2017年8月15日火曜日

第八回翡翠能楽らいぶ








恒例となりました東急ハーヴェストクラブ箱根翡翠能も今回で第八回となりました。昨年に引き続き、幸流小鼓方の飯田清一師をお迎えして、二人での「らいぶ」をお楽しみいただきます。

今年は、期せずして観阿弥に焦点を絞った番組になりました。詳しくはチラシをご覧ください。

翡翠の会員制ホテルらしい落ち着いた佇まいの中での能楽らいぶと、美味しいお料理、極上の温泉をお楽しみいただく、贅沢な一夜は如何でしょうか。


観阿弥について

子の世阿弥と共に能楽の大成者とされる観阿弥清次は、大和猿楽の結崎座から出て、観世座を起しました。伝統的な猿楽に様々な工夫を加え、将軍義満を始めとする多くの賞賛を集める中、五十一歳の時、駿河国浅間神社での演能の後、同所で亡くなります。出自は伝説に包まれ楠正成の血縁との説まであり、また突然の死も謎に包まれています。

二人らいぶで採り上げた『自然居士』は観阿弥の代表作です。庶民ばかりが登場し、話し言葉がそのまま使われていて、その声や息遣いが聞こえるようです。観阿弥がどのように一座を切り開いたかを想像しつつ、当時の芸能者の心に迫りたいと思います。



お申込みの際には、中所からの案内と仰って下さい。
会員料金でのご宿泊となります。
ご希望の方はお早めに御予約ください。

近世能装束の世界「用の美」展



京都の山口能装束研究所の山口憲(あきら)さんは、江戸時代の能装束の研究と現代への復原制作をなさっています。

今回の「用の美」展は、江戸時代の能装束の現物を多く展示し、その真髄を感得する又とない機会です。講座や解説のある時にお話を聞けば、能装束の素晴しさのみならず、能そのもの、また能を完成させた武士たちの真実の姿にも触れることができます。私も能楽師でありながら、山口さんとお会いするたびに、能の素晴しさを改めて知らされます。

期間中十月十一日(水)には、その展示装束を使った「装束付」と能「羽衣」の一部実演がございます。
「装束は使ってこそのもので、展示するものではない。能役者が身につけて舞うことによって、その美しさは完成される」
と山口さんは常にお話しされます。能装束の「用の美」の実際を、私の舞でお伝えできることを願っております。


井上内親王生誕千三百年記念


我が家の稽古舞台の老松を描いてくださった日本画家の杉本洋さんが、この五年に亘り企画監修されている、御霊(ごりょう)神社の千三百年祭。私は、ご祭神の井上内親王の能「斎王」の製作を依頼されました。

これまで宮澤賢治、中原中也、石牟礼道子などの詩人の作品に触発されて、能の新作を手掛けてまいりましたが、今回は全て自分の言葉で一曲の能を組み上げました。怖れもありますが、能でなければできない仕事なのではないかと思います。心して舞台に臨みたいと思います。


新作能「斎王」について



井上内親王は聖武天皇の第一皇女で光仁天皇の皇后となりましたが、政争に破れる形で非業の死を遂げ、その後の災厄が祟りによるものとされました。御霊神社に祀られ鎮められた御霊ですが、千三百年祭にあたり、今の日本の窮状を助けていただこうと思います。何故、四十代半ばでの皇太子出産が可能だったのか、何故、皇太子と同じ日に亡くなったのか、これらの疑問に応える形で、出産、子育ての守り神としての姿を舞台で再現したいと思います。

中所宜夫


会場が非常に狭く、百五十席がいっぱいの見所です。
ご希望の方はお早めにお申し込みください。

2017年6月4日日曜日

『弱法師』物語〜〜慶昌寺花まつり能楽らいぶの為に〜〜

本日は恒例となりました花まつり能楽らいぶにお越し下さり有難うございます。今年は『弱法師』と云う曲を取り上げて、一曲を通して見て頂こうと思います。
さてこの弱法師と云う曲ですが、多くの物語を秘めている曲で、今日は私の思いついた物語を皆さまにお話しして、その後で一曲を通して演る事に致します。

先づ粗筋をご紹介しましょう。
摂津國高安の里の高安通俊が登場し、さる人の讒言で追い出した子の安楽を供養する為に、天王寺で七日間の施行をすると語ります。
次に盲目の少年が登場し、身の上を語ります。
出で入りの月を見ざれば
明け暮れの
夜の境を得ぞ知らぬ
難波の海の底ひなく
深き思ひを人や知る
此処で少し不思議な事を言い出します。
それ鴛鴦の衾の下には
立ち去る思いを悲しみ
比目の枕の上には
波を隔つる愁ひあり
鴛鴦も比目も仲の良い夫婦の象徴です。この後も「鳥や魚でさえそうであるのに、心あるように見える人間に生まれても、何かが私たち夫婦を引き裂いてしまうのではないかと、不安でつらい年月を送って来ました。」と続きます。盲目の少年と言いましたが、どうやらこの人には奥さんがいるようです。実際この曲が作られた当時は妻役のツレが登場したようです。
さてこの人、「讒言によって不孝の罪を着せられ、色々思い悩むうち眼を患い盲目となってしまいました。死んでから行くはずの幽冥界に似た暗闇を、生きながらさ迷っているのです。」と嘆くのですが、その様な逆境の中、「本来人の心には闇などなく、例えば玄宗皇帝に楊貴妃との不義を疑われた一行阿闍梨が果羅國へ流され、暗闇の道を抜けなければならなかった時には、九曜の曼荼羅が光を放って行先を照らしたと聞いています。」と佛道に救いを求めています。天王寺西門の石の鳥居に行き当たり禮拝したりしながら、雑踏の中を施行の場所にやって来ます。
通俊は弱法師に「や!ここに施行を受けに来たのは、ひょっとしてあの弱法師と言う者かな」と声をかけます。当時盲人が杖をつきながら天王寺の縁起を曲舞に舞う、弱法師と言う人々が話題になっていた様です。一方弱法師は軽妙に受け答え、通俊をやり込める一幕もあります。梅の花が散りかかるのも天からの施行の様だと感嘆しながら、通俊は弱法師に炊き出しを与えます。
誤ちを悔いて施しをする者、運命から盲目となりながらも理知を失わず勤めを果たす者、二人を祝福する様に梅が散りかかります。美しい場面です。
続いて天王寺縁起の曲舞が弱法師によって語られます。鐘の音が響きわたると、人々の信心が満たされ、辺りの情景が皆佛様の化現の様に輝いています。
その時突如として通俊は目の前の弱法師が、自分の子どもである事に気がつきます。此処で直ぐに名乗らないところが能の常道なのですが、「人目も流石」と言う事で「さあ、日想観を拝んで下さい。」と声をかけます。
日想観・・・。謎です。唐突です。
先づ仏道の行法として、入日を思いながら観想する方法があるそうなのです。天王寺固有の行法と言う話もあります。また、盲目の弱法師の芸の一つとして「日想観の狂い舞」と言う演目があったのかも知れません。
兎に角日想観はやがて一頻りの狂い舞となり、「思えば恥ずかしい事。もう狂うのは止めにしよう。」と、弱法師が舞い収めた時には、すっかり夜になって、人もいなくなっていました。遂に通俊は声をかけ、お互いに名乗りをして再会を果たします。鐘の音が再び二人を祝福する様に響き、夜が明けないうちに此処を離れましょうと、二人は連れ立って高安の里へ帰って行きます。
以上、大変長くなりましたが、『弱法師』の粗筋でした。

さて『弱法師』の作者と目されるのは観世十郎元雅と言う人です。一般的には世阿弥の長男とされています。此処から先は私の創作した物語です。学問的な裏付けは特にありません。

世阿弥の後を引き継いで観世大夫となった十郎元雅ですが、実は彼には兄がおり、元々はその兄が世阿弥の後を継ぐはずの人でした。その名を七郎元能(もとよし)と言います。
芸もそこそこに優れていた元能ですが、その傾向は演技を抑制し、スリ足を基本とする舞の美しさを目指す、玄人好みなものでした。その一方、何より創作の才は並外れていて、多くの優れた作品を作っています。後代世阿弥の作品と伝えられたものの中には、この人の手になるものが案外多いのです。
世阿弥の後継者としては、もう一人少し年長の三郎元重がいました。彼は役者としては七郎に勝る花を持っていて、技のキレや、演技力、そして舞の華やかさ等では抜きん出た存在でした。
しかし元重は創作では元能に及ばず、子どもの時には二人並んで世阿弥から作品作りを指導されたにも拘らず、役者として名を上げてからは全く曲作りをしていません。
元能には幼い頃からの恋仲の娘がおりました。とても美しい娘で、二人の仲を知りながら、この娘に想いを寄せる者も少なからずおりました。その中に、仏門にありながら、身分高い生まれを誇り、恣意を押し通そうとする一人の僧がおりました。名前を義円と言います。
義円は室町幕府の三代将軍義満の子です。優れた頭脳を持っていましたが、容貌に難があり、長男で義満の後を受けて四代将軍となった義持や、四男で一旦は出家したものの父に愛され還俗して華々しく活躍する義嗣を、嫉視しながら年月を重ねていました。
田楽や猿楽に限らず芸能を好んだ義円は、元能の幼馴染であり、曲舞の優れた舞手として注目を集め始めた件の娘を何かの折に見知り、出家の身ながら恋慕を寄せます。
義円は多くの芸能者を観て回り、世阿弥の舞台を特に高く評価しており、その後継者たちにも目を配っていました。父義満が、田楽の亀阿弥や観阿弥、さらには近江猿楽の犬王道阿弥を見出して、彼らを育てたのと同様に、政治の世界に出られない彼は、芸能の世界で自らの存在を示そうとしていたのです。
三郎元重、七郎元能、どちらも優れた才能と観ていた義円でしたが、その好みは圧倒的に華やかな芸風の元重に傾いていました。世阿弥が元重よりも元能に重きを置いている事に、常々不満を抱いていた義円は、何かと元重に肩入れしていましたが、自分の想いを寄せた娘が元能と恋仲である事を知ると、元重に働きかけて娘と元能の仲を裂こうとします。
実際にどんな事があったのでしょう。義円と元重は、世阿弥に元能の非道を訴え、世阿弥はこれを信じて元能を一座から放擲します。
世阿弥が真実に気づき、元能を探し出した時には、元能は眼を患い、完全ではなかったとは思いますが、視力の大半を失っていました。世阿弥の後継者として一座を率いて行くには難しい状態です。世阿弥は義円を深く恨み、それに加担した元重を責めました。
折しも五代将軍義量が、将軍就任僅か二年の十八歳で亡くなると、大御所として政治の実権を握っていた義持は、次代の将軍を決めかねた様子で、一年二年と年が流れ、各有力大名たちは自分の息のかかった者を将軍に据えようと躍起になって活動を始めます。その中には義円も含まれています。
世阿弥はこの事態を憂慮しました。ただでさえ芸能界に影響力を持っている義円を敵に回している現状の上に、もし義円が次期将軍にでもなってしまったら一座ごと破滅への道が待っています。義満に嫌われて破滅した芸能者たちを、実際に目にしていた世阿弥にとって、これは大袈裟な話ではありませんでした。
過ちを犯したとはいえ、世阿弥にとって元重は、自分の芸を継ぐ後継者である事には変わりません。元重とて世阿弥に意趣がある訳ではなく、子どもの頃から芸を研鑽して来た元能を、不自由な身体にしてしまった事には、殊更深い負い目を抱いていました。
元重は世阿弥に呼び出されて話を聞かされます。
「この先もし義円が将軍になる様な事になれば、観阿弥から受け継いで来た大和猿楽の芸が廃れてしまう事にもなりかねない。三郎は一座を離れて義円の下に庇護を乞いなさい。幸い十郎元雅は、まだ年少だけれども、芸にも創作にも頭角を現わして来ている。お前には教える程の事は伝えた。これからは十郎を育てる事にこの後の命を使おうと思う。」
元重は不本意ながら、この世阿弥の言葉に従います。

一方、世阿弥の元に戻った元能は、奈良の結崎座に移り、一座の子どもや若手の役者たちに稽古をつけたり、作品を創作したりしていました。中でも弟の十郎元雅は、役者としても非凡な才を示し、創作についても指導する元能が感心する程のものを作っていました。
ある日元雅が自分の作品を元能に謡って聞かせました。天王寺で日想観の狂い舞をする弱法師は、紛れもなく自分の姿です。描かれている自分のすがたは些か面映ゆいものの、狂い舞の言葉の美しさ、音曲の巧みさ、劇的な面白さ、どれも第一級の出来栄えで、観世座後継者としての元雅の器量を十分に示したものでした。
「しかし、これは危うい。あまりにも義円の横暴をあからさまに指し示している。
この話を今流行りの俊徳丸の物語に移し変えてはどうだろう。ワキの天王寺の僧の傍に、施行主然として高安通俊を座らせておいて、最後の最後に名乗りをする、観ている人はあの俊徳丸の物語だったと種証しをされる事になる。
弱法師が、興行主の横暴から恋人と別れ別れとなる部分は、『砧』で使った鴛鴦と比目の成句を持って来よう。中国の故事に、宋の康王が仲の良い夫婦を引き裂いた物語がある。でも鴛鴦は普通に仲の良い夫婦の例えだし、其処まで思う人はそう多くはないだろう。ツレの女を出すのもやめた方が良い。
そして世阿弥の作った天王寺縁起の曲舞を入れればより重厚な体裁になる。」

以上、私の思う『弱法師』誕生の物語です。世阿弥はこの作品を手ずから書き留めています。処でこの作品は最初にお話しました現行の『弱法師』とは違っています。世阿弥自筆本は、確かに残されていますが、現行版に比べると、誰だかわからない通俊が最初から舞台に登場していたり、最後の種明しの仕掛けが、二度目の観客には通用しないなどの不備があって、実際にはそれ程上演されなかったのではないでしょうか。いつの頃か、その詞章の美しさを惜しんで、誰かが現行の仕立てに改作したのだと思います。

2017年5月11日木曜日

演能のお知らせ 『賀茂』


九皐会六月例会にて『賀茂』を致します。

この曲は後に別雷神(わけいかづちのかみ)となって烈しく動きますので、若手が演じることが多いのですが、神物としての品格や物語の背景の奥行きなど、漸くこの年になって見えて来たこともあり、平成八年の初演以来、二度目の舞台に臨みたいと思います。


作者は、世阿弥の娘婿で優れた作品を多数創作した金春禅竹です。賀茂氏の氏神を金春の祖である秦氏に関連して語るなど、創作の意図には裏がありそうです。
ワキに播州室の明神の神職を配したのも、播磨の守護で将軍義教を暗殺した、赤松氏と大和猿楽との関係を匂わせます。

その意図を拝察しつつ、曲の構成に忠実に、神物らしい勢いと別雷神の躍動する力を、舞台に実現したいと思います。


どうか初夏の一日、矢来能楽堂にお出まし下さい。


2017年1月21日土曜日

近代という病

昨日ある方と話していて、ちょっと驚いた事を聞きました。そして、なるほどそうだろうなと腑に落ちました。能に関係したお話ですが、能に限らず、しかしまさに能がそのことを象徴している、というお話しです。

江戸時代までの意匠・文様などでは、例えば向い鶴などの絵柄があると、必ず片方が口を広げ、片方は口を閉じていたのだけれど、明治以降ではそれが崩れて来て、今では両方とも口を閉じているのが殆どなのだそうです。言うまでもなく、口を開いているのが阿型で閉じているのが吽型であり、サンスクリットの最初の文字と最後の文字、則ち森羅万象がそこに包摂されているわけです。江戸以前は、文様を使用する場合その背後にある意味を承知していて、それを託したので、そういう些細な部分も決してゆるがせにしなかったのに対し、明治以降文様は単なるデザインに過ぎなくなり、見た目の面白さだけで細かなところはどうでも良くなってしまったというわけです。
しかもそれは日本だけの話ではないと言うのです。つまり産業革命以降近代が進むにつれその傾向が顕著になるとのこと。文様の意味などと言うものは、要するに呪術であり、近代以前のものであると言うことなのでしょう。

私が私淑する哲学者の井筒俊彦さんに依れば、空海は「世界は文字で出来ている」と言っているのだそうです。この場合の「文字」はもちろん私たちが言葉を表すのに使用する決まった形の文字だけでなく、全ての「もの」にはその物質的な側面と、それが意味する象徴的な側面が備わっている、と言うことなのだと思います。文様も言葉もその背後に或る象徴を包摂していると言う意味で、空海は両者を同じものだと言っているわけです。

さて近代が文様の象徴を無視し始めたと言うことは、最近になって言葉が空疎になって来ていることと繋っているのではないでしょうか。本来意味や象徴で満ち溢れているはずの世界がどんどん希薄になっている。それが人間にとって歓迎すべきものとはどうしても考えられません。

言葉が空疎になっていると言うことは、表現の上にも影響しているような気がします。「悲しい」と言えばそれで十分であるのに、悲しさを表現するために大袈裟な身振りをしたり声色を使ったりするのも、そういうことなのかも知れません。能ではそういう表面的な表現を本来嫌っていたように思うのですが、最近ではそれでは見所に伝わらないからと色々工夫しているわけです。しかしその工夫と言うものに、うっかりすると本来の言葉の力を蔑ろにする落とし穴が潜んでいるのかも知れません。

2017年1月19日木曜日

演能のご案内

演能のご案内を申し上げます


二月五日(日)鶴亀 緑泉会例会 於 目黒・喜多能楽堂

朝廷の初春の祝賀の席に、臣下が居並び帝の徳を賛え、吉兆の鶴と亀が舞を舞い、続けて帝自らが荘厳に舞います。


 謡の入門曲として親しまれている鶴亀ですが、演能の頻度はそれ程高くありません。劇性の全くない曲のため、面白さに欠けることは否定できません。また登場人物が皆、直面(ひためん。能面を用ず、自分の顔をそのまま面とする)なので、能面の力に縋ることもできません。しかしこのような曲にこそ、能の本当の力が凝縮されているのです。
 能舞台から発せられる波動は、寿福を施す恵みとなり、同席する人々に幸せと健やかさを与えます。能の舞には人知の及ばない領域から、自然の力を引き出してくる力があるのです。映像では伝わらないその力こそが、能の能たる所以だと私は常々考えています。
 装束は今回も山口能装束研究所の復原装束を拝借します。江戸時代の武士が精力を注ぎ込んだ美の品格をお楽しみ下さい。
 しかも今回は鶴と亀に適役を得ました。長らくお稽古に通ってくれている、松浦薫君と航君の兄弟です。能が大好きな二人と私との舞の競演を、是非とも能舞台見所で直接味わってみてください。