2015年2月28日土曜日

『kuu:』と言う情報誌に「能の伝承」と言う文章を書きました

曹洞宗の情報誌より依頼されて、「能の伝承」について書きました。以下、編集の方がもう少し読み易くして下さっていますが、ここには私の生原稿を掲載します。
























 能の師弟関係と言っても、それこそ師も様々、弟子も様々で、類型化して語るのは殆ど不可能です。しかし現在能に携わっている人たちに一つ言える事は、後継者の育成を何より大切に考えていると言う事です。七百年に及ばんとする能の歴史の突端に危うく立って、先人の修練の累積を思い、「今」と言う断崖絶壁に新たな歴史を刻もうとする時、そしてその自らの携る芸道に誇りを持って未来を思うならば、後に続く人材の育成は、一つの舞台に心血を注いで素晴しい成果を上げる事と、同等以上の重さを以って評価される事なのです。
 能は、江戸時代に武士の式楽となりましたので、「封建的」と言う言葉と共に、子弟の教育に関しては、閉鎖的で頑迷であると思っている方が多いのではないでしょうか。何よりも世襲が重視され、家の子は否応なくその道に進むことを義務付けられ、また世襲以外の家の者は低く見られて格段の差別をつけられるのではないかと。そんな側面が全くないとは言えませんが、世間の人が思っているよりももっと実利的に開かれた側面もあります。想像してみて欲しいのですが、先祖から受け継ぐものを子供や弟子に伝えようとする時、厳しくはあっても、注ぐ愛情や、養育に当たっての心配りは相当に細やかなものになるのは至極当然の事です。

 世阿弥が観阿弥の教えを纏めたと言う『風姿花伝』の最初は、有名な「年来稽古条々」です。ここに「七歳」「十二三より」「十七八より」「二十四五」「三十四五」「四十四五」「五十有余」と項立てをして細々と書かれている事は、教育や修身の手本として、今では広く知られる様になりました。その内容に触れれば能がその成立当初より、伝承に重きを置いていた事が分ります。師から弟子へ伝えられた数々の言葉は、観阿弥から世阿弥への教えであるばかりでなく、世阿弥からその弟子たちへの教えでもあります。因みにここに記された年齢は当然数え年ですから、現在の満年齢にすれば一歳か二歳下と言うことになります。
 「七歳」は五六歳で、今で言えば就学前です。その頃に稽古を始めるのですが、何より子供の好きな様にやらせなさい、色々やる中に必ずその子の得意なものがあるはずで、またあまり細々した事を教えたり、強く叱ったりしては、能が嫌になってしまうから、気をつけなさいとしています。
 「十二三より」は、今の小学三四年生ぐらい。子方の完成の時期で、とにかくこの頃は伸び伸びやれば宜しいとしています。ただ一つ気をつけるのは、この頃の成功は決して「真の花」ではない事を充分心得ておく事です。テレビなどで、達者な子役が良い役者にならないのもこれですね。
 「十七八より」は、今で言う思春期の頃。何より「この頃は、また、あまりの大事にて、稽古多からず」と冒頭に書かれていて、この年頃の重要さを認識している事が素晴しいと思います。声変りして身体も急速に大きくなり、精神的にも不安定になる。思春期などと言う言葉がなくとも、世阿弥(観阿弥)は後継者を育成する観点から、当然のようにこの年頃の難しさを認識していました。この時期を乗り越えるのは、ただ本人の覚悟です。「心中には願力を起こして、一期の境ここなりと、生涯にかけて能を捨てぬより外は、稽古あるべからず。」少し表現が独特ですが、要するに、一生これでやって行くのだと覚悟を決めない限り、稽古しても仕方がない、と言う事でしょうか。また最後に、声の調子は出し易い高さで謡えば良いのであって、無理な声を出すと、「身形に癖出で」来て、「声も年寄りて損ずる相なり。」と退けています。
 そうして稽古して行けば「二十四五」まではそのまま真っ直ぐ伸びて行くようですが、そこで少々良い舞台をしたからと言って、それを「真の花」と思ってはいけない、例え名人に勝つ事があっても、それは「一旦珍らしき花なりと思ひ悟りて、いよいよ物まねをも直ぐにし定め、名を得たらん人に、事を細かに問ひて、稽古をいやましにすべし。」と記されています。ここで言う「物まね」は、どうも今の舞台演劇などの演技全般にあたる様です。
 世阿弥は「三十四五」を以って芸の盛りと考えている様です。この頃に「真の花」を究めていなかったならば、四十を過ぎてから芸が落ちる。先に行けば明確なのだけれど、今はそれとは分らないので、相当の舞台を勤め得ても、慢心することなく励む必要があるとの事です。
 ここまでは年齢に沿った稽古心得として、現代においても無条件で得心し得る所でした。さて愈々能の能たる所以でしょうか。「四十四五」から「五十有余」では、年寄って行くのに若やいだ曲などをするのを戒め、そうでない曲でも演技で見せたりするのではなく、ただ淡々と演じる事を勧めています。

 さて『風姿花伝』は世阿弥が観阿弥の教えを記したものです。観阿弥は五十二歳に亡くなっていますから、「年来稽古条々」も五十有余までで終っています。『風姿花伝』は飽くまで伝書であり、一般に公開されたものではありません。その為、例え能楽師であってもその内容は、殆ど知られていませんでした。明治になって吉田東伍博士が安田財閥の蔵からこの伝書を発見するまで、能楽師たちの寄って立つ教育の教科書は存在しなかったのです。しかし、弟子は師匠に教えられたように、弟子に教えるものです。それは細かい内容よりも、教え方に如実に現れる様に思います。例えば就学前の子供にはやりたい様にやらせて、しつこく直しを入れたり、怒ったりしないなどと言う様な事は、もちろん例外もありますが、実際の能の家家に実践されているように思います。これは遠く流祖の観阿弥・世阿弥から、代を重ねる度毎に、教え伝えられて来たのではないでしょうか。

 最後に少し私自身の事を書く事に致しましょう。私は、一般の会社員の子として生まれ、父の趣味に影響される形で能と出会い、大学のクラブ活動を経て、能の世界に飛び込みました。私が入門した観世喜之先生の元には、一門の能楽師の師弟ばかりではなく、私のような学生上りや就職先を辞めて内弟子となった者もいて、一時は六人の内弟子が本拠地の矢来能楽堂に起居しておりました。それを稽古するだけでも大変な事でしたが、師はどの内弟子にも分け隔てなく接して下さり、私は家の者でない事に負い目を感じる事が殆どありませんでした。師の元からは十五人が能楽師となって、現在盛んに活動しています。
 また、小学生の頃から私の下で謡と仕舞を学んでいた子が、現在は私の後輩として内弟子に入っています。
 現代においては世阿弥の頃のような後継者育成は望むべくもありません。能の家に生まれても、学校の勉強が忙しくて能の稽古ばかりしているわけにはいきません。多くが大学を出て内弟子となります。外の世界から能に入る者と、能の家の者との差は、それ程無くなって来ています。しかし、その様な状況の中でも、やはり代々の家の使命を自覚した人たちは素晴しく、その人たちを中心に能はまだまだ伝承されて行くと思います。
 しかし、私たちがこれから迎えようとしている未来は、人類がこれ迄に経験した事のない様な社会かも知れません。私はその危機を乗り越えるのは、能に縋るしかない、と考えています。聊か手前味噌ではありますが、本気でその様に思っています。

2014年12月26日金曜日

語り部の成熟

 縄文の頃に既に大小の共同体が彼方此方に形成され、その中には王と呼ぶに相応しい存在も現れた。その王達の中には血の来歴を誇る者たちも多く、その傍には王の出自、即ち支配の正当性を民衆に語り聞かせる語り部たちがいた。
  語り部は専門職であり、伝承の為、行動を制限されていた。食は王からは勿論の事、民衆からも与えられたかも知れない。
  語り部は物語りを声を合わせて朗唱する。節を付けて集団でうたう事により、膨大な物語りを幾世代に亘って語り伝える事が可能になった。 
 語り部の語りは、邑の中心の広場でなされる。王の権力の誇示であると同時に、民衆たちにとっても古えの物語りに心震わす楽しみな時であった。 
 或る時この朗唱に歩行動作が加わる。歩きながら声を合わせて朗唱すると、記憶はより確かになる。ところで日本語は母音を平板に並べて行く音律が特徴で、元日本語である縄文の言葉の中に、この特徴を持つ言語の部族が次第に有力になって行った。この朗唱は水平方向の動きを要求する。例えば神懸りした巫女の舞などは上下動を交えた躍動的なものだったかも知れないけれど、この語り部たちの動きはあくまで水平方向に限定されていた。それは朗唱の音律から導き出される動きであり、また、ひと度平らに踏み固められた邑の広場に裸の足裏を擦り付けて歩いてみると、その土地の持つ息吹が身体に通うのを如実に感じ、地霊が語り部の朗唱に手を添えてくれる様な感覚さえ覚えて、忽ち語り部たちを魅了してしまった。 
 これがスリ足の誕生となる。 
 姿勢を整えてスリ足をする。邑の中でも聖なる力に満ちた場所である。語り部たちは朗唱の稽古をする前に、たっぷり時間をかけてスリ足をする様になった。地の気を足裏から身体に吸い上げ、巨木や風の気と交信する。これによって語り部たちは健やかな精神としなやかな身体を獲得する。戦いや狩りに出ない事もあり、他の者に比べて長命な者が多くなった。
  ここで語り部たちの姿を考えて見よう。両手は肘を外に張り、足から頭の天辺まで上体を真っ直ぐに伸ばし、その姿勢を崩さずに歩く。
 (ここで私のイメージに突如現れた物があります。否、まさか、と思いつつ、そう言えば十年位前には良くこのお話しをしていたのです。 
 それは顔より小さな仮面のお話です。世界の仮面劇の中で、能面の様に顔より小さな仮面は少ないのです。仮面劇は大陸にも半島にもあるけれど、顔より小さな仮面は見かけません。猿楽は大陸の芸能に影響されて成立するけれど、顔より小さな仮面の系譜は、この列島にもっと昔からあったのではないかと、そしてその様にお話しする時、私が念頭に置いていたのは仮面土偶でした。) 
 私には一瞬、遮光器土偶のあの奇怪にして崇高な姿が、語り部のものではなかったかと言う幻想が浮かぶ。しかし遮光器土偶はどう見ても女性の姿だ。語り部が女性だったと言う事はあり得るだろうか。勿論否定し去るものではないが、やはり違う。邑のゴミ捨て場に、必ず脚などを打ち欠いて廃棄されている土偶の意味が何であるのか説明されなければ、この魅力的な仮説には無理がある様だ。 
 ともあれ有力な王の元に語り部が組織され、スリ足を基本とする身体技法を駆使して、膨大な物語りを伝承していた。伝承の中には歴史的なものばかりではなく、世界の理を説いた物もあったかも知れない。語り部は知の集積でもあった。
  二人の王が戦えば、勝者は敗者の神話を廃する。語り部たちは殺され、民は下層民に組み入れられる。この時敗れた王の名前は、勝者のものとなる。お前たちの王の名前を受け継いだ私に従え。大国の王は多くの名前を受け継いで行く。その語り部たちは有用な神話を取り込んで、語りは次第に複雑になる。
  語り部も大きな集団になって行き、領土の拡大に連れて分裂して行く。その土地固有の物語りが加わり、物語りは語り部毎に変態する。伝承に幾つもの違いが生まれた。
  さて、国の統合が進み、或る時文字が持ち込まれる。それは大陸から齎されたものであったかも知れないし、そうではないかも知れない。そうではないかも知れないと言うのは、語り部が文字を生み出した可能性もあるからだ。
  当然の事ながら語り部は生きている。おそらく一つの語り部の集団は二三十人単位ではなかったか。そこに何らかの災厄が起こり、過半数の者が死んでしまい、安定した伝承が出来なくなる語り部もあった。特に若い世代を失った語り部集団は、自分たちの語りがやがて失われてしまう事を知る。その時音韻を知り尽くしている彼らが、その音を記号化する事を全く考えなかっただろうか。
  この文字は仲間内の符丁の様なものだ。洞窟に遺された壁画の存在を思えば、記号を印す方法はいくらもあったに違いない。否定しても根強く残る神代文字はこの様なものであったかも知れない。民衆どころか権力者さえもそれと知らず、文字は生み出されていた。
  更に幾世代かが流れうちに、滅んでしまった語り部の遺物たる文字を、語り部が目にすれば、それが言葉を表す記号であると知る。しかしそれに語り部そのものを滅ぼす力のある事を、聡明な者たちは知ったはずだ。文字の存在は禁忌として、しかし周知されて行く。  

2014年12月17日水曜日

語り部の誕生

 先日、スリ足の起源が語り部ではないかと書いてから、語り部について様々に考えています。


 私たちの祖先がまだ文字を持たない頃、恐らくは三万年から一万三千年前の旧石器時代と呼ばれる頃に、自ずから技術の伝承がなされるようになって、知の蓄積が始まった。そしてその頃にも当然個体差はあるはずなので、人による得手不得手は当然あり、ある人は道具作りに秀で、ある人は道具を持って野山を駆け巡ってこれを使うのに秀で、またある人は天地の移り行きを読んで、人々の安全や生産性に資する事に秀でていた。
 その中に言葉に秀でた者がいたであろう事は充分考えられる。自然の移り行きを読んで、これを神の言葉として人々に伝える者もいれば、昔の出来事を語り伝える者もいた。尤も今の私たちはこれらを別々の事と考えるけれど、当時の人たちはその区別をせず、全部一緒くただったに違いない。ただ恐らくは、正しく語る者は尊ばれ、誤って語る者は排斥されただろう。さらに沢山語る者は人々の賞賛を得て、多くの富を得たかも知れない。
 正しい事を沢山語る者。
 その成功の元に人は集まり、その技術を伝える者たちが形成されて行く。即ちこれが語り部の萌芽である。
 ところで、権力者がこれを放って置くはずがない。
 何時しか人々を束ねて動かし、莫大な富を手中に収める者が現れる。いやいや。そう言う人は途中から現れるのではない。数家族が行動を共にすれば、もうその時には知と勇に優れてこれを導く者は必ずいるはずだ。しかし自らは直接生産する事なく、人を使役して富を得る少数の者たちが現れるのは、もう少し後の事ではないかしらん。
 そう言う権力者の中には、特に知と勇に優れていなくとも、親からこれを受け継ぐ者がいた。その正当性を使役される人々に納得させる為に、語り部は利用される事になる。
 語り部にも魂はあるのだから、悪逆非道な支配者の為に多くを語る事はなく、正道を歩む徳の高い支配者の為に多くを語る、となれば良いけれど、昔だからと言って世の中はそうそう単純な物でもあるまい。自らの仕える主人が敗れた時、勝利者を讃えなければ、恐らく語り部は殺されるのだ。生き残る為には内容を変えなければ。
 古い物語りは語り変えられ、善であったはずの者が悪になり、人であった者が鬼になる。
 年を重ね、やがて王が登場する頃には、物語は膨大な量になる。語り部たちは、世界の創造から、今の王までの一直線の物語りを語り出す。
 王様は神から連なる正当な支配者なので、大変偉大な存在なのです。皆さん。讃えましょうね。
 しかし、この膨大な物語りを語り部たちは如何にして語り伝えたのだろうか。そうそう。「語り部たち」と言っている様に、集団である事は間違いない。現代の私たちがうっかりすると考えてしまう、優れた記憶力を持つ特殊な個人の集まりではない。
 もう一度「正しい事を沢山語る」語り部の萌芽に立ち戻ってみよう。
 その語り部の元に、成功に与ろうとして、何人かの人が集まって来る。丁度落語家の元に弟子が集まって一言づつを鸚鵡返しに伝授され、一つの話しを覚えて行く様に。
 文字を持たない頃、人は何でも覚えていた。だからお祖父さんが昔語りを語るみたいに語る事位なら、大抵の事は何回か聞けば覚えてしまった事だろう。それでも人間の記憶の特質として、その内容は屡々変わって行く。何世代にも亘って、膨大な事柄を同じ様に語り伝える事は、多分出来ない。
 「我が先祖の歴史を語り伝えよ」と命じられた語り部たちは、大勢で声を合わせて朗唱する。その部族の者達は生まれた時から朗唱の響きの中で成長する。狩りや漁などに出て事故で死んだりしては、貴重な物語りが失われてしまう。語り部たちは王に養われ、集団での外出や移動は禁じられ、安全で安定した場所に生活を送る。
 王の権力を誇示する時の儀式には、語り部の主要な者達が出掛けて行く。安定した王権であるならば、部落には第二部隊と老人に女子供が残っている。もし出掛けて行った第一部隊に変事があっても、語りは失われない。こうなると愈々語り部は知の集積機関としての機能を発揮し始める。
 恐らく日本ならば縄文時代と呼ばれる頃には、有力な王の元には語り部がいたに違いない。

 長くなりましたので、語り部のその後については、また改めて。

2014年12月1日月曜日

混迷の歳の暮に『光の素足』



12月23日に愛知県日進市で能楽らいぶ『光の素足』を致します。

『光の素足』については検索して頂ければ多くの記事がありますが、以下の二つは詳細に論じて下さっている大変素晴らしい記事です。


この会は日進市の町興しに、文化面からアプローチして行こうと言う、地元のボランティア団体によるもので、手作り感満載の催しです。日進市は名古屋市の東側に隣接し、豊田市へ通じる中間点に位置します。名古屋の衛星都市としての新しい町と、伝統的な行事や地縁を重視しての魅力ある旧い街とが混在しています。私の住むあきる野市とも少し似ています。

その地でご縁を得た方が中心となって、能楽らいぶを是非日進で、とのお話を頂戴しました。

ブログでのご案内が遅くなってしまいましたが、お近くの方は是非お出掛け下さい。

今回の「能楽らいぶ」は、特別に装束と能面を付けます。これは主催の皆様の熱意に応える形で実現しました。

12月23日と言えば既に選挙も終わり、どの様な社会情勢になっているのか想像も出来ませんが、その様な時にこそ、この『光の素足』を観て頂きたいと思います。

吹雪に弟を死なせてしまった兄の苦しみは、「生き残りの罪悪感」を持つ全ての人に共通のものです。宮澤賢治さんの言葉は、その苦しみに寄り添って私たちを勇気付けてくれます。


2014年11月21日金曜日

ある仮説・スリ足の起源

 豊橋の会での講演に於いて、ゲストの内田樹さんがスリ足の起源について軽く触れられたのですが、その後のメールのやり取りの中で、面白い仮説が生まれましたのでここに纏めてみます。


 お話は豊橋のレポートから入ります。
『中尊』公演に続いて、今回のゲストである内田樹さんの講演となり、その途中から安田登さんを司会にお願いしての対談となりました。
 内田さんのお話で印象深かったのは、日本の中世に成立した「能」と「禅」と「武」の三つが、何れも身体を整える事によって人の外にある強大な力を利用する技術であると言うものです。私は能ばかり見ていて、「スリ足は瞑想と似ている」とか、「能の身体運用は武道に通じる」とか、殆ど同じような事を考えているのですが、やはり能が中心に重く、三つを等しく並べる視点はありませんでした。そうするとまた違う一面が見えて来るのが面白いですね。
 対談では、海洋民と狩猟民の争いで能は常に海洋民の側についている事、また、能の中に農民の姿が描かれていない事など、興味深いお話が出て来ました。その辺りを的確に纏められると良いのですが、どうも私は新しい興味が起こると、其方に惹かれてしまうのです。此処ではその後の内田さんとのメールの中で、突如浮かんだスリ足の起源について書きます。

 抑もは内田さんが講演の中で、スリ足について軽く触れ、その起源について、武智鉄二が深田耕作説を言い、安田登さんは「反閇(へんばい)」ではないかと言っている旨をお話されたのです。私自身は宗教的な行法としての起源を考えていましたので、どちらかと言うと安田説に近い、しかし、反閇がどの様なものか知りません。検索によれば格式高い神事での特殊な歩行法です。「禹歩」とも言い、古い起源が書かれていますが、どうも私にはピンと来ません。
 私がスリ足の起源を行法にあると考えたのは、私が学んだ気功法の中に歩行法があり、これがスリ足に著しく近似している事が、発端にあります。三十代後半から五年程だったでしょうか、気功と言うものがそろそろ認知され始めた頃、薛永斌先生について無極静功を学びました。高々五六年の事ですので、一層深い所は分かりませんが、一通りの事は教えて頂きました。薛先生も能をご覧になって、能の動きが気功法そのものである事に驚かれ、その上で「スリ足で足先を上げるのは、大変強い。表現としては良いけれど、養生法としては強過ぎる。」と言う様な事をお話なさっていました。薛先生の表演は大変美しくかつ力強いものでした。今私が舞を教える時に口にする様々の事は、この時の学びに大きな影響を受けています。
 スリ足をする事で身体の内部の気の流れが整い、さらに身体の外にある気の流れをも取り込んで、動かずとも強い表現が可能になる訳です。それ故私は、スリ足の起源を宗教的な行法に求めたのです。

 と、ここまでの様な事を内田さんへのメールに書いていた時、突然一つのビジョンが浮かびました。それは、スリ足をしながら朗唱をする「語り部」たちの姿です。
 まだ文字を持たなかった頃、共同体の中に自らの歴史を語り伝える「語り部」がいました。共同体が大きくなるにつれて語り部の語らなければならない物語は、膨大な量になって行きます。それこそ朝から夜まで何日かかっても語り尽くせない程。しかもその物語を次の世代へ伝承して行かなければなりません。従って語り部が一人である事はあり得ません。集団で朗唱して皆で覚え、皆でそれを再生します。皆で朗唱するには節をつけて歌うようにします。集団はあらゆる世代で構成され、その内容は次の世代へ引き継がれて行きます。
 これまで私が思い描いていた語り部たちの姿はこのようなものでした。ここに集団での朗唱に動きが加わります。歩きながら朗唱し、覚え、再生する語り部たち。
 これは能の伝承にも関わって来る事ですが、私たち能楽師は舞台上で本を見る事が出来ません。シテのみならず、地謡や後見、囃子方に至るまで、演能に参加している者は皆、全て暗記して舞台に臨んでいます。しかし、そこは人間ですから間違いもあれば次の謡が分からないで絶句してしまう事もあります。その様な事故が一番多いのは、動かずに正座して一曲を謡う素謡の時で、それに囃子が加わると随分事故は少なくなり、舞の動きが入ると、再生はより確実なものになって行きます。覚える要素が多い程覚えられ、再生も確実になるのです。逆に謡ではなく、その詞章だけを言葉に出来る能楽師はほとんどいないと思います。頭の中で謡を謡いながら言葉を繋げて行くのですが、少なくとも私にはそんな芸当は出来ません。
 何で読んだか覚えていませんが、文字と言う物が誕生した時、これは人間の記憶力を駄目にする有害なものだと排斥した人がいて、それが他ならぬソクラテスなのだそうです。文字がない頃の人間の記憶力というものは、おそらく現代人の想像など遠く及ばないのではないでしょうか。但し語り部の様に大量の物語を確実に一字一句違えず表現するためには、やはり特別な技術が必要とされ、語り部の一族はその技術を代々伝えていたのだと思います。
 また、歩くことが記憶する為に非常に有効であるという事は、私たち能楽師のみならず、覚えて演じる事を常としている人たちは皆認めてくれるだろうと思います。

 さて、ここからが問題ですが、歩きながら声を合わせて朗唱する時、朗唱の音律はその言語固有の動きを要求するはずです。そして日本語の音律は、その歩きに水平方向の動きを要求するのです。私の知る限り、音の繋がりが日本語程平板に繋がって行く言語はないように思います。
 それがスリ足が外国ではほとんど見られず、日本に固有の歩行法である所以です。しかもその歩行法は身体運用法としても内気を養生する効果が大きく、様々の武術に取り入れられています。語り部と言うと、神経質で繊細な老人と言う印象があるかも知れませんが、それはこれから改められるべきでしょう。歩行を中心として身体表現も交え、全身を使って記憶し、朗唱する集団で、しかもそれが皆「気の達人」の様な人々なのです。当然この集団の人々は長生きな人が多い、と言うそんな新しい語り部像が浮かんで来ます。

 無文字社会も後半になると共同体はかなり大きなものとなり、場合によっては「クニ」と呼んで差し支えないものもあったと思います。そのクニが争って、一方が他方を滅ぼしてしまった場合、滅ぼされたクニの語り部たちは、新しい支配者たちにとっては不都合な神話と歴史を語る者たちですので、多くは殺されてしまったのではないでしょうか。しかし、その技術を伝承する者たちを根こそぎにするのは難しく、必ず地下に潜って生き延びる者がいたはずです。そして王権が次第に確立して行く陰で、虐げられた人々の中にそういう人々も含まれていて、長い年月の後、その様な人々が芸能民となって中世の頃に登場して来るのではないでしょうか。

 さて如何でしょうか。スリ足の語り部起源説。私は結構行けるのではないかと一人悦に入っているのですが、、、。


2014年11月18日火曜日

『中尊』始末記

11月13日豊橋芸術劇場での第八回吉田城薪能・能楽らいぶ『中尊』は、お陰様で無事?終了しました。主催のNPO法人三河三座の皆様、共演の皆様、会場にお運び下さいました観客の皆様、そしてブログ読者などネット上で応援して下さった皆様に厚く御禮申し上げます。


 ステージに能舞台に模して化粧板を並べ、周りに笹をあしらいました。鏡板には、老い松ならぬ蓮の華。これは今年三月、イーハトーブプロジェクトin京都・法然院での能楽らいぶの時に、秩父在住のガハクが、『中尊』に共感して制作して下さった銅版画が元になっています。主催者からこれを背景にしたいと聞いて、そんな事が出来るのかと、大変楽しみにしていました。舞台設営の段階から現場に押し掛けてその威風に触れ、少々興奮しつつ、愈々午後には『中尊』の出演者が揃いました。
 最初に「無事?」と書きましたが、実はらいぶ本番に向けて、私には一抹の不安がありました。ここのところ私の喉は常に重く、声の出にくい状態が続いていましたが、数日前から深刻な状況となり、二日前には殆ど声が出ない様になってしまいました。こう言う事は大分以前には時々ありましたが、ここ数年は発声の仕方も変わり、ここ迄酷くなるのは滅多にない事でした。それが前日に名古屋市内の小学校での特別授業では、大丈夫だったのです。ですから「まぁ何とかなるだろう」と臨んだのですが、豈図らんやリハーサルをしてみると、何とも頼りない有様で、共演の観世喜正師からマイクの使用を勧められる始末。躊躇する気持ちもあったのですが、素直に従って正解でした。本番では時を追うごとに声は出なくなり、最後は息が通って行く中に微かな振動が響くばかりと言う有様でした。
 以前の私でしたら大舞台にそうなってしまった慙愧に苛まれたと思いますが、そこは多少年を重ねて図々しくなった様で、今日のこの日にこんな声になるのは、この舞台がこう言う声を要求しているのだと思い定めて、演じる事にしました。ワキを勤めて下さった安田登さんも、舞台で聞いていて、そう言う感想を持たれたとの事で、公演後に「能は演者の生身を奪い取る事で成立する」と言うような事をツイートされていました。公演後一週間が経ちましたが、未だ剥ぎ取られた生身を完全には回復していません。大小様々の舞台が次々と迫って来る中、現在はリハビリに努めています。

 さて、余り本質的ではない話を長々としてしまいました。それではらいぶは失敗だったのかと言うと、どうもそうでもないようです。本来これは見て下さった方々の評を仰ぎたいところですが、ワキの安田さんが態々良かったと言って下さいましたし、打上げの席での主催の皆様の雰囲気も悪くありませんでした。また演能中は、見所の皆様が舞台を見詰めるエネルギーを感じていました。舞台として一応成立していたのだと思います。
 前半の山場、シテの女が身の上を長々と語る場面では、未だ声の響きとして自分に返って来ていたのが、地霊が憑依する辺りになると、身体の表面的な部分では殆ど響かなくなっていました。そして〈舞〉の後では、今となっては何処で振動していたのかわからない微かな響きが、兎に角息を深く通すのだと格闘する身体の何処からかやって来て、「いよいよ地獄とや言わん、虚無とや言わん。ただ滅亡の世迫るを待つのみか。」と言う、言葉を何とか届ける事が出来たのだと思います。
 願わくはこれらの出来事が、今後の舞台に資するものとならむことを。

 能楽らいぶから能『中尊』公演に向けて、今は未だ具体的なものは何も手にしてはいませんが、兎に角また新たな一歩となった公演でした。
 長くなりましたので、内田樹さんとの対談については、また稿を改めたいと思います。



2014年10月30日木曜日

講演「生き抜くために能に学ぼう」

まだ大分先の話ですが、来年の二月七日(土)午後二時より、相模原市の市民会館で能についての講演を致します。先日会館の方に頼まれて講演のレジュメを書きました。まだまだ先の事なので本当にこう言うお話をするのかどうか少し、心配ではありますが、自分としては、思う処をなかなか上手く纏められたので、ここに宣伝方々載せることにします。



「生き抜くために能に学ぼう」
相模原市民会館より依頼の講演骨子案


能は南北朝の戦乱から生まれ、
戦国時代を経て江戸時代に武士の式楽になりました。

江戸期の武士の精神性を今の私たちは見失っています。
自らを律っして日々を送る武士たちにとって、
己の価値観や美意識を培い、
それを表現するための手段として、
能はなくてはならないものだったと思います。
そして能は江戸中期の文化文政の頃、
一つの確固たる芸術として完成されます。

明治維新で武士が失くなった後も、
到達した美意識の高さ故、
今日まで生きた舞台芸術として命脈を保ち続けています。
しかしそれは残念ながら趣味として楽しみとしての能です。

しかし時代は変りました。
美が余技や趣味であった時代は終り、
この厳しい現実の中で私たちは、
生きる頼りとして美に縋らなければならなくなります。
満たされない経済や社会に対する不満と怒りに支配されて生きて行くのか、
それともその現実を受け入れて美を心の拠り所として生きるのか。

幸いここに能という芸能があります。
これを知ることは今後の生きる糧となると思います。

三・一一の後、石牟礼道子さんの詩「花を奉る」に出会いました。
そして『苦海浄土』を読みました。
日本が水俣に対してして来たことを、
今度は世界が日本に対してする事になると思いました。
今のような日本では早晩滅んでしまいます。
私たちは武士の矜持を学び、
能を学び、
その「美」によってこれからの時代を生きる力とする必要があります。
(以上)



冒頭の写真は、講演とは関係ありませんが、世阿弥の代表作とも言える『井筒』です。
能面は「ある出会いと記憶の不思議」http://nohsyura.blogspot.jp/2014/07/blog-post_9.html
でご紹介した新井達矢氏の「小姫」です。
自分の舞台写真はなかなか気に入ったものがないのですが、
これは面(能では「めん」とは言いません。「おもて」と読んでください。)の美しさを引き出していて、
大変気に入っている一枚です。
『能の裏を読んでみた 隠れていた天才』にも掲載しましたが、
ここでもご紹介します。
写真の撮影は芝田裕之氏です。