2014年11月21日金曜日

ある仮説・スリ足の起源

 豊橋の会での講演に於いて、ゲストの内田樹さんがスリ足の起源について軽く触れられたのですが、その後のメールのやり取りの中で、面白い仮説が生まれましたのでここに纏めてみます。


 お話は豊橋のレポートから入ります。
『中尊』公演に続いて、今回のゲストである内田樹さんの講演となり、その途中から安田登さんを司会にお願いしての対談となりました。
 内田さんのお話で印象深かったのは、日本の中世に成立した「能」と「禅」と「武」の三つが、何れも身体を整える事によって人の外にある強大な力を利用する技術であると言うものです。私は能ばかり見ていて、「スリ足は瞑想と似ている」とか、「能の身体運用は武道に通じる」とか、殆ど同じような事を考えているのですが、やはり能が中心に重く、三つを等しく並べる視点はありませんでした。そうするとまた違う一面が見えて来るのが面白いですね。
 対談では、海洋民と狩猟民の争いで能は常に海洋民の側についている事、また、能の中に農民の姿が描かれていない事など、興味深いお話が出て来ました。その辺りを的確に纏められると良いのですが、どうも私は新しい興味が起こると、其方に惹かれてしまうのです。此処ではその後の内田さんとのメールの中で、突如浮かんだスリ足の起源について書きます。

 抑もは内田さんが講演の中で、スリ足について軽く触れ、その起源について、武智鉄二が深田耕作説を言い、安田登さんは「反閇(へんばい)」ではないかと言っている旨をお話されたのです。私自身は宗教的な行法としての起源を考えていましたので、どちらかと言うと安田説に近い、しかし、反閇がどの様なものか知りません。検索によれば格式高い神事での特殊な歩行法です。「禹歩」とも言い、古い起源が書かれていますが、どうも私にはピンと来ません。
 私がスリ足の起源を行法にあると考えたのは、私が学んだ気功法の中に歩行法があり、これがスリ足に著しく近似している事が、発端にあります。三十代後半から五年程だったでしょうか、気功と言うものがそろそろ認知され始めた頃、薛永斌先生について無極静功を学びました。高々五六年の事ですので、一層深い所は分かりませんが、一通りの事は教えて頂きました。薛先生も能をご覧になって、能の動きが気功法そのものである事に驚かれ、その上で「スリ足で足先を上げるのは、大変強い。表現としては良いけれど、養生法としては強過ぎる。」と言う様な事をお話なさっていました。薛先生の表演は大変美しくかつ力強いものでした。今私が舞を教える時に口にする様々の事は、この時の学びに大きな影響を受けています。
 スリ足をする事で身体の内部の気の流れが整い、さらに身体の外にある気の流れをも取り込んで、動かずとも強い表現が可能になる訳です。それ故私は、スリ足の起源を宗教的な行法に求めたのです。

 と、ここまでの様な事を内田さんへのメールに書いていた時、突然一つのビジョンが浮かびました。それは、スリ足をしながら朗唱をする「語り部」たちの姿です。
 まだ文字を持たなかった頃、共同体の中に自らの歴史を語り伝える「語り部」がいました。共同体が大きくなるにつれて語り部の語らなければならない物語は、膨大な量になって行きます。それこそ朝から夜まで何日かかっても語り尽くせない程。しかもその物語を次の世代へ伝承して行かなければなりません。従って語り部が一人である事はあり得ません。集団で朗唱して皆で覚え、皆でそれを再生します。皆で朗唱するには節をつけて歌うようにします。集団はあらゆる世代で構成され、その内容は次の世代へ引き継がれて行きます。
 これまで私が思い描いていた語り部たちの姿はこのようなものでした。ここに集団での朗唱に動きが加わります。歩きながら朗唱し、覚え、再生する語り部たち。
 これは能の伝承にも関わって来る事ですが、私たち能楽師は舞台上で本を見る事が出来ません。シテのみならず、地謡や後見、囃子方に至るまで、演能に参加している者は皆、全て暗記して舞台に臨んでいます。しかし、そこは人間ですから間違いもあれば次の謡が分からないで絶句してしまう事もあります。その様な事故が一番多いのは、動かずに正座して一曲を謡う素謡の時で、それに囃子が加わると随分事故は少なくなり、舞の動きが入ると、再生はより確実なものになって行きます。覚える要素が多い程覚えられ、再生も確実になるのです。逆に謡ではなく、その詞章だけを言葉に出来る能楽師はほとんどいないと思います。頭の中で謡を謡いながら言葉を繋げて行くのですが、少なくとも私にはそんな芸当は出来ません。
 何で読んだか覚えていませんが、文字と言う物が誕生した時、これは人間の記憶力を駄目にする有害なものだと排斥した人がいて、それが他ならぬソクラテスなのだそうです。文字がない頃の人間の記憶力というものは、おそらく現代人の想像など遠く及ばないのではないでしょうか。但し語り部の様に大量の物語を確実に一字一句違えず表現するためには、やはり特別な技術が必要とされ、語り部の一族はその技術を代々伝えていたのだと思います。
 また、歩くことが記憶する為に非常に有効であるという事は、私たち能楽師のみならず、覚えて演じる事を常としている人たちは皆認めてくれるだろうと思います。

 さて、ここからが問題ですが、歩きながら声を合わせて朗唱する時、朗唱の音律はその言語固有の動きを要求するはずです。そして日本語の音律は、その歩きに水平方向の動きを要求するのです。私の知る限り、音の繋がりが日本語程平板に繋がって行く言語はないように思います。
 それがスリ足が外国ではほとんど見られず、日本に固有の歩行法である所以です。しかもその歩行法は身体運用法としても内気を養生する効果が大きく、様々の武術に取り入れられています。語り部と言うと、神経質で繊細な老人と言う印象があるかも知れませんが、それはこれから改められるべきでしょう。歩行を中心として身体表現も交え、全身を使って記憶し、朗唱する集団で、しかもそれが皆「気の達人」の様な人々なのです。当然この集団の人々は長生きな人が多い、と言うそんな新しい語り部像が浮かんで来ます。

 無文字社会も後半になると共同体はかなり大きなものとなり、場合によっては「クニ」と呼んで差し支えないものもあったと思います。そのクニが争って、一方が他方を滅ぼしてしまった場合、滅ぼされたクニの語り部たちは、新しい支配者たちにとっては不都合な神話と歴史を語る者たちですので、多くは殺されてしまったのではないでしょうか。しかし、その技術を伝承する者たちを根こそぎにするのは難しく、必ず地下に潜って生き延びる者がいたはずです。そして王権が次第に確立して行く陰で、虐げられた人々の中にそういう人々も含まれていて、長い年月の後、その様な人々が芸能民となって中世の頃に登場して来るのではないでしょうか。

 さて如何でしょうか。スリ足の語り部起源説。私は結構行けるのではないかと一人悦に入っているのですが、、、。


2014年11月18日火曜日

『中尊』始末記

11月13日豊橋芸術劇場での第八回吉田城薪能・能楽らいぶ『中尊』は、お陰様で無事?終了しました。主催のNPO法人三河三座の皆様、共演の皆様、会場にお運び下さいました観客の皆様、そしてブログ読者などネット上で応援して下さった皆様に厚く御禮申し上げます。


 ステージに能舞台に模して化粧板を並べ、周りに笹をあしらいました。鏡板には、老い松ならぬ蓮の華。これは今年三月、イーハトーブプロジェクトin京都・法然院での能楽らいぶの時に、秩父在住のガハクが、『中尊』に共感して制作して下さった銅版画が元になっています。主催者からこれを背景にしたいと聞いて、そんな事が出来るのかと、大変楽しみにしていました。舞台設営の段階から現場に押し掛けてその威風に触れ、少々興奮しつつ、愈々午後には『中尊』の出演者が揃いました。
 最初に「無事?」と書きましたが、実はらいぶ本番に向けて、私には一抹の不安がありました。ここのところ私の喉は常に重く、声の出にくい状態が続いていましたが、数日前から深刻な状況となり、二日前には殆ど声が出ない様になってしまいました。こう言う事は大分以前には時々ありましたが、ここ数年は発声の仕方も変わり、ここ迄酷くなるのは滅多にない事でした。それが前日に名古屋市内の小学校での特別授業では、大丈夫だったのです。ですから「まぁ何とかなるだろう」と臨んだのですが、豈図らんやリハーサルをしてみると、何とも頼りない有様で、共演の観世喜正師からマイクの使用を勧められる始末。躊躇する気持ちもあったのですが、素直に従って正解でした。本番では時を追うごとに声は出なくなり、最後は息が通って行く中に微かな振動が響くばかりと言う有様でした。
 以前の私でしたら大舞台にそうなってしまった慙愧に苛まれたと思いますが、そこは多少年を重ねて図々しくなった様で、今日のこの日にこんな声になるのは、この舞台がこう言う声を要求しているのだと思い定めて、演じる事にしました。ワキを勤めて下さった安田登さんも、舞台で聞いていて、そう言う感想を持たれたとの事で、公演後に「能は演者の生身を奪い取る事で成立する」と言うような事をツイートされていました。公演後一週間が経ちましたが、未だ剥ぎ取られた生身を完全には回復していません。大小様々の舞台が次々と迫って来る中、現在はリハビリに努めています。

 さて、余り本質的ではない話を長々としてしまいました。それではらいぶは失敗だったのかと言うと、どうもそうでもないようです。本来これは見て下さった方々の評を仰ぎたいところですが、ワキの安田さんが態々良かったと言って下さいましたし、打上げの席での主催の皆様の雰囲気も悪くありませんでした。また演能中は、見所の皆様が舞台を見詰めるエネルギーを感じていました。舞台として一応成立していたのだと思います。
 前半の山場、シテの女が身の上を長々と語る場面では、未だ声の響きとして自分に返って来ていたのが、地霊が憑依する辺りになると、身体の表面的な部分では殆ど響かなくなっていました。そして〈舞〉の後では、今となっては何処で振動していたのかわからない微かな響きが、兎に角息を深く通すのだと格闘する身体の何処からかやって来て、「いよいよ地獄とや言わん、虚無とや言わん。ただ滅亡の世迫るを待つのみか。」と言う、言葉を何とか届ける事が出来たのだと思います。
 願わくはこれらの出来事が、今後の舞台に資するものとならむことを。

 能楽らいぶから能『中尊』公演に向けて、今は未だ具体的なものは何も手にしてはいませんが、兎に角また新たな一歩となった公演でした。
 長くなりましたので、内田樹さんとの対談については、また稿を改めたいと思います。