2021年7月30日金曜日

能「千手」のご案内

 この「千手」という曲は、実はあまり好きな曲ではありませんでした。


世阿弥の能には魂を浄化させる特徴があります。
幽霊や怨霊を成仏させ、
生き別れた我が子と再会し、苦難に陥った人はそれを突破してゆきます。
これは南北朝の長い戦乱から平和へ向かった時代に、人々の願いを舞台上に再現しようとしたためなのではないでしょうか。しかし、平和を求めて反幕府勢力を完全に掃討した結果やってきたのは、六代将軍足利義教による恐怖政治でした。人々が自由にものを言えなくなった時代です。「千手」はそんな時代に世阿弥の娘婿金春禅竹によって作られたと思われます。

大仏を焼失させ、死罪を免れ得ない平重衡に、遊女千手ノ前は芸能の力でひと時の平安をもたらしますが、重衡の運命を変えるまでには至りません。世阿弥の作品に比べて矮小化しているのは否めません。

しかし今、私にはこの「千手」の良さが身に迫るようになって来ました。

これは、閉塞した時代にひと時の心の平安を与える難しさに、正面から取り組んだ作品です。

今生に望みを失い、来世の平安のみを願う重衡に、千手ノ前の月並な慰めの言葉は届きません。前半は陰鬱な雰囲気が支配しています。これを破るのが千手の舞です。北野権現の霊力を頼み、来世救済の経文を朗詠し、それに続いて重衡の来し方を曲舞に舞い、序之舞によって「陰陽の気を整える(NHKの朝ドラで良い台詞を夏木マリさんが言っていました)」と、重衡も琵琶の演奏を始めます。一夜感興が尽されました。

夜明けと共に現実が押し寄せて、重衡は去って行きます。それを見送る千手ノ前の泣き顔の美しさが、愛おしく思えてなりません。

私が年を取ったこともあります。また今コロナ禍に苦しむ時代もあります。まさに時宜を得た演目となりました「千手」です。是非能楽堂で見届けて下さい。



これぞ実験!能楽らいぶ × ライブペインティング

この実験的な催しは、昨年四月、コロナが蔓延し始めて催し物が次々と中止に追い込まれていた頃、今だから敢えてと企画した催しでした。
昨年は中止となってしまいましたが、病禍未だ猖獗を極める中、この秋は万難を排して実施したいと思います。

能と現代アート。
一見対極と見える組合せですが、対極は背中合わせに繋っていることがよくあります。

「有限なものを組合せて無限を表現する」

という言葉は、能装束研究家の山口憲さんがいつも私に話して下さる、能の本質に関わる言葉です。中津川浩章さんの作品は、線描のみで無意識の世界を具象化しようとしているように見えます。無意識の世界即ち無限です。

この春の中津川さんの個展の時、フェイスブックを介してなされた、私と中津川さんの会話を紹介します。

(所)中津川さんの個展に行ってきました。「線を解放する」というタイトルです。普通線を書くときは意識によってコントロールされていますが、中津川さんの線は無意識の領域からそのまま形となっていて、まさしく線を意識の絆から解放しています。

能は約束事即ち「型」で構成されています。稽古の段階では意識によって「型」をなぞり、シテの気持ちやら情景やら様々の事を考えるのですが、
最終的にはその意識を全て型に集約してしまって、意識の絆から解放します。

(津)死者の魂の召喚というか、呼び覚ますものは型によってしかなし得ないのではないかと思うこともあり、でも解放されないと召喚できないのでないかとも思うこと、その往還ばかりです。


今回のコラボレーションで二人の取り決めはありません。
私はただ自分の作品を「一人らいぶ」で演じ、中津川さんはその空間を共有しつつペインティングをするだけ。
その時二人に何が起きるのか起きないのか・・・。

政治や社会に対する芸術や宗教。
溶け合っているのが理想なのでしょうが、そうではない現在、やはり私は後者の側に身を置いていたいのです。


 

2021年7月12日月曜日

能装束展のご案内

 岐阜市歴史博物館での「用の美」展をご案内します。

この展覧会は江戸時代の能装束展を研究、復原している山口能装束展研究所の企画・監修による展覧会です。


江戸時代の能装束展といってもピンと来ない方も多いと思いますが、その美しさ、品格の高さは素晴しいものです。

この能装束展を見ると、江戸時代の武士に対する認識が変わります。こんなものを産み出した人々の美意識を想像してみて下さい。そこには高い倫理観と教養を窺い知ることが出来ます。また個人の意識というものをほとんど感じません。先人の積み重ねてきた技術や意匠に、新たな工夫を加えて、今までにない作品を創作したのだとは思いますが、そこに所謂個人の恣意というものを感じないのです。


チラシ裏面にご案内のように、会期中様々な催しも予定されています。私も子ども向けワークショップと、装束付けの実際をお見せするワークショップを致しますが、何と言っても、この能装束展復原を手掛けた山口憲さんとその後を継ぐ朋子さんのお話しを聞いて下さい。ただ見るだけでも素晴しいのですが、やはり解説を聞いてから見るのとでは雲泥の差があります。


なお、この展覧会について朝日新聞系のフリーペーパーMEGの取材を受けました。昨日発行で中部地区の朝日新聞とともに届けられたと思いますが、ネットでも見られますので、是非お読み下さい。このファイルの10ページです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2021年6月14日月曜日

藤戸 2021/07/11 九皐会例会

 九皐会七月定例会「藤戸」(第二部)のご案内を申し上げます

https://yarai-nohgakudo.com/archives/8782

今も昔も権力の犠牲になる弱者の悲劇は後を断ちません。しかし中世においてそれを真正面から描いたこの作品は、能を作り、今日まで守り伝えた人々の心を、色々と考えさせてくれます。

前段は功名の犠牲となった漁師の母親が、息子との思い出の中にその喪失感を切々と訴え、後段はその漁師の亡霊が、刺し殺されて海に捨てられた有様を再現して、恨みを晴らそうと迫ります。この漁師の突く杖は、冥界を彷徨する標であり、また恨みの象徴なのですが、最後に自らへの弔いを受けて恨みを晴らし、杖を捨てて成仏を体現します。

恨みの矛先となっているのは佐々木三郎盛綱という武将です。自分の功名のために罪なき漁師を殺しておきながら、「前世からの定めだから、恨んだりしても仕方がない。篤く弔いをするから、恨みを晴らせよ。」と言い捨てる有様は、現代人に共感を求めるのは難しいと思います。また、殺された当の漁師の幽霊が、その弔いによって成仏してしまうのも、簡単過ぎるように感じるかも知れません。しかし当時の社会状況などを鑑みると、入部してすぐに庶民からの訴えを聞こうとする、この盛綱は充分に良い領主なのだと思います。観世座に大きな支援を与えた大名の一人に、傍系ながら同じ一族の佐々木導誉がいたことを思えば、その先祖を持ち上げつつ、苛烈な専制支配を行使する時の将軍、足利義教を皮肉っているようにも思えます。

ともあれ、恨みの姿から成仏の姿への変容を、見所の皆様にお伝えし、それによって、日頃の怒りや恨みを少しでも流すことが出来たなら、それこそが能の真髄なのだと思い、稽古を重ねています。


どうぞ暑中の舞台ではございますが、矢来能楽堂に足をお運び下さい。

2021年5月25日火曜日

クセナキスと日本

 https://www.persimmon.or.jp/performance/sponsored/20210317150202.html

この様な状況の中で開催そのものが危ぶまれていましたので、直前のご案内になってしまいました。

(リンク先のご案内も混乱しているようです。小ホールでの催しは全て中止になったと聞いています。)

加藤訓子さんは世界的なパーカッショニストとして高い評価を受けていますが、私とはご縁があり、これまで何回かコラボレーションの舞台を創作して来ました。

くにたち市民芸術小ホールの企画で創作した、「オトダマコトダマ 阿吽」と言う作品の中で、クセナキスの「ルボン」という作品に舞をつけたのですが、今回は加藤さんの企画で「クセナキスと日本」と言う作品の冒頭に、そのルボンの舞を舞う事になりました。

ルボンはaとbの2部構成になっていて、これまではルボンaを舞っていたのですが、今回は初めてa,b通しでの舞をつけました。

加藤さんによればクセナキスは能に大変興味を持っていたとの事で、私の舞がその意に沿うかどうかはわかりませんが、少なくともルボンaは能の拍子不合(ひょうしあわず)に通じるものがあります。逆に今回初めて舞うルボンbは、はっきり躍動感のある拍を刻んでいて、一見すればダンス作品として面白い音楽と聞こえます。果して能ならではの表現になり得るのかどうか、私自身今からとても楽しみです。

現代音楽と聞いただけで構えてしまう方も多いかと思いますが、加藤訓子さんの演奏は難解さを通り抜けて音楽の躍動を伝えてくれます。

後半の「18人のプレイアデス」と言う作品は、加藤さんの以前のアルバムでは、一人で全ての役を演奏して多重録音していて、その変態的な(失礼)超絶技巧に驚いたのですが、今回はそれを18人で演奏するとの事。1人でやるより返って難しいであろう事は、ちょっと考えてみれば明らかです。数年にわたってワークショップを重ねてきたからこそ可能な演奏と、こちらは一観客として手放しで楽しみに思っています。


2021年3月2日火曜日

舞台のご案内「定家」

 


https://yarai-nohgakudo.com/archives/8335 

舞台のご案内を申し上げます

四月に九皐会の別会にて大曲「定家(ていか)」を舞うこととなりました。

例年国立能楽堂での開催となる別会ですが、今年は社会状況に鑑みて矢来能楽堂での催しとなり、番組も能は私の「定家」一番となりました。大きな責任と共に、この大曲をこのような場で舞えることの喜びを感じています。

 

「定家」は百人一首の選者でもある藤原定家(ふじわらのさだいえ)のことですが、この曲のシテは定家ではなく式子内親王(しょくしないしんのう)です。内親王の墓に定家の執心が葛となって纏わりついているという、定家と内親王の抜き差しならぬ愛執が主眼の曲です。
執着の象徴が定家葛ですので、男の強い執着によって一方的に苦しめられる女性が想像されるかも知れませんが、愛執の束縛は女性自身からのものでした。
 

死後もその執心の葛に縛られて苦しむ内親王は、ワキの僧の供養により、縛めからしばし解き放たれて報謝の舞を舞いますが、舞姿を恥じて墓所の石塔へ戻ろうとすれば、また元の如くに葛は石塔に這い纏わり姿を消します。

この曲は世阿弥の娘婿である金春禅竹の作品とされています。南北朝の騒乱が収束に向っていた時代の世阿弥は、僧の供養で成仏する作品を多く書いていますが、禅竹は再び乱世に傾こうとする不穏な時代の中、供養による平安を一時的なものと把えています。

 

 偽りのなき世なりけり神無月
 誰(た)がまことより時雨初めけん

(嘘ばかりの世の中と思っていたが、誰のまことの心から出たものか、
神無月になると必ず時雨が降る。とすればこの世の中にも嘘はないようだ。)


この曲の前段で詠じられる定家の歌は、時雨さえあるべき情趣として受け入れています。

またこの曲は秋の曲ですが、愛執の葛に縛られている式子内親王は、今の社会状況の中で身動きままならないまま、春を迎えた私たちの姿のようでもあります。


法華経の功徳で心安らかに舞うひと時は、そのまま、難しい時代の中で生きる私たちに、確かな力を示してくれているように思います。

武家の式楽として育まれてきた能の力を、今の時代を生きる力として、見所の皆様と共に感じてみたいと思います。

辛丑春