2016年4月5日火曜日

「生きるための能」 (一宮ロータリークラブでの講演)

3月31日に愛知県一宮市で依頼されておこなった講演です。私は講演前に原稿を書かないのですが、講演後に内容を纏めて欲しいと頼まれて書いた文章です。非常に限られた方しか読まないと思いますので、ここに公開したいと思います。


「生きるための能」   中所 宜夫


 少々大袈裟な題名を付けました。私が生きるために能が必要な事はほとんど自明の事ですが、皆様にとっても能が必要だと思いますので、その辺りをお話ししようと思います。
 今までに能をご覧になった事のある方はどの位いらっしゃるでしょうか。・・有難うございます。半数以上の方がご覧下さっているので嬉しく存じます。
 私は父が趣味としていた関係で小学生の頃から能を見て参りました。一橋大学の能楽クラブ・一橋観世会で、能の家の者でなくともプロになれるのだと知り、卒業後観世喜之先生の内弟子となりました。進路を決める時には何が何でも能楽師と言う訳ではなく、大学院での研究生活も考えましたが、身体を使って表現する魅力が勝りました。5年の内弟子修行を経て独立したのが30歳で、それから28年程能楽師としてやっています。生涯の道として能を選んだ時より、独立した時より、今はもっと能が好きで、能のない生活は考えられません。
 能が成立したのは南北朝時代から室町時代の初め、14世紀末から15世紀にかけての事です。南北朝時代の父・観阿弥と室町初期の子・世阿弥の二人によって芸能の形が作られました。世阿弥は『風姿花伝』『花鏡』などの優れた伝書を残しましたが、これは芸術、演技に留まらず教育や経営など様々の分野にわたって論じられ、その成立の古さから言っても非常に重要な人物です。私は日本の文化史において、空海の次に世阿弥が重要な人物だと考えています。
 観阿弥・世阿弥によって成立した申楽は江戸時代には武家の式楽となります。武士であれば皆、能を必須教養として習得していました。また町人の中にも、例えば俳諧では能の内容が前提となって詠まれている句が多く、能は親しいものとなっていました。
 その能が明治維新によって武家階級その日本の最も秀れた文化にものがなくなってしまいます。しかし、能を伝承してきた人々は何とかこれを次に繋げようと努力しました。明治6年の西欧使節団が欧米を歴訪しての帰国後に、列強と対等に渡り合うには独自の文化が必要な旨を建白し、能と歌舞伎と文楽を日本の伝統芸能として指定するまで、各流の家元たちは能面や装束を売り払うなどして、何とか生計を立てていました。これ以後明治政府の担い手である貴族と財閥によって、能は支えられて行きます。
 昭和の敗戦によって貴族と財閥がなくなると、いよいよ能の存在は危うくなるかと思いましたが、能に携わる人々はその無二の価値を信じて守り伝えて来ました。
 能は、武士によって完成されましたが、その価値観や美意識は「武士」という限られたものではなく、人間の根底にある普遍的な何かと密接に結びついているため、武家階級そのものがなくなってしまった後も、150年以上そのままの形で伝えられるというような事が起り得たのだと思います。舞台芸能というものは本来お客様を飽きさせないために、変わって行くものです。能も世相の変化につれて少しづつ変わってはいますが、その基本にあるところのものは700年間変わらずにいるのだと思います。
 近頃、三内丸山を始めとして縄文の文化が掘り起こされています。仮面土偶の存在など、私は芸能の初源が縄文にある気がしてなりません。能の基本であるスリ足という手法の原点は縄文にあると言うのが私の主張です。一万年に亘り営まれた狩猟採集生活は、半島や大陸で農耕が始まってからも数千年間、その受容を拒否して維持されています。これはそれを支える世界観・宗教観とそれを人々に浸透させる芸能がなければ考えられないと思います。
 こうして日本列島に営々として受け継がれて来た能は、謡うこと、舞うことを基本にし、これを修練してゆけば、強くしなやかな身体作りにも有効です。70歳を過ぎて始めて本物の芸になると言われる能のしくみは、インナーマッスルの強化にも秀れ、健康法にも通じています。
 欧米を範としていた時代は既に過ぎ去りつつあります。近代が私たちから奪った自然との交感を、タイムカプセルのように閉じ込めて今に伝えられているのが能です。せっかくこの日本に生まれたのであれば、これに触れていただきたいと思います。ものを習うのに遅過ぎると言う事はありません。どうぞご興味を持たれましたら、是非とも実際に自分でお稽古してみて、能をご覧になって頂きたいと思います。
 最後に、祝言の謡『高砂』の最後の部分「千秋楽」をお聞き下さい。本日はどうもありがとうございました。

2016年3月24日木曜日

三月十一日福島・安洞院鎮魂能楽らいぶ「中尊」のご報告

大震災と原発事故の後、能の本来の役目のひとつである鎮魂のために、新しい能『中尊』を作りました。一昨年の事でした。その能を各地でご披露しましたが、いずれも紋付袴姿での「らいぶ公演」でした。
今回は、他でもない福島の地でしかも三月十一日に公演するに当り、もう少し本格の能の形に近付けてみたいと思い、面装束を付けての公演となりました。お寺の本堂ですので、お囃子は笛のみ、地謡も四人で後見を兼ねる形で致しました。
公演後に書いていただいたアンケートには、「難しくてわからなかった」と言う感想もありましたが、「感動した」「涙が流れた」「鎮魂にふさわしく、心が安まった」「祈りと花の力をありがとうございました」など、概ね嬉しい言葉が並んでいます。
写真を何枚かご紹介します。お客様の写っているものが何枚かあって、皆様のお顔がとても一生懸命見て下さっていて良いのですが、色々と問題もありますので、ここでは私だけが写っているものに致します。

内陣の裏から登場します。面装束は観世九皐会からお借りしました。面は「霊女」です。右手に数珠、左手には蓮の実を持っています。
二枚目の写真は、その蓮の実を地蔵の祠に捧げて祈っている場面です。
震災後、福島から岩手へ子供と共に避難しながら、三年目に子供だけが福島に戻ってしまった、その子の行く末を案じてお地蔵さまにお祈りしています。
この蓮の実ですが、本物の中尊寺蓮の実です。一昨年、盛岡の一ノ倉邸で初演した折に、記念に頂戴したものです。
詩人に請われて自分の身の上を語る女。
 中尊寺蓮の謂れを語るうちに、何かに憑依されて舞を舞い始める女。藤原泰衡の首桶に残っていた蓮の種が、八百年後に花を咲かせ、その鮮かな紅が、濁世を微かに照らしている、と言う謡に乗せて舞う曲舞の最後の部分です。
 女に憑依したのは、太古よりの地霊でした。舞の衣を身に纏い、蓮の花を手にしています。
蓮の花を本堂正面の一輪挿しに捧げました。石牟礼道子さんの詩「花を奉る」の謡に乗せて動いています。
「かの一輪を拝受して、寄る辺なき今日の魂に奉らんとす。花や何。人それぞれの涙のしずくに洗われて咲き出ずるなり。花やまた何。亡き人を忍ぶ、よすがを探さんとするに、声に出だせぬ、胸底の思いあり」



 そして胸底の思いを花あかりとして舞を舞います。


















「この世を縁といい。無縁ともいう。その境界にありて。ただ夢のごとくなるも  花」





「かえりみれば。まな裏にあるものの御かたち。かりそめの御姿なれども・・・」
 


「地上にひらく一輪の花の力を念じて合掌す」









最後に、祭壇に捧げた一輪挿しの蓮の花に向って合掌して終曲となります。
この様な機会を与えて下さった安洞院のご住職に、あらためて感謝申し上げます。














2016年3月15日火曜日

2月28日『葛城 大和舞』のビデオを見て思うこと

先月の月末に舞いました『葛城 大和舞』のビデオを見ました。能は現場から離れてしまうと生命を失ってしまいます。ビデオは単なる参考でしかありません。でも、自分の技術を確認して、思うようにいっている点、いっていない点をそれぞれ自分なりに評価するには有効な道具です。

当日の舞台をご覧下さり、感銘を受けたと言って下さる方がいれば、その舞台は一応の成功だと思います。でも、悪い評価の方が一人でもいれば、やはりまだまだ課題があるわけです。自分はやはり辛い評者でなければなりません。

能はその気になればずっと高みへ登り続けられる芸能です。先日、宝生流の三川泉師が94歳でお亡くなりになりました。数年前に仕舞のお姿を拝見したことがありますが、確固とした品格の高さに打たれました。実際にその高みを垣間見ることの出来た幸せに感謝します。

世阿弥は「時々の花」と言う事を言っています。今の自分に咲かせる事の出来る花を精一杯咲かせ続けて行けば、いつかは「真の花」になると信じて続けて行きたいと思います。






2016年3月7日月曜日

福島・安洞院鎮魂能楽らいぶ『中尊』 ご挨拶

 3月11日『中尊』公演のために書いた「ご挨拶」の文章です。
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ご挨拶

能は中世において様々な鎮魂を意図して成立した芸能です。原発事故三年目にあたる一昨年、私はこの度の災厄に傷ついた魂を鎮めたいと思い、能『中尊(ちゅうぞん)』を創作しました。

鎮魂の方途を探る中、石牟礼道子さんの詩「花を奉る」を知り、この詩を能に仕立てることでそれが可能になるような気がしました。被災者の声を聞き集める和合亮一さんをモデルにワキを配し、シテの女性に「花を奉る」舞を舞わせ、それを八百年の時を超えて復活した中尊寺蓮の物語でつないだのがこの一曲です。

「中尊」という曲名は、復活の蓮が中央に対する東北の歴史そのものを象徴していることから名付けました。中尊寺の寺号そのものが謎なのですが、『法華経』「序品」にある「人中尊」に依るとも説明されています。「人は皆、自らの中に仏様となる尊いものを持っている」意であるとすれば、それはまさに「個人の尊厳」に他なりません。先人の掲げた「中尊」の言葉の中に、個人の尊厳を求めて進むべき「花あかり」を求めるのです。

今日という日にこの地でこの作品を演じることを厳粛に受け止め、先に逝った方々と残された方々のために蓮の一輪を捧げたいと思います。

中所 宜夫
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つい先日のことですが、村松恒平さんのメルマガで、「個人の尊厳」と四つの虚無についてとても素晴しい文章がありました。FBでも公開していましたので、ご興味のある方は是非お読み下さい。
それに時を置かずにこの文章を書いていて、私自信が『中尊』=「個人の尊厳」だったことに改めて気がついた次第です。

2016年2月27日土曜日

3月11日の鎮魂能楽らいぶ『中尊』を福島にて

二年前に創作した能『中尊』を3月11日に福島のお寺・安洞院の本堂で小規模ながら致します。


安洞院の横山俊顕さんは、昨年お父様の後を受けてご住職になられました。俊顕さんとの出会いは平成12-3年頃に岐阜県多治見市で催した「能楽らいぶ『融』」の時です。源融の歌「みちのくのしのぶもぢずり誰ゆゑに乱れそめにし我ならなくに」は有名ですが、横山さんの安洞院はすぐお隣にある文知摺観音を管理なさっていて、融のお墓を京都の清涼寺から分けてもらい、融が陸奥国の按擦使で赴任した際に地元で見染めたと伝えられる虎女と二人のお墓を並べてお弔いしている、そういうご縁で、福島からはるばる岐阜の多治見までいらしていたのです。

『中尊』のワキの詩人のモデルである和合亮一さんとの出会いもこの安洞院でした。
俊顕さんとのご縁により平成17年に『融』の能楽らいぶをやり、翌18年に『光の素足』をしたのですが、らいぶの導入部で童話「ひかりの素足」の朗読を安洞院の檀家である和合亮一さんに、朗読に挿入しての如来寿量品の読経を俊顕さんにしていただきました。

『中尊』は一昨年の九月に盛岡の一ノ倉邸での「中尊寺ハスを愛でる会」で初演しました。八月に一ノ倉邸に行き、中尊寺蓮のお話しを伺い、それまで震災の鎮魂を能でやらなければと、石牟礼道子さんの詩「花を奉る」だけ抱えて、気持ちばかり前のめりになっていた私に一つの道を与えてもらいました。その後の僅かの期間で辛くも作り出された作品です。
震災後三年の段階での曲であり、今回は舞台も変る事もあり、少し改作しなければいけないと思っていたのですが、稽古をしてみるとこれがなかなか直し様がないのです。一度作り上げて世に送り出した作品と言うものは、なかなか自分の思うようにならないものです。

『中尊』はこれまで4-5回の「能楽らいぶ」公演を行っています。今回は、能楽らいぶに「鎮魂」の場を与えられた事を期に、始めて面装束を着けて公演致します。






























2016年2月26日金曜日

『葛城 大和舞』を前に

2月28日(日)若竹能で『葛城 大和舞』を致します。今日(26日)申合せを既に終え、愈々本番を待つばかりとなっています。

『葛城』についてはこのブログに以前にも書きました。今回「大和舞」で再演するに当りますますこの曲が好きになりました。「役行者に縛めを受ける神様」、「人間なのに」などと思っているとこの曲は見えてこないのではないでしょうか。

「日本霊異記」などで語られる葛城明神の説話は、作者(おそらく世阿弥)にとってはこの能を具体化するための種の一つにすぎません。大和猿楽の者たちが奈良盆地に一座を構え、日々芸の研鑽を積んでいる時、南を見ればそこにはムックリと葛城山が聳えていました。吉野へ頻繁に通う際には葛城山の麓を通り抜ける、つまり最も親しみを感じる故郷の山だったと思います。
そしてそこには既に滅んでしまった大和舞の伝承がありました。芸能を伝える者として、神代に盛んに行われていた霊力を秘めた舞こそが、作者の目的だったのでしょう。「しもと結ふ葛城山に降る雪の間なく時なく思ほゆるかな」と言う古今集の「ふるき大和舞のうた」と題された歌を頼りに、その大和舞を復活させる、いや具体的なことは何もわからないので舞そのものではなく、舞の霊力を復活させる、そんなことを世阿弥は考えていたのではないでしょうか。

三代将軍義満が微妙ながらも作り出した平安の世を、何とか維持しようとする四代将軍義持。その下で世阿弥は芸能による平安の確立を本気で指向しました。私は世阿弥が芸に向う姿勢に、例えば禅の悟り、世俗に隔絶した修道僧たちなどと同じものを感じるのです。「歌舞の菩薩」と言い、芸を極める事で菩薩となり衆生を救済しようとするのです。平安の世の危うさを古い神の力、芸能の力で維持しようとする、その為に故郷の山に眠る神を縛めから解き放つこの曲を作ったのです。

一月の舞台より

去年は『誓願寺』と『唐船』の二番の能をしたのですが、今年は当たり年とでも言うのでしょうか、一月中に羽村市で『敦盛』(装束を着けての一部上演)をし、このブログでもご案内した相模湖能で『羽衣』を致しました。さらに二月に『葛城 大和舞』、五月に『葵上』、九月に『楊貴妃』、十一月に『光の素足』の他、三月十一日に福島での鎮魂能楽らいぶ『中尊』、その他未だ日程のはっきりしない催しもあります。いったいどうしてしまったのでしょう。
でも、一番一番に稽古を尽して行くのみです。何卒宜しくお願いします。

さて、今日は少し時間が出来たので、一月の舞台の写真を整理していました。

気に入った写真をご紹介して、催しのご報告とさせていただきます。

まづは羽村市ゆとろぎでの『敦盛』より。

 十六歳で一の谷の合戦で討たれた平敦盛の亡霊です。この催しは面打の新井達矢さんの仮面展との連動企画で、使用の能面も新井達矢作の「十六」です。

























次は、相模湖交流センターでの相模湖能『羽衣』。

羽衣を返してもらえず悲しむ天女と、返してもらった羽衣を身に纏い舞う天女です。

面はこれも新井達矢作の「小面」です。























写真はいずれも芝田裕之氏の撮影です。