2024年7月19日金曜日

「芭蕉」ご案内

 


九月二十九日(日)に緑泉会例会で『芭蕉』を致します。

この曲は世阿弥の娘婿である金春禅竹の作品で、幽玄の能の極致にある一曲と言ってよいと思います。


禅竹は、世阿弥の幽玄の世界を最も高い位に押し上げた人です。都で活躍する音阿弥に対し、奈良で能の真価を極めようとしていた禅竹が、「草木国土悉皆成仏」(自然界の物には全て仏性が宿っている)を舞で表現しようとしたのがこの曲です。

現代で芭蕉といえば、ほとんどの人が俳聖芭蕉を思い浮べるでしょう。私は芭蕉が芭蕉と号する背景に、能『芭蕉』は大きくかかわっていたと思います。

芭蕉は、住む庵に立派な芭蕉があり、弟子たちがその庵を芭蕉庵と呼んだことを受けて、芭蕉と号したということですが、式楽(儀式の時の音楽。江戸幕府は武家諸法度で能を式楽に定めた。)の中で高く評価される『芭蕉』を、武士出身の身で知らなかったはずはありません。

茫洋とした存在感はあるものの美しい花を咲かすでもないこの植物に、至高の美を託した本曲が、『遊行柳』『杜若』など草木の精がシテとなる他の曲と異り、どの歌人とも結びついていないことも、芭蕉の意に叶ったのだと思います。


これからの過酷な夏を経ての当日の舞が、どのようなものになりますか、是非能楽堂でお確かめ下さい。




「芭蕉」について


「芭蕉」という曲のあらすじについては、チラシにも書きましたので、それをお読みいただきたいと思います。

その後、稽古してゆく段階で新たに気づいたこともありすので、少し書いてみたいと思います。


金春禅竹について

舞台は唐土楚国、湘水(しょうすい)の山中に、ひとりひたすら法華経を読誦する僧の庵です。

この舞台設定を作者金春禅竹に重ねてみましょう。

当時、世阿弥の甥の音阿弥は、世阿弥を佐渡に配流した将軍足利義教の庇護のもと、都で華やかな活躍を繰り広げていました。音阿弥より七歳年下の禅竹は世阿弥の娘婿であり、伝書授与も受けている世阿弥の最後の弟子です。そして大和申楽の基盤にある翁舞の伝承については、禅竹の継承する円満井座がその本家筋であり、観阿弥・世阿弥の出た結崎座はむしろ新参の一座でした。将軍庇護という社会的な部分では大和申楽を牽引する観世座ですが、芸の伝承については円満井座が本筋です。

禅竹は世阿弥が発展させた芸の高さを、翁舞の原理を突き詰めることで更に高い所へ押し上げました。湘水を舞台としたのは中国の故事を踏まえたものでしょうが、山中に独居する僧の姿は大和に隠棲する禅竹の姿と重なると思います。


女は何を独りごちているのか

夜通し法華経読誦する僧のもとを訪れる女は、道すがら長々と言葉を連ねます。

この部分の大意は以下のようになります。


 松吹く風が芭蕉に吹き落ち、葉を破ってしまいそう。

 こんな寂しい山陰に住んでいる者がいるなんて誰も思わないから、 ずっと独りぽっち。友といえるのは岩や木だけ。

 法華経の教えは深遠で、富貴の身とて簡単に得られるものではないのだから、 まして粗末な衣を着た私などには疎遠なもので、 ただ時が空しく過ぎてゆくばかりです。


「雪のうちの芭蕉」とは

女は僧と言葉を交し、非情の草木も成仏するという教えを授けられます。難解な法理を忽ち感取する女を僧は不審に思い、その正体を尋ねると、女は謎の言葉を残して帰って行きます。

 私のことを、幸運にも仏の教えに出会った、 しかも滅多に受けられない人界を受けた者と思われることでしょう。 でも私は「雪のうちの芭蕉」として知られる偽りの姿でここにいるのです。

この「雪のうちの芭蕉」については、所の者として登場する間狂言が僧に語って聞かせます。


 昔、芭蕉を好んだ唐の皇帝が、冬に芭蕉を見られないのを残念に思い、 摩詰と言う絵師に雪の中の芭蕉の姿を描かせました。 そのため「雪の中の芭蕉」と言えば偽りの象徴なのです。


所の者が去った後、夜通し法華経を読誦する僧の前に、先程の女人が舞人の姿で現われ、自分は芭蕉の女ですと名乗ります。

作者禅竹は山中に隠棲する僧ばかりでなく、芭蕉の女にも自分を投影していると思っていたのですが、どうもそればかりではないようです。

私はここには音阿弥の姿も重なるような気がします。強権を振るい「恐怖の大魔王」と言われる将軍義教の下、愛顧の猿楽師として栄華を重ねる音阿弥は、赤松満祐による将軍暗殺の場で舞台を勤めていました。私はこの暗殺計画を音阿弥が知らないでいたとは、どうしても思えないのです。芭蕉の女は、将軍に「偽りの姿」を晒しながら、秀れた舞台を続ける音阿弥の姿なのかも知れません。


さらにここには、後代自ら「芭蕉」と名乗った人の姿も重なりそうです。

芭蕉が幕府の隠密だったのではないかという説は、近来とみに支持されつつあるようです。芭蕉自身がその俳号について、能「芭蕉」との関連を全く口にしない理由もここにあるのかも知れません。


草木国土悉皆成仏


そのように裏に秘めた思いとは関係なく、いやむしろ裏に特別な思いがあるからこそ、芭蕉の精が舞う舞には、難解な絶対真理を表現すべく、言葉を尽すこととなります。

僧と言葉を交わした後、舞台中央に立ち尽してから始まる、芭蕉の精の舞の言葉(実際は地謡によって謡われます)の大意はこのようになります。


 非情の草木というものは本来形を持たない真如が実体化したもので、 どんな微細なものの中にも仏体が宿っている。 そこで一つの花が咲けば、それが仏への捧げ物となり、 春の様々の色香になるように、全て実体は繋っている。 水際の楼台では月を一早く見ることができ、 日に向う花は早く花を咲かせる、 そういう自然の摂理を季節の巡りの中に知る。 秋になれば庭の荻原が風にそよぎ、 その風が散らせる花もないけれど、 芭蕉は葉がとても脆いもので、 露のように儚く破れてしまう。 思えばこの世も芭蕉の夢のように儚いもので、 悟りに入る道は多くあっても、 呆然と日々を送るばかりだ。


そのような思いを舞に託して、芭蕉の精は袖を返します。月が冴え冴えと照らして舞姿を映します。


そして言葉は消え、囃子の音楽による序之舞が延々と奏でられた後、芭蕉の精が描き出した諸々の実体の相は、一陣の風に吹き払われて、後には破れた芭蕉が残っている様が謡われて、長大な一曲が終ります。


羽衣とは

この最後の詞章の中に「久方の天つ乙女の羽衣」と自分を描写する言葉があります。私は「羽衣」という言葉を、舞によって寿福を与えようとする、世阿弥の思想の結晶の言葉と考えています。紅無の装束を着て、深井(ふかい、中年女性の面)の面を掛けたシテの姿が、「天つ乙女の羽衣」とはつながり難いのに、何故こういう言葉が出て来るのか、いつも疑問に思っていました。

この曲は世阿弥の作品の持つ華やぎや艶まで削ぎ落して、もっと枯淡の中に宇宙を表現しようとした曲です。確かにこれは禅竹独自の世界なのですが、一方で舞歌二曲(ぶがにきょく)で世界を表現し、見る人に寿福を与えようとする、世阿弥の思想を受け継ぐものなのです。



2023年10月27日金曜日

『遊行柳』のご案内

 


ご挨拶

酷暑一転して秋の風の身に沁む頃となりました

皆様にはご健勝でお過しのことと存じます


今年最後の能は、師走も半ば十二月十七日(日)の緑泉会での『遊行柳』となります。十月の『實盛』に続き、ワキに遊行上人を配する大曲です。

この曲は、世阿弥の甥にあたる観世小次郎信光の作品です。応仁の乱後の混乱した時代に活躍した信光は、『船辨慶』『紅葉狩』など今も人気の高い、劇性の秀れた能を多く創作しています。その信光が晩年になって、世阿弥の確立した幽玄の能への回帰を提唱したのがこの『遊行柳』です。

当時早くも難解と思われた世阿弥の作品に対して、信光はいわば「幽玄の世界」への手引きとしてこの曲を作ったとも言えるでしょう。

現代において、その試みが有効かどうかは微妙ですが、私自身は、作者の信光とともに世阿弥の本道を尋ねてみようと思います。どうぞ皆さまも、共にその世界を味わってみてください。


『遊行柳』について


みちのくを旅する遊行上人を呼び止めて、「昔の遊行上人はそちらの新道ではなく、こちらの古道を通りましたよ」と案内した老人は、古塚の上の柳を西行が歌に詠んだ名木と教えます。

名木の柳は、水流から離れた川岸に朽ち残り、蔦葛が這いまとって苔に覆われています。その古びた有様を二人は愛でています。

この曲の作者観世小次郎信光は、応仁の乱後の荒れ果てた世に、人々に楽しくわかり易い能を提供したのですが、晩年に至り、目先の面白さや表面的な美しさに走る風潮に抗い、この曲を作ることで、再び幽玄の世界へ人々を誘っています。
「古臭くて難解だけれども、能は能として味わってみてください。」
と、まるで現代の私たちに向けて、信光が語っているようです。

後段に古塚から現れた老いた柳の精は、遊行上人の念仏によって成仏の道が開けたことを喜び、クセ舞、太鼓入りの序之舞と舞い進めます。

クセ舞は、彼岸に至るに必要な舟について、その起こりの中国古代の貨狄{かてき}の故事に柳が関わっていたことから語り起こし、様々な柳の徳を並べて、今の老いの姿で舞い納めます。

太鼓入りの序之舞は、西方浄土に至る過程となり、ついには老人の舞ながら、それは四人の乙女が舞う柳花苑{りゅうかえん}の舞かと思われるほどでした。

夜明けが迫り、報謝の舞もこれまでと老人が別れを告げると、秋風が西へ吹き渡り、老人は姿を消し、朽ちた柳ばかりが残ります。

作者信光は、世阿弥の創造したいわゆる複式夢幻能の形式を踏襲して、歌舞の菩薩を舞台上に再現させ、見る者を西方浄土に生まれ代わらせようとしているのかも知れません。

『奥の細道』と『遊行柳』


ところでこの『遊行柳』は十月に舞った『實盛』と同様、俳人芭蕉が『奥の細道』に取り上げた題材でもあります。


 道のべに清水流るる柳かげしばしとてこそ立ちどまりつれ          西行法師
 田一枚植て立去る柳かな                                                                                      芭蕉


小澤實著『芭蕉の風景』(ウェッジ)によれば、芭蕉は西行法師の足跡に憧れてこの地に寄り、「しばし」の時間を、熟練の早乙女が田を一枚植えて立ち去るほどの長さであったと、具体的に示していて、そこに俳諧があるとしています。

芭蕉の目には遊行柳の世界とは全く異る景色が広がっていて、實盛に取材した「むざんやな甲の下のきりぎりす」が丸ごと能を切り取っているのに対して、こちらは能の香りから遠ざかろうとしています。

芭蕉はこの曲をさして好んでいなかったのかも知れません。


あらすじ(チラシに記載)


遊行上人(ワキ)が供を連れて旅をしている。奥州を目指して白河の関を越えると、分れ道で呼びかける老人(前シテ)がいる。老人は先代の遊行が通ったという荒れた古道に導き、朽木の柳という古歌に詠まれた名木を見せる。新古今集の西行の歌「道の辺に清水流るる柳蔭暫しとてこそ立ちとまりつれ」を引いて、老人は柳の下の塚に寄るかと見えて姿を消す。

里人(間狂言)に柳の謂れを聞き、老人との子細を語れば、さては朽木の柳の精に違いないと、上人は夜もすがら念仏を称える。塚の中から声が響き「柳は別離の恨みの徴しとなっているが、今の上人の御法により成仏への道が開けた」と喜びながら、老柳の精(後シテ)が現れる。精は、浄土への道を喜び、弥陀の功徳を船に例え、船の発明に柳が一役買っていた故事、清水寺縁起の楊柳観音、蹴鞠の庭の柳、源氏物語柏木の一場面などを語り、老いて夢に漂う自らを儚なむ曲舞を舞う。また、御法によって月とともに西方浄土へ赴く有様を、太鼓入り序之舞に舞って、上人への報謝の舞とする。夜明けが迫り名残りを惜しむ。昔、別れには柳の枝の輪を送ったと聞くが老木ゆえそれも叶わず、ただこの遊行上人との縁を喜ぶ。秋風が吹き抜け、朽木ばかりが残る。


2023年9月3日日曜日

能「實盛(さねもり)」のご案内

10月8日(日)12時30分開演  於 矢来能楽堂    九皐会十月例会で『實盛(さねもり)』を致します。

 日中はまだまだ暑さ厳しいものの、朝夕に秋の気配を感じる今日この頃、皆様もご健勝にお過しのことと存じます。

四月の三度目の道成寺も無事に終え、お蔭様でこれまでの稽古の成果を確かめることができました。次の舞台は九皐会十月定例一部公演での「實盛」となります。




この曲は老武者をシテとしているばかりでなく、曲の構成上でも修羅物の最難曲と言っても良いでしょう。「敦盛」「忠度」「屋島」と修羅物は好きな曲が多く、これまでほとんどの曲を手がけてきましたが、いよいよこの度「實盛」を舞うこととなりました。

私自身六十五歳となり、ようやく老武者のありようが身に染みて参りました。そして五十歳過ぎにこの曲を創作した、世阿弥の気持ちに思いを向けて、新たな舞台に臨みたいと思います。

当日は、秋も半ばの頃かと思います。辛かった夏を生きのびた喜びを、是非ともに喜びたいと存じます。




『實盛』について

 応永二十一年(1414年)世阿弥五十歳の頃、加賀の国に滞在布教中の十四世遊行上人(太空上人)のもとに、白髪の老人が現れ、十念を受けて姿を消したという出来事があり、これが斎藤實盛の亡霊だったという噂が広がりました。「事実ならば希代の事也」と為政者の日記に記されたほど、当時はセンセーショナルな話題だったようです。

世阿弥はこれを受けてこの曲を作りました。父観阿弥が亡くなった五十一歳をまもなく迎えようとする世阿弥です。『風姿花伝』に「この頃よりは・・・物数をばはや初心に譲りて、安き所を少な少なと色へてせしかども、花はいや増しに見え」云々と老境の芸のあり方を説いたのと、『平家物語』「實盛最後の事」に描かれた老武者の「花」が呼応しています。

また、「◯阿弥」という称号は、もともと時宗(じしゅう)のものであったのを、室町期には将軍の同朋衆に使うようになっていました。当時、時宗を率いていた太空上人と世阿弥との関係も伺いしれます。庶民や非人などに広く信仰された、踊り念仏の教祖である一遍上人や遊行上人が、能では格高く扱われていることも、これに無関係とは思われません。

さらに、世阿弥の胸中には自分に影響を与えた老武者たち、たとえば赤松則佑や今川了俊などの大名たちへの思いも、去来していたに違いありません。

この曲、決して「安き所を少な少な」と演じられる曲ではないのですが、今の自分のありようをみつめつつ、取り組んでみたいと思います。

 

あらすじを少し詳しく・・・

遊行上人が念仏会を催していると、 その声にひかれて老人が現れる。 「笙歌(せいが)が響いて聖衆(しょうじゅ)が来迎するかのようだ。 紫雲が立っている。」と 老人は辺りの神聖な雰囲気を喜び、 遅ればせながら念仏に加わる。 上人はいつもやって来るこの老人が、 どうやら他の人には見えていないことを怪しみ、 名を尋ねるが、 老人はなかなか名乗ろうとしない。 あたりの人を退けて近くに来させても、 昔この篠原の合戦で亡くなった長井の斎藤別当實盛の話を始める始末。 とにかく名乗れと急かすと、 自分はその實盛の幽霊ですと名乗って池の辺りに姿を消す。

上人の弔いに實盛は白髪に老武者の姿で現れる。 「既に極楽に赴いて苦海は遠くなったけれど、 この念仏は称えれば称えるだけ往生するのだ。 ありがたいことだ。」と上人に向い合掌をなすが、 やはり人々には見えないようだ。 實盛は仏の教えを喜び、 合戦で討たれた物語を、 懺悔の縁となすために語り始める。

義仲の前で首の鬢髭を洗われて、 若やいだ姿で臨んだはずが、 白髪を露呈してしまった子細を語る中では、 生前の實盛が「六十に余って戦をせば、 若殿原と争いて、先を駈けむも大人げなし。 また老武者とて人々に、侮られんも口惜しかるべし。 鬢髭を墨に染め、若やぎ討死にすべき」と 常々話していた由が語られ、 皆感嘆の涙を流す。 また、平宗盛に赤地の錦の直垂を賜った子細を曲舞に語り、 さらに手塚太郎光盛と組んで討たれた有様を仕方話に見せ、 上人に弔いを頼んで消える。

2023年2月11日土曜日

能「道成寺」のご案内

 


六十五歳の誕生日に三回目の「道成寺」を致します

還暦の年に「卒都婆小町」を舞ってから、早や五年が過ぎてしまいました。コロナによる停滞もありましたが、そろそろその間の稽古の成果を試してみたいと思い、自身の会を企画しました。

「今さら何故道成寺」というお声も頂戴していますが、この曲は、登竜門としての指標だけではなく、もっと深い能の真髄を湛えた一曲だとの思いから、この曲を選びました。

道成寺というと、歌舞伎などの影響からか、「女の情念」という言葉が強くついてまわります。しかし能の道成寺は少し色合いが異ります。

 前シテの白拍子は、「作りし罪も消えぬべし。鐘の供養に参らん。」と最初に謡います。

この白拍子は、過去に犯した罪を浄化するために、鐘の供養に参るのです。能はその浄化作用を舞台上に再現し、場を共有する皆様とその力を分かち合うために、他の曲とは異なる大掛かりな仕掛けを舞台上に用意したのだと思います。

暮れに道成寺にお参りしました。ご住職から「お舞台は観音様の救いの力を皆様に分かち与える」と伺い、はからずも私の考えを確かめることとなりました。

どうぞ皆様、鐘の供養にお出掛け下さい。


「道成寺」について

安珍清姫と名付けて女性の恋慕を執念く描いた物語があります。多くの人が能の道成寺も同じものとして見ているのではないでしょうか。今回私が読み解く「道成寺」は少し違っています。

安珍とされるのは奥州から毎年熊野に詣でる山伏。清姫とされるのは紀州田辺あたりの素封家真子荘司(まなごのしょうじ)の娘。名付けられていないこともさりながら、能で取り上げられているのは、この二人の物語ではなく、それから何百年も経った後の出来事です。

道成寺に絶えて久しくなかった釣鐘を再興し、その鐘を鐘楼しゅに吊り上げて供養を取り行った日のこと、同国に住む白拍子が女人禁制を犯してその供養に紛れ込みます。
 
白拍子というのは平安末期頃に隆盛を見た芸能者で、平家物語では祇王、祇女、仏御前、静御前などが語られています。当時、芸能は単に見て聞いて楽しむというものではなく、謡い舞うことによって神仏に祈願する、超自然的な力を発動させるという実効を伴うものでした。ですから女人禁制を固く言い付けられた能力も、白拍子ならば一般の女人とは違うので、境内への侵入を許すばかりか、乱拍子の所望までしてしまいます。

平安中期から続く舞の系譜からすれば、乱拍子は通常の拍子を刻む白拍子に対して、新しい工夫を加えた複雑な拍子を踏むのが特徴の芸能だったようです。

住職たちが法要を終えて奥へ引込むと、それまでは神妙にしていた白拍子でしたが、見知りの役人から烏帽子を奪うようにして借り受け、人々に手拍子を囃させながら舞い始めます。それは本来複雑な拍子を刻んで、熱狂を巻き起すような種類のものだったはずです。

しかし、能の乱拍子はそれを静寂の中に表現します。しばしば「小鼓とシテの一騎打ち」と表現されるこの手法は、いったいいつ頃成立したのでしょう。曲そのものの創作時期も不明である上、本来の乱拍子と全く違うものにその名をつけていることと合わせて、私は武家式楽としての能でこその演出であるように思われてなりません。

喧騒のただ中で踊り狂う芸能者の内面を、別の時空に取り出して描く《乱拍子》、そこから一転して現実の喧騒の中の白拍子となる《急之舞》、この流れは、かつて蛇に変じた女の執心が白拍子に取り憑いて、ついには全てを支配してしまう過程とも取れます。

最後に鐘から現れた蛇體はついに法力に祈り伏せられ、日高川に姿を消します。

この蛇體に使用する能面には、江戸初期のものと思われる名品を拝借することが出来ました。合わせてお楽しみいただければ幸いです。


2022年3月22日火曜日

5月8日(日)観世九皐会「杜若」のご案内

 観世九皐会五月定例会 で「杜若」を致します

 

舞台のご案内

前略  皆様にはこの二年の苦しい生活の中にも、新たな道を模索しつつ、ご健勝でお過しのことと存じます。能は表面的な楽しみのための声高な喧伝とは距離を取り、確かな力を静かに伝えています。表面的なわかり易さや楽しさではなく、自然や宇宙につながる普遍的な力を、皆様と共有できると信じております。それには知識も予見も必要ありません。
 

今年最初のシテは、五月の九皐会の「杜若【かきつばた】」です。在原業平【ありわらのなりひら】の歌に詠まれた杜若が女の姿で現われ、業平が歌舞【かぶ】の菩薩の化現として過した有様を曲舞【くせまい】に舞い、その現身をもって序之舞を舞います。

この十年来シテを舞うにあたっては、江戸時代の復原装束を山口能装束研究所のご協力を得て使用しています。全ての価値をお金で量ろうとする現代とは異り、江戸時代の武士は、のちに武士道とも呼ばれる高い倫理観を生き方の指針としていました。そこから生まれる価値観や美意識を、彼等は装束を始めとする能のあらゆる分野に表現してゆきました。明治以降、特に敗戦後の時代にそれを復原することは大変難しいことですが、演者と装束のふたつながらその原型に近づいた時、それはとても大きな力となるでしょう。拝金主義を脱してこれからの時代を切り開く力となるかも知れません。

六十代も半ばにさしかかって、これからの十年程は、このことを静かに示してゆきたいと考えています。そんな可能性を見据えつつ、今は舞台に触れた全ての皆様に、平安のひと時をお届けしたいと思います。

                    草々

  壬寅春

                                                                      


「杜若」のあらすじ

「杜若」について思うこと 


2021年7月30日金曜日

能「千手」のご案内

 この「千手」という曲は、実はあまり好きな曲ではありませんでした。


世阿弥の能には魂を浄化させる特徴があります。
幽霊や怨霊を成仏させ、
生き別れた我が子と再会し、苦難に陥った人はそれを突破してゆきます。
これは南北朝の長い戦乱から平和へ向かった時代に、人々の願いを舞台上に再現しようとしたためなのではないでしょうか。しかし、平和を求めて反幕府勢力を完全に掃討した結果やってきたのは、六代将軍足利義教による恐怖政治でした。人々が自由にものを言えなくなった時代です。「千手」はそんな時代に世阿弥の娘婿金春禅竹によって作られたと思われます。

大仏を焼失させ、死罪を免れ得ない平重衡に、遊女千手ノ前は芸能の力でひと時の平安をもたらしますが、重衡の運命を変えるまでには至りません。世阿弥の作品に比べて矮小化しているのは否めません。

しかし今、私にはこの「千手」の良さが身に迫るようになって来ました。

これは、閉塞した時代にひと時の心の平安を与える難しさに、正面から取り組んだ作品です。

今生に望みを失い、来世の平安のみを願う重衡に、千手ノ前の月並な慰めの言葉は届きません。前半は陰鬱な雰囲気が支配しています。これを破るのが千手の舞です。北野権現の霊力を頼み、来世救済の経文を朗詠し、それに続いて重衡の来し方を曲舞に舞い、序之舞によって「陰陽の気を整える(NHKの朝ドラで良い台詞を夏木マリさんが言っていました)」と、重衡も琵琶の演奏を始めます。一夜感興が尽されました。

夜明けと共に現実が押し寄せて、重衡は去って行きます。それを見送る千手ノ前の泣き顔の美しさが、愛おしく思えてなりません。

私が年を取ったこともあります。また今コロナ禍に苦しむ時代もあります。まさに時宜を得た演目となりました「千手」です。是非能楽堂で見届けて下さい。



これぞ実験!能楽らいぶ × ライブペインティング

この実験的な催しは、昨年四月、コロナが蔓延し始めて催し物が次々と中止に追い込まれていた頃、今だから敢えてと企画した催しでした。
昨年は中止となってしまいましたが、病禍未だ猖獗を極める中、この秋は万難を排して実施したいと思います。

能と現代アート。
一見対極と見える組合せですが、対極は背中合わせに繋っていることがよくあります。

「有限なものを組合せて無限を表現する」

という言葉は、能装束研究家の山口憲さんがいつも私に話して下さる、能の本質に関わる言葉です。中津川浩章さんの作品は、線描のみで無意識の世界を具象化しようとしているように見えます。無意識の世界即ち無限です。

この春の中津川さんの個展の時、フェイスブックを介してなされた、私と中津川さんの会話を紹介します。

(所)中津川さんの個展に行ってきました。「線を解放する」というタイトルです。普通線を書くときは意識によってコントロールされていますが、中津川さんの線は無意識の領域からそのまま形となっていて、まさしく線を意識の絆から解放しています。

能は約束事即ち「型」で構成されています。稽古の段階では意識によって「型」をなぞり、シテの気持ちやら情景やら様々の事を考えるのですが、
最終的にはその意識を全て型に集約してしまって、意識の絆から解放します。

(津)死者の魂の召喚というか、呼び覚ますものは型によってしかなし得ないのではないかと思うこともあり、でも解放されないと召喚できないのでないかとも思うこと、その往還ばかりです。


今回のコラボレーションで二人の取り決めはありません。
私はただ自分の作品を「一人らいぶ」で演じ、中津川さんはその空間を共有しつつペインティングをするだけ。
その時二人に何が起きるのか起きないのか・・・。

政治や社会に対する芸術や宗教。
溶け合っているのが理想なのでしょうが、そうではない現在、やはり私は後者の側に身を置いていたいのです。