語り部は専門職であり、伝承の為、行動を制限されていた。食は王からは勿論の事、民衆からも与えられたかも知れない。
語り部は物語りを声を合わせて朗唱する。節を付けて集団でうたう事により、膨大な物語りを幾世代に亘って語り伝える事が可能になった。
語り部の語りは、邑の中心の広場でなされる。王の権力の誇示であると同時に、民衆たちにとっても古えの物語りに心震わす楽しみな時であった。
或る時この朗唱に歩行動作が加わる。歩きながら声を合わせて朗唱すると、記憶はより確かになる。ところで日本語は母音を平板に並べて行く音律が特徴で、元日本語である縄文の言葉の中に、この特徴を持つ言語の部族が次第に有力になって行った。この朗唱は水平方向の動きを要求する。例えば神懸りした巫女の舞などは上下動を交えた躍動的なものだったかも知れないけれど、この語り部たちの動きはあくまで水平方向に限定されていた。それは朗唱の音律から導き出される動きであり、また、ひと度平らに踏み固められた邑の広場に裸の足裏を擦り付けて歩いてみると、その土地の持つ息吹が身体に通うのを如実に感じ、地霊が語り部の朗唱に手を添えてくれる様な感覚さえ覚えて、忽ち語り部たちを魅了してしまった。
これがスリ足の誕生となる。
姿勢を整えてスリ足をする。邑の中でも聖なる力に満ちた場所である。語り部たちは朗唱の稽古をする前に、たっぷり時間をかけてスリ足をする様になった。地の気を足裏から身体に吸い上げ、巨木や風の気と交信する。これによって語り部たちは健やかな精神としなやかな身体を獲得する。戦いや狩りに出ない事もあり、他の者に比べて長命な者が多くなった。
ここで語り部たちの姿を考えて見よう。両手は肘を外に張り、足から頭の天辺まで上体を真っ直ぐに伸ばし、その姿勢を崩さずに歩く。
(ここで私のイメージに突如現れた物があります。否、まさか、と思いつつ、そう言えば十年位前には良くこのお話しをしていたのです。
それは顔より小さな仮面のお話です。世界の仮面劇の中で、能面の様に顔より小さな仮面は少ないのです。仮面劇は大陸にも半島にもあるけれど、顔より小さな仮面は見かけません。猿楽は大陸の芸能に影響されて成立するけれど、顔より小さな仮面の系譜は、この列島にもっと昔からあったのではないかと、そしてその様にお話しする時、私が念頭に置いていたのは仮面土偶でした。)
私には一瞬、遮光器土偶のあの奇怪にして崇高な姿が、語り部のものではなかったかと言う幻想が浮かぶ。しかし遮光器土偶はどう見ても女性の姿だ。語り部が女性だったと言う事はあり得るだろうか。勿論否定し去るものではないが、やはり違う。邑のゴミ捨て場に、必ず脚などを打ち欠いて廃棄されている土偶の意味が何であるのか説明されなければ、この魅力的な仮説には無理がある様だ。
ともあれ有力な王の元に語り部が組織され、スリ足を基本とする身体技法を駆使して、膨大な物語りを伝承していた。伝承の中には歴史的なものばかりではなく、世界の理を説いた物もあったかも知れない。語り部は知の集積でもあった。
二人の王が戦えば、勝者は敗者の神話を廃する。語り部たちは殺され、民は下層民に組み入れられる。この時敗れた王の名前は、勝者のものとなる。お前たちの王の名前を受け継いだ私に従え。大国の王は多くの名前を受け継いで行く。その語り部たちは有用な神話を取り込んで、語りは次第に複雑になる。
語り部も大きな集団になって行き、領土の拡大に連れて分裂して行く。その土地固有の物語りが加わり、物語りは語り部毎に変態する。伝承に幾つもの違いが生まれた。
さて、国の統合が進み、或る時文字が持ち込まれる。それは大陸から齎されたものであったかも知れないし、そうではないかも知れない。そうではないかも知れないと言うのは、語り部が文字を生み出した可能性もあるからだ。
当然の事ながら語り部は生きている。おそらく一つの語り部の集団は二三十人単位ではなかったか。そこに何らかの災厄が起こり、過半数の者が死んでしまい、安定した伝承が出来なくなる語り部もあった。特に若い世代を失った語り部集団は、自分たちの語りがやがて失われてしまう事を知る。その時音韻を知り尽くしている彼らが、その音を記号化する事を全く考えなかっただろうか。
この文字は仲間内の符丁の様なものだ。洞窟に遺された壁画の存在を思えば、記号を印す方法はいくらもあったに違いない。否定しても根強く残る神代文字はこの様なものであったかも知れない。民衆どころか権力者さえもそれと知らず、文字は生み出されていた。
更に幾世代かが流れうちに、滅んでしまった語り部の遺物たる文字を、語り部が目にすれば、それが言葉を表す記号であると知る。しかしそれに語り部そのものを滅ぼす力のある事を、聡明な者たちは知ったはずだ。文字の存在は禁忌として、しかし周知されて行く。