さてその本を何とか書き終えてみると、電子書籍の売れ筋目安が三万字であると言う事なのに、四万五千字にまでなっていました。書いている中に現れたテーマに則して、少し脇道へ入ってしまった部分をカットし、また、結局能を良く知る人を対象としたマニアックな内容となってしまったために、初心者向けに書いていた初歩的な説明をカットして、何とか三万字に治めたのですが、結果カットされた部分をこのブログで少しづつご紹介したいと思います。
今回は、観阿弥が亡くなった後、世阿弥が自分の創作をどこから手掛けて行ってかと言う部分です。
『自然居士』と『東岸居士』
前章の最後に世阿弥の曲舞への傾倒ということを言いました。それが最も良く見てとれるのは『東岸居士』という作品です。世阿弥の作品ながら大した面白みのない曲として現在ではほとんど上演されません。しかし、ここには世阿弥の決意のようなものがあふれているように私には感じられます。それは観阿弥の作品『自然居士』と比較してみることではっきりします。
それではまづ『自然居士』を見てみましょう。「居士」というのは、出家しないまま教えを説いて衆生を感化する仏道修行者のことで、実際に自然居士と言う名前の人が実在したようです。
自然居士(シテ)が雲居寺(うんごじ)で七日間の説教をするというので大勢の人が集まっている。そこに美しい衣を代物として、いたいけな少女が亡き両親の供養を願い出る。しかしここに荒くれ者(ワキ。人商人)が乱入して、この少女を連れ去ってしまうと、自然居士は少女が親の供養のために、自らを人商人(ひとあきびと)に売ったことを直ちに了解する。そしてこの女を救うべく、七日の説法を反故にして、大津坂本に向かう。 まさに舟を出さんとする人商人に追いついた自然居士は、裳裾を波に濡らして舟端に取りすがり、強引に船出を引き留めて舟に乗り込む。 代物の小袖を投げ渡して少女を返せと迫る居士に対し、人商人が仲間うちの大法を盾に拒むと、居士もまた仲間うちの大法を主張して梃子でも動こうとしない。ついに人商人はこれを持て余してしまう。とはいえこのまま素直に返すのは、腹の虫が収まらない。居士に舞を舞わせて、散々にからかって鬱憤を晴らそうとする。 笛に合わせてさらっと舞うが満足しない商人に、舟の始まりを黄帝の臣下貨狄(かてき)の故事から説き起こす曲舞を謡い、その最後には商人の舟を龍頭鷁首(りょうとうげきしゅ。帝の舟のこと。)に例えてご機嫌を伺う。調子に乗った商人が竹もないのに簓(ささら)を擦れと所望すると、難行苦行は仏道の習いとばかりに、簓の起こりを語り、再度「手を擦り」合わせて懇願する。人商人は遂に返す約束をし、最後に羯鼓を所望する。前腰に鼓を掛けて軽快に演奏しながら舞う自然居士。とうとう少女を取り返して共に都へ上って行く。
冒頭の雲居寺から大津坂本への場面転換の巧みさ、ワキとシテの問答の面白さ、そして後半は次から次へと舞を舞い、演劇的な仕立てに溢れた、息もつかせぬ面白さがこの曲の魅力です。
一方の『東岸居士』です。東岸居士も実在の人物で自然居士の弟子として大変な評判を取った人のようです。
遠国から都に上った旅人が清水寺へ参詣すると、東岸居士という説教者が評判だと聞く。現れた東岸居士に、今日はどんな聴聞(説教)があるのか尋ねると、目前の春の気色の面白さに自身を投げ入れてみせる。続けて目前の橋は誰が掛けたものかを問えば、先師自然居士が掛けたものなので、自分もそれに習って橋を勧進しているのだと答える。出家以前の出自については、形に拘る出家の不条理を言い、ただそのまま道を行うことによって彼岸への橋に続くのだと答える。 そして常日頃の謡いによる説法を所望すると、それに応えて曲舞を謡い始める。仏の教えに身を任せてしまえば彼岸への道は何でもないはずなのに、自力で道を求めようとすると、様々な妄念に囚われて意のままにならない。他力への道こそが彼岸に通じるのだと説き聞かせる。 さらに旅人が褐鼓を打って見せて下さいと頼むと、松の音、波の声に和して面白く、演奏が終れば卒然としてそこに菩薩の化現を感得し、全ては一つの実相と知る境地に誘い、終曲となる。
さて二曲を比べてみると、『東岸居士』には筋立てらしい筋立てが殆どないことがお分かりになると思います。そのために今日ではほとんど演じられなくなったのですが、世阿弥は何も態とつまらない作品を作ったのではありません。この作品は、世阿弥がこの後達成する高みへ向う最初の一歩だったのだと私は考えています。
劇的仕立てに満ちた、父であり師である観阿弥の代表作『自然居士』に対し、子であり弟子である世阿弥が、実在の人物としても自然居士の弟子である『東岸居士』を書いた、その事をまづ何より注目しなければなりません。そしてその曲が極端に劇性を抑えた内容であることは、後年世阿弥が作り出した作品群を見れば、それも世阿弥の意図するところだったことは疑えません。つまり、世阿弥は自分の求めるものは父と異なることをこの作品で宣言していると言っても良いのです。では世阿弥は何を求めたのでしょうか。非常に曖昧な表現ですが、それは精神性とか霊性とか言う物でしょう。幽玄という言葉がそれに当たるのかもしれません。
前章の考察を踏まえれば、母が自分に示したものを、猿楽の作品に結実させて行くことを目指したのです。
東岸居士が、自然居士の渡した橋を自分も勧進するのだと語る場面があります。これを観阿弥と世阿弥に置き換えてみると、橋は何になるでしょうか。私はこれを曲舞の事と見ます。
しかしその曲舞は、観阿弥の物と少し変わっています。観阿弥の曲舞は叙事的で、それを語る行為が重要であるのに対して、世阿弥の曲舞は抒情的哲学的で、それを語ることによって何か世界観のようなものを舞台上に組み上げて行こうとしています。今取り上げた二曲について言えば、『自然居士』の曲舞が船の起こりを語って、少女を救おうとするのに対して、『東岸居士』では発心の困難さを言い募った末に、他力本願を見所に向けて「聴聞」しています。少し長くなりますが、原文を引用しておきます。
『自然居士』の曲舞
〈クリ〉(シテ)そもそも舟の起りを尋ぬるに。水上黄帝の御宇より事起って。(地)流れ貨狄が謀計(はかりこと)より出でたり
〈サシ〉(シテ)ここにまた蚩尤(しゆう)と云へる逆臣(げきしん)あり。(地)かれを亡ぼさんとし給ふに。烏江(おうこう)と云ふ海を隔てて。攻むべき様もなかりしに
〈クセ〉黄帝の臣下に。貨狄と云へる士卒あり。ある時貨狄庭上(ていしょう)の。池の面を見渡せば。折節秋の末なるに。寒き嵐に散る柳の。一葉(ひとは)水に浮かみしに。また蜘蛛と云ふ虫。これも虚空に落ちけるが。その一葉の上に乗りつつ。次第次第にささがにの。いとはかなくも柳の葉を。吹き来る風に誘はれ。汀に寄りし秋霧の。立ち来る蜘蛛の振舞。げにもと思ひ初めしより。工(たく)みて舟を造れり。黄帝これに召されて。烏江を漕ぎ渡りて。蚩尤を易く亡ぼし。御代(おんよ)を治め給ふ事。一萬八千歳とかや。
(シテ)然れば舩のせんの字を。(地)公にすすむと書きたり。さて又天子の御舸(おんか)を。龍舸(りょうが)と名づけたてまつり。舟を一葉(いちよう)と言ふ事。この御宇より始まれり。また君の御座船を。龍頭鷁首(りょうとうげきしゅ)と申すも。この御代より起れり。
『東岸居士』の曲舞
〈次第〉(地)御法の船乃水馴棹。御法の船乃水馴棹。みな彼の岸に到らん。
〈一セイ〉(シテ)面白や。これも胡蝶の夢乃うち。(地)遊び戯れ。舞ふとかや。
〈クリ〉(シテ)鈔(しょう。「抄」に同じ)に又申さく。あらゆる所乃仏法の趣。(地)箇々円成(ここえんじょう)の道直に今に絶えせぬ跡とかや。
〈サシ〉(シテ)但し正像(しょうぞう)既に暮れて。末法に生(しょう)を享けたり。(地)かるがゆゑに春過ぎ秋来れども。進み難きハ出離の道。(シテ)花を惜しみ月を見ても。起り易きハ妄念なり。(地)罪障の山にハ何時となく。煩悩の雲厚うして。仏日の光晴れ難く。(シテ)生死の海にハ永劫(とこしなえ)に。(地)無明の波荒くして。真如の月宿らず。
〈クセ〉生を享くるに任せて。苦に苦しみを受け重ね。死に帰るに随って。冥きより。冥きに赴く。六道の巷にハ。迷はぬ所もなく。生死乃枢(とぼそ)にハ。宿らぬ栖(すみか)もなし。生死の転変をば。夢とや言はん。また現とやせん。これら有りと。言はんとすれば。雲と昇り烟と消えて後。その跡を留むべくもなし。無しと言はんとすれば又。恩愛の仲。心留まって。腸を断ち。魂を動かさずと云ふ事なし。かの芝蘭の契り乃袂にハ。屍をば。愁歎乃炎に焦せども。紅蓮大紅蓮の氷をば。終にしめす事なし。かかる拙き身を持ちて。
(シテ)殺生偸盗邪淫ハ。(地)身に於いて作る罪なり。妄語綺語。悪口両舌(あっくりょうぜつ)ハ。口にて作る罪なり。貪欲瞋恚愚痴ハまた。心に於いて絶えせず。御法の船の水馴棹。皆彼の岸に到らん。
私は能が今日まで生きた芸能であり続けている大きな原因として、謡曲の表現力があると考えています。謡曲のお稽古をしていない人が能を初めて見ると、とにかく何を言っているのか解らないということになるのですが、その同じ人が二回三回と回を重ねて行くと、何となく舞台上のやり取りが解って来るようになるのだそうです。これは、言葉の意味が解る解らないということもあるのですが、それよりも舞台上で謡に謡われることによって組み上げられた、情報に対する感受性が開かれることによるのではないかと私は思っています。ですから海外での公演でも大きな感動を与えられるのです。感受性と言いましたが感応力と言った方が良いかもしれません。その力は、解る解らないに囚われている現代の多くの日本人よりも、欧米の観衆の方が高いような気がします。もちろん能の周波数に対してより深く同調する人は、やはり日本人の中に多く、そういう人々によって今まで能は伝承され、支えられて来たのでしょう。
今まで私のもとで謡や仕舞をお稽古したお弟子の中には、必ず小学生が何人かいました。この子たちは何も特別な家庭で育ったわけではなく、何かの機会に能に触れて能に嵌ってしまった子なのです。能をこの先の百年に届けるためには、こういう子どもたちをしっかりすくい取ることが大切です。
世阿弥は難解な内容を謡で謡うことによって、その真髄のような部分を直接見所に伝えようとしています。そこには「理」ではなく「情」が発動しています。
じつは『東岸居士』の曲舞は、殆どが一遍上人の法語を引き写したものなのです。それは丁度、父の観阿弥が『白鬚』で初めて猿楽に曲舞を導入した時に、「太平記」の文章をそのまま引き写したことと相似しています。
一遍上人の教えは下級武士や商人、農民に留まらず、いわゆる非人と呼ばれる人々に広く流布していました。世阿弥の属する芸能民にも親しいものだったはずです。その親しみのある言葉が、能の謡で謡うと、普通に語る場合に比べて、より鮮明に、深く力強いものとして描き出されるのです。
父であり一座の大黒柱であった観阿弥を失い、亀阿弥や道阿弥などの名人たちの舞台に触れながら、世阿弥は父から受け継いだ芸を、より高いものに仕上げようとしました。その世阿弥の「情」に映っていたのは、追憶の夜に舞われた母の舞ではなかったでしょうか。あの日母が示してくれた舞の力を、自分の作品の中に再現しようとする世阿弥の挑戦がここから始まったのです。その最初の作品として、世阿弥は『東岸居士』を創作したのだと思います。
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