2017年8月22日火曜日

能と縄文

能と縄文

小泉保著『縄文語の発見』と
大島直行著『月と蛇と縄文人』
を読んで思うこと



能は室町時代初期に世阿弥を初めとする人々がデザインし、江戸時代中期に武士たちがその世界観を結集して完成したものですが、どこか古代の呪術に通じるところがあります。

一つは「言霊」がそれに当たりますし、また「歌舞の菩薩」もその一つです。

「言霊」は言葉には魂があり、発語する事が、現実の世界を動かす力を持っているという事です。例えば『羽衣』の天女が「いや疑いは人間にあり。天に偽りなきものを」と言えば、頑なな漁夫を「あら恥ずかしや・・・」と改心させて羽衣を取り返す事が出来ました。天上界に本当に偽りがあるかないかは関係ありません。

「歌舞の菩薩」は『杜若』で在原業平を評する言葉ですが、舞う事と歌う事によって現実世界から精神世界へ昇華する過程を表していて、世阿弥と七郎元能が遊楽の最重要課題としています。

そしてその呪術性の淵源を遡るならば、古墳時代や弥生時代ではなく、縄文時代まで行かざるを得ないと思います。縄文と弥生には表面上厳然たる文化の違いがありますが、そこに人種的な大変動が認められない以上、基本的な世界観は形を変えて受け継がれている可能性があります。

『縄文語の発見』では、縄文から弥生への変化の中で、大規模な民族の入れ替わりがない事を踏まえて、縄文語を列島固有の発生によるものとして論じています。この視点は私には心強いものです。独自な言語を生み出すのならば、そこには独自の文化があったはずです。

私がここで独自の文化としてあげたいのは、顔より小さな仮面とスリ足の舞です。現在の能が、世界中のあらゆる芸能と全く似ていない二つの要素が、この「顔より小さな仮面」と「スリ足の舞」だと思います。



顔より小さな仮面


世界中に様々な仮面劇があります。生身の人間では演じられない神や悪霊、精霊などを役者が演じる時、生身の身体では霊の憑依に耐えられません。そこで役者の肌を見えない様に覆ってしまい、仮面を用いれば憑依の危険を回避することができます。この場合大きな仮面を用いるのが普通の考えでしょう。実際世界の仮面劇は顔より大きな仮面です。能面のように顔より小さな仮面は、発生時の考え方が全く違っているはずです。大陸や半島に顔より小さな仮面の痕跡はありません。

一方、遮光器土偶の中には仮面の紐が明確に見て取れるものもあります。私は何も、遮光器仮面から能面への直線的な変容を主張しているのではありません。実際、古形を伝えていると思われる能面には大振りなものが多い様にも見えます。大陸伝来の舞楽面・伎楽面は明らかに顔より大きな仮面ですが、その影響を受けて猿楽の面が創作されているうちに、次第に顔より小さな仮面となって行ったのではないか、そう言う方向に向かわせる磁場が、仮面と言えば顔より小さなものなのだと言う認識が、縄文一万年の間にこの列島に形成されたのではないかと言うのです。


スリ足の舞


また、スリ足の発生を、私は縄文の語り部に求めています。全くの思い付きに過ぎませんが、反閇の運足法や水田の中での歩行法、或いは平安貴族の衣冠束帯姿での歩行法にその淵源を求めるより、説得力を持っている様に思います。

縄文における語り部の存在は、最初は無文字社会での知識の蓄積方法についての考察から始まりました。語り部と言うと、記憶力に優れた特殊能力を持つ特別な人が、何百と言う物語を記憶して語る姿を想像するかも知れません。しかしそれでは、物語の再現精度と伝承方法に限界があります。何百年も同じ物語を伝承する為には、大勢が言語に固有の音律を付けて朗誦する事が必要だと思われます。

実際、能の世界では二百番を超える演目を皆で暗誦しています。現代は文字の洗礼を受けて久しい為に、残念ながら完全と言う訳には行きませんが・・。そしてこれも能楽師の多くがやっているのですが、謡を覚える時には歩きながらブツブツ謡うのです。時に不審者と間違えられながらも、この方法を手放さないのは、歩行と記憶に相関関係があるからだと思います。

現在の能楽師は謡本を見ながらブツブツ言いながら歩いているのですが、縄文の語り部たちは既に暗誦を習得している、周りの人々とともに声を揃えて唱えながら、集中力を高めるように工夫された歩行法で歩きながら、物語を暗誦して行ったと思います。勿論それ以前にかなりの精度で聴き覚えてしまっていたこととは思います。

さてこの歩行法ですが、大昔は世界中が無文字社会でしたから、語り部たちはそれぞれの言語社会の中にそれぞれ存在していたと思います。記憶と歩行の関係が人間の生理的なものだとすれば、多くの社会で語り部たちの歩行暗誦が行われていたはずです。

しかし、スリ足が日本に固有のものとすれば、言語に固有の音律によるものでなければなりません。アクセントや長母音短母音の混在、子音の強調などの特徴がある言語ならば、跳びはねるような上下動がその音律に相応しいのだと思います。しかし、母音に重心を置き、アクセントをつけず、一音一音を均一な長さで繋いでゆく音律ならば、朗誦歩行も均一な動きになり、上下動を極力抑える方向に向かったのではないでしょうか。『縄文語の発見』では原縄文語にはアクセントがなかった可能性が大きいとされています。裏付けるという程ではありませんが、これは縄文の語り部たちの朗誦からスリ足歩行が生まれた可能性を少し高めていると思います。


『月と蛇と縄文人』


『月と蛇と縄文人』はその縄文の人々の世界観を探ろうとする本です。私などは、縄文についての断片的な知識を都合の良い様に引っ張ってきて、ああでもないこうでもないと言うのですが、考古学の学者が最新の発掘・研究の成果を元に、その精神世界を紐解こうと言うのですから、大いに耳を傾けたいところですし、実際この本から様々な啓発を受けました。

縄文の価値観の根幹には、死からの再生があります。人には必ず訪れる死。縄文人は其処からの再生を願っていました。そして生の全てを再生の為に捧げました。その象徴として第一に挙げられるのが月であり、蛇がそれに続きます。抑も縄文の縄目模様自体が、蛇の生殖の象徴であり、土器の形状や、竪穴式住居のあり様、集落の形など、生きる為のあらゆる事が再生の為の呪物だと言うのです。

死者の手足を折り曲げて甕棺に入れて埋葬したのは、胎盤を模していますし、墓も月に捧げる円形です。竪穴式住居がそのまま墓になっている事もあり、また、家を焼いて、その焼け跡に重ねて新しい家を建てている例もあるとの事で、一世代毎に家を建てていたのかも知れません。

縄文から少し離れますが、古代大和王朝に於いて、天皇が変わる度に新しい都を建設したのは、この縄文の哲学が習慣となっていたのではないかと思えます。

また、縄文が円の文化であるのに対して、列島に移住してこの地を支配した弥生の支配者たちが、四角即ち方の文化であったとすれば、円を後方に配置して、方を前方に置いた、前方後円墳は縄文から弥生へ移行する象徴的な姿とも見えます。


縄文の語り部


さてその縄文文化は、一万年に亘り継続されました。海に隔てられているとはいえ、周辺地域で農耕が始まってなお数千年もの間、農耕生活を拒否して、森と共に月に従いながら生き続けたのです。此処に森と共に全てを再生の為に捧げながら生きる為の哲学があったはずです。その哲学を人々に伝える儀式があり、その儀式の中核には芸能があったのではないでしょうか。

生命の誕生から死に至り、そして再生する世界の有様を、詩に作り声に託して、語り部たちは円く廻りながら朗誦しました。

晦日と朔日を含む三日間は夜は闇に閉ざされます。おそらくこの「死の三日」は、胎盤の象徴である竪穴式住居の中で、魔物から身を守る為に、声を出すのも憚りながら、静かに夜を過ごすはずです。

月が姿を見せ始めるにつれ、少しづつ儀式が増えて行きます。月が満ちて行く間は成長の時です。新しい学びや創造が積極的に行われ、満月の日に備えて力を蓄えます。

そして満月の夜こそ語り部たちの舞台です。円形に整えられた広場に人々は集い、円周をスリ足で廻りながら、先祖から語り伝えられた物語を朗誦します。四季の移り変わりにつれて、語る物語は変わったに違いありません。

物語によっては仮面を掛けたかも知れません。ある者は蛇になり、ある者は蛙になる。その他再生の呪物に相応しい様々のものに、自身を託して舞を舞うのです。自身が再生の呪物となる為ですから、己の顔の一部や肌は見えていなければなりません。顔より小さな仮面です。

語り部たちの舞の終わりは即ち衰退の始まりです。世界は死に向かって廻り始めます。力の満ち溢れた満月の夜、人々は再生の為に最も重要な生殖の儀式を行なったはずです。或は、出産即ち新しい生命の誕生も、この儀式の中で行われたかも知れません。

それからは衰退の日々です。死の三日に備えて、食料の確保、備蓄などの準備が主な仕事となります。この時期には新しい試みなどはせず、儀式も死の三日の直前まで行われないかも知れません。そしてまた、再生に備える三日の沈黙が訪れます。

ところで、言語の音律から偶々生まれたスリ足ですが、スリ足と言う行為には、特別の力が秘められていました。これは能を愛好している方ならば皆さん頷く事と思います。氣の循環に満たされ、体幹を鍛え、頑強な身体を作ります。語り部たちは他の人々よりも、健康で長生きの集団だったに違いありません。それによって一万年の伝承が可能になったのではないでしょうか。


語り部の変容


さて、時は移ります。何千年も拒み続けて来た農耕が、遂にこの列島にも入って来ます。

おそらく大陸で民族移動があり、一部の人たちがこの地へ入って来たのです。少しの揉め事はあったでしょう。しかし、移民たちは僅かな人数です。広大な森の中に生きる人々は、森の外の僅かな土地に農耕を許し、移民たちを受け入れます。しかし移民は増え続け、農耕地も広がります。森を切り開く人々も出て来ました。やがて閾値を超えると、青銅器の武器を駆使して、移民たちは内陸部に進出し、どんどん森を切り開いて行きます。争いを好まない縄文の人々は、森の精霊たちの魂を鎮魂し、農耕の民に土地を明け渡します。そして、どうせ明け渡すのならば、耕作の稔りの豊穣を地の神に祈り、儀式を捧げます。

更に時は移ります。農耕が広がり、國が作られ、その土地を治める者が支配者となります。

かつての語り部たちは、支配者の物語を語り、その正統性を人々に啓蒙する機関となります。國が争い、敗れた國の語り部たちは、抹殺されてしまったかも知れません。

更に時が移り、支配者は王となり、國は国となります。

天地創造から神々の國産み物語が創造され、英雄譚が加わって、語り部の物語が膨大になり、その能力の限界に迫る頃、大陸から文字が齎されます。最早語り部たちは不要となり、衰退して行きます。迫害を受けたかも知れません。しかし、元々森に生きていた者たちです。迫害を逃れ、深い谷に小さな集落を作り命を繋いで行きます。語り部の伝承の技術とスリ足の舞は、小さな集落の中で伝えられ、世代を繋いで行きます。

王権が確立し、語り部の事など忘れられてしまった頃、山間の隠れ里からスリ足の舞を伝承する人々は、芸能の民として歴史の舞台に登場します。私たちの知る歴史では、平安時代中期に当たります。


翁舞


観阿弥が起こした大和猿楽の一座である観世座は、春日大社の庇護に預かる大和四座の中の結崎座を母体としていました。その他、円満井座は金春座、外山(とび)座は宝生座、坂戸座は金剛座とそれぞれ母体となるざから名前を変えて一座が作られます。これは、大和四座が翁舞を伝承する座であり、その構成員の中の一部が、季節労働的に臨時の一座を組んで猿楽の興行に出て行ったため、その座長の姓から、名前がつけられた様です。

ところで翁舞とはどんな芸能だったのでしょうか。

猿楽より遥か昔から伝えられる舞、と言い伝えられる能の翁は、最初に千歳が勢い良く舞台を廻り、次いで翁が言祝ぎの言葉を述べた後、静かに舞台を廻りながら、要所で地鎮めの足拍子を踏みます。この役は特別に歳を重ねた長老によるものとされていました。次に三番叟が登場し、揉之段を力強く舞い、最後に黒い尉の面を掛けて鈴之段を、鈴を鳴らしながら田植えの所作などを交えて何回も舞台を廻ります。

これは縄文の語り部たちが農耕の民に土地を明け渡し、農耕の民の為に豊穣を祈る儀式を源流としている様に見えます。或いは三番叟は、農耕民から出たのかも知れません。

能には様々な謎が秘められていますが、その中に農民が登場しないと言う事があります。室町から現代に伝えられる二百以上の演目の中に、農民は唯の一人も登場しません。大和猿楽の母体となる芸能の民が、私の考える様な淵源による存在であったならば、その謎の一つの答えになるのではないでしょうか。


最後に


最後に、四本柱について考えてみましょう。円の縄文に対して、弥生文化が方を重んじるものであった可能性は高い様に思われる事は、先に前方後円墳を例に挙げました。森であった土地を農耕に明け渡す儀式について考えてみます。

東西南北を定めない縄文の舞に対して、田畑を方形に作る弥生の人々は、東西南北に従って土地を方形に定めなければなりません。かつての森であった土地の霊を治める為に、四方を定めるに相応しい神木を森から選び出し、御柱として土地に立てました。

聖なる土地に立てた四本柱の中は神域となり、その神性は儀式によってその外へ流れ出て行きます。陵墓においては、前方に方を作り、後方に円を収めましたが、儀式の舞台は、円を内に取り込みつつ森の力を集約する神木の四本柱で方を定めました。やがて大陸から伝えられた雅楽が律令の式楽となるに至って、その寸法が翁舞にも当てはめられる様になったのではないでしょうか。

それならば、現在能舞台で四本柱の外側に設けられている、地謡座、横板、橋懸りなどの装置は何を淵源としているのか、また、鏡板、鏡の間とある鏡の重要性はどこから来ているのか、まだまだ色々な謎が残されていますが、それはまたの機会に考えてみたいと思います。




2017年8月15日火曜日

秋の催しのご案内

異常気象が常態となり
多くの災害には心痛められます
皆様のご健勝をお祈り申し上げます

この秋の催しをご案内申し上げます。遠方のものもございますが、ご旅行を兼ね、日本の美しさに思いをはせていただけましたらと存じます。

十月八日(日)井上内親王生誕千三百年祭
  新作能「斎王」         於 奈良県五條市・御霊神社本宮
  http://ow.ly/cFQx30eqbk7

十月十一日(水)近世能装束の世界「用の美」
  特別公演「装束付」と「羽衣」 於 愛知県田原市・華山会館
  http://ow.ly/qnFZ30eqbs2

十月十二日(木)第八回翡翠能楽らいぶ「いにしえ人の息づかい」                於 箱根翡翠
  http://ow.ly/nyHS30eqbxE

十一月十二日(日)観世九皐会十一月例会
  能「熊坂 替之型」                       於 矢来能楽堂
  http://ow.ly/9PIs30eqbBs

先日縄文関係の本数冊とたて続けに出会い、縄文について色々考えています。スリ足の起源は益々縄文の語り部たちにあるように思えてきました。そして現代の私たちは生活や経済と宗教や芸能を別々のものと考えていますが、縄文人にその区別はなく、全ての人が神に仕えて命を育んでいたのだと感じています。狩りも土器や土偶の製作も祭りも、家もお墓も皆一つだったようです。

そしてそんな縄文の人々の世界を今に届けているのが、芸能民たちによって形作られ、武士によって完成された能だと言うことを面白く感じます。その道に導かれて今ある自分を再確認しています。

平成二十九年八月吉日
中所宜夫


お申込み・お問合せは、各チラシの記載先へお願い致します

九皐会十一月例会「熊坂 替之型」


今年は九皐会で二番のお役を賜わりました。十一月に「熊坂」を「替之型」の小書付きで致します。

内弟子修行を終えて、独立後九皐会で最初に舞った曲が「熊坂」でした。六月に致しました「賀茂」と同様、若い時の演目にひとまわりしてもう一回挑戦致します。

「初心忘るべからず」は世阿弥の言葉ですが、世阿弥はさらに「時々の初心」と言っています。年を取ったら取ったなりの演じ方があると言う意味だと思います。

どんなに若いつもりでいても、所詮若い時と同じように動き回ることはできません。しかしその年まで修行を怠りなく続けていれば、その年でなければ表現できないものがあるはずです。

実際は六十三歳だったと伝えられる熊坂長範を、還暦目前で致します。秋も深まりつつある頃の一日、矢来能楽堂へお出かけくださいますよう、お願い申し上げます。

「熊坂 替之型」について

牛若丸が金売り吉次に同行して平泉へ向う途中、美濃国赤坂宿で盗賊を退治した話は、義経記に見えます。それを元に能に仕立てられた本曲ですが、独特の頭巾を被った異様な面持ちの後シテに対し、前シテはワキと同じ僧です。僧が僧に供養を頼むと言う、少々おかしな設定なのが、かえって後半への伏線になっているようです。

長刀を得物とする僧兵にあふれていた中世。その中の傑出した誰かを牛若の故事に託して、この曲の作者は舞台に再現したのだと思います。




お問合せ・お申込みは中所宜夫能の会へお願い致します。
TEL&FAX   042-550-4295(なかしょ)
Email       nakashonobuo@nohnokai.com

第八回翡翠能楽らいぶ








恒例となりました東急ハーヴェストクラブ箱根翡翠能も今回で第八回となりました。昨年に引き続き、幸流小鼓方の飯田清一師をお迎えして、二人での「らいぶ」をお楽しみいただきます。

今年は、期せずして観阿弥に焦点を絞った番組になりました。詳しくはチラシをご覧ください。

翡翠の会員制ホテルらしい落ち着いた佇まいの中での能楽らいぶと、美味しいお料理、極上の温泉をお楽しみいただく、贅沢な一夜は如何でしょうか。


観阿弥について

子の世阿弥と共に能楽の大成者とされる観阿弥清次は、大和猿楽の結崎座から出て、観世座を起しました。伝統的な猿楽に様々な工夫を加え、将軍義満を始めとする多くの賞賛を集める中、五十一歳の時、駿河国浅間神社での演能の後、同所で亡くなります。出自は伝説に包まれ楠正成の血縁との説まであり、また突然の死も謎に包まれています。

二人らいぶで採り上げた『自然居士』は観阿弥の代表作です。庶民ばかりが登場し、話し言葉がそのまま使われていて、その声や息遣いが聞こえるようです。観阿弥がどのように一座を切り開いたかを想像しつつ、当時の芸能者の心に迫りたいと思います。



お申込みの際には、中所からの案内と仰って下さい。
会員料金でのご宿泊となります。
ご希望の方はお早めに御予約ください。

近世能装束の世界「用の美」展



京都の山口能装束研究所の山口憲(あきら)さんは、江戸時代の能装束の研究と現代への復原制作をなさっています。

今回の「用の美」展は、江戸時代の能装束の現物を多く展示し、その真髄を感得する又とない機会です。講座や解説のある時にお話を聞けば、能装束の素晴しさのみならず、能そのもの、また能を完成させた武士たちの真実の姿にも触れることができます。私も能楽師でありながら、山口さんとお会いするたびに、能の素晴しさを改めて知らされます。

期間中十月十一日(水)には、その展示装束を使った「装束付」と能「羽衣」の一部実演がございます。
「装束は使ってこそのもので、展示するものではない。能役者が身につけて舞うことによって、その美しさは完成される」
と山口さんは常にお話しされます。能装束の「用の美」の実際を、私の舞でお伝えできることを願っております。


井上内親王生誕千三百年記念


我が家の稽古舞台の老松を描いてくださった日本画家の杉本洋さんが、この五年に亘り企画監修されている、御霊(ごりょう)神社の千三百年祭。私は、ご祭神の井上内親王の能「斎王」の製作を依頼されました。

これまで宮澤賢治、中原中也、石牟礼道子などの詩人の作品に触発されて、能の新作を手掛けてまいりましたが、今回は全て自分の言葉で一曲の能を組み上げました。怖れもありますが、能でなければできない仕事なのではないかと思います。心して舞台に臨みたいと思います。


新作能「斎王」について



井上内親王は聖武天皇の第一皇女で光仁天皇の皇后となりましたが、政争に破れる形で非業の死を遂げ、その後の災厄が祟りによるものとされました。御霊神社に祀られ鎮められた御霊ですが、千三百年祭にあたり、今の日本の窮状を助けていただこうと思います。何故、四十代半ばでの皇太子出産が可能だったのか、何故、皇太子と同じ日に亡くなったのか、これらの疑問に応える形で、出産、子育ての守り神としての姿を舞台で再現したいと思います。

中所宜夫


会場が非常に狭く、百五十席がいっぱいの見所です。
ご希望の方はお早めにお申し込みください。

2017年6月4日日曜日

『弱法師』物語〜〜慶昌寺花まつり能楽らいぶの為に〜〜

本日は恒例となりました花まつり能楽らいぶにお越し下さり有難うございます。今年は『弱法師』と云う曲を取り上げて、一曲を通して見て頂こうと思います。
さてこの弱法師と云う曲ですが、多くの物語を秘めている曲で、今日は私の思いついた物語を皆さまにお話しして、その後で一曲を通して演る事に致します。

先づ粗筋をご紹介しましょう。
摂津國高安の里の高安通俊が登場し、さる人の讒言で追い出した子の安楽を供養する為に、天王寺で七日間の施行をすると語ります。
次に盲目の少年が登場し、身の上を語ります。
出で入りの月を見ざれば
明け暮れの
夜の境を得ぞ知らぬ
難波の海の底ひなく
深き思ひを人や知る
此処で少し不思議な事を言い出します。
それ鴛鴦の衾の下には
立ち去る思いを悲しみ
比目の枕の上には
波を隔つる愁ひあり
鴛鴦も比目も仲の良い夫婦の象徴です。この後も「鳥や魚でさえそうであるのに、心あるように見える人間に生まれても、何かが私たち夫婦を引き裂いてしまうのではないかと、不安でつらい年月を送って来ました。」と続きます。盲目の少年と言いましたが、どうやらこの人には奥さんがいるようです。実際この曲が作られた当時は妻役のツレが登場したようです。
さてこの人、「讒言によって不孝の罪を着せられ、色々思い悩むうち眼を患い盲目となってしまいました。死んでから行くはずの幽冥界に似た暗闇を、生きながらさ迷っているのです。」と嘆くのですが、その様な逆境の中、「本来人の心には闇などなく、例えば玄宗皇帝に楊貴妃との不義を疑われた一行阿闍梨が果羅國へ流され、暗闇の道を抜けなければならなかった時には、九曜の曼荼羅が光を放って行先を照らしたと聞いています。」と佛道に救いを求めています。天王寺西門の石の鳥居に行き当たり禮拝したりしながら、雑踏の中を施行の場所にやって来ます。
通俊は弱法師に「や!ここに施行を受けに来たのは、ひょっとしてあの弱法師と言う者かな」と声をかけます。当時盲人が杖をつきながら天王寺の縁起を曲舞に舞う、弱法師と言う人々が話題になっていた様です。一方弱法師は軽妙に受け答え、通俊をやり込める一幕もあります。梅の花が散りかかるのも天からの施行の様だと感嘆しながら、通俊は弱法師に炊き出しを与えます。
誤ちを悔いて施しをする者、運命から盲目となりながらも理知を失わず勤めを果たす者、二人を祝福する様に梅が散りかかります。美しい場面です。
続いて天王寺縁起の曲舞が弱法師によって語られます。鐘の音が響きわたると、人々の信心が満たされ、辺りの情景が皆佛様の化現の様に輝いています。
その時突如として通俊は目の前の弱法師が、自分の子どもである事に気がつきます。此処で直ぐに名乗らないところが能の常道なのですが、「人目も流石」と言う事で「さあ、日想観を拝んで下さい。」と声をかけます。
日想観・・・。謎です。唐突です。
先づ仏道の行法として、入日を思いながら観想する方法があるそうなのです。天王寺固有の行法と言う話もあります。また、盲目の弱法師の芸の一つとして「日想観の狂い舞」と言う演目があったのかも知れません。
兎に角日想観はやがて一頻りの狂い舞となり、「思えば恥ずかしい事。もう狂うのは止めにしよう。」と、弱法師が舞い収めた時には、すっかり夜になって、人もいなくなっていました。遂に通俊は声をかけ、お互いに名乗りをして再会を果たします。鐘の音が再び二人を祝福する様に響き、夜が明けないうちに此処を離れましょうと、二人は連れ立って高安の里へ帰って行きます。
以上、大変長くなりましたが、『弱法師』の粗筋でした。

さて『弱法師』の作者と目されるのは観世十郎元雅と言う人です。一般的には世阿弥の長男とされています。此処から先は私の創作した物語です。学問的な裏付けは特にありません。

世阿弥の後を引き継いで観世大夫となった十郎元雅ですが、実は彼には兄がおり、元々はその兄が世阿弥の後を継ぐはずの人でした。その名を七郎元能(もとよし)と言います。
芸もそこそこに優れていた元能ですが、その傾向は演技を抑制し、スリ足を基本とする舞の美しさを目指す、玄人好みなものでした。その一方、何より創作の才は並外れていて、多くの優れた作品を作っています。後代世阿弥の作品と伝えられたものの中には、この人の手になるものが案外多いのです。
世阿弥の後継者としては、もう一人少し年長の三郎元重がいました。彼は役者としては七郎に勝る花を持っていて、技のキレや、演技力、そして舞の華やかさ等では抜きん出た存在でした。
しかし元重は創作では元能に及ばず、子どもの時には二人並んで世阿弥から作品作りを指導されたにも拘らず、役者として名を上げてからは全く曲作りをしていません。
元能には幼い頃からの恋仲の娘がおりました。とても美しい娘で、二人の仲を知りながら、この娘に想いを寄せる者も少なからずおりました。その中に、仏門にありながら、身分高い生まれを誇り、恣意を押し通そうとする一人の僧がおりました。名前を義円と言います。
義円は室町幕府の三代将軍義満の子です。優れた頭脳を持っていましたが、容貌に難があり、長男で義満の後を受けて四代将軍となった義持や、四男で一旦は出家したものの父に愛され還俗して華々しく活躍する義嗣を、嫉視しながら年月を重ねていました。
田楽や猿楽に限らず芸能を好んだ義円は、元能の幼馴染であり、曲舞の優れた舞手として注目を集め始めた件の娘を何かの折に見知り、出家の身ながら恋慕を寄せます。
義円は多くの芸能者を観て回り、世阿弥の舞台を特に高く評価しており、その後継者たちにも目を配っていました。父義満が、田楽の亀阿弥や観阿弥、さらには近江猿楽の犬王道阿弥を見出して、彼らを育てたのと同様に、政治の世界に出られない彼は、芸能の世界で自らの存在を示そうとしていたのです。
三郎元重、七郎元能、どちらも優れた才能と観ていた義円でしたが、その好みは圧倒的に華やかな芸風の元重に傾いていました。世阿弥が元重よりも元能に重きを置いている事に、常々不満を抱いていた義円は、何かと元重に肩入れしていましたが、自分の想いを寄せた娘が元能と恋仲である事を知ると、元重に働きかけて娘と元能の仲を裂こうとします。
実際にどんな事があったのでしょう。義円と元重は、世阿弥に元能の非道を訴え、世阿弥はこれを信じて元能を一座から放擲します。
世阿弥が真実に気づき、元能を探し出した時には、元能は眼を患い、完全ではなかったとは思いますが、視力の大半を失っていました。世阿弥の後継者として一座を率いて行くには難しい状態です。世阿弥は義円を深く恨み、それに加担した元重を責めました。
折しも五代将軍義量が、将軍就任僅か二年の十八歳で亡くなると、大御所として政治の実権を握っていた義持は、次代の将軍を決めかねた様子で、一年二年と年が流れ、各有力大名たちは自分の息のかかった者を将軍に据えようと躍起になって活動を始めます。その中には義円も含まれています。
世阿弥はこの事態を憂慮しました。ただでさえ芸能界に影響力を持っている義円を敵に回している現状の上に、もし義円が次期将軍にでもなってしまったら一座ごと破滅への道が待っています。義満に嫌われて破滅した芸能者たちを、実際に目にしていた世阿弥にとって、これは大袈裟な話ではありませんでした。
過ちを犯したとはいえ、世阿弥にとって元重は、自分の芸を継ぐ後継者である事には変わりません。元重とて世阿弥に意趣がある訳ではなく、子どもの頃から芸を研鑽して来た元能を、不自由な身体にしてしまった事には、殊更深い負い目を抱いていました。
元重は世阿弥に呼び出されて話を聞かされます。
「この先もし義円が将軍になる様な事になれば、観阿弥から受け継いで来た大和猿楽の芸が廃れてしまう事にもなりかねない。三郎は一座を離れて義円の下に庇護を乞いなさい。幸い十郎元雅は、まだ年少だけれども、芸にも創作にも頭角を現わして来ている。お前には教える程の事は伝えた。これからは十郎を育てる事にこの後の命を使おうと思う。」
元重は不本意ながら、この世阿弥の言葉に従います。

一方、世阿弥の元に戻った元能は、奈良の結崎座に移り、一座の子どもや若手の役者たちに稽古をつけたり、作品を創作したりしていました。中でも弟の十郎元雅は、役者としても非凡な才を示し、創作についても指導する元能が感心する程のものを作っていました。
ある日元雅が自分の作品を元能に謡って聞かせました。天王寺で日想観の狂い舞をする弱法師は、紛れもなく自分の姿です。描かれている自分のすがたは些か面映ゆいものの、狂い舞の言葉の美しさ、音曲の巧みさ、劇的な面白さ、どれも第一級の出来栄えで、観世座後継者としての元雅の器量を十分に示したものでした。
「しかし、これは危うい。あまりにも義円の横暴をあからさまに指し示している。
この話を今流行りの俊徳丸の物語に移し変えてはどうだろう。ワキの天王寺の僧の傍に、施行主然として高安通俊を座らせておいて、最後の最後に名乗りをする、観ている人はあの俊徳丸の物語だったと種証しをされる事になる。
弱法師が、興行主の横暴から恋人と別れ別れとなる部分は、『砧』で使った鴛鴦と比目の成句を持って来よう。中国の故事に、宋の康王が仲の良い夫婦を引き裂いた物語がある。でも鴛鴦は普通に仲の良い夫婦の例えだし、其処まで思う人はそう多くはないだろう。ツレの女を出すのもやめた方が良い。
そして世阿弥の作った天王寺縁起の曲舞を入れればより重厚な体裁になる。」

以上、私の思う『弱法師』誕生の物語です。世阿弥はこの作品を手ずから書き留めています。処でこの作品は最初にお話しました現行の『弱法師』とは違っています。世阿弥自筆本は、確かに残されていますが、現行版に比べると、誰だかわからない通俊が最初から舞台に登場していたり、最後の種明しの仕掛けが、二度目の観客には通用しないなどの不備があって、実際にはそれ程上演されなかったのではないでしょうか。いつの頃か、その詞章の美しさを惜しんで、誰かが現行の仕立てに改作したのだと思います。