2017年1月21日土曜日

近代という病

昨日ある方と話していて、ちょっと驚いた事を聞きました。そして、なるほどそうだろうなと腑に落ちました。能に関係したお話ですが、能に限らず、しかしまさに能がそのことを象徴している、というお話しです。

江戸時代までの意匠・文様などでは、例えば向い鶴などの絵柄があると、必ず片方が口を広げ、片方は口を閉じていたのだけれど、明治以降ではそれが崩れて来て、今では両方とも口を閉じているのが殆どなのだそうです。言うまでもなく、口を開いているのが阿型で閉じているのが吽型であり、サンスクリットの最初の文字と最後の文字、則ち森羅万象がそこに包摂されているわけです。江戸以前は、文様を使用する場合その背後にある意味を承知していて、それを託したので、そういう些細な部分も決してゆるがせにしなかったのに対し、明治以降文様は単なるデザインに過ぎなくなり、見た目の面白さだけで細かなところはどうでも良くなってしまったというわけです。
しかもそれは日本だけの話ではないと言うのです。つまり産業革命以降近代が進むにつれその傾向が顕著になるとのこと。文様の意味などと言うものは、要するに呪術であり、近代以前のものであると言うことなのでしょう。

私が私淑する哲学者の井筒俊彦さんに依れば、空海は「世界は文字で出来ている」と言っているのだそうです。この場合の「文字」はもちろん私たちが言葉を表すのに使用する決まった形の文字だけでなく、全ての「もの」にはその物質的な側面と、それが意味する象徴的な側面が備わっている、と言うことなのだと思います。文様も言葉もその背後に或る象徴を包摂していると言う意味で、空海は両者を同じものだと言っているわけです。

さて近代が文様の象徴を無視し始めたと言うことは、最近になって言葉が空疎になって来ていることと繋っているのではないでしょうか。本来意味や象徴で満ち溢れているはずの世界がどんどん希薄になっている。それが人間にとって歓迎すべきものとはどうしても考えられません。

言葉が空疎になっていると言うことは、表現の上にも影響しているような気がします。「悲しい」と言えばそれで十分であるのに、悲しさを表現するために大袈裟な身振りをしたり声色を使ったりするのも、そういうことなのかも知れません。能ではそういう表面的な表現を本来嫌っていたように思うのですが、最近ではそれでは見所に伝わらないからと色々工夫しているわけです。しかしその工夫と言うものに、うっかりすると本来の言葉の力を蔑ろにする落とし穴が潜んでいるのかも知れません。

2017年1月19日木曜日

演能のご案内

演能のご案内を申し上げます


二月五日(日)鶴亀 緑泉会例会 於 目黒・喜多能楽堂

朝廷の初春の祝賀の席に、臣下が居並び帝の徳を賛え、吉兆の鶴と亀が舞を舞い、続けて帝自らが荘厳に舞います。


 謡の入門曲として親しまれている鶴亀ですが、演能の頻度はそれ程高くありません。劇性の全くない曲のため、面白さに欠けることは否定できません。また登場人物が皆、直面(ひためん。能面を用ず、自分の顔をそのまま面とする)なので、能面の力に縋ることもできません。しかしこのような曲にこそ、能の本当の力が凝縮されているのです。
 能舞台から発せられる波動は、寿福を施す恵みとなり、同席する人々に幸せと健やかさを与えます。能の舞には人知の及ばない領域から、自然の力を引き出してくる力があるのです。映像では伝わらないその力こそが、能の能たる所以だと私は常々考えています。
 装束は今回も山口能装束研究所の復原装束を拝借します。江戸時代の武士が精力を注ぎ込んだ美の品格をお楽しみ下さい。
 しかも今回は鶴と亀に適役を得ました。長らくお稽古に通ってくれている、松浦薫君と航君の兄弟です。能が大好きな二人と私との舞の競演を、是非とも能舞台見所で直接味わってみてください。