2月15日(土)の緑泉会で「西行櫻」を致します。
この曲のシテは京都北山西行庵の片隅に、ささやかに花を咲かせる老木の桜の精です。幹は大きなウロとなり、皮ばかりから伸びた枝にわずかに花を咲かせる、その老桜ノ精が西行法師の詠歌に不審を向けて夢枕に立ちます。
花見んと群れつつ人の来るのみぞ
あたら桜のとがにはありける
との西行の歌に、「浮世と見るも山と見るも、ただその人の心にあり。非情無心の草木の、花に浮世のとがはあらじ」と言葉を向ける桜の精。世事に煩わされることなく道を究めたいと思う気持ちに、それは心の構え方の問題だと答える有様は、作者世阿弥の葛藤をそのまま映しているようです。
花の仏性を目の当たりにして、西行が「草木国土悉皆成仏」と誦えると、その功徳を喜んだ老桜ノ精は夜明けまで舞を舞い続けます。歌に詠まれた花の名所を謡込んだ舞は、やがて春の夜のたゆたいのような笛の舞となり、最後「花を踏んでは同じく惜しむ少年の春」と白楽天の詩を謡込んで夜明けとなります。
私にはこの曲の中、俗世を嫌うのを戒めながら、西行の夢の場を借りて、少年と老人が対峙しているように見えます。それは少年世阿弥と歌の師である二条良基かも知れませんし、年老いた世阿弥と若い芸能者たちかも知れません。
是非、春の朧の雰囲気を楽しみに能楽堂へお出かけ下さい。
以下は、チラシに載せた「西行櫻」の解説です。
舞台に桜で飾られた山の作り物に続き、西行法師(ワキ)が登場するとそこは都西山の西行の庵室となる。下京に住み、春になると山野に花を尋ね廻る者たち(ワキツレ)が登場し、その庵の花を見ようと連れ立ってやって来る。わざわざやって来た労に報いて招き入れる西行だったが、人々の賑いに俗世の煩わしさを思い出し、思わず一首の歌を読む。「花見んと群れつつ人の来るのみぞあたら桜の咎にはありける」
やがて夜となり人々と共に眠りにつく西行だったが、気がつくと一人となり、桜の老木の空洞から白髪老人(シテ) が現れて、先ほどの自分の歌を詠じている。 不審する西行に老人は桜の精だと明かして、「 憂き世と見るも山と見るも、ただその人の心にあり」 と理を説いて戒める。西行が「草木国土悉皆成仏」 の経文に思い至り読経合掌すると、老桜の精はこれを喜び、 花を歌う詩歌を連ねる。 都の桜の有様を歌い始めると興に乗って舞を舞う。 時は移り夜も終りに近づけば、西行との名残りを惜しみ、 その心をゆったりとした笛の舞(序之舞)に舞う。 とうとう夜が明け始めた。いよいよ別れの時かと思いつつ、 まだまだと思っているうちに夜は明ける。
終曲の一節に、白楽天が「花を踏んでは同じく惜しむ少年の春」と詠んだ春の夜は明けて「翁さびて跡もなし」( 老人は消えてしまった)と謡われる。 少年世阿弥が歌を学んだ二条良基の姿をこの老桜の精に重ねるのは うがち過ぎだろうか。