2015年6月26日金曜日

村松恒平さんのシンクロームについて。そして「啓示」。

六月十四日に『誓願寺』の舞台を終え、次の舞台の案内もしなければいけないのですが、その前に舞台直前に受講した、村松恒平さんのシンクロームのワークショップについて書いて置きたいと思います。早や二週間。随分前の事の様な気がします。



シンクロームは「私」と「体」を分けて考える処から始まります。
しかしこれは考えるまでもなく、皆が身体を意のままにならないものと思っています。別のものと認識した上で、「私」が「私の身体」を制御している、その制御の仕方について考えてみようと言うのが、シンクロームの始まりではないかと思います。

ワークショップは、私たちの認識が如何に世界を限定的に見ているかと言う処から始まり、その限定を解除すると今まで出来なかった事が可能となる事を示唆して、「内臓ダンス」に進みました。
普通私たちは、内臓は制御出来ないと考えていますが、実はそうでもないと教えてくれます。
最初に肺を動かしますが、肺は呼吸によって割と意のままに動かす事の出来る臓器でしょう。それでも普通の呼吸法とは異なり、臓器としての肺の動きを感じる事が出来ました。
 次の肝臓は物言わぬ臓器と言われるそうですが、この肝臓のダンスは驚きでした。目を閉じて言葉に導かれ、音楽を聴いているうちに、肝臓と思しき身体の内部が音楽に合わせて活発に動き始めるではないですか。身体もつられて動き始めているのがわかります。動きを意識していてはとても出来ない様な軽快で複雑なダンスを踊っていました。

「意識」と言うものはなかなかやっかいなもので、身体を駆使する技術を磨くには意識が必要ですが、いつまでも意識が残っていては駄目で、意識せずとも出来るようになってこそ技術として使い物になります。しかし、すっかり身についたはずの技術も、何かの拍子で意識が戻ってくると、途端に危ういものになってしまう事がしばしばあります。

今「意識」と言いましたが、村松さんはこの曖昧な言葉を敢えて避けているようです。代わりに使う言葉は「言葉」です。「私」と「身体」の間にあるものを、イメージ・シンボルとしてそれを「言葉」で動かしてやるのだそうです。肝臓のダンスは当にそれでしょう。

「私」と「身体」の間にあるもの。村松さんはそれを「磁気ボディ」と名づけました。
一粒の種から植物が育つ。一個の受精卵から人間となる。種、卵である段階で既に設計図が出来上がっています。その設計図は何でしょう。普通はDNAだと答えるでしょう。しかし、DNAはその設計図の物質的側面でしかないと村松さんは考えます。磁気ボディにその設計図は描かれています。磁気ボディは、身体=自然と私=言葉とを繋いで影響を与えています。
健康な時、磁気ボディは身体とシンクロしています。このシンクロが破れた時、身体は不調となり病気となります。本来、磁気ボディは身体を良好に保とうとしています。その本来の働きを阻害するものを取り除いてやれば、身体は自然に治ってしまいます。

さてこの「磁気ボディ」です。気功法における「気」とも少しずれています。気は磁気ボディが身体を正常に保つために働かせる道具ということになるでしょうか。気功法の世界では、その効能ばかりが喧伝されて、その背後にあるものに対する理論的な探求が少ないように思えます。いや、むしろその効能が余りにも強力なので、その制御法に忙殺され、その原理については安易に触れるべきではないとしている様に思えます。磁気ボディの考え方からすると、気功法は使い方によっては自分を傷つけてしまうかも知れない非常に強力な道具を正しく使うための方法を、暗闇を手探りで探るようにして獲得してきたということでしょうか。
村松さんのお話の中で非常に印象的だったのは、西洋医学の薬は勿論、漢方も気功法もシンクロームからすれば強過ぎると言う言葉でした。

シンクロームでは身体の不調を回復するために、本来シンクロするはずの磁気ボディと身体との間に詰まっている障害物を取り除く、と言うことをします。具体的には患部に狙いを定めてネジを抜くように手を動かします。実はこの部分が私はよくわからない。何故ネジを抜くのか。「螺旋状のエネルギー」と言う言葉があり、その時点では何となく了解したのですが・・・。

さて、以上のようなまとめを書こうとしていた時に、昨日(平成27年6月25日)村松さんが「啓示」を受けたとのFBへの投稿がありました。以下に全文を掲載します。

【反重力の啓示】
難解であろう啓示を書く。
*
……。
今日、奇妙な啓示があった。
奇妙と書いておくが、既成概念の枠内にあり、位相的にもズレていないものは啓示の名に値しない。
したがってあらゆる啓示は奇妙なのだ。
その啓示は、以下である。
「人の身体は反重力装置だ。解明されている力学の範囲内でもあらゆる創造がなされているが、未知の力学においても完全に反重力のシステムが組み込まれている」
これを証明するには、空中浮遊でもしてみせるしかないが、今のところできそうにない。
まず重力、地球の中心に落ちて行く垂線を正しく感じるところから始めないといけない。
この啓示は、次のような啓示とつながっていた。
「身体は意識が完全に規定する」
意識が変われば身体は変わるということだ。
たとえば、わたしたちは光を感じたい、色を見たいと思って眼を作り出した。
音を聞きたいと思って耳を作り出した。
香りを嗅ぎたいと思って鼻を作り出した。
味わいたいと思って舌を作り出した。
触れたいと思って指を作り出した。
意識自体が直接身体に作用するのではない。
意識は磁気的な偏在を作り出す。
磁気は次第に凝縮し、精度高く組織化されて、磁気の有機体を生み出す。
これをシンクロームでは磁気ボディと呼んでいる。
磁気ボディが物質的な肉体の設計図となり、物質的な要素を引き寄せる。
意識という言葉は多義的だが、これが最も深い定義となる。
磁気ボディは、DNAに先立つ。
DNAは、磁気ボディの可視化、物質化されたインデックス、スイッチボードである。
物質化されることによって新たな便宜が生じたであろうが、本質は磁気ボディにすでにある。
なぜならDNAもまた磁気ボディによって形成される。
逆ではない。
では、「意識を変えれば、身体を変えることができるか?」
当然可能である。
むしろ、「個人史的な時間で可能か、人類史的な時間が必要であろうか?」 と問うほうが実際的であろう。
この問いに答えるためには、
「そもそも意識を変えることは可能か?」
と問わなければならない。
あるいは
「いかにすれば意識を変えることが可能か?」
と問うほうがよりよいかもしれない。
以下の問いのほうがさらによいかもしれない。
「いかにすれば意識を本来のあり方に還すことができるか?」
このような派生的な問いをある程度解明すれば、問うべきは時間ではない、とわかってくるであろう。

実はこの文章を読む前に、私は上でのまとめとして、「磁気ボディは無意識の領域の一番浅い領域で身体を司っているものなのだろうか」と書こうとしていました。しかし、ここには「意識という言葉は多義的だが、これ(=磁気ボディ)が最も深い定義となる。」の一文があり、村松さんは磁気ボディを意識領域内の事と考えているようです。

この「啓示」については、またいつか改めて書くことになると思います。

2015年6月15日月曜日

「能は演劇ではない」と言うこと

昨日の『誓願寺』を見に来て下さった村松恒平さんが、フェイスブックに素晴らしい「能入門」を書いて下さっています。
能を観ると相変わらず眠くなる。
これはなんだろう、と昨日観ながら少しばかり考えた。
体感されたことを書くだけだが、ふだん身体のことを考えない人には難解かもしれない。
 
*
能は身体で観る部分が多い。
身体は言葉を理解しない。
言葉でなく、食物でなく、空気でなく、私たちが体内に取り込むもの。
それは印象。
言葉以前の印象とは何だろう?
それはもちろん言葉にすることができない。
言葉にした時点で印象ではない。
絵画の印象派は、言葉にせずに絵にした。
言葉よりはずっと近い。
印象派の印象を、視覚的効果に限定せずにとらえると、そこで受け取られるものには眼に見えないエネルギーがある。
 
能はそのエネルギーを観る。
エネルギー的に観ると言ってもいい。
*
 
私たちが観るという場合は、主体と客体が分かれている。
私という「主体」があって観る。
舞台、あるいは演者という「客体」があって観られる。
ところがエネルギーとしてとらえたときには、舞台から観客席が大きな水を張った「たらい」のようになる。
そのエネルギーのたらいが大きく波立つ。
波立つとき、私たちも「浮き」のように、その波と同期して上下する。
ここにおいて、私たちが一般的な演劇を観るときのような主体と客体の関係や視線は成立しない。
そのような主体を保とうとすると、眠くなる。
浮きの視点になって揺れながら観ている。
これに身を任せると、たいへん心地よい時間が訪れる。
これが昨日体感されたことである。
さらに観て行くともっと深い観点も出てくるかと思う。


私たちの一世代前の能楽師は敗戦を経験し、価値観が反転して行く中で、能が今後も活きた芸能であり続けるためには、どうあるべきかと言う事を切実に模索し、その中で観世寿夫先生を中心として「能もひとつの演劇である」として今日までの隆盛を築いて来たように思います。
一方私が多くの教えを乞うている江戸期の能装束を研究なさっている山口憲さんは、「能は演劇ではない」と繰り返し仰います。私自身どちらかと言うとこちらの方に心魅かれます。
私も一時期「能の新しい可能性を探る」と言っていた事がありました。しかし表面的な新しさは、能が能たる所以から外れて行くばかりで、そうして作られたものに余り魅力を感じないのです。

では「能が能たる所以」とはどういう事なのでしょうか。上の村松さんの文章はそこを直撃していると思います。眠たさについて考えてこの一点に至るとは、完全にしてやられました。
このブログで以前にも村松さんの事を書きましたが、その世界観の独自さに、新しい指標を私は感じます。


さらにコメントのやりとりの中にも次のような一文が・・・

能ははっきり動作していない時間がたくさんあります。そのときに象徴的な力が働くのです。人の身体は止まっているときにむしろ、震動しています。いわゆる波動を発していますね。この象徴言語を武士社会が理解していたということのようです。

コメントの前半部分は良く言われる事です。象徴言語と言うのは、普通の言語が音声によって記号化されているのに対し、「波動」によって内実を捕えることだと思います。さらに、もちろん「象徴言語」などと言う言葉は使いませんが、それを武士社会が理解していたという指摘は、江戸時代の武士にとって能は自分たちの存在の根源に関わる不可欠のものだったと言うことを踏まえた上でのことです。
私が書くと、今と言う視点から武家社会を見てしまうのに対し、村松さんの文章では武家社会の中から能を見ているような印象を受けます。

本文の最後で書かれているように、もっと能を見ていただいて、さらに深い視点を私達に示して欲しいものです。今後とも宜しくお願いします。

2015年6月2日火曜日

『誓願寺』を舞います

以前に『誓願寺』について書きましたが、いよいよ本番が迫ってまいりました。皆様是非お出掛け下さい。

◯6月14日(日)緑泉会例会    午後1時開演(会場 12時30分)    於 喜多能楽堂(目黒駅より徒歩7分)能      清経        鈴木 啓吾狂言  柿山伏     山本 泰太郎    仕舞3番能      誓願寺     中所 宜夫(誓願寺の始まりは、3時過ぎ頃)チケットのお申込みは私の方で承ります。


以前の記事にも書きましたが、私は世阿弥が初めて書いた複式夢幻能がこの曲なのではないかと考えています。それを意識して稽古をして来て、先日ふと思った事があります。
前段の夜念仏の場面、これは謡ではロンギと呼ばれる形式で、地謡とシテとの掛け合いが長々と謡われる場面です。

地「早や更けゆくや夜念仏の。聴衆の眠り覚まさんと。鉦打ち鳴らし念仏す
シテ「ありがたや五障の雲のかかる身を。済け給わばこの世より。二世安楽の國にはや生れ往かんぞ嬉しき
地「げに安楽の國なれや。安く生まるる蓮葉の台の縁ぞ真なる
シテ「ありがたや。ありがたや。さぞな始めて弥陀の國。涼しき道ぞ頼もしき
地「頼みぞ真この教え。或は利益無量罪
シテ「または余経の後の世も
地「弥陀一教と
シテ「聞くものを
地「ありがたやありがたや。八万諸聖教皆是阿弥陀仏なるべし。この御本尊も上人もただ同じ御誓願寺ぞと。佛と上人を一体に拝み申すなり
 一読して「ありがたや」が何度も出てくるのが印象的です。この中の二度目のシテ謡の中で初めての弥陀の國と言い、また往生の事を「涼しき道」と言っていますが、この辺りに世阿弥が得た神秘体験の痕跡を求めるのは穿ち過ぎでしょうか。

また、後段で長大な序の舞を舞った後に謡う言葉、

    一人なお佛の御名を訪ねみん
               各々帰る法の庭人

これを世阿弥の決意と読むと、宗教的高揚感だけではない、この曲の奥深さが出て来る様に思います。

さてさて色々と書きました。世阿弥は「秘すれば花」と仰っています。さしづめ私などは、何もかも喋ってしまう愚か者です。その愚か者の顛末。是非是非当日会場にて見届けて下さい。