九月の緑泉会で『三輪』を舞います。
平成十年に舞って以来、二十七年ぶり二回目となります。神話の世界を描いて人気の曲にもかかわらず、長い間再演をしなかったのは、この曲の「わからなさ」にあります。前段の渋さから一転しての、後段の燦びやかさ。この対照が今ひとつ理解できずに、再演候補に上がらないまま年月が流れました。一曲の最後に「思へば伊勢と三輪の神、一体分身【ふんじん】の御事」と、腑に落ちないことを言っているのも、その対照性を呑み込む妨げでした。
ところが田中英道先生(この四月三十日にご逝去なさいました。謹しんでご冥福をお祈り申し上げます。)の提唱された「秦氏ユダヤ人説」を知り、最初は否定的に感じていたのですが、可能性として充分あり得る、むしろそうであれば色々納得もいくと考え始めると、この曲をもう一度舞ってみようという思いになりました。
観世流ではこの曲を一種特別の曲としていて、「白式神神楽【はくしきかみかぐら】」「誓納【せいのう】」など一子相伝とされる重い小書があります。今回は小書ナシの演能ですが、そのような特別さを常は隠しておくことも、能らしさの大きな側面だと思います。
まだまだ暑さの残る頃の演能かとは思いますが、能『三輪』の世界を味わうひと時を、是非能楽堂でお過しください。
『三輪』について
この曲に私が抱いていた違和感は、前段の仏教的で墨絵のような世界と、後段の神道的で光に満ちた世界とが、どうしてつながるのかが腑に落ちなかったところから来ていました。本地垂迹に従えばつながるのは当たり前なのかも知れません。しかしそれならば曲の終りに「思へば伊勢と三輪の神、一体分身の御事」と結んでいて、これは神と仏の話になっていないのが不審です。後段に女姿で登場しながら、クセ舞の部分では、男姿で通ってきた三輪の神の説話を舞うことも不思議です。作者は世阿弥とされています。作能にあたって「本説正しい」ことを大切にした世阿弥ですから、これらにはそのように作る必然性があったのだと思います。
ワキの玄賓【げんぴん】は奈良から平安にかけて実在した僧です。天皇の病気平癒を祈願祈祷しながら報奨を固辞した事績のためと思われますが、五百年後の中世の頃には権力に交わらない清貧の僧として、説話集に取り上げられるような人気の人物でした。案山子が山田の案山子と呼ばれるのも、玄賓が山田から害獣を追い払って山田の僧都と言われていた故事からきています。『三輪』の中にも「山田守る僧都の身こそ悲しけれ」という詞章があります。
その玄賓のもとに毎日手向けの水を運ぶ女がいて、その女が寒さを凌ぐための衣を玄賓に乞うのですが、清貧の僧に衣を乞うというのも、不思議なことです。しかも平安初期の説話集には、玄賓が女から衣を与えられて、「三輪川ノ渚ノ清キ唐衣クルト思ナヱツトオモハジ」と歌を詠んだ話があります。能では玄賓が女に衣を与え、神からの歌として、これに似たような歌が示されています。
三つの輪は清く浄きぞ唐衣くると思ふな取ると思はじ
江戸時代の能の注釈書である「拾葉抄」には、「此歌を三輪【さんりん】清浄の偈とも又は三輪空寂の布施とも云ふなり。三輪空寂とは施者・受者・施物此の三を三輪と云ふ。空寂とは施す人も受くる人も何とも心に思はず、無心なる處を空寂と云ふなり。此心をくると思ふな、えつと思はじとの神詠なり。」とあるそうです。この三輪空寂の教えは布施についての教えですので、「みわ」と「さんりん」を交錯させて、説話集からワキを玄賓僧都としたのでしょう。
その仕立ての中から世阿弥は神話の世界へ舞台を広げます。
神木に止まる衣に金色の神詠を認めた玄賓の頭上に、妙なる声が響きます。それは意外にも罪業を救って欲しいという神の言葉でした。しかもその罪の意識は衆生済度の方便のためだと言うのです。女姿で玄賓の前に現れた三輪の神は、巫女の姿を借りて、その子細を物語ります。
方便の中にも歌の力、即ち言葉の力を第一に上げます。「しかるにこの敷島【しきしま】は、人敬って神力増す。」と謡われる敷島とは和歌の道のことです。世阿弥作の能ではしばしば和歌が、物語を引き出す媒介となっています。
次に神が方便のために人の世、即ち「五濁の塵」に交わったお話として、三輪の里に年久しく暮した夫婦の物語が語られ、後シテの女神はこの物語をクセ舞で舞います。更に、神代の物語となり天の岩戸の子細が語られます。ここで「神楽」の囃子となって、女神は神楽を舞います。世阿弥の作品には「歌舞の菩薩」という言葉がしばしば出てきます。これは世阿弥が、歌と舞によって人々を救うことを目指していたからに他なりません。神楽は「プ、ポン、プ、ポン、・・・」と小鼓が刻み続ける上に重ねて演奏されますが、これは神を召喚するリズムであり、序から破、急と進んだ末に、急に曲調を変えて神舞になります。すなわち神が下りて神そのものが舞っているのです。
もともと女神である後シテですが、岩戸隠れをした天照大神を呼び出すための舞を真似て見せているために、巫女姿で神を召喚する舞を舞うわけです。
この時、三輪の神が天照大神を演じているのですが、ここで地謡によって「思へば伊勢と三輪の神、一体分身【ふんじん】の御事、今更何と磐座【いわくら】や。」と謡われます。
神道に少し通じた人であれば、三輪は大和の国津神系なのに対し、伊勢は外来の天孫系だと考えて、この詞章には疑問を持たれるのではないでしょうか。私もそのように考えていました。この曲を再演しなかった大きな原因のひとつです。
ところが田中英道先生の、失われたユダヤの十支族が、時を違えて日本列島にやってきた、という説に従えば、伊勢と三輪の神が一体であることに疑問はありません。しかも田中先生は秦氏もユダヤ系の一支族だと主張されています。『風姿花伝』の「第五神儀の伝」で、聖徳太子が秦河勝に命じて舞を舞わせたのが、申楽の始まりであり、その伝承を担ったのが金春氏であると説明されています。また観阿弥、世阿弥も秦氏を名乗っていますので、この伝承の系譜に連なっています。
世阿弥はこの曲によって、一般に流布している内容とは異なる一族の伝承を形にして残したのです。先に見たように「みわ」と「さんりん」を交錯させて、当時の人気キャラであった玄賓僧都をワキとして登場させ、衣の布施の方向を入れ替えたのも、異説であることの象徴として仕立てたのだと思います。
さてその上で、世阿弥がこの曲を作った動機、一族の伝承を曲として残そうと思ったきっかけとはどのようなものだったのかを、考えたいのですが、さてさて何か見つかるのでしょうか。ともあれそのようなことを思いつつ、本番に向けて稽古して行きたいと思います。
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