2014年12月1日月曜日

混迷の歳の暮に『光の素足』



12月23日に愛知県日進市で能楽らいぶ『光の素足』を致します。

『光の素足』については検索して頂ければ多くの記事がありますが、以下の二つは詳細に論じて下さっている大変素晴らしい記事です。


この会は日進市の町興しに、文化面からアプローチして行こうと言う、地元のボランティア団体によるもので、手作り感満載の催しです。日進市は名古屋市の東側に隣接し、豊田市へ通じる中間点に位置します。名古屋の衛星都市としての新しい町と、伝統的な行事や地縁を重視しての魅力ある旧い街とが混在しています。私の住むあきる野市とも少し似ています。

その地でご縁を得た方が中心となって、能楽らいぶを是非日進で、とのお話を頂戴しました。

ブログでのご案内が遅くなってしまいましたが、お近くの方は是非お出掛け下さい。

今回の「能楽らいぶ」は、特別に装束と能面を付けます。これは主催の皆様の熱意に応える形で実現しました。

12月23日と言えば既に選挙も終わり、どの様な社会情勢になっているのか想像も出来ませんが、その様な時にこそ、この『光の素足』を観て頂きたいと思います。

吹雪に弟を死なせてしまった兄の苦しみは、「生き残りの罪悪感」を持つ全ての人に共通のものです。宮澤賢治さんの言葉は、その苦しみに寄り添って私たちを勇気付けてくれます。


2014年11月21日金曜日

ある仮説・スリ足の起源

 豊橋の会での講演に於いて、ゲストの内田樹さんがスリ足の起源について軽く触れられたのですが、その後のメールのやり取りの中で、面白い仮説が生まれましたのでここに纏めてみます。


 お話は豊橋のレポートから入ります。
『中尊』公演に続いて、今回のゲストである内田樹さんの講演となり、その途中から安田登さんを司会にお願いしての対談となりました。
 内田さんのお話で印象深かったのは、日本の中世に成立した「能」と「禅」と「武」の三つが、何れも身体を整える事によって人の外にある強大な力を利用する技術であると言うものです。私は能ばかり見ていて、「スリ足は瞑想と似ている」とか、「能の身体運用は武道に通じる」とか、殆ど同じような事を考えているのですが、やはり能が中心に重く、三つを等しく並べる視点はありませんでした。そうするとまた違う一面が見えて来るのが面白いですね。
 対談では、海洋民と狩猟民の争いで能は常に海洋民の側についている事、また、能の中に農民の姿が描かれていない事など、興味深いお話が出て来ました。その辺りを的確に纏められると良いのですが、どうも私は新しい興味が起こると、其方に惹かれてしまうのです。此処ではその後の内田さんとのメールの中で、突如浮かんだスリ足の起源について書きます。

 抑もは内田さんが講演の中で、スリ足について軽く触れ、その起源について、武智鉄二が深田耕作説を言い、安田登さんは「反閇(へんばい)」ではないかと言っている旨をお話されたのです。私自身は宗教的な行法としての起源を考えていましたので、どちらかと言うと安田説に近い、しかし、反閇がどの様なものか知りません。検索によれば格式高い神事での特殊な歩行法です。「禹歩」とも言い、古い起源が書かれていますが、どうも私にはピンと来ません。
 私がスリ足の起源を行法にあると考えたのは、私が学んだ気功法の中に歩行法があり、これがスリ足に著しく近似している事が、発端にあります。三十代後半から五年程だったでしょうか、気功と言うものがそろそろ認知され始めた頃、薛永斌先生について無極静功を学びました。高々五六年の事ですので、一層深い所は分かりませんが、一通りの事は教えて頂きました。薛先生も能をご覧になって、能の動きが気功法そのものである事に驚かれ、その上で「スリ足で足先を上げるのは、大変強い。表現としては良いけれど、養生法としては強過ぎる。」と言う様な事をお話なさっていました。薛先生の表演は大変美しくかつ力強いものでした。今私が舞を教える時に口にする様々の事は、この時の学びに大きな影響を受けています。
 スリ足をする事で身体の内部の気の流れが整い、さらに身体の外にある気の流れをも取り込んで、動かずとも強い表現が可能になる訳です。それ故私は、スリ足の起源を宗教的な行法に求めたのです。

 と、ここまでの様な事を内田さんへのメールに書いていた時、突然一つのビジョンが浮かびました。それは、スリ足をしながら朗唱をする「語り部」たちの姿です。
 まだ文字を持たなかった頃、共同体の中に自らの歴史を語り伝える「語り部」がいました。共同体が大きくなるにつれて語り部の語らなければならない物語は、膨大な量になって行きます。それこそ朝から夜まで何日かかっても語り尽くせない程。しかもその物語を次の世代へ伝承して行かなければなりません。従って語り部が一人である事はあり得ません。集団で朗唱して皆で覚え、皆でそれを再生します。皆で朗唱するには節をつけて歌うようにします。集団はあらゆる世代で構成され、その内容は次の世代へ引き継がれて行きます。
 これまで私が思い描いていた語り部たちの姿はこのようなものでした。ここに集団での朗唱に動きが加わります。歩きながら朗唱し、覚え、再生する語り部たち。
 これは能の伝承にも関わって来る事ですが、私たち能楽師は舞台上で本を見る事が出来ません。シテのみならず、地謡や後見、囃子方に至るまで、演能に参加している者は皆、全て暗記して舞台に臨んでいます。しかし、そこは人間ですから間違いもあれば次の謡が分からないで絶句してしまう事もあります。その様な事故が一番多いのは、動かずに正座して一曲を謡う素謡の時で、それに囃子が加わると随分事故は少なくなり、舞の動きが入ると、再生はより確実なものになって行きます。覚える要素が多い程覚えられ、再生も確実になるのです。逆に謡ではなく、その詞章だけを言葉に出来る能楽師はほとんどいないと思います。頭の中で謡を謡いながら言葉を繋げて行くのですが、少なくとも私にはそんな芸当は出来ません。
 何で読んだか覚えていませんが、文字と言う物が誕生した時、これは人間の記憶力を駄目にする有害なものだと排斥した人がいて、それが他ならぬソクラテスなのだそうです。文字がない頃の人間の記憶力というものは、おそらく現代人の想像など遠く及ばないのではないでしょうか。但し語り部の様に大量の物語を確実に一字一句違えず表現するためには、やはり特別な技術が必要とされ、語り部の一族はその技術を代々伝えていたのだと思います。
 また、歩くことが記憶する為に非常に有効であるという事は、私たち能楽師のみならず、覚えて演じる事を常としている人たちは皆認めてくれるだろうと思います。

 さて、ここからが問題ですが、歩きながら声を合わせて朗唱する時、朗唱の音律はその言語固有の動きを要求するはずです。そして日本語の音律は、その歩きに水平方向の動きを要求するのです。私の知る限り、音の繋がりが日本語程平板に繋がって行く言語はないように思います。
 それがスリ足が外国ではほとんど見られず、日本に固有の歩行法である所以です。しかもその歩行法は身体運用法としても内気を養生する効果が大きく、様々の武術に取り入れられています。語り部と言うと、神経質で繊細な老人と言う印象があるかも知れませんが、それはこれから改められるべきでしょう。歩行を中心として身体表現も交え、全身を使って記憶し、朗唱する集団で、しかもそれが皆「気の達人」の様な人々なのです。当然この集団の人々は長生きな人が多い、と言うそんな新しい語り部像が浮かんで来ます。

 無文字社会も後半になると共同体はかなり大きなものとなり、場合によっては「クニ」と呼んで差し支えないものもあったと思います。そのクニが争って、一方が他方を滅ぼしてしまった場合、滅ぼされたクニの語り部たちは、新しい支配者たちにとっては不都合な神話と歴史を語る者たちですので、多くは殺されてしまったのではないでしょうか。しかし、その技術を伝承する者たちを根こそぎにするのは難しく、必ず地下に潜って生き延びる者がいたはずです。そして王権が次第に確立して行く陰で、虐げられた人々の中にそういう人々も含まれていて、長い年月の後、その様な人々が芸能民となって中世の頃に登場して来るのではないでしょうか。

 さて如何でしょうか。スリ足の語り部起源説。私は結構行けるのではないかと一人悦に入っているのですが、、、。


2014年11月18日火曜日

『中尊』始末記

11月13日豊橋芸術劇場での第八回吉田城薪能・能楽らいぶ『中尊』は、お陰様で無事?終了しました。主催のNPO法人三河三座の皆様、共演の皆様、会場にお運び下さいました観客の皆様、そしてブログ読者などネット上で応援して下さった皆様に厚く御禮申し上げます。


 ステージに能舞台に模して化粧板を並べ、周りに笹をあしらいました。鏡板には、老い松ならぬ蓮の華。これは今年三月、イーハトーブプロジェクトin京都・法然院での能楽らいぶの時に、秩父在住のガハクが、『中尊』に共感して制作して下さった銅版画が元になっています。主催者からこれを背景にしたいと聞いて、そんな事が出来るのかと、大変楽しみにしていました。舞台設営の段階から現場に押し掛けてその威風に触れ、少々興奮しつつ、愈々午後には『中尊』の出演者が揃いました。
 最初に「無事?」と書きましたが、実はらいぶ本番に向けて、私には一抹の不安がありました。ここのところ私の喉は常に重く、声の出にくい状態が続いていましたが、数日前から深刻な状況となり、二日前には殆ど声が出ない様になってしまいました。こう言う事は大分以前には時々ありましたが、ここ数年は発声の仕方も変わり、ここ迄酷くなるのは滅多にない事でした。それが前日に名古屋市内の小学校での特別授業では、大丈夫だったのです。ですから「まぁ何とかなるだろう」と臨んだのですが、豈図らんやリハーサルをしてみると、何とも頼りない有様で、共演の観世喜正師からマイクの使用を勧められる始末。躊躇する気持ちもあったのですが、素直に従って正解でした。本番では時を追うごとに声は出なくなり、最後は息が通って行く中に微かな振動が響くばかりと言う有様でした。
 以前の私でしたら大舞台にそうなってしまった慙愧に苛まれたと思いますが、そこは多少年を重ねて図々しくなった様で、今日のこの日にこんな声になるのは、この舞台がこう言う声を要求しているのだと思い定めて、演じる事にしました。ワキを勤めて下さった安田登さんも、舞台で聞いていて、そう言う感想を持たれたとの事で、公演後に「能は演者の生身を奪い取る事で成立する」と言うような事をツイートされていました。公演後一週間が経ちましたが、未だ剥ぎ取られた生身を完全には回復していません。大小様々の舞台が次々と迫って来る中、現在はリハビリに努めています。

 さて、余り本質的ではない話を長々としてしまいました。それではらいぶは失敗だったのかと言うと、どうもそうでもないようです。本来これは見て下さった方々の評を仰ぎたいところですが、ワキの安田さんが態々良かったと言って下さいましたし、打上げの席での主催の皆様の雰囲気も悪くありませんでした。また演能中は、見所の皆様が舞台を見詰めるエネルギーを感じていました。舞台として一応成立していたのだと思います。
 前半の山場、シテの女が身の上を長々と語る場面では、未だ声の響きとして自分に返って来ていたのが、地霊が憑依する辺りになると、身体の表面的な部分では殆ど響かなくなっていました。そして〈舞〉の後では、今となっては何処で振動していたのかわからない微かな響きが、兎に角息を深く通すのだと格闘する身体の何処からかやって来て、「いよいよ地獄とや言わん、虚無とや言わん。ただ滅亡の世迫るを待つのみか。」と言う、言葉を何とか届ける事が出来たのだと思います。
 願わくはこれらの出来事が、今後の舞台に資するものとならむことを。

 能楽らいぶから能『中尊』公演に向けて、今は未だ具体的なものは何も手にしてはいませんが、兎に角また新たな一歩となった公演でした。
 長くなりましたので、内田樹さんとの対談については、また稿を改めたいと思います。



2014年10月30日木曜日

講演「生き抜くために能に学ぼう」

まだ大分先の話ですが、来年の二月七日(土)午後二時より、相模原市の市民会館で能についての講演を致します。先日会館の方に頼まれて講演のレジュメを書きました。まだまだ先の事なので本当にこう言うお話をするのかどうか少し、心配ではありますが、自分としては、思う処をなかなか上手く纏められたので、ここに宣伝方々載せることにします。



「生き抜くために能に学ぼう」
相模原市民会館より依頼の講演骨子案


能は南北朝の戦乱から生まれ、
戦国時代を経て江戸時代に武士の式楽になりました。

江戸期の武士の精神性を今の私たちは見失っています。
自らを律っして日々を送る武士たちにとって、
己の価値観や美意識を培い、
それを表現するための手段として、
能はなくてはならないものだったと思います。
そして能は江戸中期の文化文政の頃、
一つの確固たる芸術として完成されます。

明治維新で武士が失くなった後も、
到達した美意識の高さ故、
今日まで生きた舞台芸術として命脈を保ち続けています。
しかしそれは残念ながら趣味として楽しみとしての能です。

しかし時代は変りました。
美が余技や趣味であった時代は終り、
この厳しい現実の中で私たちは、
生きる頼りとして美に縋らなければならなくなります。
満たされない経済や社会に対する不満と怒りに支配されて生きて行くのか、
それともその現実を受け入れて美を心の拠り所として生きるのか。

幸いここに能という芸能があります。
これを知ることは今後の生きる糧となると思います。

三・一一の後、石牟礼道子さんの詩「花を奉る」に出会いました。
そして『苦海浄土』を読みました。
日本が水俣に対してして来たことを、
今度は世界が日本に対してする事になると思いました。
今のような日本では早晩滅んでしまいます。
私たちは武士の矜持を学び、
能を学び、
その「美」によってこれからの時代を生きる力とする必要があります。
(以上)



冒頭の写真は、講演とは関係ありませんが、世阿弥の代表作とも言える『井筒』です。
能面は「ある出会いと記憶の不思議」http://nohsyura.blogspot.jp/2014/07/blog-post_9.html
でご紹介した新井達矢氏の「小姫」です。
自分の舞台写真はなかなか気に入ったものがないのですが、
これは面(能では「めん」とは言いません。「おもて」と読んでください。)の美しさを引き出していて、
大変気に入っている一枚です。
『能の裏を読んでみた 隠れていた天才』にも掲載しましたが、
ここでもご紹介します。
写真の撮影は芝田裕之氏です。

2014年10月29日水曜日

豊橋での能楽らいぶ『中尊』

11月13日(木)の夜に愛知県豊橋市の駅前のホールで能楽らいぶを致します。曲は拙作の新しい能『中尊』です。登場人物のシテとワキ、それに地謡一人、囃子は笛一人という四人構成の「らいぶ」です。
 そして何とゲストにあの内田樹さんをお招きして、能についてのお話や私との対談もする事になっています。内田先生がどのようなお話しをして下さるのかも楽しみなのですが、それのみならず先生と対談出来るのをとても楽しみにしています。
 聞くところによると、能などそっちのけの内田ファンの皆様も相当数ご来場とのことで、そのような皆様には私との対談などは邪魔かも知れません。しかし、平素内田先生の仰っている「身体感覚で考える」ための手段として、能は合気道と共に、その実践の為に知っておくべきものだと思います。合気道のみならず、武道の経験の全くない私には、内田先生の課題は当に能のための言葉としか思えないのです。
 また、能を目当てのお客様にも、能が何故何百年も伝承されているのか、何故意味も分らないのに感動を与えられるのか、そしてこれから先どのようにして能が生き伸びて行くのか、など、きっとそんなお話しを聞くことが出来ると思います。このお話を聞くと、この先能楽堂で能を鑑賞する時にも大きな助けとなるはずです。

 どうぞ皆様。このような催しはおそらく暫くはないと思います。是非、会場にお運びいただき、同じ時間を共有して下さい。何卒宜しくお願い致します。

 さて、当日演じる能『中尊(ちゅうぞん)』ですが、これについては京都イーハトーブプロジェクトの浜垣誠司さんが、以前に詳細に論じて下さっていますので、こちらを参考にして下さい。ここには簡単にあらすじをご紹介します。宮澤賢治の詩の世界・能『中尊』について



能『中尊』あらすじ

 一人の詩人(ワキ)が登場し、福島浜通りを廻り来て、さらに北に下り、昔の「日高見」の国を訪ねる。彼の地と思しき所に休んでいると、道端の小さな地蔵の祠に女(シテ)が蓮の実を捧げて一心にお参りをしている。尋ねてみると福島の中通りからこの地に避難して来たのだと言う。
 女は請われて更に詳しく身の上を語る。新潟水俣病の被害者として差別を受け、今、更に過酷な仕打ちにうち拉がれている。そしてその心にひとすじの光を齎しているのが、地蔵に捧げた「中尊寺蓮」の花だった。その花の謂れを語るうちに、女は地霊に取り憑かれ、祈りの言葉として一編の詩「花を奉る」を口上し花を捧げる。
(あらすじ終り)


 さて、当日のパンフレットの為に以下のような文章を書きました。いらっしゃれない方のために、ここに掲載します。



能楽らいぶ「中尊」によせて
新しい能を創作すると言う事


 第八回吉田城薪能と言う場を頂戴して、私の新しい作品『中尊』を皆様にご披露出来ます事を大変嬉しく存じます。主催の三河三座の皆様には篤く御礼申し上げます。また、予てより敬愛する内田樹先生との交流の機会を設けて下さりました事にも、重ねて御礼申し上げます。
 古典の作品を演じる事が私の第一の仕事なのですが、その傍ら、第六回吉田城薪能で演じました『光の素足』を第一作として、私は新しい能の創作と言う仕事をしています。これは何処から依頼されたのでもなく、全く私が好き好んでやっている事です。
 能は十四世紀末に観阿弥と世阿弥によって大成されました。二人の大才の出現もさる事ながら、社会の中に果すべき役割があったからこそ、能はその後の数百年を生きた芸能として伝承されて来ました。戦乱の世にあって太平を祈念するとか、殺し殺された人々の鎮魂とか、本来宗教が果すべき役割を、芸能と言う外観を纏いつつこれまで担って来たのです。
 そして江戸時代には、武士の式楽として完成されたとも言われています。江戸時代の武士の美意識の高さは、とても現代人の及ぶものではなかったようです。武士はその美意識・価値観の発露の場として能を必要としました。明治以降の近代化の中では、その完成した芸術性の高さ故に、愛され伝承されて来ましたが、それは嗜好として、趣味として、孝養として大切にされて来たと言う事で、生きて行く上でどうしても必要なものではなくなってしまいました。
 今、私たちの社会は急速に変っています。この変化は今まで近代の歪みを吸収していた自然の力が、その歪みの級数的な増大に対処しきれなくなったために起っているようです。この様な世の中に能でなければ出来ない何かがあるはずです。例えば三・一一の後に時を経ずして内田先生の口にされた「原発の鎮魂」と言う言葉。新しい能を創ると言う事は、そう言う要請に答える時、大変に大きな意義を持つ事となるのだと思います。

中所 宜夫

2014年10月26日日曜日

砧と弱法師

 前回の記事で、『弱法師』と『砧』について書きました。まだ、数日も経っていませんが、少し考えを変えた方が良いようなので、それについて書きたいと思います。
 前回は、十郎元雅の『弱法師』に影響を受けて七郎元能が『砧』を書いたのではないかと書きました。これは「標梅」の言葉から弱法師との呼応を考えたのですが、今日『弱法師』の謡を謡っていて、これは『砧』が先で『弱法師』が後でなくてはおかしい様に感じたのです。

それ鴛鴦の衾の下には。立ち去る思いを悲しみ。比目の枕の上には波を隔つる愁いあり。

これに続く詞章を今日謡ってみると、『砧』の方が言葉の意味合いが素直に繋がり、その分深い所へ達しています。『弱法師』は言葉の繋がりが変則です。これは、『砧』を元に『弱法師』の詞章が作られたと見るべきでしょう。それぞれ意訳してみます。


『砧』のシテの出。
 男女の仲と言うものは、睦み合っている時でも、別れを思うと悲しくなり、寄り添って愛を語っても、世間の波が二人を隔てるのではないかと不安になるものなのです。まして来世までも愛を誓って、深く契り合った仲なのに、私と夫はこの世でさえ会う事が出来なくなってしまい、それでも忘れるなんて出来なくて、ずっと泣き暮らしているのです。

『弱法師』のシテの出。
 月の出も月の入りも見る事が出来なくて、夜の明け暮れも分からなくなってしまった。難波の海の底が知れない様に、こうなってしまった私の心の中の煩悶の深さなど、他人には全く知られない事だ。
 鴛鴦は睦み合いながら別れの思いを悲しむと言い、平目も夫婦ならんで泳ぎながら、波に隔てられるのではないかと心配していると言うけれど、心のない動物たちでもそうなのだから、情愛豊かな人間として生まれて、辛い日々を送って来ると、私と妻との間にも、仲を裂こうとする様々な事が起こり、心配が絶える事がない。しかも、前世で誰かを嫌った様なことがあったのだろうか。今この世では、父に私の事を悪く言う人がいて勘当を受け、それをあれこれ悩んでいる内に、涙が視界を閉ざして盲目となってしまった。あの世とこの世の境にある「中有」という世界は、死んだら通るところであるのに、私は生きながらその幽暗の道に迷っている。
 でも、本来心の中に闇などと言う物は無いはず。伝え聞く唐の一行禅師が暗闇を抜ける時には、九曜の曼荼羅が光り輝いて行く先を照らしてくれたのだと言う。今も末世とは言いながら、ここは有名な仏法最初の天王寺で、石の鳥居がほらここにある。立ち寄って拝む事にしよう。

 元雅の原作を留めるとされる世阿弥自筆本の『弱法師』は、妻役のツレを伴って登場しますので、「鴛鴦・・・」以下の言葉もそれ程意味不明ではありませんが、それでもこの後の台本全体の流れから見て、ツレを登場させる必要はありません。
 完成した作品を見て、ここが不要で、この言葉は可笑しいと言う事は簡単ですが、創作をする者にはここはどうしても必要だと言うことがあるものです。この詞章などは当にそれで、元雅はどうしてもここに「鴛鴦」以下の言葉を入れる必要があったのです。それは、弱法師が他でもない元能の姿であり、『砧』が元能の作品に他ならないからです。



































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































2014年10月22日水曜日

『砧』について(2)

 私たち観世流の能では、現行210番余の曲に等級付けを施し、内十数番を重習いとして大切に伝承しています。その重習いの曲を初めて演じる時、此れを「披く」と言います。
 私、先週の土曜日に『砧』を披かせて頂きました。能楽堂にお越し下さり、見所から、また共演者として、場を共有した皆様のみならず、このブログやSNSの投稿を通して応援して下さった皆様にも、篤く御礼申し上げます。


 この写真は前シテで夫を思いながら砧を打っている場面です。打っている場面と言っても、舞では心象をなぞって舞台全体を使います。心凄き秋の夜の情景を映して、「月の色・風の気色」に続いて「陰に置く霜までも」と見込んだ場面です。
 京都の山口能装束研究所より拝借の唐織は、黒紅・鼠地段秋草模様の唐織。同じく能面は、天下一河内の深井で、裏面には喜多七太夫のきわめがありました。江戸初期の物です。

 次の写真は、後シテの幽霊となった女が、地獄の攻めに苦しみながらも、自らの因果を嘆いている場面です。手前に砧の作り物があります。前段では舞台の右手に置かれていた砧ですが、ワキの男が妻を供養する為に、正面に移動しました。その供養に惹かれて幽霊は現れた訳です。
 同じく拝借の装束は、裾に見えている腰巻が萩網代模様銀縫箔、上に壺折に着付けてある唐織が、白地秋野模様唐織で、能面はこちらは少し下った江戸中期の泥眼です。
 これらの素晴らしい品々を使用出来るのは、山口能装束研究所の山口憲さんとのご縁のお陰です。有難い事です。今後とも装束や面に恥ない舞台が出来るように、弛まず精進して参ります。
 なおこの写真は、ずっと私の舞台を追いかけてくれている芝田裕之さんの撮影です。このブログの為に、急いで送って下さいました。


 さて、以前にも書きましたが、この砧の女は本当にいじらしい健気な女性だと思います。三年帰らぬ夫を恨んで幽霊になって現れる、と言うと恐ろしい様に思ってしまいますが、前段の砧を打つ時の心理描写も、後段の恨みを言い募る場面も、恋々と煩悶に行きつ戻りつしています。
 ところで、この曲は世阿弥作とされていますし、私もずっとその様に思って来ました。しかし、『砧』の特色である細やかな心理描写は、私の思う世阿弥の創作とは、少し毛色を異にしています。世阿弥の視点はもっと高所にあり、心理的煩悶その物を仮象の物として突き放して捉えています。これは恐らく『班女』と比べてみるとはっきりするのではないでしょうか。(それはまた別の機会に)
 『砧』は、「申楽談儀」で世阿弥を語る冒頭に世阿弥の言葉と共に曲名が挙げられている為に、その作品である事に疑義を唱える人は殆どいない様です。しかし、私が拙著『能の裏を読んでみた』で考えた様な七郎元能の存在を思えば、世阿弥ではなく、元能の作品である可能性が高くなります。元能は意図的に名前を隠し、世阿弥を神格化しようとしています。
 そしてその様に考えてみると、元能と「弟」元雅との間の一つのドラマが浮かんで来ます。

 『砧』の前シテが橋掛りに登場し、遠く三の松に佇んで心境をこの様に謡います。
「それ鴛鴦(えんのう)の衾(ふすま)の下には。立ち去る思ひを悲しみ。比目(ひぼく)の枕の上には波を隔つる愁いあり。」(仲の良い夫婦は、睦み合っている時でも、別れの事を思うと悲しくて仕方がない。また何時も寄り添って過ごしていても、ふとした事が二人を隔ててしまうのではないかと、不安でたまらない。)
 如何にも何か出典となる漢詩でもありそうな対句表現ですが、そう言う物は見つからない様です。だとすればこれは能の作者の創作に違いありません。
 ところでこの対句は『弱法師』にも出て来ます。勘当され放浪の中に視力を失った俊徳丸が、盲杖を突きながら登場し、やはり三の松に佇んでこの謡を謡うのです。前掲の拙著にも書きましたが、私はこの弱法師に元能の姿を重ねて見ています。
 『弱法師』との関係を伺わせる『砧』の詞章がもう一箇所あります。
 後シテが登場し、冥界に沈んだ悲しみを歌に謡ったのに続けて、
「標梅(ひょうばい)花の光を並べては。娑婆の春を現わし。後の標の灯は真如の秋の月を見する。」(新婚の門辺にさす標の梅の花は、春の光の輝きを並べて、現世の栄を表し、秋の月は仏の導きをその完全無欠な姿で照らして後世の標となっている。)
と謡うのですが、これにも明確な出典は無く、『詩経』から取られたらしいこの標梅と言う言葉も、当然作者の意図によるものです。私は此処に『弱法師』の梅花問答との繋がりを感じます。

 元雅が元能の姿に重ねて『弱法師』を作り、元能はそれに応えるように『砧』を創作した。

 世阿弥の後継者たるべく成人に当たって「能」の字を名付けられた元能でしたが、何らかの事件(恐らくは将軍義教がそれに絡んでいます)により視力を失ってしまいます。自らの境遇を嘆きつつも、矜持を保ち、清澄な心持ちの元能の姿に、弟の元雅は深く感じて『弱法師』を創作します。
 元能はそれに応えて、それまでの父からの薫陶の全てを傾けて渾身の一作を手掛けます。それが『砧』です。創作の過程で、その節付けについて尋ねた時、父はそれには答えず、「この様な謡の味わいは、後世の人々には到底分からないだろうね。」などと少しずれた感想を言ったのでしょう。
 元能の心中には究理への想いが渦巻いていました。神に通ずる芸能として申楽の修行を積んで来て、その道は絶たれてしまったのですが、道を求める志は必然的に仏道に向かいます。出家するに当たって『申楽談儀』を残しました。

 と、凡その時間軸はこの様に推移したのではないでしょうか。
 さて、砧の女の原型は元雅の妻なのでしょうか。それとも、原作には登場した、弱法師が伴っていた妻、即ち元能の妻なのでしょうか。そこにどんな物語が隠れているのでしょうか。