2016年5月23日月曜日

「生きるための能」 一宮ロータリークラブ講演録

三月末に一宮ロータリークラブからの依頼で30分の講演をしました。その講演録を会報に書きました。ここに再掲します。


「生きるための能」 中所 宜夫

 少々大袈裟な題名を付けました。私が生きるために能が必要な事はほとんど自明の事ですが、皆様にとっても能が必要だと思いますので、その辺りをお話ししようと思います。
 今までに能をご覧になった事のある方はどの位いらっしゃるでしょうか。・・有難うございます。半数以上の方がご覧下さっているので嬉しく存じます。
 私は父が趣味としていた関係で小学生の頃から能を見て参りました。一橋大学の能楽クラブ・一橋観世会で、能の家の者でなくともプロになれるのだと知り、卒業後観世喜之先生の内弟子となりました。進路を決める時には何が何でも能楽師と言う訳ではなく、大学院での研究生活も考えましたが、身体を使って表現する魅力が勝りました。5年の内弟子修行を経て独立したのが30歳で、それから28年程能楽師としてやっています。生涯の道として能を選んだ時より、独立した時より、今はもっと能が好きで、能のない生活は考えられません。
 能が成立したのは南北朝時代から室町時代の初め、14世紀末から15世紀にかけての事です。南北朝時代の父・観阿弥と室町初期の子・世阿弥の二人によって芸能の形が作られました。世阿弥は『風姿花伝』『花鏡』などの優れた伝書を残しましたが、これは芸術、演技に留まらず教育や経営など様々の分野にわたって論じられ、その成立の古さから言っても非常に重要な人物です。私は日本の文化史において、空海の次に世阿弥が重要な人物だと考えています。
 観阿弥・世阿弥によって成立した申楽は江戸時代には武家の式楽となります。武士であれば皆、能を必須教養として習得していました。また町人の中にも、例えば俳諧では能の内容が前提となって詠まれている句が多く、能は親しいものとなっていました。
 その能が明治維新によって武家階級そのものがなくなってしまいます。しかし、能を伝承してきた人々は何とかこれを次に繋げようと努力しました。明治6年の西欧使節団が欧米を歴訪しての帰国後に、列強と対等に渡り合うには独自の文化が必要な旨を建白し、能と歌舞伎と文楽を日本の伝統芸能として指定するまで、各流の家元たちは能面や装束を売り払うなどして、何とか生計を立てていました。これ以後明治政府の担い手である貴族と財閥によって、能は支えられて行きます。
 昭和の敗戦によって貴族と財閥がなくなると、いよいよ能の存在は危うくなるかと思いましたが、能に携わる人々はその無二の価値を信じて守り伝えて来ました。
 能は、武士によって完成されましたが、その価値観や美意識は「武士」という限られたものではなく、人間の根底にある普遍的な何かと密接に結びついているため、武家階級そのものがなくなってしまった後も、150年以上そのままの形で伝えられるというような事が起り得たのだと思います。舞台芸能というものは本来お客様を飽きさせないために、変わって行くものです。能も世相の変化につれて少しづつ変わってはいますが、その基本にあるところのものは700年間変わらずにいるのだと思います。
 近頃、三内丸山を始めとして縄文の文化が掘り起こされています。仮面土偶の存在など、私は芸能の初源が縄文にある気がしてなりません。能の基本であるスリ足という手法の原点は縄文にあると言うのが私の主張です。一万年に亘り営まれた狩猟採集生活は、半島や大陸で農耕が始まってからも数千年間、その受容を拒否して維持されています。これはそれを支える世界観・宗教観とそれを人々に浸透させる芸能がなければ考えられないと思います。
 こうして日本列島に営々として受け継がれて来た能は、謡うこと、舞うことを基本にし、これを修練してゆけば、強くしなやかな身体作りにも有効です。70歳を過ぎて始めて本物の芸になると言われる能のしくみは、インナーマッスルの強化にも秀れ、健康法にも通じています。
 欧米を範としていた時代は既に過ぎ去りつつあります。近代が私たちから奪った自然との交感を、タイムカプセルのように閉じ込めて今に伝えられているのが能です。せっかくこの日本に生まれたのであれば、これに触れていただきたいと思います。ものを習うのに遅過ぎると言う事はありません。どうぞご興味を持たれましたら、是非とも実際に自分でお稽古してみて、能をご覧になって頂きたいと思います。
 最後に、祝言の謡『高砂』の最後の部分「千秋楽」をお聞き下さい。本日はどうもありがとうございました。

2016年5月8日日曜日

演能のお知らせ----『葵上』----

 既に来週となってしまいました。緑泉会例会にて『葵上』を致します。
近頃は小書「梓之出」なしの上演は珍しくなりました。しかし、梓の出では省略されてしまう冒頭のシテの謡の部分は秀逸な心理描写であり、また、中入せずに舞台上で面を変える物着の方が、自分の存在を滅しようとする山伏の加持祈祷により面貌が変化すると言う意味で、曲本来の意に叶っているように思います。
是非、小書ナシの『葵上』をお楽しみ下さい。

『葵上』について 

『葵上』は「源氏物語」に取材した名曲であり、現在最も演能頻度の高い曲かと思います。おそらくは犬王道阿弥の作品であったものを、世阿弥が改作しています。
シテは曲名と異なり六条御息所です。知的で優しい貴女が、自分の心の醜さを受け入れられず、押し込めた感情が生霊と化してしまいます。梓弓の巫女(ツレ)に見あらわされ、山伏行者(ワキ)に祈伏されながら、最後は法華経の功力で成仏して行きます。

原作では、必死の加持祈祷も空しく、葵上は亡くなってしまい、怨霊の正体が能のように実体化されることはありません。そして光源氏はその後も長く怨霊に悩まされることになります。
ところで世阿弥は、多くの曲で妄執に彷徨う霊魂を描いていますが、怨霊については殆ど扱っていない様に思います。それは道真に触れていながら『老松』『道明寺』の様な描き方をしている点に現れているのですが、神秘家であった世阿弥にとって、文芸で身を立てた道真が、怨霊と化すのを良しとしない、つまり霊の中で怨霊を最も低く見ているからだと思います。映画「もののけ姫」で「たたり神」が忌避されるべきものと描かれているのと同じです。
もしこの曲が、私が考える様に、犬王道阿弥の持ち曲を世阿弥が改作したのだとすれば、殆ど唯一の怨霊作品だと思います(『鉄輪』はおそらく世阿弥のものではありません)。「怨霊を成仏させる」ことが世阿弥の意図であるならば、怨霊を実体化させ、さらにその怒りを増幅させて、行きつくところまで行きついて初めて成仏が可能となるのです。
最後、山伏に祈り伏せられ「あらあら恐しの般若声や」と言う呻吟の中にこそ、成仏への転換が隠されています。

と、そんな事を思いつつ稽古を重ねて来ましたが、本当に成仏する姿を見せるなど、なかなか出来る事ではありません。しかし、そこを目指しているからこそ、能は能であるのではないでしょうか。