2014年6月9日月曜日

「能の裏を読んでみた」予告編。曲目紹介 『天鼓』

今、書き物をしているのですが、その中で能の曲目の内容を紹介する部分があります。
一般的なあらすじや曲の紹介などよりは詳しく、かと言って逐語訳と言う程ではなく、それとなく私なりの解釈を入れてあります。

ここではその中から『天鼓』という曲の紹介の部分を、予告編として公開します。この曲の解釈から始まって、「能の裏」を読んでみると、そこには意外な世界が展開されていました。


 後漢の帝に仕える臣下(ワキ)が登場し、少年天鼓の不思議な物語を語る。「この国の傍らに王伯王母という夫婦がいる。子どもが一人いて天鼓と言う名前なのだが、これは母親が夢で、天から鼓が降り下って胎内に宿るのを見て生れた子どもだから名づけられたのだ。その後、天から本当の鼓が降り下った。少年がこの鼓を打つと世にも妙なる音がして、皆に感動を与えた。帝はこれを聞き、鼓を内裏に召し上げようとしたが、天鼓はこれを惜しんで鼓を抱いて山中に隠れた。結局見つけられて、鼓は内裏に召し上げられ、天鼓は呂水に沈められた。ところが内裏に召し上げられた鼓は、誰が打っても音が鳴らない。ひょっとして主との別れが原因かも知れないから、父の王伯が打てば鳴るのではないかということで、これから王伯を召し出すために訪ねるところだ。」
 一方王伯(前シテ)は、我が子を失った悲しみに沈んでいる。「この儚い世に年老いたこの身はどれほど生き伸びると言うのか。また再び秋を迎えてしまった。聞けば孔子ほどの人でも長男と死別した時は悲しみに胸を焦がし、詩聖と言われる白居易も子どもに先立たれて枕に残った薬を恨んだと言う。私のようなものがこれを悲しんでも咎めはあるまい。と思えば思うほど涙はとめどなく流れてくる。あまりに悲しくて、いっそ思い出さずにおこうとさえ思う。恨みを抱いた人が絶対忘れぬものかと深く心に刻むよりも、この私の悲しみはせめて忘れることが出来たならどんなに良いかと、もっともっと深く心に染み込んでしまっている。ああどうしてこのような苦しい世を生きながらえねばならないのだろう。」
 王伯は勅命を聞き、罪人の父親だから連座させられるのだと、その非情さに慄然としながらも、我が子のために死ぬのなら本望、せめて帝の顔なりとも拝もうと内裏まではやって来る。しかし宮殿の威風に足は萎え、ひたすら赦しを乞う。他意はないと役人は言うが、重い身体を鼓の前に進めるのが精一杯で、深い悲しみに捕えられ、なかなか鼓を打つことができない。日も暮れて行く。生前子どもが時を知らせる鼓を打っていた頃合いだ。しかし今は子どもは亡くなり自分はここにこうして鼓を前に泣き伏している。とても現実のこととは思えない。何とも恨めしいことだ。
 再度鼓を打つように急かされて、老人は力を振り絞って鼓を打つ。妙音が静寂を破る。これぞ親子の絆の声と、さしもの帝も大いに心を動かした。
 帝は老人をねぎらい、天鼓の跡を弔うように命じる。臣下が呂水に赴いて、管弦講(かげんこう)を催してその供養をしていると、天鼓の亡霊(後シテ)が波の上に現れ、供養を喜び礼を謝す。臣下に勧められ、天鼓は華麗な演奏を披露する。まもなく夜も明けるかと白々して行く中にも、天鼓の亡霊は鼓を打ち続け、夢かと思うほどなく、その姿は幻となって消えてしまう。

1 件のコメント:

  1. コメントがなかなか入れられませんでした^^;
    時代の変化についていけない、お年頃です。
    あいかわらず、ネットでの囲碁は続けています。
    最近は、囲碁キッズいうサイトで仲間が集まっています。

    すっかり、能のほうはご無沙汰というより、義理を欠いています。

    なんとか、能の芸術と心を体感できるように努力しなければと思います。
    外国の方々が、能舞台の観賞に見えるにつけ、少なからず反省してます。

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