仲なのに、私と夫はこの世でさえ会う事が出来なくなってしまい、それでも忘れるなんて出来なくて、ずっと泣き暮らしているのです。

『弱法師』のシテの出。
 月の出も月の入りも見る事が出来なくて、夜の明け暮れも分からなくなってしまった。難波の海の底が知れない様に、こうなってしまった私の心の中の煩悶の深さなど、他人には全く知られない事だ。
 鴛鴦は睦み合いながら別れの思いを悲しむと言い、平目も夫婦ならんで泳ぎながら、波に隔てられるのではないかと心配していると言うけれど、心のない動物たちでもそうなのだから、情愛豊かな人間として生まれて、辛い日々を送って来ると、私と妻との間にも、仲を裂こうとする様々な事が起こり、心配が絶える事がない。しかも、前世で誰かを嫌った様なことがあったのだろうか。今この世では、父に私の事を悪く言う人がいて勘当を受け、それをあれこれ悩んでいる内に、涙が視界を閉ざして盲目となってしまった。あの世とこの世の境にある「中有」という世界は、死んだら通るところであるのに、私は生きながらその幽暗の道に迷っている。
 でも、本来心の中に闇などと言う物は無いはず。伝え聞く唐の一行禅師が暗闇を抜ける時には、九曜の曼荼羅が光り輝いて行く先を照らしてくれたのだと言う。今も末世とは言いながら、ここは有名な仏法最初の天王寺で、石の鳥居がほらここにある。立ち寄って拝む事にしよう。

 元雅の原作を留めるとされる世阿弥自筆本の『弱法師』は、妻役のツレを伴って登場しますので、「鴛鴦・・・」以下の言葉もそれ程意味不明ではありませんが、それでもこの後の台本全体の流れから見て、ツレを登場させる必要はありません。
 完成した作品を見て、ここが不要で、この言葉は可笑しいと言う事は簡単ですが、創作をする者にはここはどうしても必要だと言うことがあるものです。この詞章などは当にそれで、元雅はどうしてもここに「鴛鴦」以下の言葉を入れる必要があったのです。それは、弱法師が他でもない元能の姿であり、『砧』が元能の作品に他ならないからです。



































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































2014年10月22日水曜日

『砧』について(2)

 私たち観世流の能では、現行210番余の曲に等級付けを施し、内十数番を重習いとして大切に伝承しています。その重習いの曲を初めて演じる時、此れを「披く」と言います。
 私、先週の土曜日に『砧』を披かせて頂きました。能楽堂にお越し下さり、見所から、また共演者として、場を共有した皆様のみならず、このブログやSNSの投稿を通して応援して下さった皆様にも、篤く御礼申し上げます。


 この写真は前シテで夫を思いながら砧を打っている場面です。打っている場面と言っても、舞では心象をなぞって舞台全体を使います。心凄き秋の夜の情景を映して、「月の色・風の気色」に続いて「陰に置く霜までも」と見込んだ場面です。
 京都の山口能装束研究所より拝借の唐織は、黒紅・鼠地段秋草模様の唐織。同じく能面は、天下一河内の深井で、裏面には喜多七太夫のきわめがありました。江戸初期の物です。

 次の写真は、後シテの幽霊となった女が、地獄の攻めに苦しみながらも、自らの因果を嘆いている場面です。手前に砧の作り物があります。前段では舞台の右手に置かれていた砧ですが、ワキの男が妻を供養する為に、正面に移動しました。その供養に惹かれて幽霊は現れた訳です。
 同じく拝借の装束は、裾に見えている腰巻が萩網代模様銀縫箔、上に壺折に着付けてある唐織が、白地秋野模様唐織で、能面はこちらは少し下った江戸中期の泥眼です。
 これらの素晴らしい品々を使用出来るのは、山口能装束研究所の山口憲さんとのご縁のお陰です。有難い事です。今後とも装束や面に恥ない舞台が出来るように、弛まず精進して参ります。
 なおこの写真は、ずっと私の舞台を追いかけてくれている芝田裕之さんの撮影です。このブログの為に、急いで送って下さいました。


 さて、以前にも書きましたが、この砧の女は本当にいじらしい健気な女性だと思います。三年帰らぬ夫を恨んで幽霊になって現れる、と言うと恐ろしい様に思ってしまいますが、前段の砧を打つ時の心理描写も、後段の恨みを言い募る場面も、恋々と煩悶に行きつ戻りつしています。
 ところで、この曲は世阿弥作とされていますし、私もずっとその様に思って来ました。しかし、『砧』の特色である細やかな心理描写は、私の思う世阿弥の創作とは、少し毛色を異にしています。世阿弥の視点はもっと高所にあり、心理的煩悶その物を仮象の物として突き放して捉えています。これは恐らく『班女』と比べてみるとはっきりするのではないでしょうか。(それはまた別の機会に)
 『砧』は、「申楽談儀」で世阿弥を語る冒頭に世阿弥の言葉と共に曲名が挙げられている為に、その作品である事に疑義を唱える人は殆どいない様です。しかし、私が拙著『能の裏を読んでみた』で考えた様な七郎元能の存在を思えば、世阿弥ではなく、元能の作品である可能性が高くなります。元能は意図的に名前を隠し、世阿弥を神格化しようとしています。
 そしてその様に考えてみると、元能と「弟」元雅との間の一つのドラマが浮かんで来ます。

 『砧』の前シテが橋掛りに登場し、遠く三の松に佇んで心境をこの様に謡います。
「それ鴛鴦(えんのう)の衾(ふすま)の下には。立ち去る思ひを悲しみ。比目(ひぼく)の枕の上には波を隔つる愁いあり。」(仲の良い夫婦は、睦み合っている時でも、別れの事を思うと悲しくて仕方がない。また何時も寄り添って過ごしていても、ふとした事が二人を隔ててしまうのではないかと、不安でたまらない。)
 如何にも何か出典となる漢詩でもありそうな対句表現ですが、そう言う物は見つからない様です。だとすればこれは能の作者の創作に違いありません。
 ところでこの対句は『弱法師』にも出て来ます。勘当され放浪の中に視力を失った俊徳丸が、盲杖を突きながら登場し、やはり三の松に佇んでこの謡を謡うのです。前掲の拙著にも書きましたが、私はこの弱法師に元能の姿を重ねて見ています。
 『弱法師』との関係を伺わせる『砧』の詞章がもう一箇所あります。
 後シテが登場し、冥界に沈んだ悲しみを歌に謡ったのに続けて、
「標梅(ひょうばい)花の光を並べては。娑婆の春を現わし。後の標の灯は真如の秋の月を見する。」(新婚の門辺にさす標の梅の花は、春の光の輝きを並べて、現世の栄を表し、秋の月は仏の導きをその完全無欠な姿で照らして後世の標となっている。)
と謡うのですが、これにも明確な出典は無く、『詩経』から取られたらしいこの標梅と言う言葉も、当然作者の意図によるものです。私は此処に『弱法師』の梅花問答との繋がりを感じます。

 元雅が元能の姿に重ねて『弱法師』を作り、元能はそれに応えるように『砧』を創作した。

 世阿弥の後継者たるべく成人に当たって「能」の字を名付けられた元能でしたが、何らかの事件(恐らくは将軍義教がそれに絡んでいます)により視力を失ってしまいます。自らの境遇を嘆きつつも、矜持を保ち、清澄な心持ちの元能の姿に、弟の元雅は深く感じて『弱法師』を創作します。
 元能はそれに応えて、それまでの父からの薫陶の全てを傾けて渾身の一作を手掛けます。それが『砧』です。創作の過程で、その節付けについて尋ねた時、父はそれには答えず、「この様な謡の味わいは、後世の人々には到底分からないだろうね。」などと少しずれた感想を言ったのでしょう。
 元能の心中には究理への想いが渦巻いていました。神に通ずる芸能として申楽の修行を積んで来て、その道は絶たれてしまったのですが、道を求める志は必然的に仏道に向かいます。出家するに当たって『申楽談儀』を残しました。

 と、凡その時間軸はこの様に推移したのではないでしょうか。
 さて、砧の女の原型は元雅の妻なのでしょうか。それとも、原作には登場した、弱法師が伴っていた妻、即ち元能の妻なのでしょうか。そこにどんな物語が隠れているのでしょうか。