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舞台のご案内を申し上げます
四月に九皐会の別会にて大曲「定家(ていか)」を舞うこととなりました。
例年国立能楽堂での開催となる別会ですが、今年は社会状況に鑑みて矢来能楽堂での催しとなり、番組も能は私の「定家」一番となりました。大きな責任と共に、この大曲をこのような場で舞えることの喜びを感じています。
「定家」は百人一首の選者でもある藤原定家(ふじわらのさだいえ)のことですが、この曲のシテは定家ではなく式子内親王(しょくしないしんのう)です。内親王の墓に定家の執心が葛となって纏わりついているという、定家と内親王の抜き差しならぬ愛執が主眼の曲です。
執着の象徴が定家葛ですので、男の強い執着によって一方的に苦しめられる女性が想像されるかも知れませんが、愛執の束縛は女性自身からのものでした。
死後もその執心の葛に縛られて苦しむ内親王は、ワキの僧の供養により、縛めからしばし解き放たれて報謝の舞を舞いますが、舞姿を恥じて墓所の石塔へ戻ろうとすれば、また元の如くに葛は石塔に這い纏わり姿を消します。
この曲は世阿弥の娘婿である金春禅竹の作品とされています。南北朝の騒乱が収束に向っていた時代の世阿弥は、僧の供養で成仏する作品を多く書いていますが、禅竹は再び乱世に傾こうとする不穏な時代の中、供養による平安を一時的なものと把えています。
偽りのなき世なりけり神無月
誰(た)がまことより時雨初めけん
(嘘ばかりの世の中と思っていたが、誰のまことの心から出たものか、
神無月になると必ず時雨が降る。とすればこの世の中にも嘘はないようだ。)
この曲の前段で詠じられる定家の歌は、時雨さえあるべき情趣として受け入れています。
またこの曲は秋の曲ですが、愛執の葛に縛られている式子内親王は、今の社会状況の中で身動きままならないまま、春を迎えた私たちの姿のようでもあります。
法華経の功徳で心安らかに舞うひと時は、そのまま、難しい時代の中で生きる私たちに、確かな力を示してくれているように思います。
武家の式楽として育まれてきた能の力を、今の時代を生きる力として、見所の皆様と共に感じてみたいと思います。
辛丑春