3月11日に九皐会の例会で『雲林院』を致します。
4月18日には自主公演『卒都婆小町』を控えていますが、
こちらもとても大切な舞台で、
本来ならもっと日程に余裕を持って臨みたいところです。しかし、
鎮魂の日に能を舞うのですから、
その意味をしっかり噛み締めて臨みたいと思います。
雲林院について
雲林院は世阿弥の作品とされていますが、
残されている自筆本とは特に後場が全く異なります。
しかし世阿弥の娘婿の金春禅竹の著作で言及されている雲林院は現
行のものと見られているとの事で、
かなり早い段階で現行の雲林院に近い改作がされていたようです。
前場は、伊勢物語マニアの芦屋公光(ワキ)が、夢に導かれて都北山の雲林院へやって来る、そして盛りの桜に浮かれて思わず枝を折り取ってしまうと、何処からともなく花守の老人(前シテ)が現れてこれを咎める件から始まり、歌問答で和解した後、公光の夢語りを老人が読み解いて、姿を消すと言う内容です。大変機知に富んだ言葉が連なり、長い台詞が多いにも関わらず、緩みの全くない問答が展開します。私はここには世阿弥より、観阿弥的な劇性を感じます。
原典に当たっていないので心許ないのですが、世阿弥自筆本も前段はこれと殆ど変わらないそうです。しかし後段は全く異なり、藤原基経(シテ)と二条后(ツレ)が登場して、伊勢物語で「鬼一口の・・」と歌われた鬼が、実は自分の事であると明かしつつ、業平との三角関係を再現するそうで、だとすればその劇性に益々観阿弥の存在が窺われます。
それに対して現行雲林院の後段は、ワキの夢に業平の霊が現れ、伊勢物語の品々を語って聞かせる事に内容が絞られています。そこに劇性はありません。
但し、語って聞かせると言っても、実際にはその語り(曲舞の形式で主に地謡が謡うのですが)に合わせて舞うのです。そのクセの詞章では、伊勢物語の東国下りが、実は内裏の中の出来事であると語る場面もあり、自筆本の鬼明かしと合わせて、伊勢物語の秘事を解き明かすことが、この曲の企みの一つかとも思えます。
そのクセ舞に続いて太鼓入り序之舞を舞うのですが、この構成は同じ伊勢物語に取材した『杜若』と共通しています。杜若のシテが二条后を思わせる花の精であるのに対し、雲林院は在原業平です。杜若では業平を「歌舞の菩薩」と言い、その化現としての花の精が舞を舞って成仏して行きます。雲林院では「歌舞の菩薩」の言葉は出て来ませんが、やはり舞を舞う事で成仏を見せます。
この、舞を目的とする後シテのあり方は、世阿弥の考案した所謂複式夢幻能の趣きです。
舞の波動は、能舞台に於いて場を共にする人たちにエネルギーを供給します。舞を見る事は、舞と場を共有する事であり、自然の癒しの力を享受する事です。能は祝祭であり、鎮魂でもあります。明治の頃西洋演劇が流入して来る中で、能は演劇ではない、と盛んに言われたのは、ここから来ています。勿論演劇にもその力はあると思いますが、面白さを捨てても其方に組みする姿勢は能の特徴ではないでしょうか。
その様な要素を能に組み込んだのは紛れもなく世阿弥でしょう。ですから雲林院の後段を改作したのを、世阿弥であると考えても良いのかも知れません。しかし私は世阿弥の子、七郎元能をその改作者にあげたいのです。世阿弥の教えを纏めた『世子六十以後申楽談儀』の冒頭で、申楽を「かぐら(神楽)」として舞歌二曲を至上のものとした元能です。世阿弥は申楽に、舞による癒しを導入しましたが、それこそが申楽即ち能であると言ったのが七郎元能なのです。
演能の曲目と言うのは、自分の意思で決まるものではないのですが、導かれて行く先々に元能の足跡が埋もれているのです。
能は特にそう言う曲ではなくとも、それ自体が鎮魂の儀式たり得ます。まして九皐会では、先代の二代観世喜之、先々代の初代喜之共に雲林院が最後の舞台だった為に、例年は命日の二月に追善の意を込めてこの曲を番組に入れて来ました。当日が大震災の日である事と含めて、大変な重責でもあるわけですが、私は私なりの舞台しか出来ませんので、せめて自分のブログくらいには、言葉を残しておきたいと思います。
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