『羽衣』は一般にも良く知られたお話しなので、しばしば入門用に演じられるのですが、標準では90分程かかります。前半の衣をめぐっての漁師と天女のやり取りから一転、後半の羽衣を身に纏ってからの舞が延々と長いのです。演劇として見ればこれは如何にも長過ぎると言う事で、その舞の部分をごっそり省略する『和合之舞』と言う小書(こがき。特殊演出の事)が作られ、更に短く省略して、60分から70分位で見せる事が多くあります。入門用の方便としては間違っていませんが、私たち能楽師の方が、余りにそれに泥んでしまっています。『羽衣』と言う曲は決してそんなお手軽な曲ではないのです。
詞章をとっても緩むところなく、美しい言葉で埋め尽くされています。分かり易く美しい曲だからこそ、初めて能を見る方にお勧めなのですが、本当に美しく演じるには、演じる方にもそれなりの覚悟がいるのです。
アインシュタインが来日の折に、昭和の名人、野口兼資の羽衣を観ていたく感動したと言うのも、さもありなんと思います。
私も以前から好きな曲でした。一番好きな曲は何ですかと聞かれて、羽衣と答える事も多いのですが、これはクラシックの演奏家が同じ質問にアイネ・クライネ・ナハトムジークと答える様なもので、時には少し考えてしまいます。
さて、五月の三渓園での三日連続能楽らいぶの初日に、古典の代表としてこの曲をしたのですが、新しい発見があり、改めてその素晴らしさを再認識しました。その事について少し書いてみたいと思います。
最初に前回の『天鼓』の様に、『羽衣』の内容をご紹介します。三渓園の時に書いたものの再録です。
〈羽衣〉
春爛漫。早朝の三保の松原に強い風が吹いて、漁師たちは騒がしい。
白龍(はくりょう。ワキ)もその中のひとり。白い砂浜に松原が続き、朝霞に月が浮んでいる。風月を愛でるなんて漁師の柄ではないけれど、この景色の美しさには心奪われてしまう。まして西の方から清見ケ関を越えて来て、海を挟んでこの三保の松原を眺めたら、その美しさはとても忘れられるものではない。急に風が変って波が荒くなるように見えるけれど、春にはよくあることで、すぐ穏かになる。
白龍(はくりょう。ワキ)もその中のひとり。白い砂浜に松原が続き、朝霞に月が浮んでいる。風月を愛でるなんて漁師の柄ではないけれど、この景色の美しさには心奪われてしまう。まして西の方から清見ケ関を越えて来て、海を挟んでこの三保の松原を眺めたら、その美しさはとても忘れられるものではない。急に風が変って波が荒くなるように見えるけれど、春にはよくあることで、すぐ穏かになる。
まだ小舟が多く浦に残っている中、早々と浜に上った白龍は、あたりの異変に気付き、松の枝にかかる美しい衣を見つける。拾って持って行こうとする白龍を呼び留めた美しい女は、自分が天女であることを明かし、その衣がなければ天上界に帰れないのですと、嘆き悲しむ。
その姿の哀れさ、美しさに打たれた白龍は、天人の舞楽を聞かせてもらう約束をして衣を返す。少し疑う気持ちもあったが、「いや疑いは人間にあり。天に偽りなきものを。」と天女の声がご託宣のように響いて、とても逆らうことなど出来ない。
衣を身に纏って天女は舞う。〈次第〉から始まり〈クリ〉〈サシ〉〈クセ〉と続く曲舞は、「東遊びの駿河舞。この時や始めなるらん。」と駿河舞の起りを説き起す形で語られて行く。
「永遠不変の天上界から、陰陽の二神イザナギとイザナミにより十方世界が分かれ、そのひとつの月の宮殿では、白衣の天女と黒衣の天女が十五人づつに分れて、満ち欠けを司る舞を舞っている。その私の舞を今この地に因んで駿河舞と名付けてこの世界に伝えましよう。」
この三保の松原の春の様子は天上の世界にも劣らない美しさ。そこに天女が舞を舞うと、自然の音も天上の音楽と聞こえ、落日の輝きも命の甦りを暗示しているようだ。
舞は永遠に続くかのように思われたが、天女の姿は空に上り、地上に祝福を与え、遥か富士の高嶺を目指して姿を消す。
〈羽衣終り〉
先程、この曲の詞章には何処にも緩みがないと書きましたが、それについて異論のある方もいらっしゃると思います。それはワキの白龍(はくりょう)が登場して、名乗りをした後の二句、「万里の好山に雲たちまちに起こり。一楼の名月に雨初めて晴れり。」です。これが何のことやらはっきりしません。雲が起こったのに雨が晴れたのでしょうか。名月って、もう朝になってるのに・・・。
謡本の辞解によれば、これには元詩があり初句は「千里の好山に雲たちまちに斂まり。」なのです。これなら二句目の「一楼の名月に雨初めて晴れり。」に素直に意味が通ります。雲が収まって、雨も上がり、名月がかかっていると言う事でしょう。それでは何故「千里」を「万里」と変え、「雲斂まり」を「雲起こり」に変えたのでしょうか。
これを暗喩と取るならば、何処か遠い所に問題が起こったのだけれど、今はそれも解決したと言う事になります。
これを暗喩と取るならば、何処か遠い所に問題が起こったのだけれど、今はそれも解決したと言う事になります。
次に注目したいのは、謡本の詞章ではその少し先、先程の内容を説明した中でいえば、「まして西の方から清見ケ関を越えて来て、海を挟んでこの三保の松原を眺めたら、その美しさはとても忘れられるものではない。」と訳した部分です。原文は「忘れめや山路を分けて清見潟。遥かに三保の松原に・・・」となっています。ここ迄三保の松原にいる視点で語ってきたものが、ここで突然対岸からのしかも清見ヶ関からの山路を超えて来る視点に横滑りしていて、大変印象的な部分です。
これにも辞解が付いていて、中務卿の歌「忘れずよ清見が関の浪間より霞みて見えし三保の松原」と言う歌が本歌だとあります。中務卿とは宗尊親王のことですが、宗尊親王と聞いて直ぐに分かる人は殆どいないと思います。私も知りませんでした。
宗尊親王は鎌倉幕府の第六代将軍で、皇族で初の将軍となった人です。将軍ではありましたが、幕府の実権は北条得宗家が執権として握っており、和歌を始めとする文化興隆に大きな貢献をした人です。最終的には謀反の嫌疑をかけられて将軍職を廃され、都に戻されて、父の法皇の死を機に出家したおよそ二年後に、三十三歳の若さで亡くなってしまいます。。
うっかりすると怨霊になりかねない、この様な境遇の人は、能の作者にとって気を配らなければいけない人です。それが当に歌人であれば尚更のこと。恐らくは数多い三保の松原を歌った歌の中から、宗尊親王の歌を選んだのも頷ける事に違いありません。
しかし私はもう一点、この人が「六代将軍」であることに注目してみたいのです。室町幕府の六代将軍は他ならぬ足利義教です。自分の贔屓の音阿弥元重を観世太夫にしたいばかりに、意のままにならない世阿弥を佐渡に流した張本人です。
この曲の作者は、義教に関係している事ですよと、ここにそっと六代将軍の歌を挟んだのです。しかもそれは万里の彼方に巻き起こった雲が晴れて、今は月が煌々と照っている、これの意味するところは世阿弥の佐渡からの帰還ではないでしょうか。
もう一点、富士の不在、つまりこの冒頭の三保の松原の絶景を描いている場面に富士が出てこない事も、この裏に世阿弥の存在を示唆しているのですが、それについては稿を改めたいと思います。
さてこの『羽衣』はどの様な曲でしょうか。ワキの白龍が犯した過ちを悔い改め、シテの天女はこれを赦して、舞の功徳を白龍に施す、即ち和解と赦しの曲ではないでしょうか。
佐渡に流された世阿弥が、戻って来たのか来なかったのか、確かな資料はまだ見つかっていませんが、嘉吉の変で義教が暗殺された後、その庇護を失った音阿弥が一時の退嬰をしのいで、八代将軍義政の下で以前にも増す勢威を振るうのも、世阿弥の赦しがあったればこそではないでしょうか。
曲の終盤、クセの終り近くにこんな詞章があります。「落日の紅は染め色の山を映して」と。『歌占』にもある様に「染め色」は「蘇命路」です。天女は曲舞に続き、序の舞、破の舞と舞い、更に舞いながら、当に舞い尽くして富士を目指して天上界に上って行きます。これは世阿弥の昇天に他なりません。そこには観阿弥の象徴である富士が(おっと、稿を改めるのでした・・・)、美しい姿で迎えています。その命は能と言う芸能に結実して、蘇り続けています。
このように読んでみると、『羽衣』とは、世阿弥最晩年の出来事を象徴する、和解と赦しの曲であるということになります。
このように読んでみると、『羽衣』とは、世阿弥最晩年の出来事を象徴する、和解と赦しの曲であるということになります。
さてさて、如何でしょうか。
全く私の見当はずれな思い込みでしょうか。
処でこの曲の作者は誰でしょう。
それについては、調べなければいけないこともありますので、またの機会にしたいと思います。
全く私の見当はずれな思い込みでしょうか。
処でこの曲の作者は誰でしょう。
それについては、調べなければいけないこともありますので、またの機会にしたいと思います。
平成26年6月21日記す
中所 宜夫