2014年7月6日日曜日

日本解放と能『葛城』

 村松恒平さんのメルマガが、久しぶりに届きました。この人がどういう人なのかを説明するのは難しいのですが、三・一一以後にツィッターで知り合いました。最近になって、私の舞台も見て下さっています。
 末尾にご本人も奨励されていますので、以下にメルマガ本文の全文を掲載します。


〈以下〉
村松恒平のシークレット・ドクトリン
第5号「日本解放呪術の方法論」

今月の一文(from facebook)

●●

こうなったら おまじないででも、日本をなんとかしたい、という皆様に贈ります。

■誰にでもできる簡単な日本解放の呪術のやり方

意識を地面の下に深く深く下げていきます。
そこに囚われた日本の神々がいます。
そのエネルギーを感じたら……

刀で神を縛っているエネルギーの鎖を断ち切ります。
解き放たれた神のエネルギーは光や熱を放ちながら地上に向かって上昇してきます。

これで神は解放されますが、上昇してくるエネルギーの一部は必ず自分のうちに取り込んでください。

それがあなたのエネルギーになると同時に、神様への回路となります。

いつも内側 に神様を感じてください。

●●ここまで●●

2014年7月1日、僕はfacebook上で一つの呪術の方法論を公開しました。

今回は『感覚』について論じるつもりでしたが、緊急に上記の原稿に差し替えます。
文中「こうなったら」とは、7月1日、安倍政権が憲法解釈を歪めて、集団的自衛権を使えるように閣議決定したことに対するものです。

平和憲法という日本国の背骨を一内閣の恣意が歪め、戦争への道を開くものです。

米国に「自由社会の危機だ」と言われたら日本人が戦場に行かなくてはなりません。戦場に行って戦闘に巻き込まれない選択肢はありません。
「国際法上、戦闘の前には宣戦布告をしないといけない」と言われています。

つまり戦争の当事国になるということです。

そういう選択をすべて内閣の一存で塩梅すると言っているのです。

読者の中には、安倍政権のこの決定を支持している人がいるかもしれませんが、それは、戦争への距離がまだ遠いと思っているか、戦争になっても自分は構わないと思っているかどちらかだと思います。

どちらも間違いです。

読者として僕が書いてきたものへの信頼があるなら、もう一度虚心に反対意見に耳を傾けてください。

**
■日本解放呪術の解説

実際に一度してみてから読むことを勧めます。

*

地中に意識を下ろして行ったときに、そこに囚われた神のエネルギーを感じることができましたか。
囚われた神のエネルギーというのは、わだかまりのようなものです。
エネルギーがそこに溜まって解放されたくてうずうずしている。
ほのかな熱や圧力があります。

本当にあるかないかの、ほのかなものでいいのです。
それは一つの感覚の開発です。

なぜなら感じない人もいるからです。
ある人は感じる。
ある人は感じない。
そこにあるのは、感覚器官が開花しているかどうかの差です。

物質の感覚はたいへん強く明瞭です。
それと同様の確かさを探し続けると、ついに新しい感覚を得ることができません。
これではないのではないか、という疑いの雑音は感覚より強いからです。

ほのかにぼうっとイメージしてみる。
これは違うんじゃないかとは思わないことです。
そのような疑いを捨てると安定してきます。

イメージして感じることには人為操作があります。
つまり人が意識的に投影する。
それを過度に警戒すべきではありません。

投影してほのかに感じる。
それでいいのです。

投影しなくても受動的に確かなものを受信する。
それは霊能者の世界です。
「見える」者だけが特権を持つ世界です。
こういう特権的な世界は嘘が入りやすい。
投影することを認めると、目に見えない世界は特権的なものから広く誰でもアクセスできるものに変わるのです。

目には受信する機能と投影する機能の2つがあります。
僕のやり方はそれを同時に使います。
それによって、誰でも目に見えないエネルギーに対する感覚を持つことができます。

地中に囚われた神、上昇してくるエネルギー、自分の中に入って来るエネルギー、これらが少しでも感じられれば一つの儀式の成就になります。

自分の中にエネルギーが入って、ぽっと身体が温かくなるような感覚がある。
それは、イメージの世界から身体という物質に通じる世界にエネルギーが移行したことになります。

イメージしなければ起きなかったことが、イメージすることによって身体内部で起きた。このささやかな差異、揺らぎ、ブレをテコに利用するのです。

自己催眠や自律訓練法でも身体が実際に温かくなったりします。
しかし、科学の領域に神という概念はありませんから、一人の個体の中でその働きは終わってしまいます。
それでは中途半端なのです。

さて、身体に反応が現れることでイメージは象徴になります。
象徴とは何かは説明が難しいのです。なぜなら象徴は次元を超越した存在だからです。
ここでは象徴は「イメージが結晶した物質」と考えましょう。

ピラミッドパワーとか、神社のお守りとか、カバラの生命の樹とか、物質的な象徴はたくさんあります。
しかし、人の身体ほど象徴の塊のような存在はありません。
というのは、人は神様の最高傑作ですから、神様のイメージが結晶しているのです。

ダンスや演劇はもともと、その象徴性に基づく儀式であり、鍛錬であり、顕現であったのです。

象徴自体はエネルギーではありません。エネルギーを誘導し、転換する装置です。一つの例をあげれば太陽光に対するプリズムのようなものです。
正しい位置にセットすれば、虹色が見えますね。

象徴はこの比喩だけでは語れませんが、きれいだからいいでしょう♪

僕のしている内臓ダンスとシンクロームは、この象徴のささやかな揺れを使って、身体を縛っているタガを外していきます。
その結果、大きな変化を得るものです。

内臓ダンスは内側から象徴を創造的な状態にします。シンクロームは象徴によって外から働きかけ、身体の自然性を回復します。

身体の中はつねにある状態で均衡しているのです。つなひきで両方で同じ力で引き合っている。
50対50の力があるとしますと、そこに1の力をくわえてやるだけで、大きく動きだすのです。

僕はこの力は小さければ小さいほどいいと考えています。
というより力でない力のようなものがいい。
均衡だけ崩せばいいのです。

「ダムの崩壊も蟻の一穴から」というでしょう。
蟻が這い出るような小さな穴から水が一筋流れ出す。でもその水がゆっくり周囲をうがっていく。水の流れは次第に大きくなって、最後にはダムを崩壊させてしまう。

ここで大切なことは、水の圧力は自然のものであり、ダムは人為であるということです。人為ではなく、自然のほうに味方する。そうすれば、最小の干渉で最大の効果が出るのです。

今は何事もパワー、物量の世の中ですから、ささやかな力を人は見ません。しかし、物事を自然に還すのは、微力のほうがいい。
なぜなら強い力であれば、それは人為になってしまって、自然と溶け合わないからです。

医学では、人を「こわれもの」として扱います。僕は人の身体を自然という観点から見ます。
生命の自然は健康に生きていることです。

だから、自然に戻してやるのに、最小限の力を使って行く。
それが象徴の力です。

象徴の力を使う体系は、魔術とか呪術と呼ばれてきました。
何かおどろおどろしく複雑です。

なぜそんなに複雑なのかというと、一つには簡単だとありがたみがないからです。

たとえば、祈祷師が護摩壇を作って、轟々と火を焚き、何日も呪文を唱え続ける。そうすると、高いお金が取れます。
助手がその間にあれこれ調べたり工作したりすることもできる。
病気平癒であれば、時間を稼いでいるうちに自然に、あるいはプラセボでよくなることもある。
だからなるべく大げさにしたのです。

僕のはミもフタもないくらいシンプルです。
真空管がトランジスタになったくらい(古い!)高度に集積化されてシンプル
です。
ごまかしようもありません。
だから高いお金をとれません。
それは多くの人に知ってもらいたいからです。
その意図にも関わらず、ちっとも広がらないのは困ったことです(笑)。

というわけで僕は、象徴の力を健康という自然に対してだけ使っていましたが、今回の危機に際して、その原理を日本全体に対して使うことを解禁しました。
象徴は、お寺の石庭で仏教的な全宇宙を表現したりするものですから、大きさはあまり関係ないのです。

象徴は大きさではなく、角度なのです。たとえば5度の角度は小さい。しかし、5度の開きのある線分をどんどん伸ばして行くと、遠くに行くほど二つの線分は離れていきます。
地上で5度の差でも、太陽の当たりまでいくと……計算できませんが、すごい
差でしょう(笑)。
でも5度は5度なのです。
その微妙な差異を作り出すのです。

だから、身体に有効であったものが、日本全体に有効であってもさほど不思議ではないのです。

その働きは自然に戻すことです。
僕はいま日本は明らかにバランスを欠いていると思います。
バランスを欠いているということは、新たな均衡への動きのエネルギーを秘めているということです。

そのエネルギーが地中に囚われている神です。
これが動き出す。
その結果がどうなるかはわかりません。
いわば眠っているドラゴンを起こすようなものです。

集団的自衛権の閣議決定が自然であるならば、そちらが力を得るかもしれません(僕はとてもそうは思いませんが)。

上昇してきたエネルギーの一部を自分に取り込むのはここです。
どこに行ってしまうかわからないエネルギーではなく、自分が一部を取り込むことによって一体になるのです。
一体になることによって恐怖がなくなります。
自分も神の一部になる。
僕の神という言葉は自然という言葉を代入してもらってかまいません。
自然イコール神です。
イコールであるにも関わらず言葉を使い分けているのは、日本語の用法の中で二つの言葉が分かれさまざまに使われているからです。自然という言葉か神という言葉か、どちらか一つに全部統一してしまうと、たぶん読者の人はしっくりしない表現が出て来ます。

神と一体になるということは、自然と一体になるということです。
これによって自分も余計な力が抜けて自然な生き方になります。
神様とつながっているのだから、人為でがんばる必要がありません。

自分自身のもやもやした曇りをなくして、すっきりしましょう。
個人が抱えているもやもやが集まって、もっと大きなもやもやを形成します。

小さなもやもやが消えると大きなもやもやも消えます。
世界と自分はつながっているのです。
そのつながりの感覚がなくなると、人は自分自身を浄化できなくなります。

それで、日本を戦争の方向から救えるのか? それはわかりません。
ただいくつかのスイッチが入って、エネルギーが流動的になることは間違いありません。
エネルギーは流れているのが自然で、固着しているのは、人為的な要素が入っていてよくありません。

それと、祈りは結果を求めてはいけません。
神社でお祓いをしても、結果の追跡調査はしませんね。
そのとき浄化が起きればそれが結果です。
それが波及していくところは追いません。

世界平和を祈る、ということがありますが、これは結果を求めています。
しかし、実現していませんね。
祈りが足りないからとか、そういうロジックになってしまっては隘路に入ってしまうのです。

平和という結果を求めては、自分が大金持ちになりたいと祈る願望実現と変わらなくなってしまうのです。
金持ちになりたいのはエゴで、平和は崇高だというのも違います。
自分がイメージする平和を祈るのはエゴと変わりません。

祈りというのは、これがよい、これは悪いという判断を含んではいけないのです。あの人はいい人だから幸せにしてください。あの人は悪い人だから懲らしめてください。
それはその人の考える善というエゴです。
エゴがあるのはかまいませんが、それを善だとか理想だとかと混ぜてはいけません。
そうすれば、善を自分のエゴまで引き下ろすことになります。

僕にとって祈り、呪術、おまじない、シンクロームといったものは、力学です。
エネルギーに関する理解です。
地球内部にあるドロドロのマグマ、それはエネルギーです。
しかし、それが噴火によって噴出して冷え固まった溶岩、それはエネルギーではなく物質です。
結果は冷え固まった溶岩のようなものです。
溶岩はもう動きません。
僕らはまだエネルギーの段階で働きかける。
だから結果も変えることができるのです。

かつての左翼運動では、基本的にこのようなイマジネーションの意味を認めませんでした。
社会主義は唯物論ですから、物質的な過程に関わらないことは現実逃避だと思われたのです。

でも、実際は変化が起きます。イマジネーションと身体が変わるのです。

デモに行っても、警官隊や柵が隊列を阻みます。
結局何も変えられないのではないか、という閉塞感に囚われることもあるでしょう。
精神を閉塞させてしまっては何もなりません。
しかし、イマジネーションは誰にも止めることができません。

止めるものがあるとしたら、自分自身だけです。
まず自分自身のアンバランスを取り除いていきます。
そのような自由な空間でイマジネーションを創造的に動かしていくことが全体のエネルギーの可動性を高めるのです。

facebookにこの呪術を載せた夜、何人かの人がシェアしてくれました。
実際に試してくれた人もたくさんいます。
僕も何か地中から動き出すエネルギーを感じ続けて感動しました。

このメルマガが送られた日もやはり感じると思います。あなたももしこの行法を自分でしてみてください。そのあと、心をしんとさせれば他の人のエネルギーを感じるでしょう。それは勇気になります。

ぜひ試してみてください。
この呪術は一日一回。そのあと地中にエネルギーを感じる限り、何回行ってもかまいません。
なにしろ日本には八百万の神がいるのです!

日本のエネルギーを解放しましょう。

(このメルマガは出典さえ明記すれば、ブログやfacebookに一部、または全部を転載してもかまいません。とくに今回は多くの人にこの日本解放の呪術を知ってもらいたいと思っています。呪術だけの転載、全体の転載が可です)

〈以上〉


 さて、ここで村松さんが書いていらっしゃる呪術の方法は、能楽師にとっては何も特別な事ではありません。具体的なやり方は勿論違います。ここでイメージを使って象徴を作り出すのと同じ状況を、能では謡う事、舞う事、お囃子の音楽やあの不可思議な舞台装置、さらには能面と能装束に至る迄、その全てを挙げて作り出しているのです。
 地霊を解放して自らの中に取り込み、その寿福をその場に立ち会う全ての皆様と共有する、能はそういうものであるからこそ、舞台芸能の宿命から離れて、六百年の命脈を得ています。表面では、人間の感情を扱っているような曲でも、その根底には古代から続く呪術が色濃く在るのです。
 いやむしろ能ではその様な呪術性を、舞歌の包装で包んで表面上見えない様にしている事も重要なのかも知れません。
 さて、表題に掲げました『葛城』(能では「かつらぎ」ではなく「かづらき」と発音しています)は、当に地霊を解放することを扱った曲です。

〈葛城について〉
 出羽の羽黒山の山伏(ワキ)が葛城大峰に参り、折しもの大雪に山中で道を失い困っていると、一人の中年の女が現れて、山伏一行を小屋に案内する。
 女は山仕事で採って来た薪を焚いて暖を施しなどするのだが、その際に薪の事をシモトと古語で呼んだり、古くから土地に伝わる大和舞の事を仄めかしたり、山伏と葛城の事など物語りなどしながらもてなす。
 火によって荷物を乾かす事の出来た山伏は、日課の勤行を始めようとするのだが、女は悩みがあると言い加持を頼む。色々と尋ねると、女は自分が葛城の神で、役行者に課せられた岩橋を掛けなかったために、術で身を縛られて苦しんでいる、どうか助けて欲しいと、山伏たちに頼んで姿を消す。
 一行が祈祷していると、葛城明神が岩戸の中から、蔦葛で雁字搦めになった姿で現れる。更に祈祷を続けていると、戒めから解き放たれた神は、厳かにやがて軽快に舞を舞って山伏たちを祝福するが、夜の明けるとともに容貌の露わになるのを恥つつ岩戸の中に姿を消す。
〈葛城終り〉

 能では一日の演能を、翁に続く神男女狂鬼の五番立てとするのが正式なものとされて来ました。そしておよそ二百番の演目を、夫々、神物、男物、女物、狂い物(現在物)、鬼物に分類しています。
 その中でこの『葛城』は分類に困る曲です。シテは紛れも無く神様ですが、山伏に救済を頼まなければいけない程無力な神様です。初番に演じるには相応しくありません。と言って幽玄を志向する三番目の女物でもなし、仕方なく四番目に入れはしても、狂い能でも劇的現在能でもありません。
 そう言う類型から眺めた時、一体この曲は何を志向して作られた曲なのか不明です。まつろわぬ民の存在を掘り起こすにしても、どうしてこの様に描くのか疑問でした。

 しかし今回の村松さんのメルマガを読んでいたら、ああ、葛城はこれだ、と思い当たった訳です。地の底に閉じ込められた古い神を解き放ち、そのエネルギーを自らに取り込む。呪術の方法として、そう言う物が実は昔から存在していた、その一つの証しを『葛城』に見ることが出来ます。

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