2021年6月14日月曜日

藤戸 2021/07/11 九皐会例会

 九皐会七月定例会「藤戸」(第二部)のご案内を申し上げます

https://yarai-nohgakudo.com/archives/8782

今も昔も権力の犠牲になる弱者の悲劇は後を断ちません。しかし中世においてそれを真正面から描いたこの作品は、能を作り、今日まで守り伝えた人々の心を、色々と考えさせてくれます。

前段は功名の犠牲となった漁師の母親が、息子との思い出の中にその喪失感を切々と訴え、後段はその漁師の亡霊が、刺し殺されて海に捨てられた有様を再現して、恨みを晴らそうと迫ります。この漁師の突く杖は、冥界を彷徨する標であり、また恨みの象徴なのですが、最後に自らへの弔いを受けて恨みを晴らし、杖を捨てて成仏を体現します。

恨みの矛先となっているのは佐々木三郎盛綱という武将です。自分の功名のために罪なき漁師を殺しておきながら、「前世からの定めだから、恨んだりしても仕方がない。篤く弔いをするから、恨みを晴らせよ。」と言い捨てる有様は、現代人に共感を求めるのは難しいと思います。また、殺された当の漁師の幽霊が、その弔いによって成仏してしまうのも、簡単過ぎるように感じるかも知れません。しかし当時の社会状況などを鑑みると、入部してすぐに庶民からの訴えを聞こうとする、この盛綱は充分に良い領主なのだと思います。観世座に大きな支援を与えた大名の一人に、傍系ながら同じ一族の佐々木導誉がいたことを思えば、その先祖を持ち上げつつ、苛烈な専制支配を行使する時の将軍、足利義教を皮肉っているようにも思えます。

ともあれ、恨みの姿から成仏の姿への変容を、見所の皆様にお伝えし、それによって、日頃の怒りや恨みを少しでも流すことが出来たなら、それこそが能の真髄なのだと思い、稽古を重ねています。


どうぞ暑中の舞台ではございますが、矢来能楽堂に足をお運び下さい。