2025年6月7日土曜日

9月28日(日) 『三輪』のご案内


九月の緑泉会で『三輪』を舞います。


平成十年に舞って以来、二十七年ぶり二回目となります。神話の世界を描いて人気の曲にもかかわらず、長い間再演をしなかったのは、この曲の「わからなさ」にあります。前段の渋さから一転しての、後段の燦びやかさ。この対照が今ひとつ理解できずに、再演候補に上がらないまま年月が流れました。一曲の最後に「思へば伊勢と三輪の神、一体分身【ふんじん】の御事」と、腑に落ちないことを言っているのも、その対照性を呑み込む妨げでした。


ところが田中英道先生(この四月三十日にご逝去なさいました。謹しんでご冥福をお祈り申し上げます。)の提唱された「秦氏ユダヤ人説」を知り、最初は否定的に感じていたのですが、可能性として充分あり得る、むしろそうであれば色々納得もいくと考え始めると、この曲をもう一度舞ってみようという思いになりました。


観世流ではこの曲を一種特別の曲としていて、「白式神神楽【はくしきかみかぐら】」「誓納【せいのう】」など一子相伝とされる重い小書があります。今回は小書ナシの演能ですが、そのような特別さを常は隠しておくことも、能らしさの大きな側面だと思います。


まだまだ暑さの残る頃の演能かとは思いますが、能『三輪』の世界を味わうひと時を、是非能楽堂でお過しください。





『三輪』について


この曲に私が抱いていた違和感は、前段の仏教的で墨絵のような世界と、後段の神道的で光に満ちた世界とが、どうしてつながるのかが腑に落ちなかったところから来ていました。本地垂迹に従えばつながるのは当たり前なのかも知れません。しかしそれならば曲の終りに「思へば伊勢と三輪の神、一体分身の御事」と結んでいて、これは神と仏の話になっていないのが不審です。後段に女姿で登場しながら、クセ舞の部分では、男姿で通ってきた三輪の神の説話を舞うことも不思議です。作者は世阿弥とされています。作能にあたって「本説正しい」ことを大切にした世阿弥ですから、これらにはそのように作る必然性があったのだと思います。


ワキの玄賓【げんぴん】は奈良から平安にかけて実在した僧です。天皇の病気平癒を祈願祈祷しながら報奨を固辞した事績のためと思われますが、五百年後の中世の頃には権力に交わらない清貧の僧として、説話集に取り上げられるような人気の人物でした。案山子が山田の案山子と呼ばれるのも、玄賓が山田から害獣を追い払って山田の僧都と言われていた故事からきています。『三輪』の中にも「山田守る僧都の身こそ悲しけれ」という詞章があります。


その玄賓のもとに毎日手向けの水を運ぶ女がいて、その女が寒さを凌ぐための衣を玄賓に乞うのですが、清貧の僧に衣を乞うというのも、不思議なことです。しかも平安初期の説話集には、玄賓が女から衣を与えられて、「三輪川ノ渚ノ清キ唐衣クルト思ナヱツトオモハジ」と歌を詠んだ話があります。能では玄賓が女に衣を与え、神からの歌として、これに似たような歌が示されています。


三つの輪は清く浄きぞ唐衣くると思ふな取ると思はじ


江戸時代の能の注釈書である「拾葉抄」には、「此歌を三輪【さんりん】清浄の偈とも又は三輪空寂の布施とも云ふなり。三輪空寂とは施者・受者・施物此の三を三輪と云ふ。空寂とは施す人も受くる人も何とも心に思はず、無心なる處を空寂と云ふなり。此心をくると思ふな、えつと思はじとの神詠なり。」とあるそうです。この三輪空寂の教えは布施についての教えですので、「みわ」と「さんりん」を交錯させて、説話集からワキを玄賓僧都としたのでしょう。


その仕立ての中から世阿弥は神話の世界へ舞台を広げます。


神木に止まる衣に金色の神詠を認めた玄賓の頭上に、妙なる声が響きます。それは意外にも罪業を救って欲しいという神の言葉でした。しかもその罪の意識は衆生済度の方便のためだと言うのです。女姿で玄賓の前に現れた三輪の神は、巫女の姿を借りて、その子細を物語ります。


方便の中にも歌の力、即ち言葉の力を第一に上げます。「しかるにこの敷島【しきしま】は、人敬って神力増す。」と謡われる敷島とは和歌の道のことです。世阿弥作の能ではしばしば和歌が、物語を引き出す媒介となっています。


次に神が方便のために人の世、即ち「五濁の塵」に交わったお話として、三輪の里に年久しく暮した夫婦の物語が語られ、後シテの女神はこの物語をクセ舞で舞います。更に、神代の物語となり天の岩戸の子細が語られます。ここで「神楽」の囃子となって、女神は神楽を舞います。世阿弥の作品には「歌舞の菩薩」という言葉がしばしば出てきます。これは世阿弥が、歌と舞によって人々を救うことを目指していたからに他なりません。神楽は「プ、ポン、プ、ポン、・・・」と小鼓が刻み続ける上に重ねて演奏されますが、これは神を召喚するリズムであり、序から破、急と進んだ末に、急に曲調を変えて神舞になります。すなわち神が下りて神そのものが舞っているのです。


もともと女神である後シテですが、岩戸隠れをした天照大神を呼び出すための舞を真似て見せているために、巫女姿で神を召喚する舞を舞うわけです。


この時、三輪の神が天照大神を演じているのですが、ここで地謡によって「思へば伊勢と三輪の神、一体分身【ふんじん】の御事、今更何と磐座【いわくら】や。」と謡われます。


神道に少し通じた人であれば、三輪は大和の国津神系なのに対し、伊勢は外来の天孫系だと考えて、この詞章には疑問を持たれるのではないでしょうか。私もそのように考えていました。この曲を再演しなかった大きな原因のひとつです。


ところが田中英道先生の、失われたユダヤの十支族が、時を違えて日本列島にやってきた、という説に従えば、伊勢と三輪の神が一体であることに疑問はありません。しかも田中先生は秦氏もユダヤ系の一支族だと主張されています。『風姿花伝』の「第五神儀の伝」で、聖徳太子が秦河勝に命じて舞を舞わせたのが、申楽の始まりであり、その伝承を担ったのが金春氏であると説明されています。また観阿弥、世阿弥も秦氏を名乗っていますので、この伝承の系譜に連なっています。


世阿弥はこの曲によって、一般に流布している内容とは異なる一族の伝承を形にして残したのです。先に見たように「みわ」と「さんりん」を交錯させて、当時の人気キャラであった玄賓僧都をワキとして登場させ、衣の布施の方向を入れ替えたのも、異説であることの象徴として仕立てたのだと思います。


さてその上で、世阿弥がこの曲を作った動機、一族の伝承を曲として残そうと思ったきっかけとはどのようなものだったのかを、考えたいのですが、さてさて何か見つかるのでしょうか。ともあれそのようなことを思いつつ、本番に向けて稽古して行きたいと思います。


2025年3月27日木曜日

『玄象』ご案内


五月の九皐会例会で『玄象【げんじょう】』を致します。

玄象というのは中国伝来の琵琶の名器の名前です。 前段では汐汲みの老人となり、 須磨の浦の夕暮れに景色を愛でつつ汐汲みをしたり、 宿を貸した藤原師長【もろなが】から請われて琵琶を奏でたりと、 しどころも多く、 後段では玄象の持ち主の村上天皇その人となって舞を舞います。

前段はドラマ性が強く、 普通に演じて面白い曲ですが、 やはり能としての主眼は後シテの村上天皇の舞う早舞【はやまい】です。 早舞は「盤渉【ばんしき】舞」とも呼ばれる、貴人が舞う舞で、 武士たちが憧れていた貴人たちの優雅さを舞台に再現しようとしています。

琵琶の秘曲を求めて入唐を志す師長でしたが、 本物は日本にこそあるのだと示されて入唐を断念すると、 それを祝福するように村上天皇が登場するわけですが、 目的を断念して褒められるという図式は、獅子舞で知られる『石橋【しゃっきょう】』も同様ですので、何かそれに類する出来事が、作者の周辺にあったのかも知れません。

そのようなことを思いながら稽古を進めています。初夏を迎える頃のひと日、 能楽堂で王朝の優美を味わってください。



『玄象』について


この曲が作られた背景を考えてみると、 様々な要素があって興味は尽きません。


作者として伝えられる金剛彌五郎という人は、『三笑【さんしょう】』や『鳥追船【とりおいぶね】』などの作者としても名前が残されています。いずれの曲も一風変った仕立ての曲で、稀にしか上演されませんが、この『玄象』は構成もしっかりしていて人気曲の一つとなっています。おそらく世阿弥よりも一世代が二世代後の人かと思われ、世阿弥が確立した曲の構成を踏襲しつつ、前段に変化に富む劇性を配し、後段には舞をたっぷり舞わせて祝意を高める仕掛けを作っています。


金剛大夫は、大和四座の一つである坂戸座の大夫ですから、この彌五郎もその一人と思われます。観阿弥・世阿弥の観世大夫も大和四座の結崎座の大夫でした。翁舞を伝承する大和四座から出て、猿楽一座を旗揚げした観阿弥に続き、外山座{とびざ}の宝生大夫や円満井座{えんまいざ}の金春{こんぱる}大夫も猿楽に進出したのでしょう。それがそのまま現在の能楽五流のうちの四つとなっています。金剛彌五郎も観世座の隆盛を受けて猿楽に進出する中で、この一曲を創作したのでしょう。


舞台は須磨の浦です。須磨を舞台とする曲は多くあります。古代より歌枕の地となり、それがために「源氏物語」の舞台となり、創作に携わる多くの人が時代を重ねつつ思いを寄せ、さらに遠く源平合戦では一の谷の合戦場となり、近くは南北朝騒乱の湊川の合戦の地となっています。また、摂津・播磨の守護大名であった赤松氏が、三代則祐【そくゆう】において観阿弥の庇護者だったと思われるので、その影響もあるでしょう。


また、琵琶が大きなテーマとなっています。前段で琵琶の演奏を聞いていた尉が、村雨の板屋をたたく音が高すぎるからと、屋根に苫を敷いて音を整える場面で、「只今遊ばされ候琵琶の御調子は黄鐘【おうしき】、板屋を敲く雨の音は盤渉【ばんしき】にて候程に」と説明しますが、これは雅楽で用いられる音階の名前です。演奏が黄鐘というのは黄鐘の音を基調にした楽曲ということです。先行芸能だった雅楽は、貴族の文化の象徴として猿楽者たちにも、そしてスポンサーの武士にとっても、憧れの存在だったのです。


もう一点、前段で尉と共に登場する姥ですが、最後に「村上の天皇、梨壺の女御夫婦なり」と名乗りをして姿を消します。村上天皇の女御の一人、宣耀殿【せんようでん】女御、藤原芳子が琴の名手だったようなので、この人が梨壺の女御のモデルかと思います。それにしても何故梨壺という名にしたのかは一考に値するのではないでしょうか。


色々な要素に想像をかきたてられ、興味は尽きません。


2025年1月29日水曜日

『淡路』ご案内

 二月二十三日(日)九皐会若竹能での『淡路』を致します。


昨年二月に九皐会定例会で『高砂』を致しましたが、その時に神舞を舞う曲を今のうちにもう一回やっておきたいと思いました。神舞は最高速のお囃子の演奏に乗せての舞となりますが、世界を構成しているエネルギーの躍動を表現しているように感じ、まだ身体の動く今のうちに再挑戦したいと思います。

神舞を舞う曲は七八曲ありますが、中でも『高砂』『弓八幡{ゆみやわた}』『淡路』の三曲は、曲の構成も厳格で位の高い扱いとなっています。そして高砂があまりにも人気曲となってしまったために、他の二曲は滅多に上演されなくなってしまいました。


武器の象徴である弓矢を袋にしまって、平和を言祝ぐ『弓八幡』は、今日的なテーマでもありますが、私は神話の天地創造を描いた淡路に魅かれます。南北朝から室町初期の頃の神話解釈は、古代的なおおらかさからは遠いものですが、万物流転のダイナミズムを描くなかに、武家式楽の確かさを感じます。

まだまだ寒さの厳しい頃ですが、能楽堂へ足をお運びいただければ幸いです。


『淡路』について


この曲の作者はおそらく観阿弥です。そして後援者である赤松則祐{そくゆう}の旅に同行して、この曲を作ったのだと思います。

赤松則祐は、足利尊氏とともに六波羅探題を攻め、鎌倉幕府打倒に功績のあった赤松円心の三男で、最初は大塔宮護良{もりよし}親王に仕え、後に父円心に従って尊氏の家臣となった人物です。長男の急死により家督を相続し、武功を重ねて播磨・摂津の守護となりました。茶人としても知られ、禅にも造詣が深く、そして和歌にも秀れていました。二代将軍義詮{よしあきら}の時には、幕府の重鎮となり、正平十六年の義詮都落ちの際には、まだ幼かった後の三代将軍義満を預かって播磨に疎開させています。婆娑羅大名として知られる佐々木導誉の娘婿でもありました。もし、この南北朝騒乱の時代が、戦国時代や幕末とは言わないまでも、せめて源平合戦並みにポピュラーであったなら、必ず取り上げられて然るべき当代一級の人物です。

私は、観阿弥の勧進能の記録の最も古いものが、須磨寺での記録だということから、当地の守護であった赤松則祐と観阿弥とは、かなり深い関係があったと考えています。そしてこの『淡路』という曲は、二人の関係をそれとなく仄めかしているように思えます。

住吉・玉津島への参詣を宿願とするワキは、あきらかに歌詠みです。曲中「谷水を堰く水口{みなくち}に五十串{いぐし}立て苗代小田の種蒔きにけり」という歌が引かれますが、出典不明のこの歌が則祐の歌だとすると、歌人・文化人としての赤松則祐の淡路詣に、お気に入りの人気猿楽師観阿弥が同行している様子が目に見えるようです。

また地謡によって語られる天地創造の物語ですが、今私達が『古事記』『日本書紀』で知る伊弉諾{いざなぎ}、伊弉冉{いざなみ}のお話とは、何か微妙に異っているのです。この曲の天地創造は、記紀にはない陰陽思想や五行思想による解釈が混っています。これは中世の頃の一般的な解釈なのかも知れませんが、それを明確に著しているのが南朝の重臣北畠親房が著した『神皇正統記』なのです。大塔宮に仕えた赤松則祐ならば、この天地創造譚を良く聞き知っていたのではないでしょうか。

さてそのような物語を受けて、後段に登場する後シテは伊弉諾{いざなぎ}の神です。現代の視点から見ると、伊弉冉{いざなみ}が登場しないのが残念で、二神が並んで舞うような曲であったら、特徴ある一曲として人気曲の一つとなっていたかも知れません。しかしそれは二百番を越える現行曲を見渡して始めてわかることです。則祐と観阿弥にとって創作の旅は始まったばかり。

伊弉諾が勢い良く舞を舞うことで、武人としても秀れていた則祐の姿をも映し、観阿弥は天地創造の物語を完結させたのだと思います。

2024年7月19日金曜日

「芭蕉」ご案内

 


九月二十九日(日)に緑泉会例会で『芭蕉』を致します。

この曲は世阿弥の娘婿である金春禅竹の作品で、幽玄の能の極致にある一曲と言ってよいと思います。


禅竹は、世阿弥の幽玄の世界を最も高い位に押し上げた人です。都で活躍する音阿弥に対し、奈良で能の真価を極めようとしていた禅竹が、「草木国土悉皆成仏」(自然界の物には全て仏性が宿っている)を舞で表現しようとしたのがこの曲です。

現代で芭蕉といえば、ほとんどの人が俳聖芭蕉を思い浮べるでしょう。私は芭蕉が芭蕉と号する背景に、能『芭蕉』は大きくかかわっていたと思います。

芭蕉は、住む庵に立派な芭蕉があり、弟子たちがその庵を芭蕉庵と呼んだことを受けて、芭蕉と号したということですが、式楽(儀式の時の音楽。江戸幕府は武家諸法度で能を式楽に定めた。)の中で高く評価される『芭蕉』を、武士出身の身で知らなかったはずはありません。

茫洋とした存在感はあるものの美しい花を咲かすでもないこの植物に、至高の美を託した本曲が、『遊行柳』『杜若』など草木の精がシテとなる他の曲と異り、どの歌人とも結びついていないことも、芭蕉の意に叶ったのだと思います。


これからの過酷な夏を経ての当日の舞が、どのようなものになりますか、是非能楽堂でお確かめ下さい。




「芭蕉」について


「芭蕉」という曲のあらすじについては、チラシにも書きましたので、それをお読みいただきたいと思います。

その後、稽古してゆく段階で新たに気づいたこともありすので、少し書いてみたいと思います。


金春禅竹について

舞台は唐土楚国、湘水(しょうすい)の山中に、ひとりひたすら法華経を読誦する僧の庵です。

この舞台設定を作者金春禅竹に重ねてみましょう。

当時、世阿弥の甥の音阿弥は、世阿弥を佐渡に配流した将軍足利義教の庇護のもと、都で華やかな活躍を繰り広げていました。音阿弥より七歳年下の禅竹は世阿弥の娘婿であり、伝書授与も受けている世阿弥の最後の弟子です。そして大和申楽の基盤にある翁舞の伝承については、禅竹の継承する円満井座がその本家筋であり、観阿弥・世阿弥の出た結崎座はむしろ新参の一座でした。将軍庇護という社会的な部分では大和申楽を牽引する観世座ですが、芸の伝承については円満井座が本筋です。

禅竹は世阿弥が発展させた芸の高さを、翁舞の原理を突き詰めることで更に高い所へ押し上げました。湘水を舞台としたのは中国の故事を踏まえたものでしょうが、山中に独居する僧の姿は大和に隠棲する禅竹の姿と重なると思います。


女は何を独りごちているのか

夜通し法華経読誦する僧のもとを訪れる女は、道すがら長々と言葉を連ねます。

この部分の大意は以下のようになります。


 松吹く風が芭蕉に吹き落ち、葉を破ってしまいそう。

 こんな寂しい山陰に住んでいる者がいるなんて誰も思わないから、 ずっと独りぽっち。友といえるのは岩や木だけ。

 法華経の教えは深遠で、富貴の身とて簡単に得られるものではないのだから、 まして粗末な衣を着た私などには疎遠なもので、 ただ時が空しく過ぎてゆくばかりです。


「雪のうちの芭蕉」とは

女は僧と言葉を交し、非情の草木も成仏するという教えを授けられます。難解な法理を忽ち感取する女を僧は不審に思い、その正体を尋ねると、女は謎の言葉を残して帰って行きます。

 私のことを、幸運にも仏の教えに出会った、 しかも滅多に受けられない人界を受けた者と思われることでしょう。 でも私は「雪のうちの芭蕉」として知られる偽りの姿でここにいるのです。

この「雪のうちの芭蕉」については、所の者として登場する間狂言が僧に語って聞かせます。


 昔、芭蕉を好んだ唐の皇帝が、冬に芭蕉を見られないのを残念に思い、 摩詰と言う絵師に雪の中の芭蕉の姿を描かせました。 そのため「雪の中の芭蕉」と言えば偽りの象徴なのです。


所の者が去った後、夜通し法華経を読誦する僧の前に、先程の女人が舞人の姿で現われ、自分は芭蕉の女ですと名乗ります。

作者禅竹は山中に隠棲する僧ばかりでなく、芭蕉の女にも自分を投影していると思っていたのですが、どうもそればかりではないようです。

私はここには音阿弥の姿も重なるような気がします。強権を振るい「恐怖の大魔王」と言われる将軍義教の下、愛顧の猿楽師として栄華を重ねる音阿弥は、赤松満祐による将軍暗殺の場で舞台を勤めていました。私はこの暗殺計画を音阿弥が知らないでいたとは、どうしても思えないのです。芭蕉の女は、将軍に「偽りの姿」を晒しながら、秀れた舞台を続ける音阿弥の姿なのかも知れません。


さらにここには、後代自ら「芭蕉」と名乗った人の姿も重なりそうです。

芭蕉が幕府の隠密だったのではないかという説は、近来とみに支持されつつあるようです。芭蕉自身がその俳号について、能「芭蕉」との関連を全く口にしない理由もここにあるのかも知れません。


草木国土悉皆成仏


そのように裏に秘めた思いとは関係なく、いやむしろ裏に特別な思いがあるからこそ、芭蕉の精が舞う舞には、難解な絶対真理を表現すべく、言葉を尽すこととなります。

僧と言葉を交わした後、舞台中央に立ち尽してから始まる、芭蕉の精の舞の言葉(実際は地謡によって謡われます)の大意はこのようになります。


 非情の草木というものは本来形を持たない真如が実体化したもので、 どんな微細なものの中にも仏体が宿っている。 そこで一つの花が咲けば、それが仏への捧げ物となり、 春の様々の色香になるように、全て実体は繋っている。 水際の楼台では月を一早く見ることができ、 日に向う花は早く花を咲かせる、 そういう自然の摂理を季節の巡りの中に知る。 秋になれば庭の荻原が風にそよぎ、 その風が散らせる花もないけれど、 芭蕉は葉がとても脆いもので、 露のように儚く破れてしまう。 思えばこの世も芭蕉の夢のように儚いもので、 悟りに入る道は多くあっても、 呆然と日々を送るばかりだ。


そのような思いを舞に託して、芭蕉の精は袖を返します。月が冴え冴えと照らして舞姿を映します。


そして言葉は消え、囃子の音楽による序之舞が延々と奏でられた後、芭蕉の精が描き出した諸々の実体の相は、一陣の風に吹き払われて、後には破れた芭蕉が残っている様が謡われて、長大な一曲が終ります。


羽衣とは

この最後の詞章の中に「久方の天つ乙女の羽衣」と自分を描写する言葉があります。私は「羽衣」という言葉を、舞によって寿福を与えようとする、世阿弥の思想の結晶の言葉と考えています。紅無の装束を着て、深井(ふかい、中年女性の面)の面を掛けたシテの姿が、「天つ乙女の羽衣」とはつながり難いのに、何故こういう言葉が出て来るのか、いつも疑問に思っていました。

この曲は世阿弥の作品の持つ華やぎや艶まで削ぎ落して、もっと枯淡の中に宇宙を表現しようとした曲です。確かにこれは禅竹独自の世界なのですが、一方で舞歌二曲(ぶがにきょく)で世界を表現し、見る人に寿福を与えようとする、世阿弥の思想を受け継ぐものなのです。



2023年10月27日金曜日

『遊行柳』のご案内

 


ご挨拶

酷暑一転して秋の風の身に沁む頃となりました

皆様にはご健勝でお過しのことと存じます


今年最後の能は、師走も半ば十二月十七日(日)の緑泉会での『遊行柳』となります。十月の『實盛』に続き、ワキに遊行上人を配する大曲です。

この曲は、世阿弥の甥にあたる観世小次郎信光の作品です。応仁の乱後の混乱した時代に活躍した信光は、『船辨慶』『紅葉狩』など今も人気の高い、劇性の秀れた能を多く創作しています。その信光が晩年になって、世阿弥の確立した幽玄の能への回帰を提唱したのがこの『遊行柳』です。

当時早くも難解と思われた世阿弥の作品に対して、信光はいわば「幽玄の世界」への手引きとしてこの曲を作ったとも言えるでしょう。

現代において、その試みが有効かどうかは微妙ですが、私自身は、作者の信光とともに世阿弥の本道を尋ねてみようと思います。どうぞ皆さまも、共にその世界を味わってみてください。


『遊行柳』について


みちのくを旅する遊行上人を呼び止めて、「昔の遊行上人はそちらの新道ではなく、こちらの古道を通りましたよ」と案内した老人は、古塚の上の柳を西行が歌に詠んだ名木と教えます。

名木の柳は、水流から離れた川岸に朽ち残り、蔦葛が這いまとって苔に覆われています。その古びた有様を二人は愛でています。

この曲の作者観世小次郎信光は、応仁の乱後の荒れ果てた世に、人々に楽しくわかり易い能を提供したのですが、晩年に至り、目先の面白さや表面的な美しさに走る風潮に抗い、この曲を作ることで、再び幽玄の世界へ人々を誘っています。
「古臭くて難解だけれども、能は能として味わってみてください。」
と、まるで現代の私たちに向けて、信光が語っているようです。

後段に古塚から現れた老いた柳の精は、遊行上人の念仏によって成仏の道が開けたことを喜び、クセ舞、太鼓入りの序之舞と舞い進めます。

クセ舞は、彼岸に至るに必要な舟について、その起こりの中国古代の貨狄{かてき}の故事に柳が関わっていたことから語り起こし、様々な柳の徳を並べて、今の老いの姿で舞い納めます。

太鼓入りの序之舞は、西方浄土に至る過程となり、ついには老人の舞ながら、それは四人の乙女が舞う柳花苑{りゅうかえん}の舞かと思われるほどでした。

夜明けが迫り、報謝の舞もこれまでと老人が別れを告げると、秋風が西へ吹き渡り、老人は姿を消し、朽ちた柳ばかりが残ります。

作者信光は、世阿弥の創造したいわゆる複式夢幻能の形式を踏襲して、歌舞の菩薩を舞台上に再現させ、見る者を西方浄土に生まれ代わらせようとしているのかも知れません。

『奥の細道』と『遊行柳』


ところでこの『遊行柳』は十月に舞った『實盛』と同様、俳人芭蕉が『奥の細道』に取り上げた題材でもあります。


 道のべに清水流るる柳かげしばしとてこそ立ちどまりつれ          西行法師
 田一枚植て立去る柳かな                                                                                      芭蕉


小澤實著『芭蕉の風景』(ウェッジ)によれば、芭蕉は西行法師の足跡に憧れてこの地に寄り、「しばし」の時間を、熟練の早乙女が田を一枚植えて立ち去るほどの長さであったと、具体的に示していて、そこに俳諧があるとしています。

芭蕉の目には遊行柳の世界とは全く異る景色が広がっていて、實盛に取材した「むざんやな甲の下のきりぎりす」が丸ごと能を切り取っているのに対して、こちらは能の香りから遠ざかろうとしています。

芭蕉はこの曲をさして好んでいなかったのかも知れません。


あらすじ(チラシに記載)


遊行上人(ワキ)が供を連れて旅をしている。奥州を目指して白河の関を越えると、分れ道で呼びかける老人(前シテ)がいる。老人は先代の遊行が通ったという荒れた古道に導き、朽木の柳という古歌に詠まれた名木を見せる。新古今集の西行の歌「道の辺に清水流るる柳蔭暫しとてこそ立ちとまりつれ」を引いて、老人は柳の下の塚に寄るかと見えて姿を消す。

里人(間狂言)に柳の謂れを聞き、老人との子細を語れば、さては朽木の柳の精に違いないと、上人は夜もすがら念仏を称える。塚の中から声が響き「柳は別離の恨みの徴しとなっているが、今の上人の御法により成仏への道が開けた」と喜びながら、老柳の精(後シテ)が現れる。精は、浄土への道を喜び、弥陀の功徳を船に例え、船の発明に柳が一役買っていた故事、清水寺縁起の楊柳観音、蹴鞠の庭の柳、源氏物語柏木の一場面などを語り、老いて夢に漂う自らを儚なむ曲舞を舞う。また、御法によって月とともに西方浄土へ赴く有様を、太鼓入り序之舞に舞って、上人への報謝の舞とする。夜明けが迫り名残りを惜しむ。昔、別れには柳の枝の輪を送ったと聞くが老木ゆえそれも叶わず、ただこの遊行上人との縁を喜ぶ。秋風が吹き抜け、朽木ばかりが残る。


2023年9月3日日曜日

能「實盛(さねもり)」のご案内

10月8日(日)12時30分開演  於 矢来能楽堂    九皐会十月例会で『實盛(さねもり)』を致します。

 日中はまだまだ暑さ厳しいものの、朝夕に秋の気配を感じる今日この頃、皆様もご健勝にお過しのことと存じます。

四月の三度目の道成寺も無事に終え、お蔭様でこれまでの稽古の成果を確かめることができました。次の舞台は九皐会十月定例一部公演での「實盛」となります。




この曲は老武者をシテとしているばかりでなく、曲の構成上でも修羅物の最難曲と言っても良いでしょう。「敦盛」「忠度」「屋島」と修羅物は好きな曲が多く、これまでほとんどの曲を手がけてきましたが、いよいよこの度「實盛」を舞うこととなりました。

私自身六十五歳となり、ようやく老武者のありようが身に染みて参りました。そして五十歳過ぎにこの曲を創作した、世阿弥の気持ちに思いを向けて、新たな舞台に臨みたいと思います。

当日は、秋も半ばの頃かと思います。辛かった夏を生きのびた喜びを、是非ともに喜びたいと存じます。




『實盛』について

 応永二十一年(1414年)世阿弥五十歳の頃、加賀の国に滞在布教中の十四世遊行上人(太空上人)のもとに、白髪の老人が現れ、十念を受けて姿を消したという出来事があり、これが斎藤實盛の亡霊だったという噂が広がりました。「事実ならば希代の事也」と為政者の日記に記されたほど、当時はセンセーショナルな話題だったようです。

世阿弥はこれを受けてこの曲を作りました。父観阿弥が亡くなった五十一歳をまもなく迎えようとする世阿弥です。『風姿花伝』に「この頃よりは・・・物数をばはや初心に譲りて、安き所を少な少なと色へてせしかども、花はいや増しに見え」云々と老境の芸のあり方を説いたのと、『平家物語』「實盛最後の事」に描かれた老武者の「花」が呼応しています。

また、「◯阿弥」という称号は、もともと時宗(じしゅう)のものであったのを、室町期には将軍の同朋衆に使うようになっていました。当時、時宗を率いていた太空上人と世阿弥との関係も伺いしれます。庶民や非人などに広く信仰された、踊り念仏の教祖である一遍上人や遊行上人が、能では格高く扱われていることも、これに無関係とは思われません。

さらに、世阿弥の胸中には自分に影響を与えた老武者たち、たとえば赤松則佑や今川了俊などの大名たちへの思いも、去来していたに違いありません。

この曲、決して「安き所を少な少な」と演じられる曲ではないのですが、今の自分のありようをみつめつつ、取り組んでみたいと思います。

 

あらすじを少し詳しく・・・

遊行上人が念仏会を催していると、 その声にひかれて老人が現れる。 「笙歌(せいが)が響いて聖衆(しょうじゅ)が来迎するかのようだ。 紫雲が立っている。」と 老人は辺りの神聖な雰囲気を喜び、 遅ればせながら念仏に加わる。 上人はいつもやって来るこの老人が、 どうやら他の人には見えていないことを怪しみ、 名を尋ねるが、 老人はなかなか名乗ろうとしない。 あたりの人を退けて近くに来させても、 昔この篠原の合戦で亡くなった長井の斎藤別当實盛の話を始める始末。 とにかく名乗れと急かすと、 自分はその實盛の幽霊ですと名乗って池の辺りに姿を消す。

上人の弔いに實盛は白髪に老武者の姿で現れる。 「既に極楽に赴いて苦海は遠くなったけれど、 この念仏は称えれば称えるだけ往生するのだ。 ありがたいことだ。」と上人に向い合掌をなすが、 やはり人々には見えないようだ。 實盛は仏の教えを喜び、 合戦で討たれた物語を、 懺悔の縁となすために語り始める。

義仲の前で首の鬢髭を洗われて、 若やいだ姿で臨んだはずが、 白髪を露呈してしまった子細を語る中では、 生前の實盛が「六十に余って戦をせば、 若殿原と争いて、先を駈けむも大人げなし。 また老武者とて人々に、侮られんも口惜しかるべし。 鬢髭を墨に染め、若やぎ討死にすべき」と 常々話していた由が語られ、 皆感嘆の涙を流す。 また、平宗盛に赤地の錦の直垂を賜った子細を曲舞に語り、 さらに手塚太郎光盛と組んで討たれた有様を仕方話に見せ、 上人に弔いを頼んで消える。

2023年2月11日土曜日

能「道成寺」のご案内

 


六十五歳の誕生日に三回目の「道成寺」を致します

還暦の年に「卒都婆小町」を舞ってから、早や五年が過ぎてしまいました。コロナによる停滞もありましたが、そろそろその間の稽古の成果を試してみたいと思い、自身の会を企画しました。

「今さら何故道成寺」というお声も頂戴していますが、この曲は、登竜門としての指標だけではなく、もっと深い能の真髄を湛えた一曲だとの思いから、この曲を選びました。

道成寺というと、歌舞伎などの影響からか、「女の情念」という言葉が強くついてまわります。しかし能の道成寺は少し色合いが異ります。

 前シテの白拍子は、「作りし罪も消えぬべし。鐘の供養に参らん。」と最初に謡います。

この白拍子は、過去に犯した罪を浄化するために、鐘の供養に参るのです。能はその浄化作用を舞台上に再現し、場を共有する皆様とその力を分かち合うために、他の曲とは異なる大掛かりな仕掛けを舞台上に用意したのだと思います。

暮れに道成寺にお参りしました。ご住職から「お舞台は観音様の救いの力を皆様に分かち与える」と伺い、はからずも私の考えを確かめることとなりました。

どうぞ皆様、鐘の供養にお出掛け下さい。


「道成寺」について

安珍清姫と名付けて女性の恋慕を執念く描いた物語があります。多くの人が能の道成寺も同じものとして見ているのではないでしょうか。今回私が読み解く「道成寺」は少し違っています。

安珍とされるのは奥州から毎年熊野に詣でる山伏。清姫とされるのは紀州田辺あたりの素封家真子荘司(まなごのしょうじ)の娘。名付けられていないこともさりながら、能で取り上げられているのは、この二人の物語ではなく、それから何百年も経った後の出来事です。

道成寺に絶えて久しくなかった釣鐘を再興し、その鐘を鐘楼しゅに吊り上げて供養を取り行った日のこと、同国に住む白拍子が女人禁制を犯してその供養に紛れ込みます。
 
白拍子というのは平安末期頃に隆盛を見た芸能者で、平家物語では祇王、祇女、仏御前、静御前などが語られています。当時、芸能は単に見て聞いて楽しむというものではなく、謡い舞うことによって神仏に祈願する、超自然的な力を発動させるという実効を伴うものでした。ですから女人禁制を固く言い付けられた能力も、白拍子ならば一般の女人とは違うので、境内への侵入を許すばかりか、乱拍子の所望までしてしまいます。

平安中期から続く舞の系譜からすれば、乱拍子は通常の拍子を刻む白拍子に対して、新しい工夫を加えた複雑な拍子を踏むのが特徴の芸能だったようです。

住職たちが法要を終えて奥へ引込むと、それまでは神妙にしていた白拍子でしたが、見知りの役人から烏帽子を奪うようにして借り受け、人々に手拍子を囃させながら舞い始めます。それは本来複雑な拍子を刻んで、熱狂を巻き起すような種類のものだったはずです。

しかし、能の乱拍子はそれを静寂の中に表現します。しばしば「小鼓とシテの一騎打ち」と表現されるこの手法は、いったいいつ頃成立したのでしょう。曲そのものの創作時期も不明である上、本来の乱拍子と全く違うものにその名をつけていることと合わせて、私は武家式楽としての能でこその演出であるように思われてなりません。

喧騒のただ中で踊り狂う芸能者の内面を、別の時空に取り出して描く《乱拍子》、そこから一転して現実の喧騒の中の白拍子となる《急之舞》、この流れは、かつて蛇に変じた女の執心が白拍子に取り憑いて、ついには全てを支配してしまう過程とも取れます。

最後に鐘から現れた蛇體はついに法力に祈り伏せられ、日高川に姿を消します。

この蛇體に使用する能面には、江戸初期のものと思われる名品を拝借することが出来ました。合わせてお楽しみいただければ幸いです。


2022年3月22日火曜日

5月8日(日)観世九皐会「杜若」のご案内

 観世九皐会五月定例会 で「杜若」を致します

 

舞台のご案内

前略  皆様にはこの二年の苦しい生活の中にも、新たな道を模索しつつ、ご健勝でお過しのことと存じます。能は表面的な楽しみのための声高な喧伝とは距離を取り、確かな力を静かに伝えています。表面的なわかり易さや楽しさではなく、自然や宇宙につながる普遍的な力を、皆様と共有できると信じております。それには知識も予見も必要ありません。
 

今年最初のシテは、五月の九皐会の「杜若【かきつばた】」です。在原業平【ありわらのなりひら】の歌に詠まれた杜若が女の姿で現われ、業平が歌舞【かぶ】の菩薩の化現として過した有様を曲舞【くせまい】に舞い、その現身をもって序之舞を舞います。

この十年来シテを舞うにあたっては、江戸時代の復原装束を山口能装束研究所のご協力を得て使用しています。全ての価値をお金で量ろうとする現代とは異り、江戸時代の武士は、のちに武士道とも呼ばれる高い倫理観を生き方の指針としていました。そこから生まれる価値観や美意識を、彼等は装束を始めとする能のあらゆる分野に表現してゆきました。明治以降、特に敗戦後の時代にそれを復原することは大変難しいことですが、演者と装束のふたつながらその原型に近づいた時、それはとても大きな力となるでしょう。拝金主義を脱してこれからの時代を切り開く力となるかも知れません。

六十代も半ばにさしかかって、これからの十年程は、このことを静かに示してゆきたいと考えています。そんな可能性を見据えつつ、今は舞台に触れた全ての皆様に、平安のひと時をお届けしたいと思います。

                    草々

  壬寅春

                                                                      


「杜若」のあらすじ

「杜若」について思うこと 


2021年7月30日金曜日

能「千手」のご案内

 この「千手」という曲は、実はあまり好きな曲ではありませんでした。


世阿弥の能には魂を浄化させる特徴があります。
幽霊や怨霊を成仏させ、
生き別れた我が子と再会し、苦難に陥った人はそれを突破してゆきます。
これは南北朝の長い戦乱から平和へ向かった時代に、人々の願いを舞台上に再現しようとしたためなのではないでしょうか。しかし、平和を求めて反幕府勢力を完全に掃討した結果やってきたのは、六代将軍足利義教による恐怖政治でした。人々が自由にものを言えなくなった時代です。「千手」はそんな時代に世阿弥の娘婿金春禅竹によって作られたと思われます。

大仏を焼失させ、死罪を免れ得ない平重衡に、遊女千手ノ前は芸能の力でひと時の平安をもたらしますが、重衡の運命を変えるまでには至りません。世阿弥の作品に比べて矮小化しているのは否めません。

しかし今、私にはこの「千手」の良さが身に迫るようになって来ました。

これは、閉塞した時代にひと時の心の平安を与える難しさに、正面から取り組んだ作品です。

今生に望みを失い、来世の平安のみを願う重衡に、千手ノ前の月並な慰めの言葉は届きません。前半は陰鬱な雰囲気が支配しています。これを破るのが千手の舞です。北野権現の霊力を頼み、来世救済の経文を朗詠し、それに続いて重衡の来し方を曲舞に舞い、序之舞によって「陰陽の気を整える(NHKの朝ドラで良い台詞を夏木マリさんが言っていました)」と、重衡も琵琶の演奏を始めます。一夜感興が尽されました。

夜明けと共に現実が押し寄せて、重衡は去って行きます。それを見送る千手ノ前の泣き顔の美しさが、愛おしく思えてなりません。

私が年を取ったこともあります。また今コロナ禍に苦しむ時代もあります。まさに時宜を得た演目となりました「千手」です。是非能楽堂で見届けて下さい。



これぞ実験!能楽らいぶ × ライブペインティング

この実験的な催しは、昨年四月、コロナが蔓延し始めて催し物が次々と中止に追い込まれていた頃、今だから敢えてと企画した催しでした。
昨年は中止となってしまいましたが、病禍未だ猖獗を極める中、この秋は万難を排して実施したいと思います。

能と現代アート。
一見対極と見える組合せですが、対極は背中合わせに繋っていることがよくあります。

「有限なものを組合せて無限を表現する」

という言葉は、能装束研究家の山口憲さんがいつも私に話して下さる、能の本質に関わる言葉です。中津川浩章さんの作品は、線描のみで無意識の世界を具象化しようとしているように見えます。無意識の世界即ち無限です。

この春の中津川さんの個展の時、フェイスブックを介してなされた、私と中津川さんの会話を紹介します。

(所)中津川さんの個展に行ってきました。「線を解放する」というタイトルです。普通線を書くときは意識によってコントロールされていますが、中津川さんの線は無意識の領域からそのまま形となっていて、まさしく線を意識の絆から解放しています。

能は約束事即ち「型」で構成されています。稽古の段階では意識によって「型」をなぞり、シテの気持ちやら情景やら様々の事を考えるのですが、
最終的にはその意識を全て型に集約してしまって、意識の絆から解放します。

(津)死者の魂の召喚というか、呼び覚ますものは型によってしかなし得ないのではないかと思うこともあり、でも解放されないと召喚できないのでないかとも思うこと、その往還ばかりです。


今回のコラボレーションで二人の取り決めはありません。
私はただ自分の作品を「一人らいぶ」で演じ、中津川さんはその空間を共有しつつペインティングをするだけ。
その時二人に何が起きるのか起きないのか・・・。

政治や社会に対する芸術や宗教。
溶け合っているのが理想なのでしょうが、そうではない現在、やはり私は後者の側に身を置いていたいのです。


 

2021年7月12日月曜日

能装束展のご案内

 岐阜市歴史博物館での「用の美」展をご案内します。

この展覧会は江戸時代の能装束展を研究、復原している山口能装束展研究所の企画・監修による展覧会です。


江戸時代の能装束展といってもピンと来ない方も多いと思いますが、その美しさ、品格の高さは素晴しいものです。

この能装束展を見ると、江戸時代の武士に対する認識が変わります。こんなものを産み出した人々の美意識を想像してみて下さい。そこには高い倫理観と教養を窺い知ることが出来ます。また個人の意識というものをほとんど感じません。先人の積み重ねてきた技術や意匠に、新たな工夫を加えて、今までにない作品を創作したのだとは思いますが、そこに所謂個人の恣意というものを感じないのです。


チラシ裏面にご案内のように、会期中様々な催しも予定されています。私も子ども向けワークショップと、装束付けの実際をお見せするワークショップを致しますが、何と言っても、この能装束展復原を手掛けた山口憲さんとその後を継ぐ朋子さんのお話しを聞いて下さい。ただ見るだけでも素晴しいのですが、やはり解説を聞いてから見るのとでは雲泥の差があります。


なお、この展覧会について朝日新聞系のフリーペーパーMEGの取材を受けました。昨日発行で中部地区の朝日新聞とともに届けられたと思いますが、ネットでも見られますので、是非お読み下さい。このファイルの10ページです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2021年6月14日月曜日

藤戸 2021/07/11 九皐会例会

 九皐会七月定例会「藤戸」(第二部)のご案内を申し上げます

https://yarai-nohgakudo.com/archives/8782

今も昔も権力の犠牲になる弱者の悲劇は後を断ちません。しかし中世においてそれを真正面から描いたこの作品は、能を作り、今日まで守り伝えた人々の心を、色々と考えさせてくれます。

前段は功名の犠牲となった漁師の母親が、息子との思い出の中にその喪失感を切々と訴え、後段はその漁師の亡霊が、刺し殺されて海に捨てられた有様を再現して、恨みを晴らそうと迫ります。この漁師の突く杖は、冥界を彷徨する標であり、また恨みの象徴なのですが、最後に自らへの弔いを受けて恨みを晴らし、杖を捨てて成仏を体現します。

恨みの矛先となっているのは佐々木三郎盛綱という武将です。自分の功名のために罪なき漁師を殺しておきながら、「前世からの定めだから、恨んだりしても仕方がない。篤く弔いをするから、恨みを晴らせよ。」と言い捨てる有様は、現代人に共感を求めるのは難しいと思います。また、殺された当の漁師の幽霊が、その弔いによって成仏してしまうのも、簡単過ぎるように感じるかも知れません。しかし当時の社会状況などを鑑みると、入部してすぐに庶民からの訴えを聞こうとする、この盛綱は充分に良い領主なのだと思います。観世座に大きな支援を与えた大名の一人に、傍系ながら同じ一族の佐々木導誉がいたことを思えば、その先祖を持ち上げつつ、苛烈な専制支配を行使する時の将軍、足利義教を皮肉っているようにも思えます。

ともあれ、恨みの姿から成仏の姿への変容を、見所の皆様にお伝えし、それによって、日頃の怒りや恨みを少しでも流すことが出来たなら、それこそが能の真髄なのだと思い、稽古を重ねています。


どうぞ暑中の舞台ではございますが、矢来能楽堂に足をお運び下さい。

2021年5月25日火曜日

クセナキスと日本

 https://www.persimmon.or.jp/performance/sponsored/20210317150202.html

この様な状況の中で開催そのものが危ぶまれていましたので、直前のご案内になってしまいました。

(リンク先のご案内も混乱しているようです。小ホールでの催しは全て中止になったと聞いています。)

加藤訓子さんは世界的なパーカッショニストとして高い評価を受けていますが、私とはご縁があり、これまで何回かコラボレーションの舞台を創作して来ました。

くにたち市民芸術小ホールの企画で創作した、「オトダマコトダマ 阿吽」と言う作品の中で、クセナキスの「ルボン」という作品に舞をつけたのですが、今回は加藤さんの企画で「クセナキスと日本」と言う作品の冒頭に、そのルボンの舞を舞う事になりました。

ルボンはaとbの2部構成になっていて、これまではルボンaを舞っていたのですが、今回は初めてa,b通しでの舞をつけました。

加藤さんによればクセナキスは能に大変興味を持っていたとの事で、私の舞がその意に沿うかどうかはわかりませんが、少なくともルボンaは能の拍子不合(ひょうしあわず)に通じるものがあります。逆に今回初めて舞うルボンbは、はっきり躍動感のある拍を刻んでいて、一見すればダンス作品として面白い音楽と聞こえます。果して能ならではの表現になり得るのかどうか、私自身今からとても楽しみです。

現代音楽と聞いただけで構えてしまう方も多いかと思いますが、加藤訓子さんの演奏は難解さを通り抜けて音楽の躍動を伝えてくれます。

後半の「18人のプレイアデス」と言う作品は、加藤さんの以前のアルバムでは、一人で全ての役を演奏して多重録音していて、その変態的な(失礼)超絶技巧に驚いたのですが、今回はそれを18人で演奏するとの事。1人でやるより返って難しいであろう事は、ちょっと考えてみれば明らかです。数年にわたってワークショップを重ねてきたからこそ可能な演奏と、こちらは一観客として手放しで楽しみに思っています。


2021年3月2日火曜日

舞台のご案内「定家」

 


https://yarai-nohgakudo.com/archives/8335 

舞台のご案内を申し上げます

四月に九皐会の別会にて大曲「定家(ていか)」を舞うこととなりました。

例年国立能楽堂での開催となる別会ですが、今年は社会状況に鑑みて矢来能楽堂での催しとなり、番組も能は私の「定家」一番となりました。大きな責任と共に、この大曲をこのような場で舞えることの喜びを感じています。

 

「定家」は百人一首の選者でもある藤原定家(ふじわらのさだいえ)のことですが、この曲のシテは定家ではなく式子内親王(しょくしないしんのう)です。内親王の墓に定家の執心が葛となって纏わりついているという、定家と内親王の抜き差しならぬ愛執が主眼の曲です。
執着の象徴が定家葛ですので、男の強い執着によって一方的に苦しめられる女性が想像されるかも知れませんが、愛執の束縛は女性自身からのものでした。
 

死後もその執心の葛に縛られて苦しむ内親王は、ワキの僧の供養により、縛めからしばし解き放たれて報謝の舞を舞いますが、舞姿を恥じて墓所の石塔へ戻ろうとすれば、また元の如くに葛は石塔に這い纏わり姿を消します。

この曲は世阿弥の娘婿である金春禅竹の作品とされています。南北朝の騒乱が収束に向っていた時代の世阿弥は、僧の供養で成仏する作品を多く書いていますが、禅竹は再び乱世に傾こうとする不穏な時代の中、供養による平安を一時的なものと把えています。

 

 偽りのなき世なりけり神無月
 誰(た)がまことより時雨初めけん

(嘘ばかりの世の中と思っていたが、誰のまことの心から出たものか、
神無月になると必ず時雨が降る。とすればこの世の中にも嘘はないようだ。)


この曲の前段で詠じられる定家の歌は、時雨さえあるべき情趣として受け入れています。

またこの曲は秋の曲ですが、愛執の葛に縛られている式子内親王は、今の社会状況の中で身動きままならないまま、春を迎えた私たちの姿のようでもあります。


法華経の功徳で心安らかに舞うひと時は、そのまま、難しい時代の中で生きる私たちに、確かな力を示してくれているように思います。

武家の式楽として育まれてきた能の力を、今の時代を生きる力として、見所の皆様と共に感じてみたいと思います。

辛丑春





2020年9月23日水曜日

舞台のご案内「江口」

11月8日(日)九皐会例会    於 矢来能楽堂

https://yarai-nohgakudo.com/archives/7814

 

 舞台のご案内を申し上げます

十一月の九皐会例会で「江口」を致します。
遊女が実は普賢菩薩だったというこの曲。私は、世阿弥が申楽一座の伝統を丸ごと掬い取って、その矜持を高らかに称えたものだと考えています。
世阿弥は自分たちが作り出した芸能のことを、遊楽と呼んでいます。遊楽遊舞を生業として、その中で女たちは遊女ともなって、一座の血を繋いで行きますが、それは決して卑しいものではなく、佛の道に通じているのだと、この曲を通して訴えています。

十年程前から折に触れて舞ってみたいと思っていたましたが、この難しい年にその機会が巡って来ました。

コロナ感染予防しながらの鬱陶しい毎日ですが、逆境の中で芸能の確かさを掴んだ世阿弥の力に縋り、少しでも良いものを見所の皆様に、お届けしたいと思います。

また後段に登場するツレ役の二人は、今年この道を志して内弟子修行を始めたばかりの二人です。私自身も四十年前に内弟子になったばかりでツレを致しました。お目怠い点もあろうかと思いますが、伝承はこのようにしてなされて行くのだとお見守り頂き、今後も私共々応援して下されば、これに勝る喜びはありません。

何卒宜しくお願い申し上げます。

2020年5月16日土曜日

通信稽古のススメ

通信稽古のススメ


五月の声を聞いたと思ったら早や後半になってしまいました。コロナウィルス感染予防のための自宅待機も、まだまだ終わりそうにありません。表面に表れる数字に信用がおけない以上、私たちは何でそれを判断すれば良いのでしょうか。命令ではなく要請でしかないことも、閉塞感をより強くしています。

これで経済が動き始めても、ソーシャルディスタンスを確保しての能楽公演は補償がなければ成立しません。 私たちにとってはまだまだ先が見えません。

報道などでもご存知かと思いますが、狂言師の善竹富太郎さんがこのウィルスの犠牲になってしまいました。学校巡回公演では子供たちの心を一挙に掴む独特のトークで、人気を独占する異才の人でした。先日荼毘に伏されたとの連絡が入りましたが、このウィルスの残酷なところは、親族でさえ立ち会うことが出来ないということで、残されたご親族の方々の悲しみを思うと、本当にやりきれない気持です。


富太郎さんのご冥福をお祈りし、ご遺族へ哀悼の意を捧げたいと思います。

そのような中、私の所属する九皐会では、先日、今後の催しについての話し合いが持たれ、七月例会より観客を半分に絞り、二番立ての番組を一部二部に分けた形で、再開させるということになりました。

今後どのような展開になるかわかりませんが、能を当代で途絶えさせることのないよう、
力を尽して行かなければなりません。

能の世界も、明治維新以来の大きな転換を迫られていますが、単に流れに迎合するのではなく、これまで伝承され続けてきた本質的な部分を崩さないようにしなければなりません。


何が本質的で何がそうではないのか。それぞれ問い合わせながら、やれることをやって行きたいと思います。

さて、私はここ数年二松学舎大学で能の実技を指導する場を得ているのですが、本学でも今年度の開講は通信による授業を余技さくされています。まだ一般学生への授業は始まったばかりですが、ゼミナールの学生に対しては、先月からプレゼミと称して通信による稽古を始めていました。 もちろん実際に対面しての稽古に比べれば制約も多く、なかなか思い通りに行きませんが、それでもそれなりに伝えられることもあるように感じています。

そしてこれは学生に限らずとも可能なのです。転居により稽古に通えなくなってしまった謡曲愛好者の方々を始め、海外に出て始めて能に興味を持ったという方もいらっしゃると思います。現在、月一回の稽古場の方が通信で複数回のお稽古を始められています。

能は、室町時代に始まり、江戸時代に武家の式楽として大成されました。しかしその根っこには古代からの芸能の息遣いが閉じ籠められています。式楽たる能がその母体である武家階級がなくなってなお、何世代も伝承されて来たのは、そこに人間としての普遍性を獲得したからです。


コロナ以後の世界は、ウィルスを含めた自然との共生が、より求められる世界になりそうです。その時こそ能が本当に必要とされると信じています。

この自宅待機の中、新しい時代を見据えて、伝統の中に浸ってみるのは如何でしょう。

2020年5月14日木曜日

ひとり能楽らいぶ#01 雨ニモ負ケズの曲舞

この「雨ニモ負ケズの曲舞」は、平成15年頃に作ったものです。
世阿弥の頃、その素材となっている作品は人々に周知されていたものでした。その言葉が曲舞で謡われ、舞われることによって、立体的な生命力が生み出されることに観客の多くが興奮したのだと思います。それを今やるとすれば何だろうと探して「雨ニモ負ケズ」を選び、そこから宮澤賢治の作品を読み込んで創作したものです。

まだまだ続くstay home の日々。「能楽らいぶ」の YouTube 配信をしてみようと思いました。その第一弾はやはりこの作品です。

https://youtu.be/48x58Ma30GE

2020年4月18日土曜日

かつてない誕生日に

前略 病禍猖獗甚しき折から深くお見舞い申し上げます

皆様より誕生祝いの言葉を頂戴致しました。有難うございました。お蔭様で本日62歳になりました。

先月来の伝染予防体制により、演能その他の催しは軒並み延期・中止となり、お弟子様へのお稽古も休止状態で、かろうじて Zoom による通信稽古をしてはいますが、掃除と稽古と創作で毎日を送っています。

この様な情勢の中で、能には何が出来るのか、何をすべきなのかを自らに問わねばならないとは思うのですが、今の、家に籠もって稽古に励んで、来るべき舞台に備える日々と言うのは、経済的な問題さえなければ、私にとってはある意味居心地が良いのです。しかし、その経済的な問題は既に喫緊の課題になりつつあり、そういう居心地の良さに浸っている場合ではないのが直視しなければならない現実なのでしょう。

現在、通信稽古をしてはいますが、やはり対面でなければ伝わらない事が、能にはとても多く、そしてそれこそが能の存在価値だと思います。能の価値は生でなければ伝わらないのです。これは他の芸能も同様ではありますが、生の現場と記録との落差の大きさが、能では致命的なものになります。

コロナ以後の世界で能はどの様にあらねばならないのか、どの様な方向ならば生き残れるのか、これからそういう意識を持って考えていかなければならないでしょう。

いっときを凌ぐ方策としては、

1) 舞台の記録としてストックされている演能の映像を、YouTube などで公開したり、その画像を見ながらのお話会

2) 私が以前やっていた「能楽らいぶ」を固定カメラで配信する

3) 通信での謡・仕舞講座を開講する

・・・

などがありますが、どれも本質的ではない様に思われます。

能が他の芸能と大きく異なる要素として、例えば俗界から隔たって修行をする禅僧や修道院の様な部分があります。舞を舞うことによって、舞台を勤めることによって、国家の平安、霊魂の安息、健全な精神などを実現するというものです。勿論これを核として、人々の楽しみ歓びを盛り込んで舞台化したことにより、広く親しまれるものになったのですが、武家の式楽として完成された背景にはこの核の部分があったことを忘れてはならないと思います。

そして「武家の式楽」が、武士がなくなってなお4、5世代を経て継承されていることは、武士の持っていた価値観が人間存在の普遍的な部分に親和性を持っていた証左だと思います。

今、明治以降走り続けてきた近代というレールが行き止まりになっている事が周知されて来ています。江戸時代に戻れと言うのではありません。しかし、江戸時代に実現されていた循環型社会、それの精神的支柱であった能の存在、それをこれからも見つめて行きたいのです。

何か、まとまらない上に、結局今まで思っていた事をまた書いているような事になりましたが、この奇貨とも言える非常時に迎えた誕生日に思うことを書いてみました。

最後に。これは、全く私の個人的な思いであって、能楽界で能の伝承のために様々な角度から取り組んでいる方々を批判するものではありません。私の不得手な社会的な活動をして下さる方々を、私は尊敬しています。有難うございます。

もう一つだけ。能を次の世代へつなげるための私なりの一つの試みとして、能が生み出される現場を、小説に書きたいと思っています。発起してより2年、ようやく少しずつ形になって来ました。現在 note  に随時発表しています。是非読んでみてください。まだほんとに始まったばかりですが、ご意見ご感想を頂戴出来れば嬉しく存じます。

2020年3月11日水曜日

延期になりました・・・能楽らいぶ「光の素足」× ライブペインティング

 真に申し訳ございません。この催しは残念ながら延期になりました。

こんな時期にもかかわらず、30名を越える皆さまにご予約を頂いていましたが、コロナウィルス蔓延阻止の妨げになる可能性を鑑みて、延期することになりました。
新しい日取りが決まりましたら、改めてご連絡します。その時には何卒宜しくお願い申し上げます。



世情色々騒がしく落ち着かない毎日が続きますが、そんな中、小さな実験をします。
画家の中津川浩章さんのライブペインティングとのコラボレーションです。



能楽らいぶは、六百年の伝承を可能にした能の秘密を探るために繰返してきた、中所による小規模公演です。能は謡も舞も型の力を最大限に用いて、全てを表現しようとします。

中津川氏の絵は、単色の絵の具による線描のみで無限の表現を生み出そうとしています。また、中津川氏のもとで生み出される、障碍のある方々の作品は、言葉や理性あるいは自我の下にうねり巻く表現の原点を感じさせてくれます。中津川さんは「彼等には何も教えていません。彼等の持っているものを引き出す手伝い(ファシリテート)をしているのです。」と語ります。

様々な約束事によって組み上げられ、そのような無意識領域からは遠いもののように思われている能ですが、その土台は人間存在の本源に深く根付いていると思います。

能「光の素足」は宮澤賢治の作品から言葉を頂戴して、その世界観を能で表現したものです。二人の創作を賢治さんがファシリテートする場をお楽しみ下さい。


4月18日(土)午後3時開演(開場 午後2時)
入場料 3,500円
会場はチラシをご参照下さい。

会場となるゲストハウスは地下ながら、2階分の高さの天井と充分な広さがあり、全面のガラス窓いっぱいに滝が流れ落ちる素敵な空間です。感染について出来るだけの配慮を致します。

2020年2月11日火曜日

令和2年2月15日(土)緑泉会「西行櫻」


2月15日(土)の緑泉会で「西行櫻」を致します。

この曲のシテは京都北山西行庵の片隅に、ささやかに花を咲かせる老木の桜の精です。幹は大きなウロとなり、皮ばかりから伸びた枝にわずかに花を咲かせる、その老桜ノ精が西行法師の詠歌に不審を向けて夢枕に立ちます。

       花見んと群れつつ人の来るのみぞ
                        あたら桜のとがにはありける

との西行の歌に、「浮世と見るも山と見るも、ただその人の心にあり。非情無心の草木の、花に浮世のとがはあらじ」と言葉を向ける桜の精。世事に煩わされることなく道を究めたいと思う気持ちに、それは心の構え方の問題だと答える有様は、作者世阿弥の葛藤をそのまま映しているようです。

 花の仏性を目の当たりにして、西行が「草木国土悉皆成仏」と誦えると、その功徳を喜んだ老桜ノ精は夜明けまで舞を舞い続けます。歌に詠まれた花の名所を謡込んだ舞は、やがて春の夜のたゆたいのような笛の舞となり、最後「花を踏んでは同じく惜しむ少年の春」と白楽天の詩を謡込んで夜明けとなります。

 私にはこの曲の中、俗世を嫌うのを戒めながら、西行の夢の場を借りて、少年と老人が対峙しているように見えます。それは少年世阿弥と歌の師である二条良基かも知れませんし、年老いた世阿弥と若い芸能者たちかも知れません。

 是非、春の朧の雰囲気を楽しみに能楽堂へお出かけ下さい。


以下は、チラシに載せた「西行櫻」の解説です。
舞台にで飾られた山の作り物に続き、西行法師(ワキ)が登場するとそこは都西山の西行の庵室となる。下京に住み、春になると山野に花を尋ね廻る者たち(ワキツレ)が登場し、その庵の花を見ようと連れ立ってやって来る。わざわざやって来た労に報いて招き入れる西行だったが、人々の賑いに俗世の煩わしさを思い出し、思わず一首の歌を読む。「花見んと群れつつ人の来るのみぞあたらの咎にはありける」
 やがて夜となり人々と共に眠りにつく西行だったが、気がつくと一人となり、の老木の空洞から白髪老人(シテ)が現れて、先ほどの自分の歌を詠じている。不審する西行に老人はの精だと明かして、「憂き世と見るも山と見るも、ただその人の心にあり」と理を説いて戒める。西行が「草木国土悉皆成仏」の経文に思い至り読経合掌すると、老の精はこれを喜び、花を歌う詩歌を連ねる。都のの有様を歌い始めると興に乗って舞を舞う。時は移り夜も終りに近づけば、西行との名残りを惜しみ、その心をゆったりとした笛の舞(序之舞)に舞う。とうとう夜が明け始めた。いよいよ別れの時かと思いつつ、まだまだと思っているうちに夜は明ける。
 終曲の一節に、白楽天が「花を踏んでは同じく惜しむ少年の春」と詠んだ春の夜は明けて「翁さびて跡もなし」(老人は消えてしまった)と謡われる。少年世阿弥が歌を学んだ二条良基の姿をこの老の精に重ねるのはうがち過ぎだろうか。