昨年二月に九皐会定例会で『高砂』を致しましたが、その時に神舞を舞う曲を今のうちにもう一回やっておきたいと思いました。神舞は最高速のお囃子の演奏に乗せての舞となりますが、世界を構成しているエネルギーの躍動を表現しているように感じ、まだ身体の動く今のうちに再挑戦したいと思います。
神舞を舞う曲は七八曲ありますが、中でも『高砂』『弓八幡{ゆみやわた}』『淡路』の三曲は、曲の構成も厳格で位の高い扱いとなっています。そして高砂があまりにも人気曲となってしまったために、他の二曲は滅多に上演されなくなってしまいました。武器の象徴である弓矢を袋にしまって、平和を言祝ぐ『弓八幡』は、今日的なテーマでもありますが、私は神話の天地創造を描いた淡路に魅かれます。南北朝から室町初期の頃の神話解釈は、古代的なおおらかさからは遠いものですが、万物流転のダイナミズムを描くなかに、武家式楽の確かさを感じます。
まだまだ寒さの厳しい頃ですが、能楽堂へ足をお運びいただければ幸いです。『淡路』について
この曲の作者はおそらく観阿弥です。そして後援者である赤松則祐{そくゆう}の旅に同行して、この曲を作ったのだと思います。
赤松則祐は、足利尊氏とともに六波羅探題を攻め、鎌倉幕府打倒に功績のあった赤松円心の三男で、最初は大塔宮護良{もりよし}親王に仕え、後に父円心に従って尊氏の家臣となった人物です。長男の急死により家督を相続し、武功を重ねて播磨・摂津の守護となりました。茶人としても知られ、禅にも造詣が深く、そして和歌にも秀れていました。二代将軍義詮{よしあきら}の時には、幕府の重鎮となり、正平十六年の義詮都落ちの際には、まだ幼かった後の三代将軍義満を預かって播磨に疎開させています。婆娑羅大名として知られる佐々木導誉の娘婿でもありました。もし、この南北朝騒乱の時代が、戦国時代や幕末とは言わないまでも、せめて源平合戦並みにポピュラーであったなら、必ず取り上げられて然るべき当代一級の人物です。
私は、観阿弥の勧進能の記録の最も古いものが、須磨寺での記録だということから、当地の守護であった赤松則祐と観阿弥とは、かなり深い関係があったと考えています。そしてこの『淡路』という曲は、二人の関係をそれとなく仄めかしているように思えます。
住吉・玉津島への参詣を宿願とするワキは、あきらかに歌詠みです。曲中「谷水を堰く水口{みなくち}に五十串{いぐし}立て苗代小田の種蒔きにけり」という歌が引かれますが、出典不明のこの歌が則祐の歌だとすると、歌人・文化人としての赤松則祐の淡路詣に、お気に入りの人気猿楽師観阿弥が同行している様子が目に見えるようです。
また地謡によって語られる天地創造の物語ですが、今私達が『古事記』『日本書紀』で知る伊弉諾{いざなぎ}、伊弉冉{いざなみ}のお話とは、何か微妙に異っているのです。この曲の天地創造は、記紀にはない陰陽思想や五行思想による解釈が混っています。これは中世の頃の一般的な解釈なのかも知れませんが、それを明確に著しているのが南朝の重臣北畠親房が著した『神皇正統記』なのです。大塔宮に仕えた赤松則祐ならば、この天地創造譚を良く聞き知っていたのではないでしょうか。
さてそのような物語を受けて、後段に登場する後シテは伊弉諾{いざなぎ}の神です。現代の視点から見ると、伊弉冉{いざなみ}が登場しないのが残念で、二神が並んで舞うような曲であったら、特徴ある一曲として人気曲の一つとなっていたかも知れません。しかしそれは二百番を越える現行曲を見渡して始めてわかることです。則祐と観阿弥にとって創作の旅は始まったばかり。
伊弉諾が勢い良く舞を舞うことで、武人としても秀れていた則祐の姿をも映し、観阿弥は天地創造の物語を完結させたのだと思います。