2015年12月18日金曜日

『羽衣』を舞います

来春の演能のご案内です。相模湖交流センターで『羽衣』を舞います。最初に作品についてのお話をして、休憩の後に能を舞うと言う企画です。能を舞う前にお話をするなど、本来は避けたいのですが、羽衣は一寸特別なのです。
何がどう特別なのかは当日のお楽しみとして、 以前にも載せた文章ですが、 羽衣のあらすじを再掲します。
ところでこの会場となる相模湖交流センターは、 高尾駅からひと駅ですので、 それ程遠くありません。 是非お出かけ下さい。





〈羽衣のあらすじ〉
 春爛漫。早朝の三保の松原に強い風が吹いて、漁師たちは騒がしい。
 白龍(はくりょう。ワキ)もその中のひとり。白い砂浜に松原が続き、朝霞に月が浮んでいる。風月を愛でるなんて漁師の柄ではないけれど、この景色の美しさには心奪われてしまう。まして西の方から清見ケ関を越えて来て、海を挟んでこの三保の松原を眺めたら、その美しさはとても忘れられるものではない。急に風が変って波が荒くなるように見えるけれど、春にはよくあることで、すぐ穏かになる。
 まだ小舟が多く浦に残っている中、早々と浜に上った白龍は、あたりの異変に気付き、松の枝にかかる美しい衣を見つける。拾って持って行こうとする白龍を呼び留めた美しい女は、自分が天女であることを明かし、その衣がなければ天上界に帰れないのですと、嘆き悲しむ。
 その姿の哀れさ、美しさに打たれた白龍は、天人の舞楽を聞かせてもらう約束をして衣を返す。少し疑う気持ちもあったが、「いや疑いは人間にあり。天に偽りなきものを。」と天女の声がご託宣のように響いて、とても逆らうことなど出来ない。
 衣を身に纏って天女は舞う。〈次第〉から始まり〈クリ〉〈サシ〉〈クセ〉と続く曲舞は、「東遊びの駿河舞。この時や始めなるらん。」と駿河舞の起りを説き起す形で語られて行く。
 「永遠不変の天上界から、陰陽の二神イザナギとイザナミにより十方世界が分かれ、そのひとつの月の宮殿では、白衣の天女と黒衣の天女が十五人づつに分れて、満ち欠けを司る舞を舞っている。その私の舞を今この地に因んで駿河舞と名付けてこの世界に伝えましよう。」
 この三保の松原の春の様子は天上の世界にも劣らない美しさ。そこに天女が舞を舞うと、自然の音も天上の音楽と聞こえ、落日の輝きも命の甦りを暗示しているようだ。
 舞は永遠に続くかのように思われたが、天女の姿は空に上り、地上に祝福を与え、遥か富士の高嶺を目指して姿を消す。
〈あらすじ終り〉


2015年10月15日木曜日

オトダマコトダマ〜阿吽〜

この月を跨ぐ再来週末の催しです。
この作品がどんなものかお話するのはとても難しいのですが、一昨年にくにたち芸術小ホールの企画公演として初演してから、相馬市、豊橋市と舞台を重ね、その度毎に高い評価を頂戴しました。
今回もくにたち芸術小ホールの企画による再演です。これは一昨年の舞台を評価して下さっての事と思います。そして、今回は再演としてのグレードアップを要求されました。
前回は紋付袴での舞でしたが、今回は面装束を着けての舞台になります。地謡も加わって頂く事になりました。
前半の詩人は、私の顔をそのまま面とする、直面(ひためん)で致しますが、後半の精霊をどんな姿で舞うのか、この部分は石牟礼道子さんの詩「花を奉る」を能の形式に仕立てたのですが、なかなか迷う処です。
今現在、一応の心積りは出来ていますが、さてどんな姿となりますか、どうぞ楽しみにして下さい。

2015年8月13日木曜日

『唐船』について

九皐会の八月例会で『唐船』を致しました。

この曲は子方が四人ないし二人必要なため、(今回は年長の子どもの役である唐子は、子方卒業生の大学生と高校生が演じますが、それでもしっかりした二人の子どもがどうしても必要です。)また専用の大掛かりな船の作り物も必需で、劇能としてはなかなか良く出来た面白い曲であるに関わらず、あまり上演されません。『誓願寺』『白鬚』『呉服(くれは)』など、振り返ってみると最近は稀曲が多く、お相手を願う仲間の能楽師には迷惑を掛けています。この曲も、若い頃からずっと子どもの弟子に恵まれて来た中で、兄弟で能が大好きな今回の二人とこの曲をやってみたいと思って選んだ希望曲でした。

しかし、実際にやってみると、私の最近の主題である、観世七郎元能(拙著『能の裏を読んでみた〜〜隠れていた天才〜〜』)の影がこの曲の周辺に色濃く、まるで呼び寄せられたかのように感じています。

兎に角不思議な曲です。その曲想も倭寇を扱った他に類例の無い異相の物ですが、何より不思議なのは、永享2年(1430年)世阿弥の子、観世十郎元雅が心中所願を祈念して吉野山中の天河弁財天で『唐船』を演じ、阿古部尉の面(おもて)を奉納している事です。
尤もこれについては異論があり、元雅が、能面を奉納したのは事実だけれども(現にその旨裏書に書かれている尉面が天河弁財天に伝えられています)、唐船を舞ったと言う記録は何処にも無いから、そんな変わった曲を態々こんな所で舞ったはずは無い、と言うのです。
しかし、変わった曲と感じるのは現代の人間であり、現在通説となっている元雅を取り巻く人間関係では、唐船を舞う必然性が見えて来ない、と言う事なのでしょう。しかし、そう言う伝承があるのは、成る程唐船を奉納する気持ちはよくわかると言う了解事項が周辺にあったからで、よしんば唐船を舞わなかったとしても、十郎元雅を取り巻く人間関係を此処から推し量る事が出来るのではないでしょうか。

〈能『唐船』の内容〉
九州筑紫の箱崎何某(ワキ)が登場し、唐土(もろこし)と日本の間に船の争いがあり、互いに船と人員を収奪している旨を述べる。箱崎某の元には祖慶官人と言う人がいて、十三年に亘り牛馬の世話をさせていると言う。
場面変わり、唐土明州(みょうじゅう)の港から「そんし」と「そゆう」の兄弟(子方またはツレ・唐子)が、別れて十三年になる父の祖慶官人を求めて、船出する。箱崎の浦にやって来た兄弟は領主箱崎某に面会し、宝に代えて父を連れて帰りたいと訴える。
箱崎殿は祖慶官人を放牧に使役しているとは言えず、物詣で留守だと言い繕い、家人に命じて官人には裏から帰るよう指示をする。
また場面変わり、二人の小さな子ども(子方。日本子)と祖慶官人(シテ)が引き縄と鞭を手に、牛馬を放牧している。海際に広がる小高い丘に牧草地があり、松林を風が吹き抜ける中、牛の親子が気持ち良さそうに鳴き交わしている。家畜の世話が辛いと嘆く二人の子供に、官人は七夕の牽牛星の例えをあげたり、秋の花咲く野を一緒に歩く楽しさ等を語り聞かせなどしている。
時に官人の胸には望郷の念が溢れ、唐土に残して来た二人の子供の事が頻りに思い出される。また当地で儲けた目の前の子供二人も可愛くて仕方がない。もしこの二人がいなかったなら、松の枝が雪の重みで折れてしまう様に、この身も悲しみの重さで死んでしまっていたに違いない。
「さてさてそろそろ家に帰るとしよう。」「お父様。住んでいらした唐土でも、こんな風に牛馬を飼っているのですか。」「そうだとも。華山とか桃林などと言う所があって、これは花の名所でもあるのだよ。」「唐土と日本では何方が優れた国なのですか。」「いや、それはとても比べられない。九牛の一毛の例えの様なもんだ。」「そんなに楽しい所なら、さぞ故郷が恋しい事でしょうね。」「いやいや。お前たちが生まれてからは、帰国する事なぞ思いもしないよ」と、親子は話しながら帰って行く。松風の音も遠くなり、間も無く箱崎に戻って来た。
待ち受けていた箱崎殿から、そんし・そゆうの事を聞き、驚く官人は、身ずまいを整えて唐子の二人と対面する。
「これは夢ではなかろうか。もし夢ならば何しろこの地は箱崎と言うのだから、蓋が開く様に夜が明けて終わってしまうかも知れない。」
しかし夢ではない。春宵一刻値千金と言うけれど、子程の宝が他にあろうかと、皆感慨深く見守っている。
箱崎殿とその周りの人々は、唐土と言うのは情の通わない夷(えびす)の国だと聞いていたけれど、こんな孝行な子どもがいるのだなあと、感心頻り。箱崎の神様も受け容れて下さったのだと、父官人は感謝の祈りを捧げる。
そうこうしているうちに西に向かう追風が吹き始めた。船頭がそんしに知らせ、そんしが父官人に知らせ、官人は箱崎殿に暇を乞う。快く帰国を祝う箱崎殿であったが、置いて行かれそうになった日本子の二人が同行を訴えると、二人は此処で生まれたのだから此方の物だとばかりに帰国を許さない。早く船に乗れと急かす唐子の二人と、置いて行かないでと訴える日本子二人に挟まれて困り果てた官人は、子どもたちの為なら命が消えても惜しくはないと、岸壁から身を投げようとする。慌てて四人の子どもが駆け寄って引き留めると、心は弱々と崩れて泣き伏してしまう。
この有様に心を打たれた箱崎殿は、日本子二人の同行を認める。再び箱崎の神に拝礼した官人は、早速四人の子どもと共に入江に碇泊している船に乗り、喜びの舞楽を舞う。
船で奏でられる音楽は唐様の楽。始まりの荘厳な雰囲気に舷を打つ波の音が鼓の如く囃し立てる。官人の船中の舞は次第に興に乗り熱を帯びる。陸から見送る人々が盛んに振る手は追い風となり、船で舞う官人が袖を翻すと、それもまた追風となる。いよいよ船が帆を掲げると、風を孕んで勢いを増し、唐土に向かって帰って行く。
〈終わり〉

この曲の作者として名前の上がっている外山吉広(とびよしひろ)と言う人は、全く謎の人物です。他に作品もありませんし、第一「とび」と呼び習わすのも春日大社庇護の大和猿楽四座、結崎座(観世)円満井座(金春)外山座(宝生)坂戸座(金剛)の外山座関係者と比定した上での事なのでしょうが、外山座の系図の様なものは手元になく、確かめる事が出来ません。
世阿弥作と伝える資料もある様ですが、これは眉唾です。しかし世阿弥作と考えても差支えない作品の出来と思います。また何より謡の詞章に於いて、世阿弥の作品を踏まえた表現が随所に見られ、これは世阿弥と共に演能や創作を手掛けて来た人の手になるものと想像出来ます。
その為、七郎元能に入れ込んでいる私には、外山吉広は観世元能の仮の名前に違いないとも、思われてなりません。

そもそも冒頭に書きました十郎元雅による永享2年の天河での奉納は、七郎元能が『世子六十以後申楽談儀』を著し、出家して一座を離れた直後の事です。
私は七郎元能こそが、本来なら世阿弥を継ぐ人だったのではないかと思っています。将軍義教からの数々の迫害を逃れる為に、彼が一座を去る事がそれなりの重みを持っていたとすれば、また、去るに当たって世阿弥からの教えを一書に記さなければならなかった事を思えば、七郎元能が本来の後継者だったにも関わらず、何らかの事故で身体に障害を負い、太夫を弟の十郎元雅に譲った上に、精神的指導者として一座を纏めていたと考えても良さそうに思います。
義教に贔屓にされている三郎元重の共演者として観世五郎と言う名前があるそうです。今仮に、一方に三郎元重と五郎、もう一方に七郎元能と十郎元雅を置いてみると、年長の二人の上に将軍義教のいる事が、唐船とは異なりますが、唐子と日本子の板挟みで苦しむ祖慶官人の姿が世阿弥その人と見事に重なります。
日本子を取り込もうとする箱崎殿が改心しさえすれば、四人仲良く同舟する事が出来る、即ち義教の恣意の下に引き裂かれる兄弟と親子の復旧、その一事を願って元雅はこの曲を奉納したのではないでしょうか。
そして、そんな都合の良い曲が元々からあった訳ではなく、元より芸道修練にこそ執着し、名前を挙げる事に興味のない元能が、外山吉広の名前を使ってこの曲を創作したのです。

シテが日本子と三人で登場して、もしこの二人の子がいなければ生きてはいられなかっただろうと述懐する場面に「老い木の枝は雪折れて、この身の果ては如何ならむ」と言う言葉がありますが、これなど吉野の山奥にこそ相応しい言葉です。

処で最近、六代将軍足利義教について実は英明で秀れた人物だったと言う再評価をする人がいます。
非常に不安定な幕府の運営を、将軍の独裁を強める事で、安定した平和を築こうとしたと言うのです。そして義教の行為を織田信長に先行するものとして、その先見性を称えています。癖の強い性格はその天才の副作用であると。
井澤元彦氏の『逆説の日本史』でこれを読んだ時は、とても面白いと思ったのですが、その後世阿弥周辺の物語を考えているうちに、やはりこの説には組し難いと感じる様になりました。
『唐船』の詞章に面白い一節があります。若い時に地謡がついて一生懸命覚えた時には、とても面白いとは思えませんでしたが。
唐子と対面なって喜んでいる親子を取り巻く人々の言葉です。
「唐土は心なき夷(えびす)の国と聞きつるに・・」
自尊も此処まで行くと逆立ちしてしまうのか、と呆れるばかりですが、箱崎殿が義教であるならば、独裁者を取り巻く偏狭な国粋主義を思わせて、今のネトウヨを予見しているかの様な一節です。
義教と言う人は、父義満の幻影を追いながら、現状には則さない政策を、強引に推し進めて行った人です。その禍いが現代に降りかかろうとは。


2015年7月6日月曜日

第二回 能楽談儀


今週の土曜日に、八月に九皐会で致します『唐船』についてお話致します。「第二回能楽談儀の会」。7月11日(土)午後2時から、於 くにたち・松陽閣。参加費三千円です。

2015年6月26日金曜日

村松恒平さんのシンクロームについて。そして「啓示」。

六月十四日に『誓願寺』の舞台を終え、次の舞台の案内もしなければいけないのですが、その前に舞台直前に受講した、村松恒平さんのシンクロームのワークショップについて書いて置きたいと思います。早や二週間。随分前の事の様な気がします。



シンクロームは「私」と「体」を分けて考える処から始まります。
しかしこれは考えるまでもなく、皆が身体を意のままにならないものと思っています。別のものと認識した上で、「私」が「私の身体」を制御している、その制御の仕方について考えてみようと言うのが、シンクロームの始まりではないかと思います。

ワークショップは、私たちの認識が如何に世界を限定的に見ているかと言う処から始まり、その限定を解除すると今まで出来なかった事が可能となる事を示唆して、「内臓ダンス」に進みました。
普通私たちは、内臓は制御出来ないと考えていますが、実はそうでもないと教えてくれます。
最初に肺を動かしますが、肺は呼吸によって割と意のままに動かす事の出来る臓器でしょう。それでも普通の呼吸法とは異なり、臓器としての肺の動きを感じる事が出来ました。
 次の肝臓は物言わぬ臓器と言われるそうですが、この肝臓のダンスは驚きでした。目を閉じて言葉に導かれ、音楽を聴いているうちに、肝臓と思しき身体の内部が音楽に合わせて活発に動き始めるではないですか。身体もつられて動き始めているのがわかります。動きを意識していてはとても出来ない様な軽快で複雑なダンスを踊っていました。

「意識」と言うものはなかなかやっかいなもので、身体を駆使する技術を磨くには意識が必要ですが、いつまでも意識が残っていては駄目で、意識せずとも出来るようになってこそ技術として使い物になります。しかし、すっかり身についたはずの技術も、何かの拍子で意識が戻ってくると、途端に危ういものになってしまう事がしばしばあります。

今「意識」と言いましたが、村松さんはこの曖昧な言葉を敢えて避けているようです。代わりに使う言葉は「言葉」です。「私」と「身体」の間にあるものを、イメージ・シンボルとしてそれを「言葉」で動かしてやるのだそうです。肝臓のダンスは当にそれでしょう。

「私」と「身体」の間にあるもの。村松さんはそれを「磁気ボディ」と名づけました。
一粒の種から植物が育つ。一個の受精卵から人間となる。種、卵である段階で既に設計図が出来上がっています。その設計図は何でしょう。普通はDNAだと答えるでしょう。しかし、DNAはその設計図の物質的側面でしかないと村松さんは考えます。磁気ボディにその設計図は描かれています。磁気ボディは、身体=自然と私=言葉とを繋いで影響を与えています。
健康な時、磁気ボディは身体とシンクロしています。このシンクロが破れた時、身体は不調となり病気となります。本来、磁気ボディは身体を良好に保とうとしています。その本来の働きを阻害するものを取り除いてやれば、身体は自然に治ってしまいます。

さてこの「磁気ボディ」です。気功法における「気」とも少しずれています。気は磁気ボディが身体を正常に保つために働かせる道具ということになるでしょうか。気功法の世界では、その効能ばかりが喧伝されて、その背後にあるものに対する理論的な探求が少ないように思えます。いや、むしろその効能が余りにも強力なので、その制御法に忙殺され、その原理については安易に触れるべきではないとしている様に思えます。磁気ボディの考え方からすると、気功法は使い方によっては自分を傷つけてしまうかも知れない非常に強力な道具を正しく使うための方法を、暗闇を手探りで探るようにして獲得してきたということでしょうか。
村松さんのお話の中で非常に印象的だったのは、西洋医学の薬は勿論、漢方も気功法もシンクロームからすれば強過ぎると言う言葉でした。

シンクロームでは身体の不調を回復するために、本来シンクロするはずの磁気ボディと身体との間に詰まっている障害物を取り除く、と言うことをします。具体的には患部に狙いを定めてネジを抜くように手を動かします。実はこの部分が私はよくわからない。何故ネジを抜くのか。「螺旋状のエネルギー」と言う言葉があり、その時点では何となく了解したのですが・・・。

さて、以上のようなまとめを書こうとしていた時に、昨日(平成27年6月25日)村松さんが「啓示」を受けたとのFBへの投稿がありました。以下に全文を掲載します。

【反重力の啓示】
難解であろう啓示を書く。
*
……。
今日、奇妙な啓示があった。
奇妙と書いておくが、既成概念の枠内にあり、位相的にもズレていないものは啓示の名に値しない。
したがってあらゆる啓示は奇妙なのだ。
その啓示は、以下である。
「人の身体は反重力装置だ。解明されている力学の範囲内でもあらゆる創造がなされているが、未知の力学においても完全に反重力のシステムが組み込まれている」
これを証明するには、空中浮遊でもしてみせるしかないが、今のところできそうにない。
まず重力、地球の中心に落ちて行く垂線を正しく感じるところから始めないといけない。
この啓示は、次のような啓示とつながっていた。
「身体は意識が完全に規定する」
意識が変われば身体は変わるということだ。
たとえば、わたしたちは光を感じたい、色を見たいと思って眼を作り出した。
音を聞きたいと思って耳を作り出した。
香りを嗅ぎたいと思って鼻を作り出した。
味わいたいと思って舌を作り出した。
触れたいと思って指を作り出した。
意識自体が直接身体に作用するのではない。
意識は磁気的な偏在を作り出す。
磁気は次第に凝縮し、精度高く組織化されて、磁気の有機体を生み出す。
これをシンクロームでは磁気ボディと呼んでいる。
磁気ボディが物質的な肉体の設計図となり、物質的な要素を引き寄せる。
意識という言葉は多義的だが、これが最も深い定義となる。
磁気ボディは、DNAに先立つ。
DNAは、磁気ボディの可視化、物質化されたインデックス、スイッチボードである。
物質化されることによって新たな便宜が生じたであろうが、本質は磁気ボディにすでにある。
なぜならDNAもまた磁気ボディによって形成される。
逆ではない。
では、「意識を変えれば、身体を変えることができるか?」
当然可能である。
むしろ、「個人史的な時間で可能か、人類史的な時間が必要であろうか?」 と問うほうが実際的であろう。
この問いに答えるためには、
「そもそも意識を変えることは可能か?」
と問わなければならない。
あるいは
「いかにすれば意識を変えることが可能か?」
と問うほうがよりよいかもしれない。
以下の問いのほうがさらによいかもしれない。
「いかにすれば意識を本来のあり方に還すことができるか?」
このような派生的な問いをある程度解明すれば、問うべきは時間ではない、とわかってくるであろう。

実はこの文章を読む前に、私は上でのまとめとして、「磁気ボディは無意識の領域の一番浅い領域で身体を司っているものなのだろうか」と書こうとしていました。しかし、ここには「意識という言葉は多義的だが、これ(=磁気ボディ)が最も深い定義となる。」の一文があり、村松さんは磁気ボディを意識領域内の事と考えているようです。

この「啓示」については、またいつか改めて書くことになると思います。

2015年6月15日月曜日

「能は演劇ではない」と言うこと

昨日の『誓願寺』を見に来て下さった村松恒平さんが、フェイスブックに素晴らしい「能入門」を書いて下さっています。
能を観ると相変わらず眠くなる。
これはなんだろう、と昨日観ながら少しばかり考えた。
体感されたことを書くだけだが、ふだん身体のことを考えない人には難解かもしれない。
 
*
能は身体で観る部分が多い。
身体は言葉を理解しない。
言葉でなく、食物でなく、空気でなく、私たちが体内に取り込むもの。
それは印象。
言葉以前の印象とは何だろう?
それはもちろん言葉にすることができない。
言葉にした時点で印象ではない。
絵画の印象派は、言葉にせずに絵にした。
言葉よりはずっと近い。
印象派の印象を、視覚的効果に限定せずにとらえると、そこで受け取られるものには眼に見えないエネルギーがある。
 
能はそのエネルギーを観る。
エネルギー的に観ると言ってもいい。
*
 
私たちが観るという場合は、主体と客体が分かれている。
私という「主体」があって観る。
舞台、あるいは演者という「客体」があって観られる。
ところがエネルギーとしてとらえたときには、舞台から観客席が大きな水を張った「たらい」のようになる。
そのエネルギーのたらいが大きく波立つ。
波立つとき、私たちも「浮き」のように、その波と同期して上下する。
ここにおいて、私たちが一般的な演劇を観るときのような主体と客体の関係や視線は成立しない。
そのような主体を保とうとすると、眠くなる。
浮きの視点になって揺れながら観ている。
これに身を任せると、たいへん心地よい時間が訪れる。
これが昨日体感されたことである。
さらに観て行くともっと深い観点も出てくるかと思う。


私たちの一世代前の能楽師は敗戦を経験し、価値観が反転して行く中で、能が今後も活きた芸能であり続けるためには、どうあるべきかと言う事を切実に模索し、その中で観世寿夫先生を中心として「能もひとつの演劇である」として今日までの隆盛を築いて来たように思います。
一方私が多くの教えを乞うている江戸期の能装束を研究なさっている山口憲さんは、「能は演劇ではない」と繰り返し仰います。私自身どちらかと言うとこちらの方に心魅かれます。
私も一時期「能の新しい可能性を探る」と言っていた事がありました。しかし表面的な新しさは、能が能たる所以から外れて行くばかりで、そうして作られたものに余り魅力を感じないのです。

では「能が能たる所以」とはどういう事なのでしょうか。上の村松さんの文章はそこを直撃していると思います。眠たさについて考えてこの一点に至るとは、完全にしてやられました。
このブログで以前にも村松さんの事を書きましたが、その世界観の独自さに、新しい指標を私は感じます。


さらにコメントのやりとりの中にも次のような一文が・・・

能ははっきり動作していない時間がたくさんあります。そのときに象徴的な力が働くのです。人の身体は止まっているときにむしろ、震動しています。いわゆる波動を発していますね。この象徴言語を武士社会が理解していたということのようです。

コメントの前半部分は良く言われる事です。象徴言語と言うのは、普通の言語が音声によって記号化されているのに対し、「波動」によって内実を捕えることだと思います。さらに、もちろん「象徴言語」などと言う言葉は使いませんが、それを武士社会が理解していたという指摘は、江戸時代の武士にとって能は自分たちの存在の根源に関わる不可欠のものだったと言うことを踏まえた上でのことです。
私が書くと、今と言う視点から武家社会を見てしまうのに対し、村松さんの文章では武家社会の中から能を見ているような印象を受けます。

本文の最後で書かれているように、もっと能を見ていただいて、さらに深い視点を私達に示して欲しいものです。今後とも宜しくお願いします。

2015年6月2日火曜日

『誓願寺』を舞います

以前に『誓願寺』について書きましたが、いよいよ本番が迫ってまいりました。皆様是非お出掛け下さい。

◯6月14日(日)緑泉会例会    午後1時開演(会場 12時30分)    於 喜多能楽堂(目黒駅より徒歩7分)能      清経        鈴木 啓吾狂言  柿山伏     山本 泰太郎    仕舞3番能      誓願寺     中所 宜夫(誓願寺の始まりは、3時過ぎ頃)チケットのお申込みは私の方で承ります。


以前の記事にも書きましたが、私は世阿弥が初めて書いた複式夢幻能がこの曲なのではないかと考えています。それを意識して稽古をして来て、先日ふと思った事があります。
前段の夜念仏の場面、これは謡ではロンギと呼ばれる形式で、地謡とシテとの掛け合いが長々と謡われる場面です。

地「早や更けゆくや夜念仏の。聴衆の眠り覚まさんと。鉦打ち鳴らし念仏す
シテ「ありがたや五障の雲のかかる身を。済け給わばこの世より。二世安楽の國にはや生れ往かんぞ嬉しき
地「げに安楽の國なれや。安く生まるる蓮葉の台の縁ぞ真なる
シテ「ありがたや。ありがたや。さぞな始めて弥陀の國。涼しき道ぞ頼もしき
地「頼みぞ真この教え。或は利益無量罪
シテ「または余経の後の世も
地「弥陀一教と
シテ「聞くものを
地「ありがたやありがたや。八万諸聖教皆是阿弥陀仏なるべし。この御本尊も上人もただ同じ御誓願寺ぞと。佛と上人を一体に拝み申すなり
 一読して「ありがたや」が何度も出てくるのが印象的です。この中の二度目のシテ謡の中で初めての弥陀の國と言い、また往生の事を「涼しき道」と言っていますが、この辺りに世阿弥が得た神秘体験の痕跡を求めるのは穿ち過ぎでしょうか。

また、後段で長大な序の舞を舞った後に謡う言葉、

    一人なお佛の御名を訪ねみん
               各々帰る法の庭人

これを世阿弥の決意と読むと、宗教的高揚感だけではない、この曲の奥深さが出て来る様に思います。

さてさて色々と書きました。世阿弥は「秘すれば花」と仰っています。さしづめ私などは、何もかも喋ってしまう愚か者です。その愚か者の顛末。是非是非当日会場にて見届けて下さい。


2015年5月23日土曜日

北上・慶昌寺 花まつり能楽らいぶ

毎年六月の第一日曜日に岩手県北上市煤孫にあります慶昌寺で花まつりの御供養の後に「能楽らいぶ」をさせて頂いています。

今年は『敦盛(あつもり)』を致します。世阿弥の修羅能の名作で、非常に人気の高い曲です。この曲で世阿弥は修羅能を完成させたのだと思われます。
若い演者が演じる事の多いこの曲。私も独立して最初にシテをしたのがこの曲でした。今回は長男の真吾にシテをやらせ、私は地謡と蓮生法師を致します。

そして今回はトークゲストにたいわ士の南山みどりさんをお招きしました。「たいわ士」って何?と言う事から、能とたいわの共通点、さらにどうして『敦盛』が修羅能の完成なのかを、お話してみたいと思います。

ところで「たいわ」の中には胎話と言う事が含まれています。そう、南山みどりさんは胎児や赤ちゃんとお話が出来ます。当日の会場に妊婦さんや赤ちゃんがいたら、その実際が見られるかも知れません。

私に南山さんを紹介した知人の話です。
あるギャラリーに南山さんをお連れしたところ、そのスタッフの中に妊婦さんがいて、みどりさんはちょっといいですか、と断ってお腹に手を置くなり、「赤ちゃんがお風呂に入りたいと言ってます」と言ったそうです。スタッフ始め会場にいた人たち、騒然。聞けば、その妊婦さん、忙しくて面倒なので最近お風呂に入っていない、と言う話をしていたのだそうです。
さてさてこの話本当なのでしょうか。
みどりさんに、赤ちゃんの言葉はどう言う風にわかるのですか?と尋ねたところ、何となく浮かぶのです、と言うお答えでした。それだけならば、個人の特殊な能力とも、極端な話、作り話とも解釈出来るでしょう。ところがみどりさんは、プロのたいわ士養成と言う事をされている。私も少し探って(^^)みたのですが、これは素養のある人ならば修得可能な特殊技能と言う印象です。

上で言いましたこの「何となく浮かぶ」がキーワードです。能とたいわ、「何となく伝わる」、そして触れた人に癒しを施す。
故に『敦盛』!・・・

いやいや。ここから先のお話は是非当日会場で。って、私の思惑通りに話が進むかどうかは、わかりませんが、ライブと言うのはそう言うもので、だからその現場にいなければならない訳ですね。

皆様。北上の慶昌寺はとても行きにくい所ですが、それでも敢えてお誘いします。どうぞ6月7日午後2時始め、「花まつり能楽らいぶ」にお出かけ下さい。

2015年5月15日金曜日

紐育三日目「下駄!」

ツイッター、フェイスブックで書いていますが、紐育に来ています。
随時投稿していますが、偶々昨日の昼間はWi-Fiの調子が悪く、投稿しようとして出来なかったので、Textwell に書いておきました。
書き始めたら取り留めなくなり、クロイスターズの素晴らしさを書こうと思いながら、下駄の話題になってしまったので、取り敢えずこれをアップします。

写真は地下鉄を降りてからクロイスターズに向かう途中の道。この公園もなかなかに素敵でした。



五月十四日紐育三日目。クロイスターズ美術館に来ました。
昨日はメトロポリタン美術館の本館にいったのですが、当初から此方の別館を是非と人に勧められていて、今日が本命です。
宿泊の宿から本館へは歩いても行ける距離で、昨日は時差ボケもあって朝早く目覚めた為早くに出て歩きました。セントラルパークに着いてからは公園の中を彼方此方蛇行して、それでも一時間はかかりませんでした。午後三時からの稽古に備えて、昼過ぎまでの駆け足拝観でしたので、あまり確かな事は言えませんが、本館は玉石混交、浅いとは言いませんが兎に角広い。主にギリシャ、エジプト、東洋(中国・韓国・日本)と見ましたが、途中に通り抜けたアフリカの展示が面白く、エジプトは以前の大英博物館での感動に及ばず、ギリシャには仮面土偶とそっくりの人形があって少し面白かったけれど、中国の展示では何かの企画で、音楽を流したり、デザインドレスを着せた人形を展示品と並べたりして、どう言う意図があるのか測りかねるものでした。
帰りには地下鉄を初めて体験して、宿に帰りましたが、チケットの買い方が分からず、近くにいた方に教えてもらいました。
今日の別館は、少し遠い。宿から地下鉄を乗り継いで一時間程。でも課題を解決する順番としては、家から段々遠くへ行くと言う事で、無理のない選択でした。
此処クロイスターズ美術館は大変素晴らしい。時間をかけてやって来た甲斐がありました。
ところで此処に至るまで、私は何時も通りの着物に羽織袴、下駄履きで行動しています。まぁ色んな視線が飛んで来ますが、気になっていたのは、どうも皆服装よりも足元に目線が行くのですね。今日はこの公園の手前の駅を降りたところで、声をかけられました。足元を指して、快適か?痛くないのか?と聞いて来るので、流石の私にも分かりました。確かに色んな国の人がいて、私程変わった格好は少なくても、それには余り驚かない、けれど下駄は確かに日本でも履いて歩く人は殆どいませんから、目を引く(耳に障る?)のでしょうね。
序でに下駄について言えば、確かに凸凹の固い道を歩く時は、かなり気を使います。先日伊勢神宮に参拝した時には砂利道に苦労しました。しかし舗装の行き届いたところでは、雪駄や草履よりもうんと楽に歩けます。まぁ慣れが必要ですが。
運動工学の事はわかりませんが、靴での歩きは蹴り足が基本となる様に思います。下駄は倒れながら足を前に送って行きます。雪駄で蹴って歩くと固い地面に足裏が直ぐ痛くなってしまいます。蹴らずに歩けば良いのですが、その身体の使い方が下駄の方が楽なのですね。

2015年5月6日水曜日

『誓願寺』について

『誓願寺』と言う能があります。凡そ二時間を要する大曲の上に、例えば『野宮』も二時間に及ぶ大曲ながら、「源氏物語」中でも珠玉の名場面「賢木」の物語を背景に、六条御息所の美しい姿を描いて人気曲であるのに対し、その様な文学的情趣に乏しく、またワキに一遍上人、シテに和泉式部を配しながら、踊念仏の開祖たる融通無碍の魅力を描くでもなく、恋多き宮廷歌人の苦悩を描くでもない、つまり演劇としてこの曲を見た時、その構成に興趣をそそられない事などが相まって、長いばかりで退屈な能と言うのが、大方の評価かと思います。
しかし私は、世阿弥の創作過程を辿る上で、この曲を大変重要な曲と考えています。そして、何故世阿弥がこの曲を書いたのかを考えてみる時、この曲ならではの魅力が見えて来るのだと思います。

私は六月十四日(日)に緑泉会例会(於 目黒・喜多六平太記念能楽堂)でこの曲を舞います。本来ならば舞台の前にこの様な事をくだくだ書くのは本義に外れているのかも知れません。しかし短くもない二時間です。どんな曲か全然知らなかったけれど、舞台上のシテを観ているうちに語ろうとする事が分かり、その姿から目を離す事が出来なかった、と言う様な理想は未だ未だ先の事です。また何よりこの曲について、私の様な事を考える人も余りいないようですので、その辺りを少し書いておきたいと思います。

先づ、能『誓願寺』の概略です。

熊野に参籠し、夢の告を受けた一遍上人(ワキ)は、「六十萬人決定(けつじょう)往生」の御札を配ろうと都に上る。念佛の教えに多くの聴衆が集まる誓願寺。一遍から御札を受ける人々の中に、信心深げな気品高い一人の女がいる。札を見て「六十萬人しか往生出来ないのですか」と女が尋ねるのに、一遍は熊野の夢想で示された四句の文の頭の字が「六十萬人」なのだと答え、その子細を語る。 
六字名号一遍法(南無阿弥陀佛の六文字で表される佛の名前は、それだけで一つにして普遍の世界の有り様を表している。)
十界依正一遍体(それが分かれば、この世界全体が一つにして普遍の存在であると感得する事になる。)
萬行離念一遍証(そうすれば全ての修行が雑念を離れ、世界が一つにして普遍である事を明らかにしてくれる。)
人中上々妙好華(この念佛行を行う人は、人の中でも上々の位の人であり、蓮の花の様な存在である。) 
女は忽ちに了解し、一遍と共に教えを喜ぶ。やがて念佛は夜半に及び、法悦境も頂点に至るかと見えた頃、女は思わぬ事を口にする。
「いかに上人に申すべき事の候」「何事にて候ぞ」「誓願寺と打ちたる額を除け。上人の御手跡にて。六字の名号になして給わり候へ」。
余りの事に住処を尋ねる上人に、「わらわがすみかはあの石塔にて候」と答え、あれは和泉式部の墓だと聞いていますと言う一遍に、それこそが私の名前ですと答えて、石塔に寄って行く。俄かに石塔から光が射して姿を消す。 
一遍が六字名号の額を掲げると、和泉式部が歌舞の菩薩として、二十五菩薩と共に現れる。辺りは清浄な光に照らされて、極楽世界のようだ。この誓願寺が極楽世界に変じるのは何の不思議もないのですと、式部は曲舞を謡い舞を舞う。 
「此処は天智天皇の創建の尊い寺で、その上、ご本尊は春日明神がお作りになったもの。神佛の違いは水と波の様なもので、この日の本では春日明神が二人の菩薩の姿となってこれを作り、衆生を済度して下さるのです。つまりこの如来様は毎日一度は西方浄土に通って、死後の往生を約束して下さっているのです。
歌舞の菩薩が語る様は阿弥陀如来の姿と重なる様だ。
辺りには天上の歌が響き、尊き方々が来迎されている。昔お釈迦様は霊鷲山に一人いらしたが、今は有難い事に、西方浄土から阿弥陀如来が観音菩薩として様々な姿で衆生の前に現れて助けて下さる。この恩恵に浴する念佛の行者は、何の苦労もなく浄土に至り、その楽しみには限りがない。その道を辿っていると知れば、邪心の引き起こす迷いも無くなる。悟りを得る西方浄土も、この誓願寺からは遠くない。ただ心の持ち方一つで此処こそが浄土なのだと拝むのです。」 
歌舞の菩薩が様々な佛事をなし、清浄の気が辺りに満ちる。暫しその法悦境に浸っていると、思いは現実世界に生きる自分に帰って来る。
其処で一人なお、南無阿弥陀佛と称えるのです。
その一人一人の称名の声が大きな響きとなり、虚空には天上の歌が流れ、甘やかな香りに包まれて花が雪の様に降る。菩薩たちは舞い乱れ、一遍上人の教えを讃えて、六字の額に礼を尽くす。
この誓願寺で繰り広げられたこの有様は、本当に得難く尊い、有難い事であった。

大変長くなってしまいましたが、お読みいただければ分かる通り、此処に恋多き女流宮廷歌人としての和泉式部の姿は全く描かれていません。和歌の一首さえ歌われないのです。
和泉式部をシテとするもう一つの『東北(とうぼく)』と言う曲は、明らかに、その奔放さ故に眉を顰めて語られるその人の生に、文芸者故の超越を重ねて、歌舞の菩薩としての美しい舞を舞わせています。二つの曲を比べて見た時、明らかに『誓願寺』が前で『東北』が後の作品です。一曲の構成や詞章の洗練もそれを裏付けています。

『誓願寺』は偶々誓願寺に和泉式部の墓と伝えられる石塔があったので、シテを和泉式部に設定したのであって、もし其処に清少納言の墓があれば清少納言をシテとしたと思われます。そう言う意味で、この曲の主眼はむしろ一遍上人に据えられていると言えます。

ところが一遍上人の生涯に目を転じれば、確かに三熊野での霊夢は時宗草創の一大画期ではありますが、御札賦算時の女信者との六十萬人問答や、和泉式部の幽霊との遭遇説話(この説話自体、本曲以後の創作である可能性も高いのです)などは、後々踊り念佛を創出した後の諸国遍歴の姿などに比べれば、さして魅力を感じません。作者の目は一遍上人の上にもそれ程の重きを置いていないのです。

それでは作者は本曲で何を描こうとしたのでしょう。それは私には、霊夢を得て己れの道を定めて歩き始めた者を、歌舞の菩薩が祝福する、その一事にあると思われます。

哲学者の井筒俊彦氏によれば凡そ東洋哲学に共通する神秘主義には、例えば坐禅による悟りや、神の啓示、霊夢などの神秘体験が実体験としてあり、また多くの優れた芸術家にもそれを窺わせるものが確かにあるとの事です。最近の人では宮澤賢治は当に神秘家でしょうし、古代では空海がそうでしょう。夢幻能を作り出した世阿弥がこれに列なるのは当然の事と思います。

観阿弥は非常に優れた役者であり劇作家でしたが、物狂いや神懸かりと言う現実世界の現象としてしか超越世界を捉えていません。世阿弥の天才と特異さはこの点にあります。

他でもない世阿弥が何処かで何らかの神秘体験をしたのです。歌舞の菩薩と言う存在を作り出す訳ですから、それは本番か稽古かはわかりませんが、舞を舞っている最中の事かも知れません。

それでは何故、己れの神秘体験を投影する素材として一遍を選んだのでしょうか。おそらくは芸能民も含めた「道々の者」達にとって、一遍は念佛の教えを自分達に広めた特別な存在だった事もあり、また、一の谷近くで終焉を迎えた上人の足跡が大変に親しいものだったからだと思います。

以前に「『自然居士』と『東岸居士』」を論じて、『東岸居士』を、世阿弥が初めて曲舞を作り、其処に自分の独自性を確立して行こうとする宣言の曲だと断じた事がありますが、その『東岸居士』の曲舞も一遍法語の引き写しでした。

私はこの『誓願寺』こそ、世阿弥の最初の夢幻能だと思います。後々の多くの傑作に繋がる「歌舞の菩薩」が登場する最初の曲でもあるでしょう。

今回シテをするに当たり、比較的早くから稽古に取り組む事が出来ました。夜念佛の一段ではその法悦境がひしひしと押し寄せて来るのを感じます。願わくはそれを当日見所の皆様と共有できます事を。

2015年5月3日日曜日

『日本国憲法の曲舞』解題

『日本国憲法の曲舞』を公開します。
以前から憲法の前文を謡に作れないかと考えていましたが、赤坂真理『愛と暴力の戦後とその後』からヒントを貰い、草稿の英文にあたりました。

解題

福島第一原発の現状を思えば、今更護憲運動をしても虚しく思えます。
しかし赤坂真理さんは上の本の中で、戦争は時に非常に美しいものを生み出す、と言う様な事を書かれています。この本は様々な示唆に満ちていますが、私が最も胸を突かれたのはこの部分でした。それは能が戦乱の中から生まれ、戦乱により育まれ、徳川時代の太平の世に至って漸く完成されたものだからです。

日本国憲法は、先の戦争に負けて生まれました。実態不明の国体に拘り、民を消耗品としてしか見なかった愚かな指導者が、数百万の国民を無駄死にさせ、その亡国の廃墟の中から生まれて、燦然と私たちの父母たちに光を与えた事は、例えそれが押し付けられたものであれ、現憲法の栄光に間違いありません。その最大の魅力である国際平和の希求は、人類の歴史の中で絶えず求められ、その度に踏み躙られて来たものです。真にそれを実現するには、私たちは余りに愚かだったのでしょう。そう言う意味で、現在の私たちは過去の人々と全く変わらず愚かであり、自分たちが優れた民族であると思っている分だけ、余計に救いようがありません。
ここで私が、優れた民族であると言うのは、能が日本にあるからです。

能は、南北朝の戦乱の中から生まれました。足利義満は武力で幕府を維持出来ない現状から、文化行政により社会の安定を図ります。金閣寺はその一つの成果ですが、禅宗の普及も能の創設もそれに当たるのだと思います。
因みにたった今思いついたのですが、「能」と言う言葉がどうして生まれたかと言うと、これは「芸能」から「芸」を削って、芸の土台として基礎にある、人の中の優れた姿を表す記号として、「田楽の能」と言い、「猿楽の能」と言ったのではないでしょうか。当時の日記に「今日の舞台は真に猿楽の能であった」と書かれていると言う文脈にも叶う様な気がします。だとすれば、象徴の芸術とも省略の芸術とも言われる「能」の有り様に真に相応しいのではないでしょうか。
ともあれ、其処に世阿弥の天才が加わり、能が生まれました。応仁の乱に始まる再びの戦乱の中で、猿楽の能は武士たちを精神的に支えるものとして、充分その期待に応えるものとなり、多くの戦国大名に受容されて行きました。この受容の有様を、よく「愛好された」と表現しますが、私はもっと切実なものだったと考えています。
特に徳川家康の人間形成の基礎には、能の存在が大きいと思います。徳川幕府の元、三代将軍家光の時に能は武家の式楽となり完成されます。

戦争放棄と言う日本国憲法が掲げた、真の恒久平和を実現するには、応仁の乱が京都に及ぼした破壊に匹敵する災厄が、日本全体を襲おうとしている今、その精神を私たちの血肉とする必要があります。
私が、遅きに失していると知りつつ、憲法前文を曲舞に作ったのは、この様な次第です。

2015年4月19日日曜日

誕生日に思う

多くの方々から誕生日のお祝いの言葉を頂戴しました。本当に有難うございます。新たな一年に向かって、また進んで行きたいと思います。

昨年までならば以上で終わりにしていました。凡そ私は記念日と言うものが余り好きではないのです。時間は毎日同じ様に流れ、毎日淡々とやるべき事をやって行く事が大切なのだと考えていました。能楽師の暮らしと言うのは、勿論習慣性はありますが、その規則性は割と複雑で、毎日やるべき事は変わって行きます。ですから敢えて意識せずともそれなりに節目が出来て、飽きる事ない毎日を送る事が出来ます。

然しこう言う態度が有効なのは、僅かに平和な日々が約束されている場合に限られています。大体「淡々と」と言うのが「粛々と」みたいでゾッとします。時間の流れだって同じではありません。別に相対性理論を持ち出す迄もなく、意識の前で時間の流れが流動的な事は明らかです。

小学六年生か中学二年生の時、(その事を言葉にして考えて歩いた道は、中学一年の時には通らない道でした)私は決定論的世界観を持っていました。この世界の出来事は全て法則によって定まっていると。時間は均一に流れ、人間の意識は二次的なもので、精密なプログラムの集積によってやがて機械にも意識が生まれるのだと。
しかし時は流れ、大学を二年浪人するうちに次第に考えも変わり、その私が書いた大学の卒論は『ポパーの非決定論』でした。既に観世喜之先生の内弟子となっていた私は、能の感動とは何か、感動が伝わるとはどう言う事か、に興味がありました。卒論はそれを明かすものでも何でもありませんが、少なくとも決定論的世界観から能の感動は伝わらないのではないかと、漠然と感じていました。二十世紀最大の哲学者の一人であり、第一回の京都賞を受賞しているにも関わらず、カール・ライムント・ポパーは日本では殆ど知られていません。ドイツに生まれ合衆国に移住した科学哲学者です。ポパーは、十九世紀の科学万能思想から導かれる決定論的世界観の論理的矛盾を証明し、その証拠として当時の最新物理学である量子論を紹介していました。

私は思想家ではありませんので、自分の考えを新しい着想に基づいて検討し直したりはしません。ですから人の教えを受けてその斬新さに驚いた時も、そんな事は前から分かっていたはずじゃないか、となります。
神の化身と自ら名乗ったサイババが話題になった事がありました。創造神を信じつつも神の化身なんてあり得ないと思っていた私でしたが、何故か本で読んだだけでしかないのに、全知全能の神が自らをこの時空間に展開する事は当然あり得る、と思いその存在を認めていました。今は、神の化身が本当だったとしても、神そのものではあり得ず、時空間に展開された非常に限定された存在だったと思っています。
しかしサイババへの傾倒は、オウム真理教を正しく嫌悪する一助となり(最大の要因は能にあることは勿論ですが)、またヒンズー教の精神風土への親しみを残して、バリ島との交流を用意してくれた様です。

バリ島にはニュピと言う日があります。バリ暦の大晦日に人々はオゴオゴと呼ばれるハリボテに一年の悪霊を移し、それを焚き上げて元の世界に返します。翌日をニュピと言い、悪霊から身を守る為、人々は外出を控え大声で話すことも控え、静かに一日を過ごします。その翌日が正月です。
平成二十三年のニュピの日の前に、私はバリ島へ行きその神秘の一夜を過ごしました。とは言え取り立てた神秘体験をした訳ではないのですが。年明けに絵描きのデワスギ氏の絵巻物語りを、バリ仮面舞踊の人間国宝ジマットさんと共演し、善悪同根のバリ思想を体感しました。
そして三月十日に日本に戻りました。翌日は九皐会の申合せで、矢来能楽堂の楽屋にいるところを大震災が襲いました。

そしてフクイチの事故が起こります。

少し前にツィッターを始め、事故後に色々な書き込みを俯瞰する中で、何人か注目する投稿をしている人がいました。その一人の村松恒平さんが数日前にブログにこんな事を書いていらっしゃいます(「原発事故で経済が終わること」)。やはり早晩日本社会は崩壊する、少なくとも経済的には。村松さんの他にも何人もその警鐘を鳴らしている人はいます。

私は原発事故当初から崩壊への一直線の道のりを考えていました。それこそ日本人が祖国を失った放浪の民になってしまう事もあり得ると思いました。
ところがここ数年の平穏な日々に少し幻惑されていた様です。タイタニックと違って日本が沈むにはやはり何年もかかります。ゆっくりとした崩壊に、あたかもこの平穏が長く続くかの様な幻想を与えられていました。
しかし村松さんの仰る様に、戦争はどうやら既に始まっているらしい。それは私たちが戦争と言って思い浮かべる様なものではありませんが、私たちの平穏を理不尽に奪い取ろうとしています。秘密保護法だとか憲法改正とかまでもが実は目くらましでしかなく、私たちの生命と尊厳を踏み躙ろうとする邪悪の手は、もう既に搦手にかけられている様です。

さて問題はその後です。沈む船から海に落ちた後、未だ生きていたら何をするのか。石牟礼道子さんは、いずれ滅びる人間の、唯一生きた証しとして価値があるかも知れないのは美です、と言う趣旨の事を発言されています。

私は幸いにして能をしています。
能は単なる伝統芸能や音楽劇ではありません。凡そ世界中を見渡しても能の様なものは見当たりません。
その事をこれからの残された少しの平穏の間に、少しでも伝えて行きたいと思います。

誕生日のお祝いの言葉へのお返しとして、例年になく感慨深い気持ちを書こうと思いましたが、思いの外長くなり、日も変わってしまいました。
お陰様で無事五十七歳になりました。有難うございます。

2015年3月30日月曜日

能楽談儀の会

間近かのお知らせになってしまいましたが、下記のように「能楽談儀の会」と言う催しを致します。私の思う能の魅力について、一曲を取り上げてお話しし、私の謡と舞をご覧いただきます。また、皆様からの質問も頂戴しながらの楽しい会にしたいと思います。

第1回に取り上げますのは6月14日(日)にシテを致します『誓願寺』です。

第1回  能楽談儀の会

日時       4月5日(日)午後1時〜3時
場所       松陽閣(JR中央線国立駅北口ヨリ徒歩5分)
国立駅北口を右折し、線路沿いに直進。信号を渡りさらに直進し、突当りの階段を登り少し進んだ三叉路手前の左側の建物。 地図 
会費       一般 2,000円      会員 1,000円
申込み・問合せ  090-3136-8310(ナカショ)又は nakashonobuo@nohnokai.com
持ち物   謡本「誓願寺」。白足袋と舞扇。
               謡本はコピーをご用意しますが、お持ちの方は持参して下さい。
               足袋と扇は、お持ちの方はご持参下さい。
               スリ足体験をご希望の方でお持ちでない方はお申し出下さい。


「能楽談儀の会」について

世阿弥の子、七郎元能による「世子六十以後申楽談儀」は
遊楽の道は一切物真似なりと言えども、申楽とは神楽なれば、舞歌二曲をもって本風と申すべし。
の一文で始まっています。私は著作「能の裏を読んでみたーー隠れていた天才」で七郎元能を掘り起こしました。申楽が江戸時代に武家の式楽「能」となり、武士たちが修身に努めつつ美意識を磨く上でなくてはならないものになる、その素地を整えたのは元能だったのではないかと考えています。
大変僭越ではありますが、それにあやかり私の講座名をこのように致しました。

原則として具体的に一曲を俎上に上げて、その曲の解釈や背景を考えながら、謡を聞き、舞を見ていただきます。本公演の際の舞台鑑賞の一助になるようにしたいと思います。

また、時間の許す限りお話し講座の後に体験講座もしたいと思います。

『誓願寺』について

以下、演能案内のチラシに書いた文章です。

天智天皇が平城京に建立し、後に平安京に移された誓願寺は、現在京都三条の繁華街に小さいながら浄土宗の総本山として賑わっています。ワキとして登場する一遍上人が、布教の本拠とした頃はさぞ大寺だったことでしょう。また後段には和泉式部が歌舞の菩薩として登場する(後シテ)こともあり、古くから芸能者の信仰を集めています。
和泉式部は恋多き歌人として知られ、作品の評価とは別に、人となりは当時から非難の対象だったようです。しかし作者の世阿弥はそういう世間の評価に異を唱えて、和泉式部を歌舞の菩薩に仕立てました。世阿弥は芸能による悟道覚醒とそれによる鎮魂救済を目指していたと思います。この曲はそれが非常に純粋な形で表現されている世阿弥中期の意欲作ではないでしょうか。
この劇性を抑えた非常に能らしい能は、美意識に秀れた江戸時代の武士たちには殊の外尊ばれたことでしょう。その式楽の精神を最も色濃く表すのが能装束です。当日は、能装束と能面の美しさもお楽しみ下さい。

最後に演能のご案内のチラシです。

2015年3月27日金曜日

尹東柱(ユンドンジュ)の「雪ふる地図」

暫くブログを更新していませんでした。
これは昔フェイスブックのノートに書いた文章です。
結構気に入った文章なのでここに再掲します。



2011年2月14日 22:31

尹東柱は韓国の詩人です。一昨年の暮から年明けまで韓国の劇団コリペに能の指導をしたのですが、その時に韓国語の詩に能の節付けをして舞を作ろうと思い立ち、金世一(キムセイル)さんに尹東柱を教えてもらいました。日本の占領下、皇民化政策によりハングルの使用を禁止されるという、状況の中、日本の大学(立教・同志社)で学んでいた彼は、ハングルで詩を書くことをやめず、治安維持法違反で逮捕され、福岡刑務所に思想犯として服役中、薬物実験の犠牲者となり、1945年2月16日に亡くなります。
さぞ社会的な詩を書いたのだろうと、思われますが・・・・

雪降る地図 スニ(女性の名前)の去りし朝に 言うに言えぬ思いで牡丹雪が降りて、悲しいことのように窓の外遥か広がる地図の上を覆う。部屋の中を振り返れば何もない。壁も天井も真っ白だ。部屋の中にも雪が降るのだろうか、本当に君は消えた歴史のように一人で行ってしまうのか、去る前に伝える言葉があることを手紙に書いたが、君の行く先を追って、どの町どの村どの屋根の下、君は僕の心の奥にだけ残っているというのか、君のちっちゃな足あとの上を雪が次々被い隠して捜す術もない。雪が溶ければ残った足あとのひとつひとつに花が咲いて、花のあいだにも足あとを捜しに出かければ、一年十二ヶ月いつも僕の心には雪が降るのだろう。 

何と美しい詩ではありませんか。
尹東柱はキリスト者であり、愛国心を信仰の中に如何に昇華させて行くのかを求めた人だと思うのですが、そのせいか恋愛の詩はほとんどないのです。「雪降る地図」を愛の詩と読めば、美しく陶然とさせられます。しかし、この詩には日付があります。1941年3月12日。この頃、朝鮮総督府は朝鮮語教育を全面禁止します。雪が降って隠してしまっているのは、地図なのです。去ってしまった恋人は、消えた歴史のように一人行くのです。
尹東柱と言う人は、本当に清潔感のある清々しい顔をした好青年です。友と写真に写る時にも、必ず端の方ではにかんでいる。その人の心の中に雪が降り積もり、悲しみと怒りを覆い隠して、美しい花を私のもとへ届けているようです。
今日は夕方から雪が降り出し、東京も白く覆われています。私はこの詩を知ってから、雪が降ると「スニが去った朝に・・・」と胸の中で呟いてしまいます。

尹東柱
尹東柱

2015年2月28日土曜日

『kuu:』と言う情報誌に「能の伝承」と言う文章を書きました

曹洞宗の情報誌より依頼されて、「能の伝承」について書きました。以下、編集の方がもう少し読み易くして下さっていますが、ここには私の生原稿を掲載します。
























 能の師弟関係と言っても、それこそ師も様々、弟子も様々で、類型化して語るのは殆ど不可能です。しかし現在能に携わっている人たちに一つ言える事は、後継者の育成を何より大切に考えていると言う事です。七百年に及ばんとする能の歴史の突端に危うく立って、先人の修練の累積を思い、「今」と言う断崖絶壁に新たな歴史を刻もうとする時、そしてその自らの携る芸道に誇りを持って未来を思うならば、後に続く人材の育成は、一つの舞台に心血を注いで素晴しい成果を上げる事と、同等以上の重さを以って評価される事なのです。
 能は、江戸時代に武士の式楽となりましたので、「封建的」と言う言葉と共に、子弟の教育に関しては、閉鎖的で頑迷であると思っている方が多いのではないでしょうか。何よりも世襲が重視され、家の子は否応なくその道に進むことを義務付けられ、また世襲以外の家の者は低く見られて格段の差別をつけられるのではないかと。そんな側面が全くないとは言えませんが、世間の人が思っているよりももっと実利的に開かれた側面もあります。想像してみて欲しいのですが、先祖から受け継ぐものを子供や弟子に伝えようとする時、厳しくはあっても、注ぐ愛情や、養育に当たっての心配りは相当に細やかなものになるのは至極当然の事です。

 世阿弥が観阿弥の教えを纏めたと言う『風姿花伝』の最初は、有名な「年来稽古条々」です。ここに「七歳」「十二三より」「十七八より」「二十四五」「三十四五」「四十四五」「五十有余」と項立てをして細々と書かれている事は、教育や修身の手本として、今では広く知られる様になりました。その内容に触れれば能がその成立当初より、伝承に重きを置いていた事が分ります。師から弟子へ伝えられた数々の言葉は、観阿弥から世阿弥への教えであるばかりでなく、世阿弥からその弟子たちへの教えでもあります。因みにここに記された年齢は当然数え年ですから、現在の満年齢にすれば一歳か二歳下と言うことになります。
 「七歳」は五六歳で、今で言えば就学前です。その頃に稽古を始めるのですが、何より子供の好きな様にやらせなさい、色々やる中に必ずその子の得意なものがあるはずで、またあまり細々した事を教えたり、強く叱ったりしては、能が嫌になってしまうから、気をつけなさいとしています。
 「十二三より」は、今の小学三四年生ぐらい。子方の完成の時期で、とにかくこの頃は伸び伸びやれば宜しいとしています。ただ一つ気をつけるのは、この頃の成功は決して「真の花」ではない事を充分心得ておく事です。テレビなどで、達者な子役が良い役者にならないのもこれですね。
 「十七八より」は、今で言う思春期の頃。何より「この頃は、また、あまりの大事にて、稽古多からず」と冒頭に書かれていて、この年頃の重要さを認識している事が素晴しいと思います。声変りして身体も急速に大きくなり、精神的にも不安定になる。思春期などと言う言葉がなくとも、世阿弥(観阿弥)は後継者を育成する観点から、当然のようにこの年頃の難しさを認識していました。この時期を乗り越えるのは、ただ本人の覚悟です。「心中には願力を起こして、一期の境ここなりと、生涯にかけて能を捨てぬより外は、稽古あるべからず。」少し表現が独特ですが、要するに、一生これでやって行くのだと覚悟を決めない限り、稽古しても仕方がない、と言う事でしょうか。また最後に、声の調子は出し易い高さで謡えば良いのであって、無理な声を出すと、「身形に癖出で」来て、「声も年寄りて損ずる相なり。」と退けています。
 そうして稽古して行けば「二十四五」まではそのまま真っ直ぐ伸びて行くようですが、そこで少々良い舞台をしたからと言って、それを「真の花」と思ってはいけない、例え名人に勝つ事があっても、それは「一旦珍らしき花なりと思ひ悟りて、いよいよ物まねをも直ぐにし定め、名を得たらん人に、事を細かに問ひて、稽古をいやましにすべし。」と記されています。ここで言う「物まね」は、どうも今の舞台演劇などの演技全般にあたる様です。
 世阿弥は「三十四五」を以って芸の盛りと考えている様です。この頃に「真の花」を究めていなかったならば、四十を過ぎてから芸が落ちる。先に行けば明確なのだけれど、今はそれとは分らないので、相当の舞台を勤め得ても、慢心することなく励む必要があるとの事です。
 ここまでは年齢に沿った稽古心得として、現代においても無条件で得心し得る所でした。さて愈々能の能たる所以でしょうか。「四十四五」から「五十有余」では、年寄って行くのに若やいだ曲などをするのを戒め、そうでない曲でも演技で見せたりするのではなく、ただ淡々と演じる事を勧めています。

 さて『風姿花伝』は世阿弥が観阿弥の教えを記したものです。観阿弥は五十二歳に亡くなっていますから、「年来稽古条々」も五十有余までで終っています。『風姿花伝』は飽くまで伝書であり、一般に公開されたものではありません。その為、例え能楽師であってもその内容は、殆ど知られていませんでした。明治になって吉田東伍博士が安田財閥の蔵からこの伝書を発見するまで、能楽師たちの寄って立つ教育の教科書は存在しなかったのです。しかし、弟子は師匠に教えられたように、弟子に教えるものです。それは細かい内容よりも、教え方に如実に現れる様に思います。例えば就学前の子供にはやりたい様にやらせて、しつこく直しを入れたり、怒ったりしないなどと言う様な事は、もちろん例外もありますが、実際の能の家家に実践されているように思います。これは遠く流祖の観阿弥・世阿弥から、代を重ねる度毎に、教え伝えられて来たのではないでしょうか。

 最後に少し私自身の事を書く事に致しましょう。私は、一般の会社員の子として生まれ、父の趣味に影響される形で能と出会い、大学のクラブ活動を経て、能の世界に飛び込みました。私が入門した観世喜之先生の元には、一門の能楽師の師弟ばかりではなく、私のような学生上りや就職先を辞めて内弟子となった者もいて、一時は六人の内弟子が本拠地の矢来能楽堂に起居しておりました。それを稽古するだけでも大変な事でしたが、師はどの内弟子にも分け隔てなく接して下さり、私は家の者でない事に負い目を感じる事が殆どありませんでした。師の元からは十五人が能楽師となって、現在盛んに活動しています。
 また、小学生の頃から私の下で謡と仕舞を学んでいた子が、現在は私の後輩として内弟子に入っています。
 現代においては世阿弥の頃のような後継者育成は望むべくもありません。能の家に生まれても、学校の勉強が忙しくて能の稽古ばかりしているわけにはいきません。多くが大学を出て内弟子となります。外の世界から能に入る者と、能の家の者との差は、それ程無くなって来ています。しかし、その様な状況の中でも、やはり代々の家の使命を自覚した人たちは素晴しく、その人たちを中心に能はまだまだ伝承されて行くと思います。
 しかし、私たちがこれから迎えようとしている未来は、人類がこれ迄に経験した事のない様な社会かも知れません。私はその危機を乗り越えるのは、能に縋るしかない、と考えています。聊か手前味噌ではありますが、本気でその様に思っています。