本日は恒例となりました花まつり能楽らいぶにお越し下さり有難うございます。今年は『弱法師』と云う曲を取り上げて、一曲を通して見て頂こうと思います。
さてこの弱法師と云う曲ですが、多くの物語を秘めている曲で、今日は私の思いついた物語を皆さまにお話しして、その後で一曲を通して演る事に致します。
先づ粗筋をご紹介しましょう。
摂津國高安の里の高安通俊が登場し、さる人の讒言で追い出した子の安楽を供養する為に、天王寺で七日間の施行をすると語ります。
次に盲目の少年が登場し、身の上を語ります。
出で入りの月を見ざれば明け暮れの夜の境を得ぞ知らぬ難波の海の底ひなく深き思ひを人や知る
此処で少し不思議な事を言い出します。
それ鴛鴦の衾の下には立ち去る思いを悲しみ比目の枕の上には波を隔つる愁ひあり
鴛鴦も比目も仲の良い夫婦の象徴です。この後も「鳥や魚でさえそうであるのに、心あるように見える人間に生まれても、何かが私たち夫婦を引き裂いてしまうのではないかと、不安でつらい年月を送って来ました。」と続きます。盲目の少年と言いましたが、どうやらこの人には奥さんがいるようです。実際この曲が作られた当時は妻役のツレが登場したようです。
さてこの人、「讒言によって不孝の罪を着せられ、色々思い悩むうち眼を患い盲目となってしまいました。死んでから行くはずの幽冥界に似た暗闇を、生きながらさ迷っているのです。」と嘆くのですが、その様な逆境の中、「本来人の心には闇などなく、例えば玄宗皇帝に楊貴妃との不義を疑われた一行阿闍梨が果羅國へ流され、暗闇の道を抜けなければならなかった時には、九曜の曼荼羅が光を放って行先を照らしたと聞いています。」と佛道に救いを求めています。天王寺西門の石の鳥居に行き当たり禮拝したりしながら、雑踏の中を施行の場所にやって来ます。
通俊は弱法師に「や!ここに施行を受けに来たのは、ひょっとしてあの弱法師と言う者かな」と声をかけます。当時盲人が杖をつきながら天王寺の縁起を曲舞に舞う、弱法師と言う人々が話題になっていた様です。一方弱法師は軽妙に受け答え、通俊をやり込める一幕もあります。梅の花が散りかかるのも天からの施行の様だと感嘆しながら、通俊は弱法師に炊き出しを与えます。
誤ちを悔いて施しをする者、運命から盲目となりながらも理知を失わず勤めを果たす者、二人を祝福する様に梅が散りかかります。美しい場面です。
続いて天王寺縁起の曲舞が弱法師によって語られます。鐘の音が響きわたると、人々の信心が満たされ、辺りの情景が皆佛様の化現の様に輝いています。
その時突如として通俊は目の前の弱法師が、自分の子どもである事に気がつきます。此処で直ぐに名乗らないところが能の常道なのですが、「人目も流石」と言う事で「さあ、日想観を拝んで下さい。」と声をかけます。
日想観・・・。謎です。唐突です。
先づ仏道の行法として、入日を思いながら観想する方法があるそうなのです。天王寺固有の行法と言う話もあります。また、盲目の弱法師の芸の一つとして「日想観の狂い舞」と言う演目があったのかも知れません。
兎に角日想観はやがて一頻りの狂い舞となり、「思えば恥ずかしい事。もう狂うのは止めにしよう。」と、弱法師が舞い収めた時には、すっかり夜になって、人もいなくなっていました。遂に通俊は声をかけ、お互いに名乗りをして再会を果たします。鐘の音が再び二人を祝福する様に響き、夜が明けないうちに此処を離れましょうと、二人は連れ立って高安の里へ帰って行きます。
以上、大変長くなりましたが、『弱法師』の粗筋でした。
さて『弱法師』の作者と目されるのは観世十郎元雅と言う人です。一般的には世阿弥の長男とされています。此処から先は私の創作した物語です。学問的な裏付けは特にありません。
世阿弥の後を引き継いで観世大夫となった十郎元雅ですが、実は彼には兄がおり、元々はその兄が世阿弥の後を継ぐはずの人でした。その名を七郎元能(もとよし)と言います。
芸もそこそこに優れていた元能ですが、その傾向は演技を抑制し、スリ足を基本とする舞の美しさを目指す、玄人好みなものでした。その一方、何より創作の才は並外れていて、多くの優れた作品を作っています。後代世阿弥の作品と伝えられたものの中には、この人の手になるものが案外多いのです。
世阿弥の後継者としては、もう一人少し年長の三郎元重がいました。彼は役者としては七郎に勝る花を持っていて、技のキレや、演技力、そして舞の華やかさ等では抜きん出た存在でした。
しかし元重は創作では元能に及ばず、子どもの時には二人並んで世阿弥から作品作りを指導されたにも拘らず、役者として名を上げてからは全く曲作りをしていません。
元能には幼い頃からの恋仲の娘がおりました。とても美しい娘で、二人の仲を知りながら、この娘に想いを寄せる者も少なからずおりました。その中に、仏門にありながら、身分高い生まれを誇り、恣意を押し通そうとする一人の僧がおりました。名前を義円と言います。
義円は室町幕府の三代将軍義満の子です。優れた頭脳を持っていましたが、容貌に難があり、長男で義満の後を受けて四代将軍となった義持や、四男で一旦は出家したものの父に愛され還俗して華々しく活躍する義嗣を、嫉視しながら年月を重ねていました。
田楽や猿楽に限らず芸能を好んだ義円は、元能の幼馴染であり、曲舞の優れた舞手として注目を集め始めた件の娘を何かの折に見知り、出家の身ながら恋慕を寄せます。
義円は多くの芸能者を観て回り、世阿弥の舞台を特に高く評価しており、その後継者たちにも目を配っていました。父義満が、田楽の亀阿弥や観阿弥、さらには近江猿楽の犬王道阿弥を見出して、彼らを育てたのと同様に、政治の世界に出られない彼は、芸能の世界で自らの存在を示そうとしていたのです。
三郎元重、七郎元能、どちらも優れた才能と観ていた義円でしたが、その好みは圧倒的に華やかな芸風の元重に傾いていました。世阿弥が元重よりも元能に重きを置いている事に、常々不満を抱いていた義円は、何かと元重に肩入れしていましたが、自分の想いを寄せた娘が元能と恋仲である事を知ると、元重に働きかけて娘と元能の仲を裂こうとします。
実際にどんな事があったのでしょう。義円と元重は、世阿弥に元能の非道を訴え、世阿弥はこれを信じて元能を一座から放擲します。
世阿弥が真実に気づき、元能を探し出した時には、元能は眼を患い、完全ではなかったとは思いますが、視力の大半を失っていました。世阿弥の後継者として一座を率いて行くには難しい状態です。世阿弥は義円を深く恨み、それに加担した元重を責めました。
折しも五代将軍義量が、将軍就任僅か二年の十八歳で亡くなると、大御所として政治の実権を握っていた義持は、次代の将軍を決めかねた様子で、一年二年と年が流れ、各有力大名たちは自分の息のかかった者を将軍に据えようと躍起になって活動を始めます。その中には義円も含まれています。
世阿弥はこの事態を憂慮しました。ただでさえ芸能界に影響力を持っている義円を敵に回している現状の上に、もし義円が次期将軍にでもなってしまったら一座ごと破滅への道が待っています。義満に嫌われて破滅した芸能者たちを、実際に目にしていた世阿弥にとって、これは大袈裟な話ではありませんでした。
過ちを犯したとはいえ、世阿弥にとって元重は、自分の芸を継ぐ後継者である事には変わりません。元重とて世阿弥に意趣がある訳ではなく、子どもの頃から芸を研鑽して来た元能を、不自由な身体にしてしまった事には、殊更深い負い目を抱いていました。
元重は世阿弥に呼び出されて話を聞かされます。
「この先もし義円が将軍になる様な事になれば、観阿弥から受け継いで来た大和猿楽の芸が廃れてしまう事にもなりかねない。三郎は一座を離れて義円の下に庇護を乞いなさい。幸い十郎元雅は、まだ年少だけれども、芸にも創作にも頭角を現わして来ている。お前には教える程の事は伝えた。これからは十郎を育てる事にこの後の命を使おうと思う。」
元重は不本意ながら、この世阿弥の言葉に従います。
一方、世阿弥の元に戻った元能は、奈良の結崎座に移り、一座の子どもや若手の役者たちに稽古をつけたり、作品を創作したりしていました。中でも弟の十郎元雅は、役者としても非凡な才を示し、創作についても指導する元能が感心する程のものを作っていました。
ある日元雅が自分の作品を元能に謡って聞かせました。天王寺で日想観の狂い舞をする弱法師は、紛れもなく自分の姿です。描かれている自分のすがたは些か面映ゆいものの、狂い舞の言葉の美しさ、音曲の巧みさ、劇的な面白さ、どれも第一級の出来栄えで、観世座後継者としての元雅の器量を十分に示したものでした。
「しかし、これは危うい。あまりにも義円の横暴をあからさまに指し示している。
この話を今流行りの俊徳丸の物語に移し変えてはどうだろう。ワキの天王寺の僧の傍に、施行主然として高安通俊を座らせておいて、最後の最後に名乗りをする、観ている人はあの俊徳丸の物語だったと種証しをされる事になる。
弱法師が、興行主の横暴から恋人と別れ別れとなる部分は、『砧』で使った鴛鴦と比目の成句を持って来よう。中国の故事に、宋の康王が仲の良い夫婦を引き裂いた物語がある。でも鴛鴦は普通に仲の良い夫婦の例えだし、其処まで思う人はそう多くはないだろう。ツレの女を出すのもやめた方が良い。
そして世阿弥の作った天王寺縁起の曲舞を入れればより重厚な体裁になる。」
以上、私の思う『弱法師』誕生の物語です。世阿弥はこの作品を手ずから書き留めています。処でこの作品は最初にお話しました現行の『弱法師』とは違っています。世阿弥自筆本は、確かに残されていますが、現行版に比べると、誰だかわからない通俊が最初から舞台に登場していたり、最後の種明しの仕掛けが、二度目の観客には通用しないなどの不備があって、実際にはそれ程上演されなかったのではないでしょうか。いつの頃か、その詞章の美しさを惜しんで、誰かが現行の仕立てに改作したのだと思います。