2016年2月26日金曜日

『葛城 大和舞』を前に

2月28日(日)若竹能で『葛城 大和舞』を致します。今日(26日)申合せを既に終え、愈々本番を待つばかりとなっています。

『葛城』についてはこのブログに以前にも書きました。今回「大和舞」で再演するに当りますますこの曲が好きになりました。「役行者に縛めを受ける神様」、「人間なのに」などと思っているとこの曲は見えてこないのではないでしょうか。

「日本霊異記」などで語られる葛城明神の説話は、作者(おそらく世阿弥)にとってはこの能を具体化するための種の一つにすぎません。大和猿楽の者たちが奈良盆地に一座を構え、日々芸の研鑽を積んでいる時、南を見ればそこにはムックリと葛城山が聳えていました。吉野へ頻繁に通う際には葛城山の麓を通り抜ける、つまり最も親しみを感じる故郷の山だったと思います。
そしてそこには既に滅んでしまった大和舞の伝承がありました。芸能を伝える者として、神代に盛んに行われていた霊力を秘めた舞こそが、作者の目的だったのでしょう。「しもと結ふ葛城山に降る雪の間なく時なく思ほゆるかな」と言う古今集の「ふるき大和舞のうた」と題された歌を頼りに、その大和舞を復活させる、いや具体的なことは何もわからないので舞そのものではなく、舞の霊力を復活させる、そんなことを世阿弥は考えていたのではないでしょうか。

三代将軍義満が微妙ながらも作り出した平安の世を、何とか維持しようとする四代将軍義持。その下で世阿弥は芸能による平安の確立を本気で指向しました。私は世阿弥が芸に向う姿勢に、例えば禅の悟り、世俗に隔絶した修道僧たちなどと同じものを感じるのです。「歌舞の菩薩」と言い、芸を極める事で菩薩となり衆生を救済しようとするのです。平安の世の危うさを古い神の力、芸能の力で維持しようとする、その為に故郷の山に眠る神を縛めから解き放つこの曲を作ったのです。

一月の舞台より

去年は『誓願寺』と『唐船』の二番の能をしたのですが、今年は当たり年とでも言うのでしょうか、一月中に羽村市で『敦盛』(装束を着けての一部上演)をし、このブログでもご案内した相模湖能で『羽衣』を致しました。さらに二月に『葛城 大和舞』、五月に『葵上』、九月に『楊貴妃』、十一月に『光の素足』の他、三月十一日に福島での鎮魂能楽らいぶ『中尊』、その他未だ日程のはっきりしない催しもあります。いったいどうしてしまったのでしょう。
でも、一番一番に稽古を尽して行くのみです。何卒宜しくお願いします。

さて、今日は少し時間が出来たので、一月の舞台の写真を整理していました。

気に入った写真をご紹介して、催しのご報告とさせていただきます。

まづは羽村市ゆとろぎでの『敦盛』より。

 十六歳で一の谷の合戦で討たれた平敦盛の亡霊です。この催しは面打の新井達矢さんの仮面展との連動企画で、使用の能面も新井達矢作の「十六」です。

























次は、相模湖交流センターでの相模湖能『羽衣』。

羽衣を返してもらえず悲しむ天女と、返してもらった羽衣を身に纏い舞う天女です。

面はこれも新井達矢作の「小面」です。























写真はいずれも芝田裕之氏の撮影です。

2016年1月4日月曜日

ふたたび「羽衣」公演のご案内

新春にふさわしい能『羽衣』を相模湖能で致します。

中央線終点の高尾で乗り換えてわずかひと駅の相模湖駅から、冬枯れの里山の姿を眺めながら歩いて十分、小さな湖を堰き止めているダムの傍らに、会場となる相模湖交流センターはあります。ここのホールは音響の良さで知られ、世界的な演奏家がここを指定してレコーディングするという、隠れた名ホールです。

羽衣をめぐる漁師と天女の物語は、白鳥伝説として東アジア各地に伝えられています。能『羽衣』は駿河国風土記を下敷きに、能作者の様々な想いを詰め込んで、美しい詞章と分かり易い筋立てで、現在最も人気のある曲の一つです。

私見では、この曲は能が現代まで伝承されるに至る重要な鍵を隠しています。能をご覧いただく前にそのあたりを少しお話し致します。

どうぞ睦月晦日に都会の喧騒を離れて、幽玄のひとときをお楽しみ下さい。


2015年12月18日金曜日

『羽衣』を舞います

来春の演能のご案内です。相模湖交流センターで『羽衣』を舞います。最初に作品についてのお話をして、休憩の後に能を舞うと言う企画です。能を舞う前にお話をするなど、本来は避けたいのですが、羽衣は一寸特別なのです。
何がどう特別なのかは当日のお楽しみとして、 以前にも載せた文章ですが、 羽衣のあらすじを再掲します。
ところでこの会場となる相模湖交流センターは、 高尾駅からひと駅ですので、 それ程遠くありません。 是非お出かけ下さい。





〈羽衣のあらすじ〉
 春爛漫。早朝の三保の松原に強い風が吹いて、漁師たちは騒がしい。
 白龍(はくりょう。ワキ)もその中のひとり。白い砂浜に松原が続き、朝霞に月が浮んでいる。風月を愛でるなんて漁師の柄ではないけれど、この景色の美しさには心奪われてしまう。まして西の方から清見ケ関を越えて来て、海を挟んでこの三保の松原を眺めたら、その美しさはとても忘れられるものではない。急に風が変って波が荒くなるように見えるけれど、春にはよくあることで、すぐ穏かになる。
 まだ小舟が多く浦に残っている中、早々と浜に上った白龍は、あたりの異変に気付き、松の枝にかかる美しい衣を見つける。拾って持って行こうとする白龍を呼び留めた美しい女は、自分が天女であることを明かし、その衣がなければ天上界に帰れないのですと、嘆き悲しむ。
 その姿の哀れさ、美しさに打たれた白龍は、天人の舞楽を聞かせてもらう約束をして衣を返す。少し疑う気持ちもあったが、「いや疑いは人間にあり。天に偽りなきものを。」と天女の声がご託宣のように響いて、とても逆らうことなど出来ない。
 衣を身に纏って天女は舞う。〈次第〉から始まり〈クリ〉〈サシ〉〈クセ〉と続く曲舞は、「東遊びの駿河舞。この時や始めなるらん。」と駿河舞の起りを説き起す形で語られて行く。
 「永遠不変の天上界から、陰陽の二神イザナギとイザナミにより十方世界が分かれ、そのひとつの月の宮殿では、白衣の天女と黒衣の天女が十五人づつに分れて、満ち欠けを司る舞を舞っている。その私の舞を今この地に因んで駿河舞と名付けてこの世界に伝えましよう。」
 この三保の松原の春の様子は天上の世界にも劣らない美しさ。そこに天女が舞を舞うと、自然の音も天上の音楽と聞こえ、落日の輝きも命の甦りを暗示しているようだ。
 舞は永遠に続くかのように思われたが、天女の姿は空に上り、地上に祝福を与え、遥か富士の高嶺を目指して姿を消す。
〈あらすじ終り〉


2015年10月15日木曜日

オトダマコトダマ〜阿吽〜

この月を跨ぐ再来週末の催しです。
この作品がどんなものかお話するのはとても難しいのですが、一昨年にくにたち芸術小ホールの企画公演として初演してから、相馬市、豊橋市と舞台を重ね、その度毎に高い評価を頂戴しました。
今回もくにたち芸術小ホールの企画による再演です。これは一昨年の舞台を評価して下さっての事と思います。そして、今回は再演としてのグレードアップを要求されました。
前回は紋付袴での舞でしたが、今回は面装束を着けての舞台になります。地謡も加わって頂く事になりました。
前半の詩人は、私の顔をそのまま面とする、直面(ひためん)で致しますが、後半の精霊をどんな姿で舞うのか、この部分は石牟礼道子さんの詩「花を奉る」を能の形式に仕立てたのですが、なかなか迷う処です。
今現在、一応の心積りは出来ていますが、さてどんな姿となりますか、どうぞ楽しみにして下さい。

2015年8月13日木曜日

『唐船』について

九皐会の八月例会で『唐船』を致しました。

この曲は子方が四人ないし二人必要なため、(今回は年長の子どもの役である唐子は、子方卒業生の大学生と高校生が演じますが、それでもしっかりした二人の子どもがどうしても必要です。)また専用の大掛かりな船の作り物も必需で、劇能としてはなかなか良く出来た面白い曲であるに関わらず、あまり上演されません。『誓願寺』『白鬚』『呉服(くれは)』など、振り返ってみると最近は稀曲が多く、お相手を願う仲間の能楽師には迷惑を掛けています。この曲も、若い頃からずっと子どもの弟子に恵まれて来た中で、兄弟で能が大好きな今回の二人とこの曲をやってみたいと思って選んだ希望曲でした。

しかし、実際にやってみると、私の最近の主題である、観世七郎元能(拙著『能の裏を読んでみた〜〜隠れていた天才〜〜』)の影がこの曲の周辺に色濃く、まるで呼び寄せられたかのように感じています。

兎に角不思議な曲です。その曲想も倭寇を扱った他に類例の無い異相の物ですが、何より不思議なのは、永享2年(1430年)世阿弥の子、観世十郎元雅が心中所願を祈念して吉野山中の天河弁財天で『唐船』を演じ、阿古部尉の面(おもて)を奉納している事です。
尤もこれについては異論があり、元雅が、能面を奉納したのは事実だけれども(現にその旨裏書に書かれている尉面が天河弁財天に伝えられています)、唐船を舞ったと言う記録は何処にも無いから、そんな変わった曲を態々こんな所で舞ったはずは無い、と言うのです。
しかし、変わった曲と感じるのは現代の人間であり、現在通説となっている元雅を取り巻く人間関係では、唐船を舞う必然性が見えて来ない、と言う事なのでしょう。しかし、そう言う伝承があるのは、成る程唐船を奉納する気持ちはよくわかると言う了解事項が周辺にあったからで、よしんば唐船を舞わなかったとしても、十郎元雅を取り巻く人間関係を此処から推し量る事が出来るのではないでしょうか。

〈能『唐船』の内容〉
九州筑紫の箱崎何某(ワキ)が登場し、唐土(もろこし)と日本の間に船の争いがあり、互いに船と人員を収奪している旨を述べる。箱崎某の元には祖慶官人と言う人がいて、十三年に亘り牛馬の世話をさせていると言う。
場面変わり、唐土明州(みょうじゅう)の港から「そんし」と「そゆう」の兄弟(子方またはツレ・唐子)が、別れて十三年になる父の祖慶官人を求めて、船出する。箱崎の浦にやって来た兄弟は領主箱崎某に面会し、宝に代えて父を連れて帰りたいと訴える。
箱崎殿は祖慶官人を放牧に使役しているとは言えず、物詣で留守だと言い繕い、家人に命じて官人には裏から帰るよう指示をする。
また場面変わり、二人の小さな子ども(子方。日本子)と祖慶官人(シテ)が引き縄と鞭を手に、牛馬を放牧している。海際に広がる小高い丘に牧草地があり、松林を風が吹き抜ける中、牛の親子が気持ち良さそうに鳴き交わしている。家畜の世話が辛いと嘆く二人の子供に、官人は七夕の牽牛星の例えをあげたり、秋の花咲く野を一緒に歩く楽しさ等を語り聞かせなどしている。
時に官人の胸には望郷の念が溢れ、唐土に残して来た二人の子供の事が頻りに思い出される。また当地で儲けた目の前の子供二人も可愛くて仕方がない。もしこの二人がいなかったなら、松の枝が雪の重みで折れてしまう様に、この身も悲しみの重さで死んでしまっていたに違いない。
「さてさてそろそろ家に帰るとしよう。」「お父様。住んでいらした唐土でも、こんな風に牛馬を飼っているのですか。」「そうだとも。華山とか桃林などと言う所があって、これは花の名所でもあるのだよ。」「唐土と日本では何方が優れた国なのですか。」「いや、それはとても比べられない。九牛の一毛の例えの様なもんだ。」「そんなに楽しい所なら、さぞ故郷が恋しい事でしょうね。」「いやいや。お前たちが生まれてからは、帰国する事なぞ思いもしないよ」と、親子は話しながら帰って行く。松風の音も遠くなり、間も無く箱崎に戻って来た。
待ち受けていた箱崎殿から、そんし・そゆうの事を聞き、驚く官人は、身ずまいを整えて唐子の二人と対面する。
「これは夢ではなかろうか。もし夢ならば何しろこの地は箱崎と言うのだから、蓋が開く様に夜が明けて終わってしまうかも知れない。」
しかし夢ではない。春宵一刻値千金と言うけれど、子程の宝が他にあろうかと、皆感慨深く見守っている。
箱崎殿とその周りの人々は、唐土と言うのは情の通わない夷(えびす)の国だと聞いていたけれど、こんな孝行な子どもがいるのだなあと、感心頻り。箱崎の神様も受け容れて下さったのだと、父官人は感謝の祈りを捧げる。
そうこうしているうちに西に向かう追風が吹き始めた。船頭がそんしに知らせ、そんしが父官人に知らせ、官人は箱崎殿に暇を乞う。快く帰国を祝う箱崎殿であったが、置いて行かれそうになった日本子の二人が同行を訴えると、二人は此処で生まれたのだから此方の物だとばかりに帰国を許さない。早く船に乗れと急かす唐子の二人と、置いて行かないでと訴える日本子二人に挟まれて困り果てた官人は、子どもたちの為なら命が消えても惜しくはないと、岸壁から身を投げようとする。慌てて四人の子どもが駆け寄って引き留めると、心は弱々と崩れて泣き伏してしまう。
この有様に心を打たれた箱崎殿は、日本子二人の同行を認める。再び箱崎の神に拝礼した官人は、早速四人の子どもと共に入江に碇泊している船に乗り、喜びの舞楽を舞う。
船で奏でられる音楽は唐様の楽。始まりの荘厳な雰囲気に舷を打つ波の音が鼓の如く囃し立てる。官人の船中の舞は次第に興に乗り熱を帯びる。陸から見送る人々が盛んに振る手は追い風となり、船で舞う官人が袖を翻すと、それもまた追風となる。いよいよ船が帆を掲げると、風を孕んで勢いを増し、唐土に向かって帰って行く。
〈終わり〉

この曲の作者として名前の上がっている外山吉広(とびよしひろ)と言う人は、全く謎の人物です。他に作品もありませんし、第一「とび」と呼び習わすのも春日大社庇護の大和猿楽四座、結崎座(観世)円満井座(金春)外山座(宝生)坂戸座(金剛)の外山座関係者と比定した上での事なのでしょうが、外山座の系図の様なものは手元になく、確かめる事が出来ません。
世阿弥作と伝える資料もある様ですが、これは眉唾です。しかし世阿弥作と考えても差支えない作品の出来と思います。また何より謡の詞章に於いて、世阿弥の作品を踏まえた表現が随所に見られ、これは世阿弥と共に演能や創作を手掛けて来た人の手になるものと想像出来ます。
その為、七郎元能に入れ込んでいる私には、外山吉広は観世元能の仮の名前に違いないとも、思われてなりません。

そもそも冒頭に書きました十郎元雅による永享2年の天河での奉納は、七郎元能が『世子六十以後申楽談儀』を著し、出家して一座を離れた直後の事です。
私は七郎元能こそが、本来なら世阿弥を継ぐ人だったのではないかと思っています。将軍義教からの数々の迫害を逃れる為に、彼が一座を去る事がそれなりの重みを持っていたとすれば、また、去るに当たって世阿弥からの教えを一書に記さなければならなかった事を思えば、七郎元能が本来の後継者だったにも関わらず、何らかの事故で身体に障害を負い、太夫を弟の十郎元雅に譲った上に、精神的指導者として一座を纏めていたと考えても良さそうに思います。
義教に贔屓にされている三郎元重の共演者として観世五郎と言う名前があるそうです。今仮に、一方に三郎元重と五郎、もう一方に七郎元能と十郎元雅を置いてみると、年長の二人の上に将軍義教のいる事が、唐船とは異なりますが、唐子と日本子の板挟みで苦しむ祖慶官人の姿が世阿弥その人と見事に重なります。
日本子を取り込もうとする箱崎殿が改心しさえすれば、四人仲良く同舟する事が出来る、即ち義教の恣意の下に引き裂かれる兄弟と親子の復旧、その一事を願って元雅はこの曲を奉納したのではないでしょうか。
そして、そんな都合の良い曲が元々からあった訳ではなく、元より芸道修練にこそ執着し、名前を挙げる事に興味のない元能が、外山吉広の名前を使ってこの曲を創作したのです。

シテが日本子と三人で登場して、もしこの二人の子がいなければ生きてはいられなかっただろうと述懐する場面に「老い木の枝は雪折れて、この身の果ては如何ならむ」と言う言葉がありますが、これなど吉野の山奥にこそ相応しい言葉です。

処で最近、六代将軍足利義教について実は英明で秀れた人物だったと言う再評価をする人がいます。
非常に不安定な幕府の運営を、将軍の独裁を強める事で、安定した平和を築こうとしたと言うのです。そして義教の行為を織田信長に先行するものとして、その先見性を称えています。癖の強い性格はその天才の副作用であると。
井澤元彦氏の『逆説の日本史』でこれを読んだ時は、とても面白いと思ったのですが、その後世阿弥周辺の物語を考えているうちに、やはりこの説には組し難いと感じる様になりました。
『唐船』の詞章に面白い一節があります。若い時に地謡がついて一生懸命覚えた時には、とても面白いとは思えませんでしたが。
唐子と対面なって喜んでいる親子を取り巻く人々の言葉です。
「唐土は心なき夷(えびす)の国と聞きつるに・・」
自尊も此処まで行くと逆立ちしてしまうのか、と呆れるばかりですが、箱崎殿が義教であるならば、独裁者を取り巻く偏狭な国粋主義を思わせて、今のネトウヨを予見しているかの様な一節です。
義教と言う人は、父義満の幻影を追いながら、現状には則さない政策を、強引に推し進めて行った人です。その禍いが現代に降りかかろうとは。


2015年7月6日月曜日

第二回 能楽談儀


今週の土曜日に、八月に九皐会で致します『唐船』についてお話致します。「第二回能楽談儀の会」。7月11日(土)午後2時から、於 くにたち・松陽閣。参加費三千円です。