2016年8月16日火曜日

「羽衣」私論

第十回吉田城薪能で今年2回目の「羽衣」を致します。「羽衣」のあらすじについてはこちらをご参照下さい。

もともと「羽衣」は人気の曲ですが、今年これだけ舞う機会を得られたのは、やはり私自身の「『羽衣』論」が影響していると思います。最初にこれについて書いたのは、既に一昨年になりますが、先日も中津川でこのお話しをしていて、多少簡潔に纏められるように思います。



「羽衣」私論  〜〜ワキは何故「白龍」か?〜〜


「羽衣」の冒頭にワキの漁師白龍が名乗り、それに続けてこう謡います。
万里の好山に雲たちまちに起こり。一楼の名月に雨初めて晴れり。
 このままですと雲が起こったのに、雨が晴れるという意味不明な一節になります。これには原詩があり、そこでは
千里の好山に雲たちまちに斂まり。一楼の名月に雨初めて晴れり。
 となっています。収斂の斂は収と同義で収まることですから、こちらですと、雲が収まって雨が晴れて、と素直に情景が浮びます。これを作者或は伝承者が間違えたとは考えられません。何故、「千里」が「万里」に変り、「雲収まり」が「雲起り」に変ったのでしょう。私はこれは、
どこか遠い場所で、何か事件が起りましたが、それは解決しました。
 という内容の暗示だと思います。さらに読み進めると、三保の松原の情景を描いた後、
忘れめや山路を分けて清見潟。遥かに三保の松原に。立ち連れいざや通はん。
と謡いますが、これにも本歌があります。
忘れずよ清見が関の浪間より霞みて見えし三保の松原 
「西の方から清見ケ関を越えて来て、海を挟んでこの三保の松原を眺めたら、その美しさはとても忘れられるものではない。」三保の松原の漁師と名乗りながら、この白龍は清見が関の西から山路を通って来るのでしょうか?いやいやこれは本歌の引用であって、そういう意味ではないのでしょう。ならば何故わざわざこの歌をここに用いたのでしょうか。
それはこの歌が宗尊親王の歌だからではないでしょうか。宗尊親王は鎌倉幕府の六代将軍です。
作者は六代将軍に関係する事件が既に解決したことをここに暗示しています。

世阿弥が室町幕府の六代将軍足利義教によって佐渡に配流されたのは1434年です。赤松満祐が義教を暗殺したのは1441年。暗殺後、義教によって不当な流刑に処せられていた大名や貴族は次々と都に帰還を赦されます。残念ながら世阿弥が佐渡から戻って来たという記録は見つからないようですが、小次郎信光の賛に1443年に亡くなった記載があり、そこには亡くなった土地などの記述が何もないことから、佐渡ではなく都か故郷か分りませんが、とにかく申楽の人々にとっては平穏な死を迎えたのではないかと、推測されるのです。羽衣冒頭の言葉はこれを踏まえて書かれたと思われます。

このことを念頭に「羽衣」を見直すと、これは過ちを犯した漁師白龍が、過ちを認めてこれを改め、天女は赦して舞による功徳を与える、という曲ではないでしょうか。

そもそも音阿弥・三郎元重が義教の贔屓を受けるのは、将軍になる以前、青蓮門院義円であった頃からの事です。その頃、かつての四代将軍義持は、子供の五代将軍義量病死の後、次の将軍を定めないまま大御所として幕府の運営に当っていました。義持の健康状態は万全ではなく、次の将軍が誰になるのか諸人の注目するところでした。その候補者の一人である義円と、世阿弥の間に抜き差しならない因縁があったとしたら、世阿弥はどうするでしょうか。将軍の贔屓による多くの芸能者たちの浮沈を目の当たりにして来た世阿弥にとって、自らが作り上げて来た大和猿楽存続のためには、義円の将軍就任は避けたかったはずです。しかし、政界の実力者三宝院満済が義円支持に傾いていることを知り、一座の後継者の中で、一番の年長者であった三郎元重を義円の元に送り込んだのだと思います。元重は首尾良く取り入り、将軍となり独裁を強める義教のもと、一座の繁栄を築いて行きます。
しかし、義教の世阿弥への迫害は思いの外に厳しいものでした。1430年に長年その任にあった醍醐清滝宮楽頭職を罷免されると、七郎元能は一座を離れて出家遁世します。この時に書き残したのが『世子六十以後申楽談儀』です。一座への圧迫に対して真っ先に起した動きが元能の出家であることは、この人の存在の重要性を物語るものと思います。
同年、観世太夫を世阿弥より受け継いだ十郎元雅は、吉野の天河辮才天に「心中所願の成就」を祈念して『唐船』を舞い、尉面を奉納しますが、その二年後の1432年、伊勢の安濃津で不慮の死を遂げます。これには様々な疑惑があり、南朝のスパイ活動が露見したとも、将軍の手の者による暗殺とも言われています。真実はともかく、『天鼓』の作者は将軍の暗殺を仄めかしつつ、この曲を書いたように思います。
さらにその二年後の1434年に世阿弥は突然佐渡配流を言い渡されます。七十を過ぎた老体を世阿弥は佐渡に運びます。
将軍は音阿弥を一層贔屓にして、その権勢は絶頂に逹したかに見えましたが、三年後の1437年、音阿弥は突然義教の勘気を蒙り、謹慎を言い渡されます。当時義教の突鼻はその先に流刑や不審死が待つ深刻なものでしたが、この時の音阿弥は赤松満祐の取り成しで十日程で赦されています。一体音阿弥は何をして義教の機嫌を損ねたのでしょうか。私は世阿弥の流刑の解除を訴えたのだと考えています。
将軍の元で一人勝ち状態の音阿弥でしたが、秀れた舞台をするには秀れた共演者が必要です。世阿弥と共に舞台を勤めて来た、囃子やワキ・狂言・地謡の名手たちが、老体の世阿弥が佐渡にある状況の中、音阿弥の相手を喜んで勤めたとは考えられません。如何に権勢の後ろ盾があるとは言え、芸能者の心情はそれほど単純なものではないはずです。
取り成したのが赤松満祐だと言うのも看過出来ません。四年後の1441年に赤松が義教を暗殺するのですが、屋敷に招いた将軍をもてなすために、赤松は音阿弥の演能を用意しました。まさに音阿弥が『鵜羽』を舞う中、将軍暗殺は決行されます。音阿弥がこの赤松の陰謀を知らなかったということがあるでしょうか。
今、この音阿弥はしばしば権勢欲に駆られた俗物として描かれますが、難しい将軍の元で大和猿楽の独占状況を作り出し、その後の猿楽繁栄の政治的基盤を築いたのはこの人の力によるものです。そしてその芸力は、後年名人の称号をほしいままにする秀れたものでした。将軍暗殺後、さすがに多少の衰退はあったようですが、八代将軍義政の頃には以前にも増す繁栄を築いています。その頃には世阿弥の娘婿の金春禅竹や、成人した十郎元雅の遺児・若き十郎太夫とも、共演しているようです。
もし、義教の寵愛を嵩に一座の繁栄を築き、世阿弥を佐渡に流したまま死なせてしまったら、このような状況はあり得ないように思います。音阿弥は赤松の暗殺に重要な役割を果し、世阿弥を佐渡から呼び戻したに違いありません。音阿弥は世阿弥に赦しを乞い、世阿弥はそれに応え、その後亡くなったのです。世阿弥の赦しは、芸能者たちに周知され、音阿弥のその後の発展の礎となりました。

天女が世阿弥に模され、漁師白龍が音阿弥をなぞっているならば、漁師の名前「白龍」は「伯龍」であり、伯父の跡を継ぐ龍の如き人、の意がそこに込められているのだと思います。

最初に述べた「羽衣」のワキの登場の場面に、もう一つ不思議なことがあります。そこに当然描かれるべき富士の姿が現れていません。富士が登場するのは、一番最後の場面天女が天上に帰って行くところです。ところで『富士太鼓』の富士と浅間の争いは、駿河の浅間神社での演能の後の観阿弥の死をなぞっている様に思えます。すなわち富士は観阿弥のことなのです。羽衣の天女の昇天は、観阿弥の象徴である富士の元へ世阿弥が召されて行くことに他なりません。天女の舞が「七宝充満の宝を降らし」たように、世阿弥の赦しは現代に至る能の繁栄をもたらしたことになります。

さてこの名曲「羽衣」の作者は誰でしょうか。世阿弥の佐渡からの帰還と、音阿弥への赦し、そしてその死を見届けた人物。私は七郎元能こそがその人ではないかと思います。能作についての伝書「三道」の相伝を受けながら、一作も創作の記録を残していない元能です。「世子六十以後申楽談儀」の冒頭に、
遊楽の道は一切物真似也といへども、申楽とは神楽なれば、舞歌二曲をもって本風と申すべし。
と記した元能こそが、後に武家式楽の下で完成され、今日まで続く能の姿を、明確に描き出した人だと思います。名前を残さない美学を貫いた人だったのではないでしょうか。

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