2015年12月18日金曜日

『羽衣』を舞います

来春の演能のご案内です。相模湖交流センターで『羽衣』を舞います。最初に作品についてのお話をして、休憩の後に能を舞うと言う企画です。能を舞う前にお話をするなど、本来は避けたいのですが、羽衣は一寸特別なのです。
何がどう特別なのかは当日のお楽しみとして、 以前にも載せた文章ですが、 羽衣のあらすじを再掲します。
ところでこの会場となる相模湖交流センターは、 高尾駅からひと駅ですので、 それ程遠くありません。 是非お出かけ下さい。





〈羽衣のあらすじ〉
 春爛漫。早朝の三保の松原に強い風が吹いて、漁師たちは騒がしい。
 白龍(はくりょう。ワキ)もその中のひとり。白い砂浜に松原が続き、朝霞に月が浮んでいる。風月を愛でるなんて漁師の柄ではないけれど、この景色の美しさには心奪われてしまう。まして西の方から清見ケ関を越えて来て、海を挟んでこの三保の松原を眺めたら、その美しさはとても忘れられるものではない。急に風が変って波が荒くなるように見えるけれど、春にはよくあることで、すぐ穏かになる。
 まだ小舟が多く浦に残っている中、早々と浜に上った白龍は、あたりの異変に気付き、松の枝にかかる美しい衣を見つける。拾って持って行こうとする白龍を呼び留めた美しい女は、自分が天女であることを明かし、その衣がなければ天上界に帰れないのですと、嘆き悲しむ。
 その姿の哀れさ、美しさに打たれた白龍は、天人の舞楽を聞かせてもらう約束をして衣を返す。少し疑う気持ちもあったが、「いや疑いは人間にあり。天に偽りなきものを。」と天女の声がご託宣のように響いて、とても逆らうことなど出来ない。
 衣を身に纏って天女は舞う。〈次第〉から始まり〈クリ〉〈サシ〉〈クセ〉と続く曲舞は、「東遊びの駿河舞。この時や始めなるらん。」と駿河舞の起りを説き起す形で語られて行く。
 「永遠不変の天上界から、陰陽の二神イザナギとイザナミにより十方世界が分かれ、そのひとつの月の宮殿では、白衣の天女と黒衣の天女が十五人づつに分れて、満ち欠けを司る舞を舞っている。その私の舞を今この地に因んで駿河舞と名付けてこの世界に伝えましよう。」
 この三保の松原の春の様子は天上の世界にも劣らない美しさ。そこに天女が舞を舞うと、自然の音も天上の音楽と聞こえ、落日の輝きも命の甦りを暗示しているようだ。
 舞は永遠に続くかのように思われたが、天女の姿は空に上り、地上に祝福を与え、遥か富士の高嶺を目指して姿を消す。
〈あらすじ終り〉


2015年10月15日木曜日

オトダマコトダマ〜阿吽〜

この月を跨ぐ再来週末の催しです。
この作品がどんなものかお話するのはとても難しいのですが、一昨年にくにたち芸術小ホールの企画公演として初演してから、相馬市、豊橋市と舞台を重ね、その度毎に高い評価を頂戴しました。
今回もくにたち芸術小ホールの企画による再演です。これは一昨年の舞台を評価して下さっての事と思います。そして、今回は再演としてのグレードアップを要求されました。
前回は紋付袴での舞でしたが、今回は面装束を着けての舞台になります。地謡も加わって頂く事になりました。
前半の詩人は、私の顔をそのまま面とする、直面(ひためん)で致しますが、後半の精霊をどんな姿で舞うのか、この部分は石牟礼道子さんの詩「花を奉る」を能の形式に仕立てたのですが、なかなか迷う処です。
今現在、一応の心積りは出来ていますが、さてどんな姿となりますか、どうぞ楽しみにして下さい。

2015年8月13日木曜日

『唐船』について

九皐会の八月例会で『唐船』を致しました。

この曲は子方が四人ないし二人必要なため、(今回は年長の子どもの役である唐子は、子方卒業生の大学生と高校生が演じますが、それでもしっかりした二人の子どもがどうしても必要です。)また専用の大掛かりな船の作り物も必需で、劇能としてはなかなか良く出来た面白い曲であるに関わらず、あまり上演されません。『誓願寺』『白鬚』『呉服(くれは)』など、振り返ってみると最近は稀曲が多く、お相手を願う仲間の能楽師には迷惑を掛けています。この曲も、若い頃からずっと子どもの弟子に恵まれて来た中で、兄弟で能が大好きな今回の二人とこの曲をやってみたいと思って選んだ希望曲でした。

しかし、実際にやってみると、私の最近の主題である、観世七郎元能(拙著『能の裏を読んでみた〜〜隠れていた天才〜〜』)の影がこの曲の周辺に色濃く、まるで呼び寄せられたかのように感じています。

兎に角不思議な曲です。その曲想も倭寇を扱った他に類例の無い異相の物ですが、何より不思議なのは、永享2年(1430年)世阿弥の子、観世十郎元雅が心中所願を祈念して吉野山中の天河弁財天で『唐船』を演じ、阿古部尉の面(おもて)を奉納している事です。
尤もこれについては異論があり、元雅が、能面を奉納したのは事実だけれども(現にその旨裏書に書かれている尉面が天河弁財天に伝えられています)、唐船を舞ったと言う記録は何処にも無いから、そんな変わった曲を態々こんな所で舞ったはずは無い、と言うのです。
しかし、変わった曲と感じるのは現代の人間であり、現在通説となっている元雅を取り巻く人間関係では、唐船を舞う必然性が見えて来ない、と言う事なのでしょう。しかし、そう言う伝承があるのは、成る程唐船を奉納する気持ちはよくわかると言う了解事項が周辺にあったからで、よしんば唐船を舞わなかったとしても、十郎元雅を取り巻く人間関係を此処から推し量る事が出来るのではないでしょうか。

〈能『唐船』の内容〉
九州筑紫の箱崎何某(ワキ)が登場し、唐土(もろこし)と日本の間に船の争いがあり、互いに船と人員を収奪している旨を述べる。箱崎某の元には祖慶官人と言う人がいて、十三年に亘り牛馬の世話をさせていると言う。
場面変わり、唐土明州(みょうじゅう)の港から「そんし」と「そゆう」の兄弟(子方またはツレ・唐子)が、別れて十三年になる父の祖慶官人を求めて、船出する。箱崎の浦にやって来た兄弟は領主箱崎某に面会し、宝に代えて父を連れて帰りたいと訴える。
箱崎殿は祖慶官人を放牧に使役しているとは言えず、物詣で留守だと言い繕い、家人に命じて官人には裏から帰るよう指示をする。
また場面変わり、二人の小さな子ども(子方。日本子)と祖慶官人(シテ)が引き縄と鞭を手に、牛馬を放牧している。海際に広がる小高い丘に牧草地があり、松林を風が吹き抜ける中、牛の親子が気持ち良さそうに鳴き交わしている。家畜の世話が辛いと嘆く二人の子供に、官人は七夕の牽牛星の例えをあげたり、秋の花咲く野を一緒に歩く楽しさ等を語り聞かせなどしている。
時に官人の胸には望郷の念が溢れ、唐土に残して来た二人の子供の事が頻りに思い出される。また当地で儲けた目の前の子供二人も可愛くて仕方がない。もしこの二人がいなかったなら、松の枝が雪の重みで折れてしまう様に、この身も悲しみの重さで死んでしまっていたに違いない。
「さてさてそろそろ家に帰るとしよう。」「お父様。住んでいらした唐土でも、こんな風に牛馬を飼っているのですか。」「そうだとも。華山とか桃林などと言う所があって、これは花の名所でもあるのだよ。」「唐土と日本では何方が優れた国なのですか。」「いや、それはとても比べられない。九牛の一毛の例えの様なもんだ。」「そんなに楽しい所なら、さぞ故郷が恋しい事でしょうね。」「いやいや。お前たちが生まれてからは、帰国する事なぞ思いもしないよ」と、親子は話しながら帰って行く。松風の音も遠くなり、間も無く箱崎に戻って来た。
待ち受けていた箱崎殿から、そんし・そゆうの事を聞き、驚く官人は、身ずまいを整えて唐子の二人と対面する。
「これは夢ではなかろうか。もし夢ならば何しろこの地は箱崎と言うのだから、蓋が開く様に夜が明けて終わってしまうかも知れない。」
しかし夢ではない。春宵一刻値千金と言うけれど、子程の宝が他にあろうかと、皆感慨深く見守っている。
箱崎殿とその周りの人々は、唐土と言うのは情の通わない夷(えびす)の国だと聞いていたけれど、こんな孝行な子どもがいるのだなあと、感心頻り。箱崎の神様も受け容れて下さったのだと、父官人は感謝の祈りを捧げる。
そうこうしているうちに西に向かう追風が吹き始めた。船頭がそんしに知らせ、そんしが父官人に知らせ、官人は箱崎殿に暇を乞う。快く帰国を祝う箱崎殿であったが、置いて行かれそうになった日本子の二人が同行を訴えると、二人は此処で生まれたのだから此方の物だとばかりに帰国を許さない。早く船に乗れと急かす唐子の二人と、置いて行かないでと訴える日本子二人に挟まれて困り果てた官人は、子どもたちの為なら命が消えても惜しくはないと、岸壁から身を投げようとする。慌てて四人の子どもが駆け寄って引き留めると、心は弱々と崩れて泣き伏してしまう。
この有様に心を打たれた箱崎殿は、日本子二人の同行を認める。再び箱崎の神に拝礼した官人は、早速四人の子どもと共に入江に碇泊している船に乗り、喜びの舞楽を舞う。
船で奏でられる音楽は唐様の楽。始まりの荘厳な雰囲気に舷を打つ波の音が鼓の如く囃し立てる。官人の船中の舞は次第に興に乗り熱を帯びる。陸から見送る人々が盛んに振る手は追い風となり、船で舞う官人が袖を翻すと、それもまた追風となる。いよいよ船が帆を掲げると、風を孕んで勢いを増し、唐土に向かって帰って行く。
〈終わり〉

この曲の作者として名前の上がっている外山吉広(とびよしひろ)と言う人は、全く謎の人物です。他に作品もありませんし、第一「とび」と呼び習わすのも春日大社庇護の大和猿楽四座、結崎座(観世)円満井座(金春)外山座(宝生)坂戸座(金剛)の外山座関係者と比定した上での事なのでしょうが、外山座の系図の様なものは手元になく、確かめる事が出来ません。
世阿弥作と伝える資料もある様ですが、これは眉唾です。しかし世阿弥作と考えても差支えない作品の出来と思います。また何より謡の詞章に於いて、世阿弥の作品を踏まえた表現が随所に見られ、これは世阿弥と共に演能や創作を手掛けて来た人の手になるものと想像出来ます。
その為、七郎元能に入れ込んでいる私には、外山吉広は観世元能の仮の名前に違いないとも、思われてなりません。

そもそも冒頭に書きました十郎元雅による永享2年の天河での奉納は、七郎元能が『世子六十以後申楽談儀』を著し、出家して一座を離れた直後の事です。
私は七郎元能こそが、本来なら世阿弥を継ぐ人だったのではないかと思っています。将軍義教からの数々の迫害を逃れる為に、彼が一座を去る事がそれなりの重みを持っていたとすれば、また、去るに当たって世阿弥からの教えを一書に記さなければならなかった事を思えば、七郎元能が本来の後継者だったにも関わらず、何らかの事故で身体に障害を負い、太夫を弟の十郎元雅に譲った上に、精神的指導者として一座を纏めていたと考えても良さそうに思います。
義教に贔屓にされている三郎元重の共演者として観世五郎と言う名前があるそうです。今仮に、一方に三郎元重と五郎、もう一方に七郎元能と十郎元雅を置いてみると、年長の二人の上に将軍義教のいる事が、唐船とは異なりますが、唐子と日本子の板挟みで苦しむ祖慶官人の姿が世阿弥その人と見事に重なります。
日本子を取り込もうとする箱崎殿が改心しさえすれば、四人仲良く同舟する事が出来る、即ち義教の恣意の下に引き裂かれる兄弟と親子の復旧、その一事を願って元雅はこの曲を奉納したのではないでしょうか。
そして、そんな都合の良い曲が元々からあった訳ではなく、元より芸道修練にこそ執着し、名前を挙げる事に興味のない元能が、外山吉広の名前を使ってこの曲を創作したのです。

シテが日本子と三人で登場して、もしこの二人の子がいなければ生きてはいられなかっただろうと述懐する場面に「老い木の枝は雪折れて、この身の果ては如何ならむ」と言う言葉がありますが、これなど吉野の山奥にこそ相応しい言葉です。

処で最近、六代将軍足利義教について実は英明で秀れた人物だったと言う再評価をする人がいます。
非常に不安定な幕府の運営を、将軍の独裁を強める事で、安定した平和を築こうとしたと言うのです。そして義教の行為を織田信長に先行するものとして、その先見性を称えています。癖の強い性格はその天才の副作用であると。
井澤元彦氏の『逆説の日本史』でこれを読んだ時は、とても面白いと思ったのですが、その後世阿弥周辺の物語を考えているうちに、やはりこの説には組し難いと感じる様になりました。
『唐船』の詞章に面白い一節があります。若い時に地謡がついて一生懸命覚えた時には、とても面白いとは思えませんでしたが。
唐子と対面なって喜んでいる親子を取り巻く人々の言葉です。
「唐土は心なき夷(えびす)の国と聞きつるに・・」
自尊も此処まで行くと逆立ちしてしまうのか、と呆れるばかりですが、箱崎殿が義教であるならば、独裁者を取り巻く偏狭な国粋主義を思わせて、今のネトウヨを予見しているかの様な一節です。
義教と言う人は、父義満の幻影を追いながら、現状には則さない政策を、強引に推し進めて行った人です。その禍いが現代に降りかかろうとは。


2015年7月6日月曜日

第二回 能楽談儀


今週の土曜日に、八月に九皐会で致します『唐船』についてお話致します。「第二回能楽談儀の会」。7月11日(土)午後2時から、於 くにたち・松陽閣。参加費三千円です。

2015年6月26日金曜日

村松恒平さんのシンクロームについて。そして「啓示」。

六月十四日に『誓願寺』の舞台を終え、次の舞台の案内もしなければいけないのですが、その前に舞台直前に受講した、村松恒平さんのシンクロームのワークショップについて書いて置きたいと思います。早や二週間。随分前の事の様な気がします。



シンクロームは「私」と「体」を分けて考える処から始まります。
しかしこれは考えるまでもなく、皆が身体を意のままにならないものと思っています。別のものと認識した上で、「私」が「私の身体」を制御している、その制御の仕方について考えてみようと言うのが、シンクロームの始まりではないかと思います。

ワークショップは、私たちの認識が如何に世界を限定的に見ているかと言う処から始まり、その限定を解除すると今まで出来なかった事が可能となる事を示唆して、「内臓ダンス」に進みました。
普通私たちは、内臓は制御出来ないと考えていますが、実はそうでもないと教えてくれます。
最初に肺を動かしますが、肺は呼吸によって割と意のままに動かす事の出来る臓器でしょう。それでも普通の呼吸法とは異なり、臓器としての肺の動きを感じる事が出来ました。
 次の肝臓は物言わぬ臓器と言われるそうですが、この肝臓のダンスは驚きでした。目を閉じて言葉に導かれ、音楽を聴いているうちに、肝臓と思しき身体の内部が音楽に合わせて活発に動き始めるではないですか。身体もつられて動き始めているのがわかります。動きを意識していてはとても出来ない様な軽快で複雑なダンスを踊っていました。

「意識」と言うものはなかなかやっかいなもので、身体を駆使する技術を磨くには意識が必要ですが、いつまでも意識が残っていては駄目で、意識せずとも出来るようになってこそ技術として使い物になります。しかし、すっかり身についたはずの技術も、何かの拍子で意識が戻ってくると、途端に危ういものになってしまう事がしばしばあります。

今「意識」と言いましたが、村松さんはこの曖昧な言葉を敢えて避けているようです。代わりに使う言葉は「言葉」です。「私」と「身体」の間にあるものを、イメージ・シンボルとしてそれを「言葉」で動かしてやるのだそうです。肝臓のダンスは当にそれでしょう。

「私」と「身体」の間にあるもの。村松さんはそれを「磁気ボディ」と名づけました。
一粒の種から植物が育つ。一個の受精卵から人間となる。種、卵である段階で既に設計図が出来上がっています。その設計図は何でしょう。普通はDNAだと答えるでしょう。しかし、DNAはその設計図の物質的側面でしかないと村松さんは考えます。磁気ボディにその設計図は描かれています。磁気ボディは、身体=自然と私=言葉とを繋いで影響を与えています。
健康な時、磁気ボディは身体とシンクロしています。このシンクロが破れた時、身体は不調となり病気となります。本来、磁気ボディは身体を良好に保とうとしています。その本来の働きを阻害するものを取り除いてやれば、身体は自然に治ってしまいます。

さてこの「磁気ボディ」です。気功法における「気」とも少しずれています。気は磁気ボディが身体を正常に保つために働かせる道具ということになるでしょうか。気功法の世界では、その効能ばかりが喧伝されて、その背後にあるものに対する理論的な探求が少ないように思えます。いや、むしろその効能が余りにも強力なので、その制御法に忙殺され、その原理については安易に触れるべきではないとしている様に思えます。磁気ボディの考え方からすると、気功法は使い方によっては自分を傷つけてしまうかも知れない非常に強力な道具を正しく使うための方法を、暗闇を手探りで探るようにして獲得してきたということでしょうか。
村松さんのお話の中で非常に印象的だったのは、西洋医学の薬は勿論、漢方も気功法もシンクロームからすれば強過ぎると言う言葉でした。

シンクロームでは身体の不調を回復するために、本来シンクロするはずの磁気ボディと身体との間に詰まっている障害物を取り除く、と言うことをします。具体的には患部に狙いを定めてネジを抜くように手を動かします。実はこの部分が私はよくわからない。何故ネジを抜くのか。「螺旋状のエネルギー」と言う言葉があり、その時点では何となく了解したのですが・・・。

さて、以上のようなまとめを書こうとしていた時に、昨日(平成27年6月25日)村松さんが「啓示」を受けたとのFBへの投稿がありました。以下に全文を掲載します。

【反重力の啓示】
難解であろう啓示を書く。
*
……。
今日、奇妙な啓示があった。
奇妙と書いておくが、既成概念の枠内にあり、位相的にもズレていないものは啓示の名に値しない。
したがってあらゆる啓示は奇妙なのだ。
その啓示は、以下である。
「人の身体は反重力装置だ。解明されている力学の範囲内でもあらゆる創造がなされているが、未知の力学においても完全に反重力のシステムが組み込まれている」
これを証明するには、空中浮遊でもしてみせるしかないが、今のところできそうにない。
まず重力、地球の中心に落ちて行く垂線を正しく感じるところから始めないといけない。
この啓示は、次のような啓示とつながっていた。
「身体は意識が完全に規定する」
意識が変われば身体は変わるということだ。
たとえば、わたしたちは光を感じたい、色を見たいと思って眼を作り出した。
音を聞きたいと思って耳を作り出した。
香りを嗅ぎたいと思って鼻を作り出した。
味わいたいと思って舌を作り出した。
触れたいと思って指を作り出した。
意識自体が直接身体に作用するのではない。
意識は磁気的な偏在を作り出す。
磁気は次第に凝縮し、精度高く組織化されて、磁気の有機体を生み出す。
これをシンクロームでは磁気ボディと呼んでいる。
磁気ボディが物質的な肉体の設計図となり、物質的な要素を引き寄せる。
意識という言葉は多義的だが、これが最も深い定義となる。
磁気ボディは、DNAに先立つ。
DNAは、磁気ボディの可視化、物質化されたインデックス、スイッチボードである。
物質化されることによって新たな便宜が生じたであろうが、本質は磁気ボディにすでにある。
なぜならDNAもまた磁気ボディによって形成される。
逆ではない。
では、「意識を変えれば、身体を変えることができるか?」
当然可能である。
むしろ、「個人史的な時間で可能か、人類史的な時間が必要であろうか?」 と問うほうが実際的であろう。
この問いに答えるためには、
「そもそも意識を変えることは可能か?」
と問わなければならない。
あるいは
「いかにすれば意識を変えることが可能か?」
と問うほうがよりよいかもしれない。
以下の問いのほうがさらによいかもしれない。
「いかにすれば意識を本来のあり方に還すことができるか?」
このような派生的な問いをある程度解明すれば、問うべきは時間ではない、とわかってくるであろう。

実はこの文章を読む前に、私は上でのまとめとして、「磁気ボディは無意識の領域の一番浅い領域で身体を司っているものなのだろうか」と書こうとしていました。しかし、ここには「意識という言葉は多義的だが、これ(=磁気ボディ)が最も深い定義となる。」の一文があり、村松さんは磁気ボディを意識領域内の事と考えているようです。

この「啓示」については、またいつか改めて書くことになると思います。

2015年6月15日月曜日

「能は演劇ではない」と言うこと

昨日の『誓願寺』を見に来て下さった村松恒平さんが、フェイスブックに素晴らしい「能入門」を書いて下さっています。
能を観ると相変わらず眠くなる。
これはなんだろう、と昨日観ながら少しばかり考えた。
体感されたことを書くだけだが、ふだん身体のことを考えない人には難解かもしれない。
 
*
能は身体で観る部分が多い。
身体は言葉を理解しない。
言葉でなく、食物でなく、空気でなく、私たちが体内に取り込むもの。
それは印象。
言葉以前の印象とは何だろう?
それはもちろん言葉にすることができない。
言葉にした時点で印象ではない。
絵画の印象派は、言葉にせずに絵にした。
言葉よりはずっと近い。
印象派の印象を、視覚的効果に限定せずにとらえると、そこで受け取られるものには眼に見えないエネルギーがある。
 
能はそのエネルギーを観る。
エネルギー的に観ると言ってもいい。
*
 
私たちが観るという場合は、主体と客体が分かれている。
私という「主体」があって観る。
舞台、あるいは演者という「客体」があって観られる。
ところがエネルギーとしてとらえたときには、舞台から観客席が大きな水を張った「たらい」のようになる。
そのエネルギーのたらいが大きく波立つ。
波立つとき、私たちも「浮き」のように、その波と同期して上下する。
ここにおいて、私たちが一般的な演劇を観るときのような主体と客体の関係や視線は成立しない。
そのような主体を保とうとすると、眠くなる。
浮きの視点になって揺れながら観ている。
これに身を任せると、たいへん心地よい時間が訪れる。
これが昨日体感されたことである。
さらに観て行くともっと深い観点も出てくるかと思う。


私たちの一世代前の能楽師は敗戦を経験し、価値観が反転して行く中で、能が今後も活きた芸能であり続けるためには、どうあるべきかと言う事を切実に模索し、その中で観世寿夫先生を中心として「能もひとつの演劇である」として今日までの隆盛を築いて来たように思います。
一方私が多くの教えを乞うている江戸期の能装束を研究なさっている山口憲さんは、「能は演劇ではない」と繰り返し仰います。私自身どちらかと言うとこちらの方に心魅かれます。
私も一時期「能の新しい可能性を探る」と言っていた事がありました。しかし表面的な新しさは、能が能たる所以から外れて行くばかりで、そうして作られたものに余り魅力を感じないのです。

では「能が能たる所以」とはどういう事なのでしょうか。上の村松さんの文章はそこを直撃していると思います。眠たさについて考えてこの一点に至るとは、完全にしてやられました。
このブログで以前にも村松さんの事を書きましたが、その世界観の独自さに、新しい指標を私は感じます。


さらにコメントのやりとりの中にも次のような一文が・・・

能ははっきり動作していない時間がたくさんあります。そのときに象徴的な力が働くのです。人の身体は止まっているときにむしろ、震動しています。いわゆる波動を発していますね。この象徴言語を武士社会が理解していたということのようです。

コメントの前半部分は良く言われる事です。象徴言語と言うのは、普通の言語が音声によって記号化されているのに対し、「波動」によって内実を捕えることだと思います。さらに、もちろん「象徴言語」などと言う言葉は使いませんが、それを武士社会が理解していたという指摘は、江戸時代の武士にとって能は自分たちの存在の根源に関わる不可欠のものだったと言うことを踏まえた上でのことです。
私が書くと、今と言う視点から武家社会を見てしまうのに対し、村松さんの文章では武家社会の中から能を見ているような印象を受けます。

本文の最後で書かれているように、もっと能を見ていただいて、さらに深い視点を私達に示して欲しいものです。今後とも宜しくお願いします。

2015年6月2日火曜日

『誓願寺』を舞います

以前に『誓願寺』について書きましたが、いよいよ本番が迫ってまいりました。皆様是非お出掛け下さい。

◯6月14日(日)緑泉会例会    午後1時開演(会場 12時30分)    於 喜多能楽堂(目黒駅より徒歩7分)能      清経        鈴木 啓吾狂言  柿山伏     山本 泰太郎    仕舞3番能      誓願寺     中所 宜夫(誓願寺の始まりは、3時過ぎ頃)チケットのお申込みは私の方で承ります。


以前の記事にも書きましたが、私は世阿弥が初めて書いた複式夢幻能がこの曲なのではないかと考えています。それを意識して稽古をして来て、先日ふと思った事があります。
前段の夜念仏の場面、これは謡ではロンギと呼ばれる形式で、地謡とシテとの掛け合いが長々と謡われる場面です。

地「早や更けゆくや夜念仏の。聴衆の眠り覚まさんと。鉦打ち鳴らし念仏す
シテ「ありがたや五障の雲のかかる身を。済け給わばこの世より。二世安楽の國にはや生れ往かんぞ嬉しき
地「げに安楽の國なれや。安く生まるる蓮葉の台の縁ぞ真なる
シテ「ありがたや。ありがたや。さぞな始めて弥陀の國。涼しき道ぞ頼もしき
地「頼みぞ真この教え。或は利益無量罪
シテ「または余経の後の世も
地「弥陀一教と
シテ「聞くものを
地「ありがたやありがたや。八万諸聖教皆是阿弥陀仏なるべし。この御本尊も上人もただ同じ御誓願寺ぞと。佛と上人を一体に拝み申すなり
 一読して「ありがたや」が何度も出てくるのが印象的です。この中の二度目のシテ謡の中で初めての弥陀の國と言い、また往生の事を「涼しき道」と言っていますが、この辺りに世阿弥が得た神秘体験の痕跡を求めるのは穿ち過ぎでしょうか。

また、後段で長大な序の舞を舞った後に謡う言葉、

    一人なお佛の御名を訪ねみん
               各々帰る法の庭人

これを世阿弥の決意と読むと、宗教的高揚感だけではない、この曲の奥深さが出て来る様に思います。

さてさて色々と書きました。世阿弥は「秘すれば花」と仰っています。さしづめ私などは、何もかも喋ってしまう愚か者です。その愚か者の顛末。是非是非当日会場にて見届けて下さい。