前回詞章を公開した『斎王』ですが、節付けを施した謡本を公開します。
節付けをしている間に詞章にも少し変更が入っています。
観世流の謡をお稽古している方なら、概ね理解出来ると思います。ゴマが味気なかったり、記号が少し変なのはご容赦下さい。
このPDFファイルをダウンロードし、アドビなどで開いて「ブックレット印刷(右から左)」で両面印刷すると冊子になります。和紙に「複数ページを印刷(縦書き、右から左)」で印刷して袋とじにすると、本当の謡本っぽくなります。
新作能『斎王』試作版はこちらからダウンロードできます。
この謡本は、LaTeX を使って作っています。自分の作った新作能をきれいに印刷したいと言う方がいらっしゃいましたら、(おそらくいないと思いますが・・・)styファイルをお譲りします。
また、LaTeX の専門家の方でもっとスマートに改良しても良い(ごめんなさい。お禮は大して出来ません。)、と言う方がいらっしゃいましたらお願いします。
ゴマのフォントをもっとゴマらしくしたいし、本文のフォントも毛筆書体(昔、VineLinux の有料版に付いていた隷書体がとても良かった)にしたいのですが、今はそんなことをしている時間がありません。篤志の方を募っています。
utaibon.sty4windows
2016年4月7日木曜日
2016年4月5日火曜日
新作能『斎王』の詞章
先日(4月2日)に五條市の御霊神社社務所にて、氏子の方々を始め、千七百年祭に関わる皆様に披露しました、新作能『斎王』の詞章を公開します。節付けをして謡本にしたものも、近いうちに公開します。ご興味のある方はお読み下さい。
ご意見など伺えれば嬉しいです。
前シテ 宇智ノ女、母親
後シテ 井上内親王
前ツレ(男) 宇智ノ男、子供
ツレ(女) 都ノ女
ご意見など伺えれば嬉しいです。
前シテ 宇智ノ女、母親
後シテ 井上内親王
前ツレ(男) 宇智ノ男、子供
ツレ(女) 都ノ女
ワキ 都ノ男
アイ 門前ノ者
斎王
〈次第の囃子にてワキとツレ(女)が登場〉
〈次第〉(ワキ・女)「つなぐ命の重さゆえ。つなぐ命の重さゆえ。古き神をも訪ねん
(女)「これは東の京に暮らし。西に下る者にて候。我四十路に及び子を授かり。色々思い煩うこと限りなし。(ワキ)「ここに奈良の南、五條の地に。齢経て子を産みたる神のまします由を聞き。某御供申し。只今五條の地へと急ぎ候
〈道行〉(ワキ・女)「この頃は。東の地には住みかねて。東の地には住みかねて。せめて日の本ならば西へ西へと求め来て。「奈良の都で名を聞きし。御霊の神を祀りたる。五条駅より吉野川。渡りて至る霊安寺。御霊神社の庭とかや。御霊神社の庭とかや
(ワキ)「御急ぎ候程に。御霊神社に着きて候。心静かに参詣申そうずるにて候。不思議やな赤き鳥居の傍らを見れば。梅の古木と見えて皮ばかり残りしが。若き枝の生い出で。色殊なる花を咲かせたり。人来たりて候はば尋ねばやと思い候
〈一声の囃子にてシテとツレ(男)が登場〉
〈一セイ〉(シテ・男)「老い梅の。うろの皮より出ずる枝の。色こそ若き春の風。(男)「水温む日はなお遠く。(シテ・男)「年経て流る。吉野川
〈サシ〉(シテ)「まだ寒く花咲くよりもなお古き。都の色をあらわして。(シテ・男)「赤き色濃き梅の花。難波の都奈良の都。吉野の都の名残とも。宇智の郡に咲く花の。若き匂いのめでたさよ
〈下歌〉「この春もまた連れ立ちて。二人眺むる嬉しさよ。
〈上歌〉「年毎に。老い朽ちてなお咲く花の。老い朽ちてなお咲く花の。梅は色濃き春の色。冷たき風なおつらけれど。日差し仄かに柔らかく。「梅と鳥居の色紅き。神と怖れをかしこみて。御霊の宮に参らん。御霊の宮に参らん
(ワキ)「いかにこれなる男女の人に尋ね申すべき事の候。(男)「我等が事にて候か何事にて候ぞ。(ワキ)見申せば仲睦まじく連れ立ちて候が。夫婦の人にて候か。(男)「いやこれなるは私の母なる人にて候。(ワキ)「げにげにこれは誤りて候。さては親子の人にて候か。されども若く美しき母御にて候よ。(シテ)「あら嬉しの言の葉やな。御身は何処より来たれる人なるぞ。(ワキ)「これは東の京より。西に住処を求めて来たる者にて候。これなる人の子を授かりたるにより。これなる宮に参りて候。(シテ)「これは遙々の御出でにて候よ。さては当社の御謂れを知ろし召されて候か。(女)「いやただ四十路半ばに皇子を産みたる御神とこそ聞きて候え。(男)「あら危うしやこの御神は。御霊と祀り斎われし。祟りの神にてましますものを。(シテ)「いやいやそれは遙かの古。恐れたりしは仇なす人。ましてやこれは遅き子を。授かりたりし人ならずや。(シテ・男)「若き命の溢れたる。時世は既に過ぎ去りて。衰え行かむ今の世に。宿る命の尊さを。守る神とぞ知ろし召せ
〈上歌〉(地)「この国の。人の栄えの幻の。人の栄えの幻の。明らかなりし今の世に。命宿せし。高齢と嘆き給うな。「この宮の。祭神なるは斎宮に。仕え給いし人なれば。神の恵みを身に受けて。若きを保つめでたさよ。若きを保つめでたさよ
(ワキ)「さればこのご祭神の御名。また御謂われをも詳しく御物語候え。
〈クリ〉(地)「それこの御霊神社のご祭神と申すは。千三百年の昔。聖武天皇第一の姫宮と生まれ。光仁天皇の皇后となりし。井上内親王にておわします
〈サシ〉(シテ)「長く斎王として伊勢にあり。(地)「夜昼分かぬ神への仕え。祈祷を良くし神楽に優れ。神託を下すも度々なり。(シテ)「伊勢に在すこと十八年。(地)「神の恵みの故やらん。二十歳見まがうばかりなり。
〈クセ〉「ここに弟宮安積親王。俄に亡くなり給えば。斎宮は障りありとて。奈良の都へ帰りしを。白壁の王子とて。日陰に在しましし人の。妃に迎えられ。四十五歳にして。他戸王子を産み給う。妹宮には。藤原の光明子の御腹にて。阿部の内親王。仲麻呂に語らい孝謙。弓削の導師を伴い。称徳となりて天の下しろしめす。その後を白壁の王子受け継ぎて。光仁天皇井上皇后となり給う。
「されど五十余歳の。余りに若く美しき。帝御悩となりし時。人々あやしみて。心に思い給いしを。
(シテ)「参議百川卿忍び上り。(地)「これは皇后の。呪詛をなせし故なりと。秘かに奏し給えば。廃皇后その上。この宇智の郡に籠められ。宝亀六年四月下旬。他戸親王と共に。此処にて空しくなり給う
(ワキ)「ご祭神の御事は承りぬ。さてさてこれに咲きたる梅は。その御神に謂われある。神木にては候やらん。(シテ)「いや神木とは恥ずかしや。余りに古き御神にて。梅は寿命も保ち得ざらんさりながら。ご覧候えこの梅の。古木はうろとなり果つれども。若き枝々生い出でて。漲る命の紅き花。咲かせてこそは候なり。
〈下歌〉(地)「その古はこの身をして。若き命を守り得ず。この梅の。年毎に咲くを見て。朽ちる命をつながんと。夕べの雲も赤根草。枕の夢を待ち給え。枕の夢を待ち給え。
〈中入。シテと男退場〉
〈間狂言の語り。門前ノ者登場し、ワキと言葉を交す。井上内親王について、特に死後ご祭神と祀られる子細を語る。最後にツレの女を気遣って、社務所に床を設える由言いて退場する。〉
(ワキ)「いかに申し候。奇特なる御事にては候えども。夜風は身体に障り候。あれなる社務所に御休みあろうずるにて候。(女)「さらばあれにて休み候べし。「いかに申し候。さるにても遥々と来たり候よ。(ワキ)「げに大事の御身にては遠き道にて候よ。(女)「さりながらここに参詣申して。出産の事少し心安くなりて候。御心遣い返す返すも有難うこそ候え。今宵はここにて休み候べし。
〈ワキ、切戸より退場。以降はツレの女の夢の世界となる。〉
〈待謡〉(女)「思わずも。子を授かりて故郷を。子を授かりて故郷を。背き流離う行く末の。頼み少なきこの身を。守る力のあるやらん。守る力のあるやらん。
〈出端にて後シテ・井上内親王登場〉
〈サシ〉(後シテ)「それ高き山には風起こり易く。深き海の水は量り難し。人は幽かなる玄妙を知らず。知れるを以て真実となす。
〈一セイ〉「陰陽の二神この世を生みしより。男女の営みの貴きに。子を残し孫に伝え。神の恵みを代々に保たん。
(女)「不思議やな旅の夢中に現われ給うは。いとも気高き御姿。その面影は昨日見し。母なる人にてましますか。(シテ)「母と見えしは仮の姿。これは遥かの古に。久しく伊勢にて神に仕え。鬼道を司りし斎王なり。(女)「神に仕えし御身なるに。召されし衣は赤根染の。(シテ)「舞の衣は俗の世にて。命を果たせし証なり。(女)「さては幼き皇太子の。恨みの色にてましますか。(シテ)「一つは彼の恨みの色。怨霊たらん苦しみを。母が命に背負いしなり。されども夕べの赤根雲。恨みの色にてなきものを。
〈一セイ〉「我が斎王は女子の役。(地)「子なる酒人内親王。孫なる朝原内親王と。神に仕えし祝いの色。(シテ)「この國の。目に見ぬ誓い夜昼の。祈りを捧げし斎の道。
〈大ノリ〉(地)「守るべしやな。守るべしやな。陰陽二つの治めの力。今衰えん。日の本の民の。危うき命をつながん人に。夢中の舞楽。有難や。 〈神舞〉
〈キリ〉(地)「政。乱れし時は陰陽の。気を整えて平安の。都築きて。兵乱の繁き時は。舞楽をなして。武士の心慰むる。今目前の。栄に耽り。海山を隔てば。山は痩せ。海は濁り。故郷を離れし人も。千三百年祀り守らん。この神の。夢中の告げは。これまでなり。人は皆。神仏の種に身をまとい。限りある世を命として。命を継ぐぞと言うかと思えば。夢は覚めて失せにけり。
「生きるための能」 (一宮ロータリークラブでの講演)
3月31日に愛知県一宮市で依頼されておこなった講演です。私は講演前に原稿を書かないのですが、講演後に内容を纏めて欲しいと頼まれて書いた文章です。非常に限られた方しか読まないと思いますので、ここに公開したいと思います。
「生きるための能」 中所 宜夫
少々大袈裟な題名を付けました。 私が生きるために能が必要な事はほとんど自明の事ですが、 皆様にとっても能が必要だと思いますので、 その辺りをお話ししようと思います。
少々大袈裟な題名を付けました。
今までに能をご覧になった事のある方はどの位いらっしゃるでしょ うか。・・有難うございます。 半数以上の方がご覧下さっているので嬉しく存じます。
私は父が趣味としていた関係で小学生の頃から能を見て参りました 。一橋大学の能楽クラブ・一橋観世会で、 能の家の者でなくともプロになれるのだと知り、 卒業後観世喜之先生の内弟子となりました。 進路を決める時には何が何でも能楽師と言う訳ではなく、 大学院での研究生活も考えましたが、 身体を使って表現する魅力が勝りました。 5年の内弟子修行を経て独立したのが30歳で、 それから28年程能楽師としてやっています。 生涯の道として能を選んだ時より、独立した時より、 今はもっと能が好きで、能のない生活は考えられません。
能が成立したのは南北朝時代から室町時代の初め、 14世紀末から15世紀にかけての事です。南北朝時代の父・ 観阿弥と室町初期の子・ 世阿弥の二人によって芸能の形が作られました。世阿弥は『 風姿花伝』『花鏡』などの優れた伝書を残しましたが、 これは芸術、 演技に留まらず教育や経営など様々の分野にわたって論じられ、 その成立の古さから言っても非常に重要な人物です。 私は日本の文化史において、 空海の次に世阿弥が重要な人物だと考えています。
観阿弥・ 世阿弥によって成立した申楽は江戸時代には武家の式楽となります 。武士であれば皆、能を必須教養として習得していました。 また町人の中にも、 例えば俳諧では能の内容が前提となって詠まれている句が多く、 能は親しいものとなっていました。
その能が明治維新によって武家階級その日本の最も秀れた文化にも のがなくなってしまいます。しかし、 能を伝承してきた人々は何とかこれを次に繋げようと努力しました 。明治6年の西欧使節団が欧米を歴訪しての帰国後に、 列強と対等に渡り合うには独自の文化が必要な旨を建白し、 能と歌舞伎と文楽を日本の伝統芸能として指定するまで、 各流の家元たちは能面や装束を売り払うなどして、 何とか生計を立てていました。 これ以後明治政府の担い手である貴族と財閥によって、 能は支えられて行きます。
昭和の敗戦によって貴族と財閥がなくなると、 いよいよ能の存在は危うくなるかと思いましたが、 能に携わる人々はその無二の価値を信じて守り伝えて来ました。
能は、武士によって完成されましたが、その価値観や美意識は「 武士」という限られたものではなく、 人間の根底にある普遍的な何かと密接に結びついているため、 武家階級そのものがなくなってしまった後も、 150年以上そのままの形で伝えられるというような事が起り得た のだと思います。 舞台芸能というものは本来お客様を飽きさせないために、 変わって行くものです。 能も世相の変化につれて少しづつ変わってはいますが、 その基本にあるところのものは700年間変わらずにいるのだと思 います。
近頃、三内丸山を始めとして縄文の文化が掘り起こされています。 仮面土偶の存在など、 私は芸能の初源が縄文にある気がしてなりません。 能の基本であるスリ足という手法の原点は縄文にあると言うのが私 の主張です。一万年に亘り営まれた狩猟採集生活は、 半島や大陸で農耕が始まってからも数千年間、 その受容を拒否して維持されています。 これはそれを支える世界観・ 宗教観とそれを人々に浸透させる芸能がなければ考えられないと思 います。
こうして日本列島に営々として受け継がれて来た能は、謡うこと、 舞うことを基本にし、これを修練してゆけば、 強くしなやかな身体作りにも有効です。 70歳を過ぎて始めて本物の芸になると言われる能のしくみは、 インナーマッスルの強化にも秀れ、健康法にも通じています。
欧米を範としていた時代は既に過ぎ去りつつあります。 近代が私たちから奪った自然との交感を、 タイムカプセルのように閉じ込めて今に伝えられているのが能です 。せっかくこの日本に生まれたのであれば、 これに触れていただきたいと思います。 ものを習うのに遅過ぎると言う事はありません。 どうぞご興味を持たれましたら、 是非とも実際に自分でお稽古してみて、 能をご覧になって頂きたいと思います。
最後に、祝言の謡『高砂』の最後の部分「千秋楽」 をお聞き下さい。本日はどうもありがとうございました。
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