2014年10月30日木曜日

講演「生き抜くために能に学ぼう」

まだ大分先の話ですが、来年の二月七日(土)午後二時より、相模原市の市民会館で能についての講演を致します。先日会館の方に頼まれて講演のレジュメを書きました。まだまだ先の事なので本当にこう言うお話をするのかどうか少し、心配ではありますが、自分としては、思う処をなかなか上手く纏められたので、ここに宣伝方々載せることにします。



「生き抜くために能に学ぼう」
相模原市民会館より依頼の講演骨子案


能は南北朝の戦乱から生まれ、
戦国時代を経て江戸時代に武士の式楽になりました。

江戸期の武士の精神性を今の私たちは見失っています。
自らを律っして日々を送る武士たちにとって、
己の価値観や美意識を培い、
それを表現するための手段として、
能はなくてはならないものだったと思います。
そして能は江戸中期の文化文政の頃、
一つの確固たる芸術として完成されます。

明治維新で武士が失くなった後も、
到達した美意識の高さ故、
今日まで生きた舞台芸術として命脈を保ち続けています。
しかしそれは残念ながら趣味として楽しみとしての能です。

しかし時代は変りました。
美が余技や趣味であった時代は終り、
この厳しい現実の中で私たちは、
生きる頼りとして美に縋らなければならなくなります。
満たされない経済や社会に対する不満と怒りに支配されて生きて行くのか、
それともその現実を受け入れて美を心の拠り所として生きるのか。

幸いここに能という芸能があります。
これを知ることは今後の生きる糧となると思います。

三・一一の後、石牟礼道子さんの詩「花を奉る」に出会いました。
そして『苦海浄土』を読みました。
日本が水俣に対してして来たことを、
今度は世界が日本に対してする事になると思いました。
今のような日本では早晩滅んでしまいます。
私たちは武士の矜持を学び、
能を学び、
その「美」によってこれからの時代を生きる力とする必要があります。
(以上)



冒頭の写真は、講演とは関係ありませんが、世阿弥の代表作とも言える『井筒』です。
能面は「ある出会いと記憶の不思議」http://nohsyura.blogspot.jp/2014/07/blog-post_9.html
でご紹介した新井達矢氏の「小姫」です。
自分の舞台写真はなかなか気に入ったものがないのですが、
これは面(能では「めん」とは言いません。「おもて」と読んでください。)の美しさを引き出していて、
大変気に入っている一枚です。
『能の裏を読んでみた 隠れていた天才』にも掲載しましたが、
ここでもご紹介します。
写真の撮影は芝田裕之氏です。

2014年10月29日水曜日

豊橋での能楽らいぶ『中尊』

11月13日(木)の夜に愛知県豊橋市の駅前のホールで能楽らいぶを致します。曲は拙作の新しい能『中尊』です。登場人物のシテとワキ、それに地謡一人、囃子は笛一人という四人構成の「らいぶ」です。
 そして何とゲストにあの内田樹さんをお招きして、能についてのお話や私との対談もする事になっています。内田先生がどのようなお話しをして下さるのかも楽しみなのですが、それのみならず先生と対談出来るのをとても楽しみにしています。
 聞くところによると、能などそっちのけの内田ファンの皆様も相当数ご来場とのことで、そのような皆様には私との対談などは邪魔かも知れません。しかし、平素内田先生の仰っている「身体感覚で考える」ための手段として、能は合気道と共に、その実践の為に知っておくべきものだと思います。合気道のみならず、武道の経験の全くない私には、内田先生の課題は当に能のための言葉としか思えないのです。
 また、能を目当てのお客様にも、能が何故何百年も伝承されているのか、何故意味も分らないのに感動を与えられるのか、そしてこれから先どのようにして能が生き伸びて行くのか、など、きっとそんなお話しを聞くことが出来ると思います。このお話を聞くと、この先能楽堂で能を鑑賞する時にも大きな助けとなるはずです。

 どうぞ皆様。このような催しはおそらく暫くはないと思います。是非、会場にお運びいただき、同じ時間を共有して下さい。何卒宜しくお願い致します。

 さて、当日演じる能『中尊(ちゅうぞん)』ですが、これについては京都イーハトーブプロジェクトの浜垣誠司さんが、以前に詳細に論じて下さっていますので、こちらを参考にして下さい。ここには簡単にあらすじをご紹介します。宮澤賢治の詩の世界・能『中尊』について



能『中尊』あらすじ

 一人の詩人(ワキ)が登場し、福島浜通りを廻り来て、さらに北に下り、昔の「日高見」の国を訪ねる。彼の地と思しき所に休んでいると、道端の小さな地蔵の祠に女(シテ)が蓮の実を捧げて一心にお参りをしている。尋ねてみると福島の中通りからこの地に避難して来たのだと言う。
 女は請われて更に詳しく身の上を語る。新潟水俣病の被害者として差別を受け、今、更に過酷な仕打ちにうち拉がれている。そしてその心にひとすじの光を齎しているのが、地蔵に捧げた「中尊寺蓮」の花だった。その花の謂れを語るうちに、女は地霊に取り憑かれ、祈りの言葉として一編の詩「花を奉る」を口上し花を捧げる。
(あらすじ終り)


 さて、当日のパンフレットの為に以下のような文章を書きました。いらっしゃれない方のために、ここに掲載します。



能楽らいぶ「中尊」によせて
新しい能を創作すると言う事


 第八回吉田城薪能と言う場を頂戴して、私の新しい作品『中尊』を皆様にご披露出来ます事を大変嬉しく存じます。主催の三河三座の皆様には篤く御礼申し上げます。また、予てより敬愛する内田樹先生との交流の機会を設けて下さりました事にも、重ねて御礼申し上げます。
 古典の作品を演じる事が私の第一の仕事なのですが、その傍ら、第六回吉田城薪能で演じました『光の素足』を第一作として、私は新しい能の創作と言う仕事をしています。これは何処から依頼されたのでもなく、全く私が好き好んでやっている事です。
 能は十四世紀末に観阿弥と世阿弥によって大成されました。二人の大才の出現もさる事ながら、社会の中に果すべき役割があったからこそ、能はその後の数百年を生きた芸能として伝承されて来ました。戦乱の世にあって太平を祈念するとか、殺し殺された人々の鎮魂とか、本来宗教が果すべき役割を、芸能と言う外観を纏いつつこれまで担って来たのです。
 そして江戸時代には、武士の式楽として完成されたとも言われています。江戸時代の武士の美意識の高さは、とても現代人の及ぶものではなかったようです。武士はその美意識・価値観の発露の場として能を必要としました。明治以降の近代化の中では、その完成した芸術性の高さ故に、愛され伝承されて来ましたが、それは嗜好として、趣味として、孝養として大切にされて来たと言う事で、生きて行く上でどうしても必要なものではなくなってしまいました。
 今、私たちの社会は急速に変っています。この変化は今まで近代の歪みを吸収していた自然の力が、その歪みの級数的な増大に対処しきれなくなったために起っているようです。この様な世の中に能でなければ出来ない何かがあるはずです。例えば三・一一の後に時を経ずして内田先生の口にされた「原発の鎮魂」と言う言葉。新しい能を創ると言う事は、そう言う要請に答える時、大変に大きな意義を持つ事となるのだと思います。

中所 宜夫

2014年10月26日日曜日

砧と弱法師

 前回の記事で、『弱法師』と『砧』について書きました。まだ、数日も経っていませんが、少し考えを変えた方が良いようなので、それについて書きたいと思います。
 前回は、十郎元雅の『弱法師』に影響を受けて七郎元能が『砧』を書いたのではないかと書きました。これは「標梅」の言葉から弱法師との呼応を考えたのですが、今日『弱法師』の謡を謡っていて、これは『砧』が先で『弱法師』が後でなくてはおかしい様に感じたのです。

それ鴛鴦の衾の下には。立ち去る思いを悲しみ。比目の枕の上には波を隔つる愁いあり。

これに続く詞章を今日謡ってみると、『砧』の方が言葉の意味合いが素直に繋がり、その分深い所へ達しています。『弱法師』は言葉の繋がりが変則です。これは、『砧』を元に『弱法師』の詞章が作られたと見るべきでしょう。それぞれ意訳してみます。


『砧』のシテの出。
 男女の仲と言うものは、睦み合っている時でも、別れを思うと悲しくなり、寄り添って愛を語っても、世間の波が二人を隔てるのではないかと不安になるものなのです。まして来世までも愛を誓って、深く契り合った仲なのに、私と夫はこの世でさえ会う事が出来なくなってしまい、それでも忘れるなんて出来なくて、ずっと泣き暮らしているのです。

『弱法師』のシテの出。
 月の出も月の入りも見る事が出来なくて、夜の明け暮れも分からなくなってしまった。難波の海の底が知れない様に、こうなってしまった私の心の中の煩悶の深さなど、他人には全く知られない事だ。
 鴛鴦は睦み合いながら別れの思いを悲しむと言い、平目も夫婦ならんで泳ぎながら、波に隔てられるのではないかと心配していると言うけれど、心のない動物たちでもそうなのだから、情愛豊かな人間として生まれて、辛い日々を送って来ると、私と妻との間にも、仲を裂こうとする様々な事が起こり、心配が絶える事がない。しかも、前世で誰かを嫌った様なことがあったのだろうか。今この世では、父に私の事を悪く言う人がいて勘当を受け、それをあれこれ悩んでいる内に、涙が視界を閉ざして盲目となってしまった。あの世とこの世の境にある「中有」という世界は、死んだら通るところであるのに、私は生きながらその幽暗の道に迷っている。
 でも、本来心の中に闇などと言う物は無いはず。伝え聞く唐の一行禅師が暗闇を抜ける時には、九曜の曼荼羅が光り輝いて行く先を照らしてくれたのだと言う。今も末世とは言いながら、ここは有名な仏法最初の天王寺で、石の鳥居がほらここにある。立ち寄って拝む事にしよう。

 元雅の原作を留めるとされる世阿弥自筆本の『弱法師』は、妻役のツレを伴って登場しますので、「鴛鴦・・・」以下の言葉もそれ程意味不明ではありませんが、それでもこの後の台本全体の流れから見て、ツレを登場させる必要はありません。
 完成した作品を見て、ここが不要で、この言葉は可笑しいと言う事は簡単ですが、創作をする者にはここはどうしても必要だと言うことがあるものです。この詞章などは当にそれで、元雅はどうしてもここに「鴛鴦」以下の言葉を入れる必要があったのです。それは、弱法師が他でもない元能の姿であり、『砧』が元能の作品に他ならないからです。



































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































2014年10月22日水曜日

『砧』について(2)

 私たち観世流の能では、現行210番余の曲に等級付けを施し、内十数番を重習いとして大切に伝承しています。その重習いの曲を初めて演じる時、此れを「披く」と言います。
 私、先週の土曜日に『砧』を披かせて頂きました。能楽堂にお越し下さり、見所から、また共演者として、場を共有した皆様のみならず、このブログやSNSの投稿を通して応援して下さった皆様にも、篤く御礼申し上げます。


 この写真は前シテで夫を思いながら砧を打っている場面です。打っている場面と言っても、舞では心象をなぞって舞台全体を使います。心凄き秋の夜の情景を映して、「月の色・風の気色」に続いて「陰に置く霜までも」と見込んだ場面です。
 京都の山口能装束研究所より拝借の唐織は、黒紅・鼠地段秋草模様の唐織。同じく能面は、天下一河内の深井で、裏面には喜多七太夫のきわめがありました。江戸初期の物です。

 次の写真は、後シテの幽霊となった女が、地獄の攻めに苦しみながらも、自らの因果を嘆いている場面です。手前に砧の作り物があります。前段では舞台の右手に置かれていた砧ですが、ワキの男が妻を供養する為に、正面に移動しました。その供養に惹かれて幽霊は現れた訳です。
 同じく拝借の装束は、裾に見えている腰巻が萩網代模様銀縫箔、上に壺折に着付けてある唐織が、白地秋野模様唐織で、能面はこちらは少し下った江戸中期の泥眼です。
 これらの素晴らしい品々を使用出来るのは、山口能装束研究所の山口憲さんとのご縁のお陰です。有難い事です。今後とも装束や面に恥ない舞台が出来るように、弛まず精進して参ります。
 なおこの写真は、ずっと私の舞台を追いかけてくれている芝田裕之さんの撮影です。このブログの為に、急いで送って下さいました。


 さて、以前にも書きましたが、この砧の女は本当にいじらしい健気な女性だと思います。三年帰らぬ夫を恨んで幽霊になって現れる、と言うと恐ろしい様に思ってしまいますが、前段の砧を打つ時の心理描写も、後段の恨みを言い募る場面も、恋々と煩悶に行きつ戻りつしています。
 ところで、この曲は世阿弥作とされていますし、私もずっとその様に思って来ました。しかし、『砧』の特色である細やかな心理描写は、私の思う世阿弥の創作とは、少し毛色を異にしています。世阿弥の視点はもっと高所にあり、心理的煩悶その物を仮象の物として突き放して捉えています。これは恐らく『班女』と比べてみるとはっきりするのではないでしょうか。(それはまた別の機会に)
 『砧』は、「申楽談儀」で世阿弥を語る冒頭に世阿弥の言葉と共に曲名が挙げられている為に、その作品である事に疑義を唱える人は殆どいない様です。しかし、私が拙著『能の裏を読んでみた』で考えた様な七郎元能の存在を思えば、世阿弥ではなく、元能の作品である可能性が高くなります。元能は意図的に名前を隠し、世阿弥を神格化しようとしています。
 そしてその様に考えてみると、元能と「弟」元雅との間の一つのドラマが浮かんで来ます。

 『砧』の前シテが橋掛りに登場し、遠く三の松に佇んで心境をこの様に謡います。
「それ鴛鴦(えんのう)の衾(ふすま)の下には。立ち去る思ひを悲しみ。比目(ひぼく)の枕の上には波を隔つる愁いあり。」(仲の良い夫婦は、睦み合っている時でも、別れの事を思うと悲しくて仕方がない。また何時も寄り添って過ごしていても、ふとした事が二人を隔ててしまうのではないかと、不安でたまらない。)
 如何にも何か出典となる漢詩でもありそうな対句表現ですが、そう言う物は見つからない様です。だとすればこれは能の作者の創作に違いありません。
 ところでこの対句は『弱法師』にも出て来ます。勘当され放浪の中に視力を失った俊徳丸が、盲杖を突きながら登場し、やはり三の松に佇んでこの謡を謡うのです。前掲の拙著にも書きましたが、私はこの弱法師に元能の姿を重ねて見ています。
 『弱法師』との関係を伺わせる『砧』の詞章がもう一箇所あります。
 後シテが登場し、冥界に沈んだ悲しみを歌に謡ったのに続けて、
「標梅(ひょうばい)花の光を並べては。娑婆の春を現わし。後の標の灯は真如の秋の月を見する。」(新婚の門辺にさす標の梅の花は、春の光の輝きを並べて、現世の栄を表し、秋の月は仏の導きをその完全無欠な姿で照らして後世の標となっている。)
と謡うのですが、これにも明確な出典は無く、『詩経』から取られたらしいこの標梅と言う言葉も、当然作者の意図によるものです。私は此処に『弱法師』の梅花問答との繋がりを感じます。

 元雅が元能の姿に重ねて『弱法師』を作り、元能はそれに応えるように『砧』を創作した。

 世阿弥の後継者たるべく成人に当たって「能」の字を名付けられた元能でしたが、何らかの事件(恐らくは将軍義教がそれに絡んでいます)により視力を失ってしまいます。自らの境遇を嘆きつつも、矜持を保ち、清澄な心持ちの元能の姿に、弟の元雅は深く感じて『弱法師』を創作します。
 元能はそれに応えて、それまでの父からの薫陶の全てを傾けて渾身の一作を手掛けます。それが『砧』です。創作の過程で、その節付けについて尋ねた時、父はそれには答えず、「この様な謡の味わいは、後世の人々には到底分からないだろうね。」などと少しずれた感想を言ったのでしょう。
 元能の心中には究理への想いが渦巻いていました。神に通ずる芸能として申楽の修行を積んで来て、その道は絶たれてしまったのですが、道を求める志は必然的に仏道に向かいます。出家するに当たって『申楽談儀』を残しました。

 と、凡その時間軸はこの様に推移したのではないでしょうか。
 さて、砧の女の原型は元雅の妻なのでしょうか。それとも、原作には登場した、弱法師が伴っていた妻、即ち元能の妻なのでしょうか。そこにどんな物語が隠れているのでしょうか。



2014年9月17日水曜日

『能の裏を読んでみた 隠れていた天才』

前々よりアナウンスして参りましたが、この度やっと Kindle より本を出しました。
下記URLよりご購入下さい。定価715円ですが、9月17日より30日まで、100円キャンペーンをしています。

この本では、かなり飛躍した事を書いています。研究者ならばとても口に出来ない様な事も、思い切って言ってみました。だからと言って唯面白いが為の主張をしたつもりはありません。何れもそれなりの根拠はあります。早くも何人かの方から感想を頂戴しました。
まだの方は是非読んでみてください。

2014年8月17日日曜日

ある新作能の構想

 この神社は奈良県五條市にある御霊(ごりょう)神社です。一般には殆ど知られていない神社で、参拝の人もそれ程多くありません。でも如何です、この風格。先日SNSにアップしたら思いの外の反応を頂戴しました。

 お祀りしているのは井上内親王(いのえ、いうえ、いがみ等々に読み慣わしています)。この方の事も余程平城京から平安京へ移る辺りを興味を持って調べた人でなければご存知ないと思います。
 井上内親王は聖武天皇の長女で、伊勢斎宮を長く勤めた後、白壁王と言う天智系の傍系の皇族に嫁ぎました。直ぐ下の妹は阿倍内親王と言い、後に孝謙・称徳と皇位を重祚する有名な女帝です。二人は共に藤原氏の権力争いに巻き込まれ、数奇な運命を辿ります。
 妹は一見華やかですが、政治の実権を藤原氏と争った揚句、弓削道鏡とあらぬ噂を立てられて、色情狂ででもあるかの如き不名誉を背負わされてしまいます。
 姉の方の不遇は本当に酷い。生母が藤原氏でないとこの様な仕打ちに合わされるのです。
 五歳の時伊勢斎宮に卜選され、十一歳で任地に赴きます。斎宮自体が人身御供ですし、しかも身内に死者でも出ない限りは解任される事もありません。弟の安積親王の死により任を解かれた時、内親王は既に二十代後半でした。
 しかし斎宮としての十六年に亘る奉仕の功徳は強大でした。不遇の王子であった白壁王との間に最初の女の子を設けたのは三十七歳。さらに四十五歳に至って男の子を授かります。現代でも考え難い高齢出産を、見事に成し遂げます。しかもその九年後、称徳天皇か崩御すると、嫁した白壁王が光仁天皇となり、自らは皇后、息子の他戸親王も皇太子となります。
 このまま順調であれば、如何にも高齢出産とあげまんの功徳新たかな神様の様ですが、もしそうであれば神として祀られる事もなかったでしょう。藤原氏の権力闘争は、この母子二人の僥倖を無惨に踏み躙ります。
 二年後の事です。その頃光仁天皇の信任を得ていた藤原式家の百川は、山部親王擁立を目論み、巫蠱(ふこ。虫や爬虫類を使う呪い)の罪をでっち上げて、廃皇后、廃太子を実行、更に翌年厭魅(えんみ。人形を使った呪い)の罪により二人を流罪とします。
 その上にその二年後、母子は二人同時に亡くなってしまいます。幽閉されて病を得たとしても、二人同時の死は如何にも不自然で、地元では暗殺されたのだと言われています。
 この後都に天災悪疫が続き、巷では井上廃皇后の祟りだと恐れられました。その御霊を鎮める為に霊安寺と共に建立されたのが御霊神社です。寺の方は現在では地名としてしか残っていません。
 さてこの御霊神社ですが井上内親王の生年(717年)から、2017年に千三百年歳が巡って来ます。その鎮魂の為の新作能創作のお話を頂戴しました。
 さて大変な事になりました。
 そこで先づは、能の創作者達が怨霊をどの様に扱っているかを勉強しようと思います。折しも『道明寺』と言う曲の地頭を承りました。近いうちに纏めて見たいと思います。

2014年8月12日火曜日

『自然居士』と『東岸居士』

 始めたばかりのブログなのに随分間が空いてしまいました。それは以前にも書きましたが、今電子書籍での出版を目指して本を書いていて、そちらの方に手が掛かっていたのが大きな原因です。今年の暑さにも少しやられてしまいました。
 さてその本を何とか書き終えてみると、電子書籍の売れ筋目安が三万字であると言う事なのに、四万五千字にまでなっていました。書いている中に現れたテーマに則して、少し脇道へ入ってしまった部分をカットし、また、結局能を良く知る人を対象としたマニアックな内容となってしまったために、初心者向けに書いていた初歩的な説明をカットして、何とか三万字に治めたのですが、結果カットされた部分をこのブログで少しづつご紹介したいと思います。
 今回は、観阿弥が亡くなった後、世阿弥が自分の創作をどこから手掛けて行ってかと言う部分です。



『自然居士』と『東岸居士』






 前章の最後に世阿弥の曲舞への傾倒ということを言いました。それが最も良く見てとれるのは『東岸居士』という作品です。世阿弥の作品ながら大した面白みのない曲として現在ではほとんど上演されません。しかし、ここには世阿弥の決意のようなものがあふれているように私には感じられます。それは観阿弥の作品『自然居士』と比較してみることではっきりします。
 それではまづ『自然居士』を見てみましょう。「居士」というのは、出家しないまま教えを説いて衆生を感化する仏道修行者のことで、実際に自然居士と言う名前の人が実在したようです。




 自然居士(シテ)が雲居寺(うんごじ)で七日間の説教をするというので大勢の人が集まっている。そこに美しい衣を代物として、いたいけな少女が亡き両親の供養を願い出る。しかしここに荒くれ者(ワキ。人商人)が乱入して、この少女を連れ去ってしまうと、自然居士は少女が親の供養のために、自らを人商人(ひとあきびと)に売ったことを直ちに了解する。そしてこの女を救うべく、七日の説法を反故にして、大津坂本に向かう。 まさに舟を出さんとする人商人に追いついた自然居士は、裳裾を波に濡らして舟端に取りすがり、強引に船出を引き留めて舟に乗り込む。 代物の小袖を投げ渡して少女を返せと迫る居士に対し、人商人が仲間うちの大法を盾に拒むと、居士もまた仲間うちの大法を主張して梃子でも動こうとしない。ついに人商人はこれを持て余してしまう。とはいえこのまま素直に返すのは、腹の虫が収まらない。居士に舞を舞わせて、散々にからかって鬱憤を晴らそうとする。 笛に合わせてさらっと舞うが満足しない商人に、舟の始まりを黄帝の臣下貨狄(かてき)の故事から説き起こす曲舞を謡い、その最後には商人の舟を龍頭鷁首(りょうとうげきしゅ。帝の舟のこと。)に例えてご機嫌を伺う。調子に乗った商人が竹もないのに簓(ささら)を擦れと所望すると、難行苦行は仏道の習いとばかりに、簓の起こりを語り、再度「手を擦り」合わせて懇願する。人商人は遂に返す約束をし、最後に羯鼓を所望する。前腰に鼓を掛けて軽快に演奏しながら舞う自然居士。とうとう少女を取り返して共に都へ上って行く。

 冒頭の雲居寺から大津坂本への場面転換の巧みさ、ワキとシテの問答の面白さ、そして後半は次から次へと舞を舞い、演劇的な仕立てに溢れた、息もつかせぬ面白さがこの曲の魅力です。
 一方の『東岸居士』です。東岸居士も実在の人物で自然居士の弟子として大変な評判を取った人のようです。




 遠国から都に上った旅人が清水寺へ参詣すると、東岸居士という説教者が評判だと聞く。現れた東岸居士に、今日はどんな聴聞(説教)があるのか尋ねると、目前の春の気色の面白さに自身を投げ入れてみせる。続けて目前の橋は誰が掛けたものかを問えば、先師自然居士が掛けたものなので、自分もそれに習って橋を勧進しているのだと答える。出家以前の出自については、形に拘る出家の不条理を言い、ただそのまま道を行うことによって彼岸への橋に続くのだと答える。 そして常日頃の謡いによる説法を所望すると、それに応えて曲舞を謡い始める。仏の教えに身を任せてしまえば彼岸への道は何でもないはずなのに、自力で道を求めようとすると、様々な妄念に囚われて意のままにならない。他力への道こそが彼岸に通じるのだと説き聞かせる。 さらに旅人が褐鼓を打って見せて下さいと頼むと、松の音、波の声に和して面白く、演奏が終れば卒然としてそこに菩薩の化現を感得し、全ては一つの実相と知る境地に誘い、終曲となる。

 
 さて二曲を比べてみると、『東岸居士』には筋立てらしい筋立てが殆どないことがお分かりになると思います。そのために今日ではほとんど演じられなくなったのですが、世阿弥は何も態とつまらない作品を作ったのではありません。この作品は、世阿弥がこの後達成する高みへ向う最初の一歩だったのだと私は考えています。
 劇的仕立てに満ちた、父であり師である観阿弥の代表作『自然居士』に対し、子であり弟子である世阿弥が、実在の人物としても自然居士の弟子である『東岸居士』を書いた、その事をまづ何より注目しなければなりません。そしてその曲が極端に劇性を抑えた内容であることは、後年世阿弥が作り出した作品群を見れば、それも世阿弥の意図するところだったことは疑えません。つまり、世阿弥は自分の求めるものは父と異なることをこの作品で宣言していると言っても良いのです。では世阿弥は何を求めたのでしょうか。非常に曖昧な表現ですが、それは精神性とか霊性とか言う物でしょう。幽玄という言葉がそれに当たるのかもしれません。
 前章の考察を踏まえれば、母が自分に示したものを、猿楽の作品に結実させて行くことを目指したのです。


 東岸居士が、自然居士の渡した橋を自分も勧進するのだと語る場面があります。これを観阿弥と世阿弥に置き換えてみると、橋は何になるでしょうか。私はこれを曲舞の事と見ます。


 しかしその曲舞は、観阿弥の物と少し変わっています。観阿弥の曲舞は叙事的で、それを語る行為が重要であるのに対して、世阿弥の曲舞は抒情的哲学的で、それを語ることによって何か世界観のようなものを舞台上に組み上げて行こうとしています。今取り上げた二曲について言えば、『自然居士』の曲舞が船の起こりを語って、少女を救おうとするのに対して、『東岸居士』では発心の困難さを言い募った末に、他力本願を見所に向けて「聴聞」しています。少し長くなりますが、原文を引用しておきます。





『自然居士』の曲舞


〈クリ〉(シテ)そもそも舟の起りを尋ぬるに。水上黄帝の御宇より事起って。(地)流れ貨狄が謀計(はかりこと)より出でたり

〈サシ〉(シテ)ここにまた蚩尤(しゆう)と云へる逆臣(げきしん)あり。(地)かれを亡ぼさんとし給ふに。烏江(おうこう)と云ふ海を隔てて。攻むべき様もなかりしに

〈クセ〉黄帝の臣下に。貨狄と云へる士卒あり。ある時貨狄庭上(ていしょう)の。池の面を見渡せば。折節秋の末なるに。寒き嵐に散る柳の。一葉(ひとは)水に浮かみしに。また蜘蛛と云ふ虫。これも虚空に落ちけるが。その一葉の上に乗りつつ。次第次第にささがにの。いとはかなくも柳の葉を。吹き来る風に誘はれ。汀に寄りし秋霧の。立ち来る蜘蛛の振舞。げにもと思ひ初めしより。工(たく)みて舟を造れり。黄帝これに召されて。烏江を漕ぎ渡りて。蚩尤を易く亡ぼし。御代(おんよ)を治め給ふ事。一萬八千歳とかや。

(シテ)然れば舩のせんの字を。(地)公にすすむと書きたり。さて又天子の御舸(おんか)を。龍舸(りょうが)と名づけたてまつり。舟を一葉(いちよう)と言ふ事。この御宇より始まれり。また君の御座船を。龍頭鷁首(りょうとうげきしゅ)と申すも。この御代より起れり。





『東岸居士』の曲舞

〈次第〉(地)御法の船乃水馴棹。御法の船乃水馴棹。みな彼の岸に到らん。

〈一セイ〉(シテ)面白や。これも胡蝶の夢乃うち。(地)遊び戯れ。舞ふとかや。

〈クリ〉(シテ)鈔(しょう。「抄」に同じ)に又申さく。あらゆる所乃仏法の趣。(地)箇々円成(ここえんじょう)の道直に今に絶えせぬ跡とかや。

〈サシ〉(シテ)但し正像(しょうぞう)既に暮れて。末法に生(しょう)を享けたり。(地)かるがゆゑに春過ぎ秋来れども。進み難きハ出離の道。(シテ)花を惜しみ月を見ても。起り易きハ妄念なり。(地)罪障の山にハ何時となく。煩悩の雲厚うして。仏日の光晴れ難く。(シテ)生死の海にハ永劫(とこしなえ)に。(地)無明の波荒くして。真如の月宿らず。

〈クセ〉生を享くるに任せて。苦に苦しみを受け重ね。死に帰るに随って。冥きより。冥きに赴く。六道の巷にハ。迷はぬ所もなく。生死乃枢(とぼそ)にハ。宿らぬ栖(すみか)もなし。生死の転変をば。夢とや言はん。また現とやせん。これら有りと。言はんとすれば。雲と昇り烟と消えて後。その跡を留むべくもなし。無しと言はんとすれば又。恩愛の仲。心留まって。腸を断ち。魂を動かさずと云ふ事なし。かの芝蘭の契り乃袂にハ。屍をば。愁歎乃炎に焦せども。紅蓮大紅蓮の氷をば。終にしめす事なし。かかる拙き身を持ちて。

(シテ)殺生偸盗邪淫ハ。(地)身に於いて作る罪なり。妄語綺語。悪口両舌(あっくりょうぜつ)ハ。口にて作る罪なり。貪欲瞋恚愚痴ハまた。心に於いて絶えせず。御法の船の水馴棹。皆彼の岸に到らん。


 私は能が今日まで生きた芸能であり続けている大きな原因として、謡曲の表現力があると考えています。謡曲のお稽古をしていない人が能を初めて見ると、とにかく何を言っているのか解らないということになるのですが、その同じ人が二回三回と回を重ねて行くと、何となく舞台上のやり取りが解って来るようになるのだそうです。これは、言葉の意味が解る解らないということもあるのですが、それよりも舞台上で謡に謡われることによって組み上げられた、情報に対する感受性が開かれることによるのではないかと私は思っています。ですから海外での公演でも大きな感動を与えられるのです。感受性と言いましたが感応力と言った方が良いかもしれません。その力は、解る解らないに囚われている現代の多くの日本人よりも、欧米の観衆の方が高いような気がします。もちろん能の周波数に対してより深く同調する人は、やはり日本人の中に多く、そういう人々によって今まで能は伝承され、支えられて来たのでしょう。

 今まで私のもとで謡や仕舞をお稽古したお弟子の中には、必ず小学生が何人かいました。この子たちは何も特別な家庭で育ったわけではなく、何かの機会に能に触れて能に嵌ってしまった子なのです。能をこの先の百年に届けるためには、こういう子どもたちをしっかりすくい取ることが大切です。


 世阿弥は難解な内容を謡で謡うことによって、その真髄のような部分を直接見所に伝えようとしています。そこには「理」ではなく「情」が発動しています。
 じつは『東岸居士』の曲舞は、殆どが一遍上人の法語を引き写したものなのです。それは丁度、父の観阿弥が『白鬚』で初めて猿楽に曲舞を導入した時に、「太平記」の文章をそのまま引き写したことと相似しています。

 一遍上人の教えは下級武士や商人、農民に留まらず、いわゆる非人と呼ばれる人々に広く流布していました。世阿弥の属する芸能民にも親しいものだったはずです。その親しみのある言葉が、能の謡で謡うと、普通に語る場合に比べて、より鮮明に、深く力強いものとして描き出されるのです。

 父であり一座の大黒柱であった観阿弥を失い、亀阿弥や道阿弥などの名人たちの舞台に触れながら、世阿弥は父から受け継いだ芸を、より高いものに仕上げようとしました。その世阿弥の「情」に映っていたのは、追憶の夜に舞われた母の舞ではなかったでしょうか。あの日母が示してくれた舞の力を、自分の作品の中に再現しようとする世阿弥の挑戦がここから始まったのです。その最初の作品として、世阿弥は『東岸居士』を創作したのだと思います。