10月8日(日)12時30分開演 於 矢来能楽堂 九皐会十月例会で『實盛(さねもり)』を致します。
日中はまだまだ暑さ厳しいものの、朝夕に秋の気配を感じる今日この頃、皆様もご健勝にお過しのことと存じます。
四月の三度目の道成寺も無事に終え、お蔭様でこれまでの稽古の成果を確かめることができました。次の舞台は九皐会十月定例一部公演での「實盛」となります。
この曲は老武者をシテとしているばかりでなく、曲の構成上でも修羅物の最難曲と言っても良いでしょう。「敦盛」「忠度」「屋島」と修羅物は好きな曲が多く、これまでほとんどの曲を手がけてきましたが、いよいよこの度「實盛」を舞うこととなりました。
私自身六十五歳となり、ようやく老武者のありようが身に染みて参りました。そして五十歳過ぎにこの曲を創作した、世阿弥の気持ちに思いを向けて、新たな舞台に臨みたいと思います。
当日は、秋も半ばの頃かと思います。辛かった夏を生きのびた喜びを、是非ともに喜びたいと存じます。
『實盛』について
応永二十一年(1414年)世阿弥五十歳の頃、加賀の国に滞在布教中の十四世遊行上人(太空上人)のもとに、白髪の老人が現れ、十念を受けて姿を消したという出来事があり、これが斎藤實盛の亡霊だったという噂が広がりました。「事実ならば希代の事也」と為政者の日記に記されたほど、当時はセンセーショナルな話題だったようです。
世阿弥はこれを受けてこの曲を作りました。父観阿弥が亡くなった五十一歳をまもなく迎えようとする世阿弥です。『風姿花伝』に「この頃よりは・・・物数をばはや初心に譲りて、安き所を少な少なと色へてせしかども、花はいや増しに見え」云々と老境の芸のあり方を説いたのと、『平家物語』「實盛最後の事」に描かれた老武者の「花」が呼応しています。
また、「◯阿弥」という称号は、もともと時宗(じしゅう)のものであったのを、室町期には将軍の同朋衆に使うようになっていました。当時、時宗を率いていた太空上人と世阿弥との関係も伺いしれます。庶民や非人などに広く信仰された、踊り念仏の教祖である一遍上人や遊行上人が、能では格高く扱われていることも、これに無関係とは思われません。
さらに、世阿弥の胸中には自分に影響を与えた老武者たち、たとえば赤松則佑や今川了俊などの大名たちへの思いも、去来していたに違いありません。
この曲、決して「安き所を少な少な」と演じられる曲ではないのですが、今の自分のありようをみつめつつ、取り組んでみたいと思います。
あらすじを少し詳しく・・・
遊行上人が念仏会を催していると、
その声にひかれて老人が現れる。
「笙歌(せいが)が響いて聖衆(しょうじゅ)が来迎するかのようだ。
紫雲が立っている。」と
老人は辺りの神聖な雰囲気を喜び、
遅ればせながら念仏に加わる。
上人はいつもやって来るこの老人が、
どうやら他の人には見えていないことを怪しみ、
名を尋ねるが、
老人はなかなか名乗ろうとしない。
あたりの人を退けて近くに来させても、
昔この篠原の合戦で亡くなった長井の斎藤別当實盛の話を始める始末。
とにかく名乗れと急かすと、
自分はその實盛の幽霊ですと名乗って池の辺りに姿を消す。
上人の弔いに實盛は白髪に老武者の姿で現れる。
「既に極楽に赴いて苦海は遠くなったけれど、
この念仏は称えれば称えるだけ往生するのだ。
ありがたいことだ。」と上人に向い合掌をなすが、
やはり人々には見えないようだ。
實盛は仏の教えを喜び、
合戦で討たれた物語を、
懺悔の縁となすために語り始める。
義仲の前で首の鬢髭を洗われて、
若やいだ姿で臨んだはずが、
白髪を露呈してしまった子細を語る中では、
生前の實盛が「六十に余って戦をせば、
若殿原と争いて、先を駈けむも大人げなし。
また老武者とて人々に、侮られんも口惜しかるべし。
鬢髭を墨に染め、若やぎ討死にすべき」と
常々話していた由が語られ、
皆感嘆の涙を流す。
また、平宗盛に赤地の錦の直垂を賜った子細を曲舞に語り、
さらに手塚太郎光盛と組んで討たれた有様を仕方話に見せ、
上人に弔いを頼んで消える。