九月二十九日(日)に緑泉会例会で『芭蕉』を致します。
この曲は世阿弥の娘婿である金春禅竹の作品で、幽玄の能の極致にある一曲と言ってよいと思います。
禅竹は、世阿弥の幽玄の世界を最も高い位に押し上げた人です。都で活躍する音阿弥に対し、奈良で能の真価を極めようとしていた禅竹が、「草木国土悉皆成仏」(自然界の物には全て仏性が宿っている)を舞で表現しようとしたのがこの曲です。
現代で芭蕉といえば、ほとんどの人が俳聖芭蕉を思い浮べるでしょう。私は芭蕉が芭蕉と号する背景に、能『芭蕉』は大きくかかわっていたと思います。
芭蕉は、住む庵に立派な芭蕉があり、弟子たちがその庵を芭蕉庵と呼んだことを受けて、芭蕉と号したということですが、式楽(儀式の時の音楽。江戸幕府は武家諸法度で能を式楽に定めた。)の中で高く評価される『芭蕉』を、武士出身の身で知らなかったはずはありません。
茫洋とした存在感はあるものの美しい花を咲かすでもないこの植物に、至高の美を託した本曲が、『遊行柳』『杜若』など草木の精がシテとなる他の曲と異り、どの歌人とも結びついていないことも、芭蕉の意に叶ったのだと思います。
これからの過酷な夏を経ての当日の舞が、どのようなものになりますか、是非能楽堂でお確かめ下さい。
「芭蕉」について
「芭蕉」という曲のあらすじについては、チラシにも書きましたので、それをお読みいただきたいと思います。
その後、稽古してゆく段階で新たに気づいたこともありすので、少し書いてみたいと思います。
金春禅竹について
舞台は唐土楚国、湘水(しょうすい)の山中に、ひとりひたすら法華経を読誦する僧の庵です。
この舞台設定を作者金春禅竹に重ねてみましょう。
当時、世阿弥の甥の音阿弥は、世阿弥を佐渡に配流した将軍足利義教の庇護のもと、都で華やかな活躍を繰り広げていました。音阿弥より七歳年下の禅竹は世阿弥の娘婿であり、伝書授与も受けている世阿弥の最後の弟子です。そして大和申楽の基盤にある翁舞の伝承については、禅竹の継承する円満井座がその本家筋であり、観阿弥・世阿弥の出た結崎座はむしろ新参の一座でした。将軍庇護という社会的な部分では大和申楽を牽引する観世座ですが、芸の伝承については円満井座が本筋です。
禅竹は世阿弥が発展させた芸の高さを、翁舞の原理を突き詰めることで更に高い所へ押し上げました。湘水を舞台としたのは中国の故事を踏まえたものでしょうが、山中に独居する僧の姿は大和に隠棲する禅竹の姿と重なると思います。
女は何を独りごちているのか
夜通し法華経読誦する僧のもとを訪れる女は、道すがら長々と言葉を連ねます。
この部分の大意は以下のようになります。
松吹く風が芭蕉に吹き落ち、葉を破ってしまいそう。
こんな寂しい山陰に住んでいる者がいるなんて誰も思わないから、 ずっと独りぽっち。友といえるのは岩や木だけ。
法華経の教えは深遠で、富貴の身とて簡単に得られるものではないのだから、 まして粗末な衣を着た私などには疎遠なもので、 ただ時が空しく過ぎてゆくばかりです。
「雪のうちの芭蕉」とは
女は僧と言葉を交し、非情の草木も成仏するという教えを授けられます。難解な法理を忽ち感取する女を僧は不審に思い、その正体を尋ねると、女は謎の言葉を残して帰って行きます。
私のことを、幸運にも仏の教えに出会った、 しかも滅多に受けられない人界を受けた者と思われることでしょう。 でも私は「雪のうちの芭蕉」として知られる偽りの姿でここにいるのです。
この「雪のうちの芭蕉」については、所の者として登場する間狂言が僧に語って聞かせます。
昔、芭蕉を好んだ唐の皇帝が、冬に芭蕉を見られないのを残念に思い、 摩詰と言う絵師に雪の中の芭蕉の姿を描かせました。 そのため「雪の中の芭蕉」と言えば偽りの象徴なのです。
所の者が去った後、夜通し法華経を読誦する僧の前に、先程の女人が舞人の姿で現われ、自分は芭蕉の女ですと名乗ります。
作者禅竹は山中に隠棲する僧ばかりでなく、芭蕉の女にも自分を投影していると思っていたのですが、どうもそればかりではないようです。
私はここには音阿弥の姿も重なるような気がします。強権を振るい「恐怖の大魔王」と言われる将軍義教の下、愛顧の猿楽師として栄華を重ねる音阿弥は、赤松満祐による将軍暗殺の場で舞台を勤めていました。私はこの暗殺計画を音阿弥が知らないでいたとは、どうしても思えないのです。芭蕉の女は、将軍に「偽りの姿」を晒しながら、秀れた舞台を続ける音阿弥の姿なのかも知れません。
さらにここには、後代自ら「芭蕉」と名乗った人の姿も重なりそうです。
芭蕉が幕府の隠密だったのではないかという説は、近来とみに支持されつつあるようです。芭蕉自身がその俳号について、能「芭蕉」との関連を全く口にしない理由もここにあるのかも知れません。
草木国土悉皆成仏
そのように裏に秘めた思いとは関係なく、いやむしろ裏に特別な思いがあるからこそ、芭蕉の精が舞う舞には、難解な絶対真理を表現すべく、言葉を尽すこととなります。
僧と言葉を交わした後、舞台中央に立ち尽してから始まる、芭蕉の精の舞の言葉(実際は地謡によって謡われます)の大意はこのようになります。
非情の草木というものは本来形を持たない真如が実体化したもので、 どんな微細なものの中にも仏体が宿っている。 そこで一つの花が咲けば、それが仏への捧げ物となり、 春の様々の色香になるように、全て実体は繋っている。 水際の楼台では月を一早く見ることができ、 日に向う花は早く花を咲かせる、 そういう自然の摂理を季節の巡りの中に知る。 秋になれば庭の荻原が風にそよぎ、 その風が散らせる花もないけれど、 芭蕉は葉がとても脆いもので、 露のように儚く破れてしまう。 思えばこの世も芭蕉の夢のように儚いもので、 悟りに入る道は多くあっても、 呆然と日々を送るばかりだ。
そのような思いを舞に託して、芭蕉の精は袖を返します。月が冴え冴えと照らして舞姿を映します。
そして言葉は消え、囃子の音楽による序之舞が延々と奏でられた後、芭蕉の精が描き出した諸々の実体の相は、一陣の風に吹き払われて、後には破れた芭蕉が残っている様が謡われて、長大な一曲が終ります。
羽衣とは
この最後の詞章の中に「久方の天つ乙女の羽衣」と自分を描写する言葉があります。私は「羽衣」という言葉を、舞によって寿福を与えようとする、世阿弥の思想の結晶の言葉と考えています。紅無の装束を着て、深井(ふかい、中年女性の面)の面を掛けたシテの姿が、「天つ乙女の羽衣」とはつながり難いのに、何故こういう言葉が出て来るのか、いつも疑問に思っていました。
この曲は世阿弥の作品の持つ華やぎや艶まで削ぎ落して、もっと枯淡の中に宇宙を表現しようとした曲です。確かにこれは禅竹独自の世界なのですが、一方で舞歌二曲(ぶがにきょく)で世界を表現し、見る人に寿福を与えようとする、世阿弥の思想を受け継ぐものなのです。