2015年4月19日日曜日

誕生日に思う

多くの方々から誕生日のお祝いの言葉を頂戴しました。本当に有難うございます。新たな一年に向かって、また進んで行きたいと思います。

昨年までならば以上で終わりにしていました。凡そ私は記念日と言うものが余り好きではないのです。時間は毎日同じ様に流れ、毎日淡々とやるべき事をやって行く事が大切なのだと考えていました。能楽師の暮らしと言うのは、勿論習慣性はありますが、その規則性は割と複雑で、毎日やるべき事は変わって行きます。ですから敢えて意識せずともそれなりに節目が出来て、飽きる事ない毎日を送る事が出来ます。

然しこう言う態度が有効なのは、僅かに平和な日々が約束されている場合に限られています。大体「淡々と」と言うのが「粛々と」みたいでゾッとします。時間の流れだって同じではありません。別に相対性理論を持ち出す迄もなく、意識の前で時間の流れが流動的な事は明らかです。

小学六年生か中学二年生の時、(その事を言葉にして考えて歩いた道は、中学一年の時には通らない道でした)私は決定論的世界観を持っていました。この世界の出来事は全て法則によって定まっていると。時間は均一に流れ、人間の意識は二次的なもので、精密なプログラムの集積によってやがて機械にも意識が生まれるのだと。
しかし時は流れ、大学を二年浪人するうちに次第に考えも変わり、その私が書いた大学の卒論は『ポパーの非決定論』でした。既に観世喜之先生の内弟子となっていた私は、能の感動とは何か、感動が伝わるとはどう言う事か、に興味がありました。卒論はそれを明かすものでも何でもありませんが、少なくとも決定論的世界観から能の感動は伝わらないのではないかと、漠然と感じていました。二十世紀最大の哲学者の一人であり、第一回の京都賞を受賞しているにも関わらず、カール・ライムント・ポパーは日本では殆ど知られていません。ドイツに生まれ合衆国に移住した科学哲学者です。ポパーは、十九世紀の科学万能思想から導かれる決定論的世界観の論理的矛盾を証明し、その証拠として当時の最新物理学である量子論を紹介していました。

私は思想家ではありませんので、自分の考えを新しい着想に基づいて検討し直したりはしません。ですから人の教えを受けてその斬新さに驚いた時も、そんな事は前から分かっていたはずじゃないか、となります。
神の化身と自ら名乗ったサイババが話題になった事がありました。創造神を信じつつも神の化身なんてあり得ないと思っていた私でしたが、何故か本で読んだだけでしかないのに、全知全能の神が自らをこの時空間に展開する事は当然あり得る、と思いその存在を認めていました。今は、神の化身が本当だったとしても、神そのものではあり得ず、時空間に展開された非常に限定された存在だったと思っています。
しかしサイババへの傾倒は、オウム真理教を正しく嫌悪する一助となり(最大の要因は能にあることは勿論ですが)、またヒンズー教の精神風土への親しみを残して、バリ島との交流を用意してくれた様です。

バリ島にはニュピと言う日があります。バリ暦の大晦日に人々はオゴオゴと呼ばれるハリボテに一年の悪霊を移し、それを焚き上げて元の世界に返します。翌日をニュピと言い、悪霊から身を守る為、人々は外出を控え大声で話すことも控え、静かに一日を過ごします。その翌日が正月です。
平成二十三年のニュピの日の前に、私はバリ島へ行きその神秘の一夜を過ごしました。とは言え取り立てた神秘体験をした訳ではないのですが。年明けに絵描きのデワスギ氏の絵巻物語りを、バリ仮面舞踊の人間国宝ジマットさんと共演し、善悪同根のバリ思想を体感しました。
そして三月十日に日本に戻りました。翌日は九皐会の申合せで、矢来能楽堂の楽屋にいるところを大震災が襲いました。

そしてフクイチの事故が起こります。

少し前にツィッターを始め、事故後に色々な書き込みを俯瞰する中で、何人か注目する投稿をしている人がいました。その一人の村松恒平さんが数日前にブログにこんな事を書いていらっしゃいます(「原発事故で経済が終わること」)。やはり早晩日本社会は崩壊する、少なくとも経済的には。村松さんの他にも何人もその警鐘を鳴らしている人はいます。

私は原発事故当初から崩壊への一直線の道のりを考えていました。それこそ日本人が祖国を失った放浪の民になってしまう事もあり得ると思いました。
ところがここ数年の平穏な日々に少し幻惑されていた様です。タイタニックと違って日本が沈むにはやはり何年もかかります。ゆっくりとした崩壊に、あたかもこの平穏が長く続くかの様な幻想を与えられていました。
しかし村松さんの仰る様に、戦争はどうやら既に始まっているらしい。それは私たちが戦争と言って思い浮かべる様なものではありませんが、私たちの平穏を理不尽に奪い取ろうとしています。秘密保護法だとか憲法改正とかまでもが実は目くらましでしかなく、私たちの生命と尊厳を踏み躙ろうとする邪悪の手は、もう既に搦手にかけられている様です。

さて問題はその後です。沈む船から海に落ちた後、未だ生きていたら何をするのか。石牟礼道子さんは、いずれ滅びる人間の、唯一生きた証しとして価値があるかも知れないのは美です、と言う趣旨の事を発言されています。

私は幸いにして能をしています。
能は単なる伝統芸能や音楽劇ではありません。凡そ世界中を見渡しても能の様なものは見当たりません。
その事をこれからの残された少しの平穏の間に、少しでも伝えて行きたいと思います。

誕生日のお祝いの言葉へのお返しとして、例年になく感慨深い気持ちを書こうと思いましたが、思いの外長くなり、日も変わってしまいました。
お陰様で無事五十七歳になりました。有難うございます。

2015年3月30日月曜日

能楽談儀の会

間近かのお知らせになってしまいましたが、下記のように「能楽談儀の会」と言う催しを致します。私の思う能の魅力について、一曲を取り上げてお話しし、私の謡と舞をご覧いただきます。また、皆様からの質問も頂戴しながらの楽しい会にしたいと思います。

第1回に取り上げますのは6月14日(日)にシテを致します『誓願寺』です。

第1回  能楽談儀の会

日時       4月5日(日)午後1時〜3時
場所       松陽閣(JR中央線国立駅北口ヨリ徒歩5分)
国立駅北口を右折し、線路沿いに直進。信号を渡りさらに直進し、突当りの階段を登り少し進んだ三叉路手前の左側の建物。 地図 
会費       一般 2,000円      会員 1,000円
申込み・問合せ  090-3136-8310(ナカショ)又は nakashonobuo@nohnokai.com
持ち物   謡本「誓願寺」。白足袋と舞扇。
               謡本はコピーをご用意しますが、お持ちの方は持参して下さい。
               足袋と扇は、お持ちの方はご持参下さい。
               スリ足体験をご希望の方でお持ちでない方はお申し出下さい。


「能楽談儀の会」について

世阿弥の子、七郎元能による「世子六十以後申楽談儀」は
遊楽の道は一切物真似なりと言えども、申楽とは神楽なれば、舞歌二曲をもって本風と申すべし。
の一文で始まっています。私は著作「能の裏を読んでみたーー隠れていた天才」で七郎元能を掘り起こしました。申楽が江戸時代に武家の式楽「能」となり、武士たちが修身に努めつつ美意識を磨く上でなくてはならないものになる、その素地を整えたのは元能だったのではないかと考えています。
大変僭越ではありますが、それにあやかり私の講座名をこのように致しました。

原則として具体的に一曲を俎上に上げて、その曲の解釈や背景を考えながら、謡を聞き、舞を見ていただきます。本公演の際の舞台鑑賞の一助になるようにしたいと思います。

また、時間の許す限りお話し講座の後に体験講座もしたいと思います。

『誓願寺』について

以下、演能案内のチラシに書いた文章です。

天智天皇が平城京に建立し、後に平安京に移された誓願寺は、現在京都三条の繁華街に小さいながら浄土宗の総本山として賑わっています。ワキとして登場する一遍上人が、布教の本拠とした頃はさぞ大寺だったことでしょう。また後段には和泉式部が歌舞の菩薩として登場する(後シテ)こともあり、古くから芸能者の信仰を集めています。
和泉式部は恋多き歌人として知られ、作品の評価とは別に、人となりは当時から非難の対象だったようです。しかし作者の世阿弥はそういう世間の評価に異を唱えて、和泉式部を歌舞の菩薩に仕立てました。世阿弥は芸能による悟道覚醒とそれによる鎮魂救済を目指していたと思います。この曲はそれが非常に純粋な形で表現されている世阿弥中期の意欲作ではないでしょうか。
この劇性を抑えた非常に能らしい能は、美意識に秀れた江戸時代の武士たちには殊の外尊ばれたことでしょう。その式楽の精神を最も色濃く表すのが能装束です。当日は、能装束と能面の美しさもお楽しみ下さい。

最後に演能のご案内のチラシです。

2015年3月27日金曜日

尹東柱(ユンドンジュ)の「雪ふる地図」

暫くブログを更新していませんでした。
これは昔フェイスブックのノートに書いた文章です。
結構気に入った文章なのでここに再掲します。



2011年2月14日 22:31

尹東柱は韓国の詩人です。一昨年の暮から年明けまで韓国の劇団コリペに能の指導をしたのですが、その時に韓国語の詩に能の節付けをして舞を作ろうと思い立ち、金世一(キムセイル)さんに尹東柱を教えてもらいました。日本の占領下、皇民化政策によりハングルの使用を禁止されるという、状況の中、日本の大学(立教・同志社)で学んでいた彼は、ハングルで詩を書くことをやめず、治安維持法違反で逮捕され、福岡刑務所に思想犯として服役中、薬物実験の犠牲者となり、1945年2月16日に亡くなります。
さぞ社会的な詩を書いたのだろうと、思われますが・・・・

雪降る地図 スニ(女性の名前)の去りし朝に 言うに言えぬ思いで牡丹雪が降りて、悲しいことのように窓の外遥か広がる地図の上を覆う。部屋の中を振り返れば何もない。壁も天井も真っ白だ。部屋の中にも雪が降るのだろうか、本当に君は消えた歴史のように一人で行ってしまうのか、去る前に伝える言葉があることを手紙に書いたが、君の行く先を追って、どの町どの村どの屋根の下、君は僕の心の奥にだけ残っているというのか、君のちっちゃな足あとの上を雪が次々被い隠して捜す術もない。雪が溶ければ残った足あとのひとつひとつに花が咲いて、花のあいだにも足あとを捜しに出かければ、一年十二ヶ月いつも僕の心には雪が降るのだろう。 

何と美しい詩ではありませんか。
尹東柱はキリスト者であり、愛国心を信仰の中に如何に昇華させて行くのかを求めた人だと思うのですが、そのせいか恋愛の詩はほとんどないのです。「雪降る地図」を愛の詩と読めば、美しく陶然とさせられます。しかし、この詩には日付があります。1941年3月12日。この頃、朝鮮総督府は朝鮮語教育を全面禁止します。雪が降って隠してしまっているのは、地図なのです。去ってしまった恋人は、消えた歴史のように一人行くのです。
尹東柱と言う人は、本当に清潔感のある清々しい顔をした好青年です。友と写真に写る時にも、必ず端の方ではにかんでいる。その人の心の中に雪が降り積もり、悲しみと怒りを覆い隠して、美しい花を私のもとへ届けているようです。
今日は夕方から雪が降り出し、東京も白く覆われています。私はこの詩を知ってから、雪が降ると「スニが去った朝に・・・」と胸の中で呟いてしまいます。

尹東柱
尹東柱

2015年2月28日土曜日

『kuu:』と言う情報誌に「能の伝承」と言う文章を書きました

曹洞宗の情報誌より依頼されて、「能の伝承」について書きました。以下、編集の方がもう少し読み易くして下さっていますが、ここには私の生原稿を掲載します。
























 能の師弟関係と言っても、それこそ師も様々、弟子も様々で、類型化して語るのは殆ど不可能です。しかし現在能に携わっている人たちに一つ言える事は、後継者の育成を何より大切に考えていると言う事です。七百年に及ばんとする能の歴史の突端に危うく立って、先人の修練の累積を思い、「今」と言う断崖絶壁に新たな歴史を刻もうとする時、そしてその自らの携る芸道に誇りを持って未来を思うならば、後に続く人材の育成は、一つの舞台に心血を注いで素晴しい成果を上げる事と、同等以上の重さを以って評価される事なのです。
 能は、江戸時代に武士の式楽となりましたので、「封建的」と言う言葉と共に、子弟の教育に関しては、閉鎖的で頑迷であると思っている方が多いのではないでしょうか。何よりも世襲が重視され、家の子は否応なくその道に進むことを義務付けられ、また世襲以外の家の者は低く見られて格段の差別をつけられるのではないかと。そんな側面が全くないとは言えませんが、世間の人が思っているよりももっと実利的に開かれた側面もあります。想像してみて欲しいのですが、先祖から受け継ぐものを子供や弟子に伝えようとする時、厳しくはあっても、注ぐ愛情や、養育に当たっての心配りは相当に細やかなものになるのは至極当然の事です。

 世阿弥が観阿弥の教えを纏めたと言う『風姿花伝』の最初は、有名な「年来稽古条々」です。ここに「七歳」「十二三より」「十七八より」「二十四五」「三十四五」「四十四五」「五十有余」と項立てをして細々と書かれている事は、教育や修身の手本として、今では広く知られる様になりました。その内容に触れれば能がその成立当初より、伝承に重きを置いていた事が分ります。師から弟子へ伝えられた数々の言葉は、観阿弥から世阿弥への教えであるばかりでなく、世阿弥からその弟子たちへの教えでもあります。因みにここに記された年齢は当然数え年ですから、現在の満年齢にすれば一歳か二歳下と言うことになります。
 「七歳」は五六歳で、今で言えば就学前です。その頃に稽古を始めるのですが、何より子供の好きな様にやらせなさい、色々やる中に必ずその子の得意なものがあるはずで、またあまり細々した事を教えたり、強く叱ったりしては、能が嫌になってしまうから、気をつけなさいとしています。
 「十二三より」は、今の小学三四年生ぐらい。子方の完成の時期で、とにかくこの頃は伸び伸びやれば宜しいとしています。ただ一つ気をつけるのは、この頃の成功は決して「真の花」ではない事を充分心得ておく事です。テレビなどで、達者な子役が良い役者にならないのもこれですね。
 「十七八より」は、今で言う思春期の頃。何より「この頃は、また、あまりの大事にて、稽古多からず」と冒頭に書かれていて、この年頃の重要さを認識している事が素晴しいと思います。声変りして身体も急速に大きくなり、精神的にも不安定になる。思春期などと言う言葉がなくとも、世阿弥(観阿弥)は後継者を育成する観点から、当然のようにこの年頃の難しさを認識していました。この時期を乗り越えるのは、ただ本人の覚悟です。「心中には願力を起こして、一期の境ここなりと、生涯にかけて能を捨てぬより外は、稽古あるべからず。」少し表現が独特ですが、要するに、一生これでやって行くのだと覚悟を決めない限り、稽古しても仕方がない、と言う事でしょうか。また最後に、声の調子は出し易い高さで謡えば良いのであって、無理な声を出すと、「身形に癖出で」来て、「声も年寄りて損ずる相なり。」と退けています。
 そうして稽古して行けば「二十四五」まではそのまま真っ直ぐ伸びて行くようですが、そこで少々良い舞台をしたからと言って、それを「真の花」と思ってはいけない、例え名人に勝つ事があっても、それは「一旦珍らしき花なりと思ひ悟りて、いよいよ物まねをも直ぐにし定め、名を得たらん人に、事を細かに問ひて、稽古をいやましにすべし。」と記されています。ここで言う「物まね」は、どうも今の舞台演劇などの演技全般にあたる様です。
 世阿弥は「三十四五」を以って芸の盛りと考えている様です。この頃に「真の花」を究めていなかったならば、四十を過ぎてから芸が落ちる。先に行けば明確なのだけれど、今はそれとは分らないので、相当の舞台を勤め得ても、慢心することなく励む必要があるとの事です。
 ここまでは年齢に沿った稽古心得として、現代においても無条件で得心し得る所でした。さて愈々能の能たる所以でしょうか。「四十四五」から「五十有余」では、年寄って行くのに若やいだ曲などをするのを戒め、そうでない曲でも演技で見せたりするのではなく、ただ淡々と演じる事を勧めています。

 さて『風姿花伝』は世阿弥が観阿弥の教えを記したものです。観阿弥は五十二歳に亡くなっていますから、「年来稽古条々」も五十有余までで終っています。『風姿花伝』は飽くまで伝書であり、一般に公開されたものではありません。その為、例え能楽師であってもその内容は、殆ど知られていませんでした。明治になって吉田東伍博士が安田財閥の蔵からこの伝書を発見するまで、能楽師たちの寄って立つ教育の教科書は存在しなかったのです。しかし、弟子は師匠に教えられたように、弟子に教えるものです。それは細かい内容よりも、教え方に如実に現れる様に思います。例えば就学前の子供にはやりたい様にやらせて、しつこく直しを入れたり、怒ったりしないなどと言う様な事は、もちろん例外もありますが、実際の能の家家に実践されているように思います。これは遠く流祖の観阿弥・世阿弥から、代を重ねる度毎に、教え伝えられて来たのではないでしょうか。

 最後に少し私自身の事を書く事に致しましょう。私は、一般の会社員の子として生まれ、父の趣味に影響される形で能と出会い、大学のクラブ活動を経て、能の世界に飛び込みました。私が入門した観世喜之先生の元には、一門の能楽師の師弟ばかりではなく、私のような学生上りや就職先を辞めて内弟子となった者もいて、一時は六人の内弟子が本拠地の矢来能楽堂に起居しておりました。それを稽古するだけでも大変な事でしたが、師はどの内弟子にも分け隔てなく接して下さり、私は家の者でない事に負い目を感じる事が殆どありませんでした。師の元からは十五人が能楽師となって、現在盛んに活動しています。
 また、小学生の頃から私の下で謡と仕舞を学んでいた子が、現在は私の後輩として内弟子に入っています。
 現代においては世阿弥の頃のような後継者育成は望むべくもありません。能の家に生まれても、学校の勉強が忙しくて能の稽古ばかりしているわけにはいきません。多くが大学を出て内弟子となります。外の世界から能に入る者と、能の家の者との差は、それ程無くなって来ています。しかし、その様な状況の中でも、やはり代々の家の使命を自覚した人たちは素晴しく、その人たちを中心に能はまだまだ伝承されて行くと思います。
 しかし、私たちがこれから迎えようとしている未来は、人類がこれ迄に経験した事のない様な社会かも知れません。私はその危機を乗り越えるのは、能に縋るしかない、と考えています。聊か手前味噌ではありますが、本気でその様に思っています。

2014年12月26日金曜日

語り部の成熟

 縄文の頃に既に大小の共同体が彼方此方に形成され、その中には王と呼ぶに相応しい存在も現れた。その王達の中には血の来歴を誇る者たちも多く、その傍には王の出自、即ち支配の正当性を民衆に語り聞かせる語り部たちがいた。
  語り部は専門職であり、伝承の為、行動を制限されていた。食は王からは勿論の事、民衆からも与えられたかも知れない。
  語り部は物語りを声を合わせて朗唱する。節を付けて集団でうたう事により、膨大な物語りを幾世代に亘って語り伝える事が可能になった。 
 語り部の語りは、邑の中心の広場でなされる。王の権力の誇示であると同時に、民衆たちにとっても古えの物語りに心震わす楽しみな時であった。 
 或る時この朗唱に歩行動作が加わる。歩きながら声を合わせて朗唱すると、記憶はより確かになる。ところで日本語は母音を平板に並べて行く音律が特徴で、元日本語である縄文の言葉の中に、この特徴を持つ言語の部族が次第に有力になって行った。この朗唱は水平方向の動きを要求する。例えば神懸りした巫女の舞などは上下動を交えた躍動的なものだったかも知れないけれど、この語り部たちの動きはあくまで水平方向に限定されていた。それは朗唱の音律から導き出される動きであり、また、ひと度平らに踏み固められた邑の広場に裸の足裏を擦り付けて歩いてみると、その土地の持つ息吹が身体に通うのを如実に感じ、地霊が語り部の朗唱に手を添えてくれる様な感覚さえ覚えて、忽ち語り部たちを魅了してしまった。 
 これがスリ足の誕生となる。 
 姿勢を整えてスリ足をする。邑の中でも聖なる力に満ちた場所である。語り部たちは朗唱の稽古をする前に、たっぷり時間をかけてスリ足をする様になった。地の気を足裏から身体に吸い上げ、巨木や風の気と交信する。これによって語り部たちは健やかな精神としなやかな身体を獲得する。戦いや狩りに出ない事もあり、他の者に比べて長命な者が多くなった。
  ここで語り部たちの姿を考えて見よう。両手は肘を外に張り、足から頭の天辺まで上体を真っ直ぐに伸ばし、その姿勢を崩さずに歩く。
 (ここで私のイメージに突如現れた物があります。否、まさか、と思いつつ、そう言えば十年位前には良くこのお話しをしていたのです。 
 それは顔より小さな仮面のお話です。世界の仮面劇の中で、能面の様に顔より小さな仮面は少ないのです。仮面劇は大陸にも半島にもあるけれど、顔より小さな仮面は見かけません。猿楽は大陸の芸能に影響されて成立するけれど、顔より小さな仮面の系譜は、この列島にもっと昔からあったのではないかと、そしてその様にお話しする時、私が念頭に置いていたのは仮面土偶でした。) 
 私には一瞬、遮光器土偶のあの奇怪にして崇高な姿が、語り部のものではなかったかと言う幻想が浮かぶ。しかし遮光器土偶はどう見ても女性の姿だ。語り部が女性だったと言う事はあり得るだろうか。勿論否定し去るものではないが、やはり違う。邑のゴミ捨て場に、必ず脚などを打ち欠いて廃棄されている土偶の意味が何であるのか説明されなければ、この魅力的な仮説には無理がある様だ。 
 ともあれ有力な王の元に語り部が組織され、スリ足を基本とする身体技法を駆使して、膨大な物語りを伝承していた。伝承の中には歴史的なものばかりではなく、世界の理を説いた物もあったかも知れない。語り部は知の集積でもあった。
  二人の王が戦えば、勝者は敗者の神話を廃する。語り部たちは殺され、民は下層民に組み入れられる。この時敗れた王の名前は、勝者のものとなる。お前たちの王の名前を受け継いだ私に従え。大国の王は多くの名前を受け継いで行く。その語り部たちは有用な神話を取り込んで、語りは次第に複雑になる。
  語り部も大きな集団になって行き、領土の拡大に連れて分裂して行く。その土地固有の物語りが加わり、物語りは語り部毎に変態する。伝承に幾つもの違いが生まれた。
  さて、国の統合が進み、或る時文字が持ち込まれる。それは大陸から齎されたものであったかも知れないし、そうではないかも知れない。そうではないかも知れないと言うのは、語り部が文字を生み出した可能性もあるからだ。
  当然の事ながら語り部は生きている。おそらく一つの語り部の集団は二三十人単位ではなかったか。そこに何らかの災厄が起こり、過半数の者が死んでしまい、安定した伝承が出来なくなる語り部もあった。特に若い世代を失った語り部集団は、自分たちの語りがやがて失われてしまう事を知る。その時音韻を知り尽くしている彼らが、その音を記号化する事を全く考えなかっただろうか。
  この文字は仲間内の符丁の様なものだ。洞窟に遺された壁画の存在を思えば、記号を印す方法はいくらもあったに違いない。否定しても根強く残る神代文字はこの様なものであったかも知れない。民衆どころか権力者さえもそれと知らず、文字は生み出されていた。
  更に幾世代かが流れうちに、滅んでしまった語り部の遺物たる文字を、語り部が目にすれば、それが言葉を表す記号であると知る。しかしそれに語り部そのものを滅ぼす力のある事を、聡明な者たちは知ったはずだ。文字の存在は禁忌として、しかし周知されて行く。  

2014年12月17日水曜日

語り部の誕生

 先日、スリ足の起源が語り部ではないかと書いてから、語り部について様々に考えています。


 私たちの祖先がまだ文字を持たない頃、恐らくは三万年から一万三千年前の旧石器時代と呼ばれる頃に、自ずから技術の伝承がなされるようになって、知の蓄積が始まった。そしてその頃にも当然個体差はあるはずなので、人による得手不得手は当然あり、ある人は道具作りに秀で、ある人は道具を持って野山を駆け巡ってこれを使うのに秀で、またある人は天地の移り行きを読んで、人々の安全や生産性に資する事に秀でていた。
 その中に言葉に秀でた者がいたであろう事は充分考えられる。自然の移り行きを読んで、これを神の言葉として人々に伝える者もいれば、昔の出来事を語り伝える者もいた。尤も今の私たちはこれらを別々の事と考えるけれど、当時の人たちはその区別をせず、全部一緒くただったに違いない。ただ恐らくは、正しく語る者は尊ばれ、誤って語る者は排斥されただろう。さらに沢山語る者は人々の賞賛を得て、多くの富を得たかも知れない。
 正しい事を沢山語る者。
 その成功の元に人は集まり、その技術を伝える者たちが形成されて行く。即ちこれが語り部の萌芽である。
 ところで、権力者がこれを放って置くはずがない。
 何時しか人々を束ねて動かし、莫大な富を手中に収める者が現れる。いやいや。そう言う人は途中から現れるのではない。数家族が行動を共にすれば、もうその時には知と勇に優れてこれを導く者は必ずいるはずだ。しかし自らは直接生産する事なく、人を使役して富を得る少数の者たちが現れるのは、もう少し後の事ではないかしらん。
 そう言う権力者の中には、特に知と勇に優れていなくとも、親からこれを受け継ぐ者がいた。その正当性を使役される人々に納得させる為に、語り部は利用される事になる。
 語り部にも魂はあるのだから、悪逆非道な支配者の為に多くを語る事はなく、正道を歩む徳の高い支配者の為に多くを語る、となれば良いけれど、昔だからと言って世の中はそうそう単純な物でもあるまい。自らの仕える主人が敗れた時、勝利者を讃えなければ、恐らく語り部は殺されるのだ。生き残る為には内容を変えなければ。
 古い物語りは語り変えられ、善であったはずの者が悪になり、人であった者が鬼になる。
 年を重ね、やがて王が登場する頃には、物語は膨大な量になる。語り部たちは、世界の創造から、今の王までの一直線の物語りを語り出す。
 王様は神から連なる正当な支配者なので、大変偉大な存在なのです。皆さん。讃えましょうね。
 しかし、この膨大な物語りを語り部たちは如何にして語り伝えたのだろうか。そうそう。「語り部たち」と言っている様に、集団である事は間違いない。現代の私たちがうっかりすると考えてしまう、優れた記憶力を持つ特殊な個人の集まりではない。
 もう一度「正しい事を沢山語る」語り部の萌芽に立ち戻ってみよう。
 その語り部の元に、成功に与ろうとして、何人かの人が集まって来る。丁度落語家の元に弟子が集まって一言づつを鸚鵡返しに伝授され、一つの話しを覚えて行く様に。
 文字を持たない頃、人は何でも覚えていた。だからお祖父さんが昔語りを語るみたいに語る事位なら、大抵の事は何回か聞けば覚えてしまった事だろう。それでも人間の記憶の特質として、その内容は屡々変わって行く。何世代にも亘って、膨大な事柄を同じ様に語り伝える事は、多分出来ない。
 「我が先祖の歴史を語り伝えよ」と命じられた語り部たちは、大勢で声を合わせて朗唱する。その部族の者達は生まれた時から朗唱の響きの中で成長する。狩りや漁などに出て事故で死んだりしては、貴重な物語りが失われてしまう。語り部たちは王に養われ、集団での外出や移動は禁じられ、安全で安定した場所に生活を送る。
 王の権力を誇示する時の儀式には、語り部の主要な者達が出掛けて行く。安定した王権であるならば、部落には第二部隊と老人に女子供が残っている。もし出掛けて行った第一部隊に変事があっても、語りは失われない。こうなると愈々語り部は知の集積機関としての機能を発揮し始める。
 恐らく日本ならば縄文時代と呼ばれる頃には、有力な王の元には語り部がいたに違いない。

 長くなりましたので、語り部のその後については、また改めて。

2014年12月1日月曜日

混迷の歳の暮に『光の素足』



12月23日に愛知県日進市で能楽らいぶ『光の素足』を致します。

『光の素足』については検索して頂ければ多くの記事がありますが、以下の二つは詳細に論じて下さっている大変素晴らしい記事です。


この会は日進市の町興しに、文化面からアプローチして行こうと言う、地元のボランティア団体によるもので、手作り感満載の催しです。日進市は名古屋市の東側に隣接し、豊田市へ通じる中間点に位置します。名古屋の衛星都市としての新しい町と、伝統的な行事や地縁を重視しての魅力ある旧い街とが混在しています。私の住むあきる野市とも少し似ています。

その地でご縁を得た方が中心となって、能楽らいぶを是非日進で、とのお話を頂戴しました。

ブログでのご案内が遅くなってしまいましたが、お近くの方は是非お出掛け下さい。

今回の「能楽らいぶ」は、特別に装束と能面を付けます。これは主催の皆様の熱意に応える形で実現しました。

12月23日と言えば既に選挙も終わり、どの様な社会情勢になっているのか想像も出来ませんが、その様な時にこそ、この『光の素足』を観て頂きたいと思います。

吹雪に弟を死なせてしまった兄の苦しみは、「生き残りの罪悪感」を持つ全ての人に共通のものです。宮澤賢治さんの言葉は、その苦しみに寄り添って私たちを勇気付けてくれます。