2016年11月18日金曜日

能の言葉(二)

げにや偽りの
なき世なりせばいかばかり
人の言の葉嬉しからん
愚かの心やな
愚かなりける頼みかな

これは能『砧』の一節です。

九州芦屋の領主某の妻が、訴訟の為都に上った夫を待ち焦がれていると、下女の夕霧が、この年の暮れには帰るとの伝言を伝えて来る。一寸上京して来ると言われて三年待っている身としては、伝えられた言葉を信じ切る事が出来ない。しかしそれを信じる事でしか今の自分を支える事が出来ないのを、彼女もわかっていて、信じる事の愚かさと、信じようとする心の愚かさを嘆いている。

特に、普通は同じ言葉を繰り返す納めが、「愚かの心やな、愚かなりける頼みかな」と微妙に変えてある事に、彼女の心の複雑さが窺えます。

処で意外な本の中にこんな歌を見つけました。

いつはりと思はで頼む暮もがな
待つ程をだに慰めにせん
(吉川弘文館・人物叢書『赤松円心・満祐』)

これは赤松則祐の歌で『続拾遺集』に採られた三首の中の一首です。『砧』を参考にして詠んだのかな?と思われる方もいらっしゃる事でしょう。
しかしそれでは時間軸が逆様です。赤松則祐は、室町六代将軍足利義教を暗殺した赤松満祐の祖父、幕府草創期の大立者で、世阿弥より50歳位年上ですから、世阿弥晩年の作とされる『砧』が作品化される遥か前の話です。寧ろ『砧』の作者がこの歌に影響を受けていると考えるべきではないでしょうか。
世阿弥はその伝書の中で、猿楽以外の事に興味を持つ事を戒めていますが、唯一の例外として歌道だけは能を作るのに必要だから学ばなければならないと言っています。
それでは世阿弥は誰から歌道を学んだのでしょうか。二条良基ばかりが目立つのですが、当時の歌道界の第一人者は今川了俊の様に思われます。
世阿弥の作品の多くが北九州を舞台とし、今川了俊が九州探題であった事を思えば、二人の交流は充分考えられます。そして畿内と筑紫を船で往き来するとなれば、赤松氏の播磨に立ち寄るのは必然です。
世阿弥の頃は則祐の息子の代になっていますが、先代の勅撰の誉れの一首であれば当然話題になったと考えるべきです。


2016年11月10日木曜日

能の言葉(一)

(原文)

よしや何事も夢の世の

なかなか言はじ思はじや

思ひ草  花に愛で

月に染みて遊ばん


(私訳)

そうですね。この世に起こる事は全て夢の中の出来事で、それについては簡単に言葉にはしないでおきましょう。思う事は草の様に雑多に湧き出でて来ます。その中の幾つかを取り上げて言葉に作れば、それは花となり、月の光が花を美しく見せる様に、佛性の光でその言葉を磨き上げて行きましょう。何と楽しい事ではないですか。


ーーーー


これは能『姨捨(おばすて)』の一節です。

哲学者の井筒俊彦さんが、もしこの言葉を読んでいたら、きっと何かの文章を残したのではないでしょうか。私の解釈はその系統を引いているつもりです。

『姨捨』の作者については、大方世阿弥であろうと、能に関わる誰もが思っているのではないでしょうか。私も、此処に示される様な言語観は世阿弥のものだと思うのですが、これだけの名曲に世阿弥作と断定し得る材料がないとすれば、七郎元能作の可能性もあり得ると思います。


先づ「何事も夢の世」と言うのは、佛教的な世界観からすれば何も特別なものではないでしょう。

次の「の」は何でしょうか。「・・夢の世で、(だから)・・」だと思うのですが・・。

「なかなか」は後の「じ」と呼応して「かんたんには・・するまい」でしょう。


さて「言はじ思はじ」です。実際に口に出すだけでなく、思う事もするまいと言うのです。つまり言葉で的確に言い表す事は難しいので、軽々に仮のものを当てるのは辞めておこう、と言う事でしょう。では何を。それはその前の『姨捨』の詞章を知らなければ分かりません。一応「それについては」としておきました。


その後の部分は完全に私の解釈となります。草、花、月とたたみかける様に並べていますが、それぞれ扱いが違います。

草は「思ひ草」。草の一部が思い草なのではなく、草と言うものが思いそのものを象徴していると言うのです。思いは即ち言葉、この場合は言葉として形になろうとする当にその時の動きそのものでしょう。

花は「愛で」るものです。草の中に花は咲いています。無限に言葉として生い出でようとする動きの中から、見事に結晶化して美しい言葉となった花。

その花を美しいと愛でるのは人であり、人の中にある佛性です。月とは即ち佛性です。ですから花を美しいと愛でるには、月に染みてある事が必要なのです。

月に染みて花を愛でる事は、難行でも、苦行でもありません。それは「遊び」なのです。此処で世阿弥は自分の生み出した芸能を遊楽と言っている事を忘れてはいけないでしょう。


さりげなく並んだ草と花と月ですが、其処に尋常ならざる広がりがあります。



2016年8月19日金曜日

能楽合宿のご案内

青梅アートジャム
山頂カルチャースクール
「能を学ぼう」

御岳山の宿坊に泊まって、一泊二日で能を味わう体験教室です

神域の山の気に包まれて   観て!聴いて!学ぶ!能体験‼︎

日時 平成28年9月24日(土)〜25日(日)
参加費 15,000円(一泊二日)
宿泊&会場  駒鳥山荘   定員 50人
申込先: TEL&FAX 042-550-4295 中所宜夫能の会 まで
      email  nakashonobuo@nohnokai.com


身体の中に気は満ちて
声は言葉を組み上げる
動きは波動を呼び起こす
いにしえの人々が創り出した芸術に
あなたも触れてみませんか


【次第】
24日(土)
    14時 御岳山ケーブルカー 滝本駅に集合
    15時 駒鳥山荘に投宿
    16時 御嶽神社神楽殿にて奉納参拝の後、「能楽らいぶ」
    19時 駒鳥山荘にて夕食の後、「能楽談儀」
25日(日)
    早朝散策(自由参加)
    朝食後、「体験教室」
    10時 解散

・個室へのお泊りをご希望の方は差額を申し受けます。
・持ち物:白足袋(貸し出しあり)、宿泊用具
・受付締切: 9/18(日)

2016年8月16日火曜日

「羽衣」私論

第十回吉田城薪能で今年2回目の「羽衣」を致します。「羽衣」のあらすじについてはこちらをご参照下さい。

もともと「羽衣」は人気の曲ですが、今年これだけ舞う機会を得られたのは、やはり私自身の「『羽衣』論」が影響していると思います。最初にこれについて書いたのは、既に一昨年になりますが、先日も中津川でこのお話しをしていて、多少簡潔に纏められるように思います。



「羽衣」私論  〜〜ワキは何故「白龍」か?〜〜


「羽衣」の冒頭にワキの漁師白龍が名乗り、それに続けてこう謡います。
万里の好山に雲たちまちに起こり。一楼の名月に雨初めて晴れり。
 このままですと雲が起こったのに、雨が晴れるという意味不明な一節になります。これには原詩があり、そこでは
千里の好山に雲たちまちに斂まり。一楼の名月に雨初めて晴れり。
 となっています。収斂の斂は収と同義で収まることですから、こちらですと、雲が収まって雨が晴れて、と素直に情景が浮びます。これを作者或は伝承者が間違えたとは考えられません。何故、「千里」が「万里」に変り、「雲収まり」が「雲起り」に変ったのでしょう。私はこれは、
どこか遠い場所で、何か事件が起りましたが、それは解決しました。
 という内容の暗示だと思います。さらに読み進めると、三保の松原の情景を描いた後、
忘れめや山路を分けて清見潟。遥かに三保の松原に。立ち連れいざや通はん。
と謡いますが、これにも本歌があります。
忘れずよ清見が関の浪間より霞みて見えし三保の松原 
「西の方から清見ケ関を越えて来て、海を挟んでこの三保の松原を眺めたら、その美しさはとても忘れられるものではない。」三保の松原の漁師と名乗りながら、この白龍は清見が関の西から山路を通って来るのでしょうか?いやいやこれは本歌の引用であって、そういう意味ではないのでしょう。ならば何故わざわざこの歌をここに用いたのでしょうか。
それはこの歌が宗尊親王の歌だからではないでしょうか。宗尊親王は鎌倉幕府の六代将軍です。
作者は六代将軍に関係する事件が既に解決したことをここに暗示しています。

世阿弥が室町幕府の六代将軍足利義教によって佐渡に配流されたのは1434年です。赤松満祐が義教を暗殺したのは1441年。暗殺後、義教によって不当な流刑に処せられていた大名や貴族は次々と都に帰還を赦されます。残念ながら世阿弥が佐渡から戻って来たという記録は見つからないようですが、小次郎信光の賛に1443年に亡くなった記載があり、そこには亡くなった土地などの記述が何もないことから、佐渡ではなく都か故郷か分りませんが、とにかく申楽の人々にとっては平穏な死を迎えたのではないかと、推測されるのです。羽衣冒頭の言葉はこれを踏まえて書かれたと思われます。

このことを念頭に「羽衣」を見直すと、これは過ちを犯した漁師白龍が、過ちを認めてこれを改め、天女は赦して舞による功徳を与える、という曲ではないでしょうか。

そもそも音阿弥・三郎元重が義教の贔屓を受けるのは、将軍になる以前、青蓮門院義円であった頃からの事です。その頃、かつての四代将軍義持は、子供の五代将軍義量病死の後、次の将軍を定めないまま大御所として幕府の運営に当っていました。義持の健康状態は万全ではなく、次の将軍が誰になるのか諸人の注目するところでした。その候補者の一人である義円と、世阿弥の間に抜き差しならない因縁があったとしたら、世阿弥はどうするでしょうか。将軍の贔屓による多くの芸能者たちの浮沈を目の当たりにして来た世阿弥にとって、自らが作り上げて来た大和猿楽存続のためには、義円の将軍就任は避けたかったはずです。しかし、政界の実力者三宝院満済が義円支持に傾いていることを知り、一座の後継者の中で、一番の年長者であった三郎元重を義円の元に送り込んだのだと思います。元重は首尾良く取り入り、将軍となり独裁を強める義教のもと、一座の繁栄を築いて行きます。
しかし、義教の世阿弥への迫害は思いの外に厳しいものでした。1430年に長年その任にあった醍醐清滝宮楽頭職を罷免されると、七郎元能は一座を離れて出家遁世します。この時に書き残したのが『世子六十以後申楽談儀』です。一座への圧迫に対して真っ先に起した動きが元能の出家であることは、この人の存在の重要性を物語るものと思います。
同年、観世太夫を世阿弥より受け継いだ十郎元雅は、吉野の天河辮才天に「心中所願の成就」を祈念して『唐船』を舞い、尉面を奉納しますが、その二年後の1432年、伊勢の安濃津で不慮の死を遂げます。これには様々な疑惑があり、南朝のスパイ活動が露見したとも、将軍の手の者による暗殺とも言われています。真実はともかく、『天鼓』の作者は将軍の暗殺を仄めかしつつ、この曲を書いたように思います。
さらにその二年後の1434年に世阿弥は突然佐渡配流を言い渡されます。七十を過ぎた老体を世阿弥は佐渡に運びます。
将軍は音阿弥を一層贔屓にして、その権勢は絶頂に逹したかに見えましたが、三年後の1437年、音阿弥は突然義教の勘気を蒙り、謹慎を言い渡されます。当時義教の突鼻はその先に流刑や不審死が待つ深刻なものでしたが、この時の音阿弥は赤松満祐の取り成しで十日程で赦されています。一体音阿弥は何をして義教の機嫌を損ねたのでしょうか。私は世阿弥の流刑の解除を訴えたのだと考えています。
将軍の元で一人勝ち状態の音阿弥でしたが、秀れた舞台をするには秀れた共演者が必要です。世阿弥と共に舞台を勤めて来た、囃子やワキ・狂言・地謡の名手たちが、老体の世阿弥が佐渡にある状況の中、音阿弥の相手を喜んで勤めたとは考えられません。如何に権勢の後ろ盾があるとは言え、芸能者の心情はそれほど単純なものではないはずです。
取り成したのが赤松満祐だと言うのも看過出来ません。四年後の1441年に赤松が義教を暗殺するのですが、屋敷に招いた将軍をもてなすために、赤松は音阿弥の演能を用意しました。まさに音阿弥が『鵜羽』を舞う中、将軍暗殺は決行されます。音阿弥がこの赤松の陰謀を知らなかったということがあるでしょうか。
今、この音阿弥はしばしば権勢欲に駆られた俗物として描かれますが、難しい将軍の元で大和猿楽の独占状況を作り出し、その後の猿楽繁栄の政治的基盤を築いたのはこの人の力によるものです。そしてその芸力は、後年名人の称号をほしいままにする秀れたものでした。将軍暗殺後、さすがに多少の衰退はあったようですが、八代将軍義政の頃には以前にも増す繁栄を築いています。その頃には世阿弥の娘婿の金春禅竹や、成人した十郎元雅の遺児・若き十郎太夫とも、共演しているようです。
もし、義教の寵愛を嵩に一座の繁栄を築き、世阿弥を佐渡に流したまま死なせてしまったら、このような状況はあり得ないように思います。音阿弥は赤松の暗殺に重要な役割を果し、世阿弥を佐渡から呼び戻したに違いありません。音阿弥は世阿弥に赦しを乞い、世阿弥はそれに応え、その後亡くなったのです。世阿弥の赦しは、芸能者たちに周知され、音阿弥のその後の発展の礎となりました。

天女が世阿弥に模され、漁師白龍が音阿弥をなぞっているならば、漁師の名前「白龍」は「伯龍」であり、伯父の跡を継ぐ龍の如き人、の意がそこに込められているのだと思います。

最初に述べた「羽衣」のワキの登場の場面に、もう一つ不思議なことがあります。そこに当然描かれるべき富士の姿が現れていません。富士が登場するのは、一番最後の場面天女が天上に帰って行くところです。ところで『富士太鼓』の富士と浅間の争いは、駿河の浅間神社での演能の後の観阿弥の死をなぞっている様に思えます。すなわち富士は観阿弥のことなのです。羽衣の天女の昇天は、観阿弥の象徴である富士の元へ世阿弥が召されて行くことに他なりません。天女の舞が「七宝充満の宝を降らし」たように、世阿弥の赦しは現代に至る能の繁栄をもたらしたことになります。

さてこの名曲「羽衣」の作者は誰でしょうか。世阿弥の佐渡からの帰還と、音阿弥への赦し、そしてその死を見届けた人物。私は七郎元能こそがその人ではないかと思います。能作についての伝書「三道」の相伝を受けながら、一作も創作の記録を残していない元能です。「世子六十以後申楽談儀」の冒頭に、
遊楽の道は一切物真似也といへども、申楽とは神楽なれば、舞歌二曲をもって本風と申すべし。
と記した元能こそが、後に武家式楽の下で完成され、今日まで続く能の姿を、明確に描き出した人だと思います。名前を残さない美学を貫いた人だったのではないでしょうか。

2016年7月24日日曜日

能『光の素足』公演

まだまだ先と思っていましたが、チケット発売が7月26日に始まります。
今年の11月3日(木祝)に東京・国立市のくにたち市民芸術小ホールの主催公演で、能『光の素足』を四年振りに致します。東京での公演は六年振りになります。
当日は、宮澤和樹さんのご講演もあります。250席程の小ホールですので、ご希望の方はお早めにお申込み下さい。

チケットのお申込みはこちらをご参照下さい。


チラシ裏面の文章を再掲します。
能『光の素足』について

 周りに受け入れられないとか、未来に希望が見えないとか、現在はとりわけ若い人の苦しみが増しているように思います。自分もそういう苦しい思いをしながら、でも世界や人間は素晴らしいのだ、どんな人にも輝きがあるのだと、「世界が全体幸福に」なることを夢見た人がいました。100年前に東北に生きた宮澤賢治さんです。
 能は650年くらい前に世阿弥さんが始めた芸能ですが、自然の営みの中で生きる人間の力や波動の確かさを、とても良く伝えてくれます。賢治さんの言葉の力を世阿弥さんの方法で表現してみたのがこの作品です。
 始めに登場する少年は、山中でひとり剣舞(けんばい)を舞っています。躍動感と裏腹に孤独の陰を帯びています。年老いた山人が突然現れて声をかけ、少年の翳りに光を当てて行きます。助けを求める少年に自分の力で乗り越えなければならないと説いた山人は、その夜の再会を約束して姿を消します。
 舞台は一転して銀河の星の世界です。童話「ふたごの星」の物語をポオセ童子とチュンセ童子が再現します。
 そして再び下界に戻り、少年一郎は支度を整えて夜の山に向います。銀河の流れる美しい夏の空に流れ星があるかと見るまに、遥か彼方から金色の光が満ちて光の素足が現れます。この大きな人は賢治さんの言葉を少年に伝えます。やがて一郎は光の素足の力を受け取り、気がつけば元の丘の上に目を覚まします。
 その言葉の中に「雨ニモ負ケズ」が出て来ます。賢治さんがこれを書いた手帳の傍らには「11.3」と記されています。もしこれが11月3日を表すのであれば、この公演はそれから85年目の出来事となります。

2016年5月23日月曜日

「生きるための能」 一宮ロータリークラブ講演録

三月末に一宮ロータリークラブからの依頼で30分の講演をしました。その講演録を会報に書きました。ここに再掲します。


「生きるための能」 中所 宜夫

 少々大袈裟な題名を付けました。私が生きるために能が必要な事はほとんど自明の事ですが、皆様にとっても能が必要だと思いますので、その辺りをお話ししようと思います。
 今までに能をご覧になった事のある方はどの位いらっしゃるでしょうか。・・有難うございます。半数以上の方がご覧下さっているので嬉しく存じます。
 私は父が趣味としていた関係で小学生の頃から能を見て参りました。一橋大学の能楽クラブ・一橋観世会で、能の家の者でなくともプロになれるのだと知り、卒業後観世喜之先生の内弟子となりました。進路を決める時には何が何でも能楽師と言う訳ではなく、大学院での研究生活も考えましたが、身体を使って表現する魅力が勝りました。5年の内弟子修行を経て独立したのが30歳で、それから28年程能楽師としてやっています。生涯の道として能を選んだ時より、独立した時より、今はもっと能が好きで、能のない生活は考えられません。
 能が成立したのは南北朝時代から室町時代の初め、14世紀末から15世紀にかけての事です。南北朝時代の父・観阿弥と室町初期の子・世阿弥の二人によって芸能の形が作られました。世阿弥は『風姿花伝』『花鏡』などの優れた伝書を残しましたが、これは芸術、演技に留まらず教育や経営など様々の分野にわたって論じられ、その成立の古さから言っても非常に重要な人物です。私は日本の文化史において、空海の次に世阿弥が重要な人物だと考えています。
 観阿弥・世阿弥によって成立した申楽は江戸時代には武家の式楽となります。武士であれば皆、能を必須教養として習得していました。また町人の中にも、例えば俳諧では能の内容が前提となって詠まれている句が多く、能は親しいものとなっていました。
 その能が明治維新によって武家階級そのものがなくなってしまいます。しかし、能を伝承してきた人々は何とかこれを次に繋げようと努力しました。明治6年の西欧使節団が欧米を歴訪しての帰国後に、列強と対等に渡り合うには独自の文化が必要な旨を建白し、能と歌舞伎と文楽を日本の伝統芸能として指定するまで、各流の家元たちは能面や装束を売り払うなどして、何とか生計を立てていました。これ以後明治政府の担い手である貴族と財閥によって、能は支えられて行きます。
 昭和の敗戦によって貴族と財閥がなくなると、いよいよ能の存在は危うくなるかと思いましたが、能に携わる人々はその無二の価値を信じて守り伝えて来ました。
 能は、武士によって完成されましたが、その価値観や美意識は「武士」という限られたものではなく、人間の根底にある普遍的な何かと密接に結びついているため、武家階級そのものがなくなってしまった後も、150年以上そのままの形で伝えられるというような事が起り得たのだと思います。舞台芸能というものは本来お客様を飽きさせないために、変わって行くものです。能も世相の変化につれて少しづつ変わってはいますが、その基本にあるところのものは700年間変わらずにいるのだと思います。
 近頃、三内丸山を始めとして縄文の文化が掘り起こされています。仮面土偶の存在など、私は芸能の初源が縄文にある気がしてなりません。能の基本であるスリ足という手法の原点は縄文にあると言うのが私の主張です。一万年に亘り営まれた狩猟採集生活は、半島や大陸で農耕が始まってからも数千年間、その受容を拒否して維持されています。これはそれを支える世界観・宗教観とそれを人々に浸透させる芸能がなければ考えられないと思います。
 こうして日本列島に営々として受け継がれて来た能は、謡うこと、舞うことを基本にし、これを修練してゆけば、強くしなやかな身体作りにも有効です。70歳を過ぎて始めて本物の芸になると言われる能のしくみは、インナーマッスルの強化にも秀れ、健康法にも通じています。
 欧米を範としていた時代は既に過ぎ去りつつあります。近代が私たちから奪った自然との交感を、タイムカプセルのように閉じ込めて今に伝えられているのが能です。せっかくこの日本に生まれたのであれば、これに触れていただきたいと思います。ものを習うのに遅過ぎると言う事はありません。どうぞご興味を持たれましたら、是非とも実際に自分でお稽古してみて、能をご覧になって頂きたいと思います。
 最後に、祝言の謡『高砂』の最後の部分「千秋楽」をお聞き下さい。本日はどうもありがとうございました。

2016年5月8日日曜日

演能のお知らせ----『葵上』----

 既に来週となってしまいました。緑泉会例会にて『葵上』を致します。
近頃は小書「梓之出」なしの上演は珍しくなりました。しかし、梓の出では省略されてしまう冒頭のシテの謡の部分は秀逸な心理描写であり、また、中入せずに舞台上で面を変える物着の方が、自分の存在を滅しようとする山伏の加持祈祷により面貌が変化すると言う意味で、曲本来の意に叶っているように思います。
是非、小書ナシの『葵上』をお楽しみ下さい。

『葵上』について 

『葵上』は「源氏物語」に取材した名曲であり、現在最も演能頻度の高い曲かと思います。おそらくは犬王道阿弥の作品であったものを、世阿弥が改作しています。
シテは曲名と異なり六条御息所です。知的で優しい貴女が、自分の心の醜さを受け入れられず、押し込めた感情が生霊と化してしまいます。梓弓の巫女(ツレ)に見あらわされ、山伏行者(ワキ)に祈伏されながら、最後は法華経の功力で成仏して行きます。

原作では、必死の加持祈祷も空しく、葵上は亡くなってしまい、怨霊の正体が能のように実体化されることはありません。そして光源氏はその後も長く怨霊に悩まされることになります。
ところで世阿弥は、多くの曲で妄執に彷徨う霊魂を描いていますが、怨霊については殆ど扱っていない様に思います。それは道真に触れていながら『老松』『道明寺』の様な描き方をしている点に現れているのですが、神秘家であった世阿弥にとって、文芸で身を立てた道真が、怨霊と化すのを良しとしない、つまり霊の中で怨霊を最も低く見ているからだと思います。映画「もののけ姫」で「たたり神」が忌避されるべきものと描かれているのと同じです。
もしこの曲が、私が考える様に、犬王道阿弥の持ち曲を世阿弥が改作したのだとすれば、殆ど唯一の怨霊作品だと思います(『鉄輪』はおそらく世阿弥のものではありません)。「怨霊を成仏させる」ことが世阿弥の意図であるならば、怨霊を実体化させ、さらにその怒りを増幅させて、行きつくところまで行きついて初めて成仏が可能となるのです。
最後、山伏に祈り伏せられ「あらあら恐しの般若声や」と言う呻吟の中にこそ、成仏への転換が隠されています。

と、そんな事を思いつつ稽古を重ねて来ましたが、本当に成仏する姿を見せるなど、なかなか出来る事ではありません。しかし、そこを目指しているからこそ、能は能であるのではないでしょうか。

2016年4月7日木曜日

能『斎王』謡本

前回詞章を公開した『斎王』ですが、節付けを施した謡本を公開します。
節付けをしている間に詞章にも少し変更が入っています。
観世流の謡をお稽古している方なら、概ね理解出来ると思います。ゴマが味気なかったり、記号が少し変なのはご容赦下さい。
このPDFファイルをダウンロードし、アドビなどで開いて「ブックレット印刷(右から左)」で両面印刷すると冊子になります。和紙に「複数ページを印刷(縦書き、右から左)」で印刷して袋とじにすると、本当の謡本っぽくなります。

新作能『斎王』試作版はこちらからダウンロードできます。

この謡本は、LaTeX を使って作っています。自分の作った新作能をきれいに印刷したいと言う方がいらっしゃいましたら、(おそらくいないと思いますが・・・)styファイルをお譲りします。
また、LaTeX の専門家の方でもっとスマートに改良しても良い(ごめんなさい。お禮は大して出来ません。)、と言う方がいらっしゃいましたらお願いします。
ゴマのフォントをもっとゴマらしくしたいし、本文のフォントも毛筆書体(昔、VineLinux の有料版に付いていた隷書体がとても良かった)にしたいのですが、今はそんなことをしている時間がありません。篤志の方を募っています。

utaibon.sty4windows

2016年4月5日火曜日

新作能『斎王』の詞章

先日(4月2日)に五條市の御霊神社社務所にて、氏子の方々を始め、千七百年祭に関わる皆様に披露しました、新作能『斎王』の詞章を公開します。節付けをして謡本にしたものも、近いうちに公開します。ご興味のある方はお読み下さい。
ご意見など伺えれば嬉しいです。

前シテ  宇智ノ女、母親
後シテ  井上内親王
前ツレ(男)  宇智ノ男、子供
ツレ(女)   都ノ女
ワキ   都ノ男
アイ   門前ノ者

斎王

〈次第の囃子にてワキとツレ(女)が登場〉
〈次第〉(ワキ・女)「つなぐ命の重さゆえ。つなぐ命の重さゆえ。古き神をも訪ねん
(女)「これは東の京に暮らし。西に下る者にて候。我四十路に及び子を授かり。色々思い煩うこと限りなし。(ワキ)「ここに奈良の南、五條の地に。齢経て子を産みたる神のまします由を聞き。某御供申し。只今五條の地へと急ぎ候
〈道行〉(ワキ・女)「この頃は。東の地には住みかねて。東の地には住みかねて。せめて日の本ならば西へ西へと求め来て。「奈良の都で名を聞きし。御霊の神を祀りたる。五条駅より吉野川。渡りて至る霊安寺。御霊神社の庭とかや。御霊神社の庭とかや
(ワキ)「御急ぎ候程に。御霊神社に着きて候。心静かに参詣申そうずるにて候。不思議やな赤き鳥居の傍らを見れば。梅の古木と見えて皮ばかり残りしが。若き枝の生い出で。色殊なる花を咲かせたり。人来たりて候はば尋ねばやと思い候

〈一声の囃子にてシテとツレ(男)が登場〉
〈一セイ〉(シテ・男)「老い梅の。うろの皮より出ずる枝の。色こそ若き春の風。(男)「水温む日はなお遠く。(シテ・男)「年経て流る。吉野川
〈サシ〉(シテ)「まだ寒く花咲くよりもなお古き。都の色をあらわして。(シテ・男)「赤き色濃き梅の花。難波の都奈良の都。吉野の都の名残とも。宇智の郡に咲く花の。若き匂いのめでたさよ
〈下歌〉「この春もまた連れ立ちて。二人眺むる嬉しさよ。
〈上歌〉「年毎に。老い朽ちてなお咲く花の。老い朽ちてなお咲く花の。梅は色濃き春の色。冷たき風なおつらけれど。日差し仄かに柔らかく。「梅と鳥居の色紅き。神と怖れをかしこみて。御霊の宮に参らん。御霊の宮に参らん

(ワキ)「いかにこれなる男女の人に尋ね申すべき事の候。(男)「我等が事にて候か何事にて候ぞ。(ワキ)見申せば仲睦まじく連れ立ちて候が。夫婦の人にて候か。(男)「いやこれなるは私の母なる人にて候。(ワキ)「げにげにこれは誤りて候。さては親子の人にて候か。されども若く美しき母御にて候よ。(シテ)「あら嬉しの言の葉やな。御身は何処より来たれる人なるぞ。(ワキ)「これは東の京より。西に住処を求めて来たる者にて候。これなる人の子を授かりたるにより。これなる宮に参りて候。(シテ)「これは遙々の御出でにて候よ。さては当社の御謂れを知ろし召されて候か。(女)「いやただ四十路半ばに皇子を産みたる御神とこそ聞きて候え。(男)「あら危うしやこの御神は。御霊と祀り斎われし。祟りの神にてましますものを。(シテ)「いやいやそれは遙かの古。恐れたりしは仇なす人。ましてやこれは遅き子を。授かりたりし人ならずや。(シテ・男)「若き命の溢れたる。時世は既に過ぎ去りて。衰え行かむ今の世に。宿る命の尊さを。守る神とぞ知ろし召せ
〈上歌〉(地)「この国の。人の栄えの幻の。人の栄えの幻の。明らかなりし今の世に。命宿せし。高齢と嘆き給うな。「この宮の。祭神なるは斎宮に。仕え給いし人なれば。神の恵みを身に受けて。若きを保つめでたさよ。若きを保つめでたさよ

(ワキ)「さればこのご祭神の御名。また御謂われをも詳しく御物語候え。
〈クリ〉(地)「それこの御霊神社のご祭神と申すは。千三百年の昔。聖武天皇第一の姫宮と生まれ。光仁天皇の皇后となりし。井上内親王にておわします
〈サシ〉(シテ)「長く斎王として伊勢にあり。(地)「夜昼分かぬ神への仕え。祈祷を良くし神楽に優れ。神託を下すも度々なり。(シテ)「伊勢に在すこと十八年。(地)「神の恵みの故やらん。二十歳見まがうばかりなり。
〈クセ〉「ここに弟宮安積親王。俄に亡くなり給えば。斎宮は障りありとて。奈良の都へ帰りしを。白壁の王子とて。日陰に在しましし人の。妃に迎えられ。四十五歳にして。他戸王子を産み給う。妹宮には。藤原の光明子の御腹にて。阿部の内親王。仲麻呂に語らい孝謙。弓削の導師を伴い。称徳となりて天の下しろしめす。その後を白壁の王子受け継ぎて。光仁天皇井上皇后となり給う。
「されど五十余歳の。余りに若く美しき。帝御悩となりし時。人々あやしみて。心に思い給いしを。
(シテ)「参議百川卿忍び上り。(地)「これは皇后の。呪詛をなせし故なりと。秘かに奏し給えば。廃皇后その上。この宇智の郡に籠められ。宝亀六年四月下旬。他戸親王と共に。此処にて空しくなり給う

(ワキ)「ご祭神の御事は承りぬ。さてさてこれに咲きたる梅は。その御神に謂われある。神木にては候やらん。(シテ)「いや神木とは恥ずかしや。余りに古き御神にて。梅は寿命も保ち得ざらんさりながら。ご覧候えこの梅の。古木はうろとなり果つれども。若き枝々生い出でて。漲る命の紅き花。咲かせてこそは候なり。
〈下歌〉(地)「その古はこの身をして。若き命を守り得ず。この梅の。年毎に咲くを見て。朽ちる命をつながんと。夕べの雲も赤根草。枕の夢を待ち給え。枕の夢を待ち給え。

〈中入。シテと男退場〉
〈間狂言の語り。門前ノ者登場し、ワキと言葉を交す。井上内親王について、特に死後ご祭神と祀られる子細を語る。最後にツレの女を気遣って、社務所に床を設える由言いて退場する。〉

(ワキ)「いかに申し候。奇特なる御事にては候えども。夜風は身体に障り候。あれなる社務所に御休みあろうずるにて候。(女)「さらばあれにて休み候べし。「いかに申し候。さるにても遥々と来たり候よ。(ワキ)「げに大事の御身にては遠き道にて候よ。(女)「さりながらここに参詣申して。出産の事少し心安くなりて候。御心遣い返す返すも有難うこそ候え。今宵はここにて休み候べし。

〈ワキ、切戸より退場。以降はツレの女の夢の世界となる。〉

〈待謡〉(女)「思わずも。子を授かりて故郷を。子を授かりて故郷を。背き流離う行く末の。頼み少なきこの身を。守る力のあるやらん。守る力のあるやらん。
〈出端にて後シテ・井上内親王登場〉
〈サシ〉(後シテ)「それ高き山には風起こり易く。深き海の水は量り難し。人は幽かなる玄妙を知らず。知れるを以て真実となす。
〈一セイ〉「陰陽の二神この世を生みしより。男女の営みの貴きに。子を残し孫に伝え。神の恵みを代々に保たん。

(女)「不思議やな旅の夢中に現われ給うは。いとも気高き御姿。その面影は昨日見し。母なる人にてましますか。(シテ)「母と見えしは仮の姿。これは遥かの古に。久しく伊勢にて神に仕え。鬼道を司りし斎王なり。(女)「神に仕えし御身なるに。召されし衣は赤根染の。(シテ)「舞の衣は俗の世にて。命を果たせし証なり。(女)「さては幼き皇太子の。恨みの色にてましますか。(シテ)「一つは彼の恨みの色。怨霊たらん苦しみを。母が命に背負いしなり。されども夕べの赤根雲。恨みの色にてなきものを。
〈一セイ〉「我が斎王は女子の役。(地)「子なる酒人内親王。孫なる朝原内親王と。神に仕えし祝いの色。(シテ)「この國の。目に見ぬ誓い夜昼の。祈りを捧げし斎の道。
〈大ノリ〉(地)「守るべしやな。守るべしやな。陰陽二つの治めの力。今衰えん。日の本の民の。危うき命をつながん人に。夢中の舞楽。有難や。  〈神舞〉

〈キリ〉(地)「政。乱れし時は陰陽の。気を整えて平安の。都築きて。兵乱の繁き時は。舞楽をなして。武士の心慰むる。今目前の。栄に耽り。海山を隔てば。山は痩せ。海は濁り。故郷を離れし人も。千三百年祀り守らん。この神の。夢中の告げは。これまでなり。人は皆。神仏の種に身をまとい。限りある世を命として。命を継ぐぞと言うかと思えば。夢は覚めて失せにけり。

「生きるための能」 (一宮ロータリークラブでの講演)

3月31日に愛知県一宮市で依頼されておこなった講演です。私は講演前に原稿を書かないのですが、講演後に内容を纏めて欲しいと頼まれて書いた文章です。非常に限られた方しか読まないと思いますので、ここに公開したいと思います。


「生きるための能」   中所 宜夫


 少々大袈裟な題名を付けました。私が生きるために能が必要な事はほとんど自明の事ですが、皆様にとっても能が必要だと思いますので、その辺りをお話ししようと思います。
 今までに能をご覧になった事のある方はどの位いらっしゃるでしょうか。・・有難うございます。半数以上の方がご覧下さっているので嬉しく存じます。
 私は父が趣味としていた関係で小学生の頃から能を見て参りました。一橋大学の能楽クラブ・一橋観世会で、能の家の者でなくともプロになれるのだと知り、卒業後観世喜之先生の内弟子となりました。進路を決める時には何が何でも能楽師と言う訳ではなく、大学院での研究生活も考えましたが、身体を使って表現する魅力が勝りました。5年の内弟子修行を経て独立したのが30歳で、それから28年程能楽師としてやっています。生涯の道として能を選んだ時より、独立した時より、今はもっと能が好きで、能のない生活は考えられません。
 能が成立したのは南北朝時代から室町時代の初め、14世紀末から15世紀にかけての事です。南北朝時代の父・観阿弥と室町初期の子・世阿弥の二人によって芸能の形が作られました。世阿弥は『風姿花伝』『花鏡』などの優れた伝書を残しましたが、これは芸術、演技に留まらず教育や経営など様々の分野にわたって論じられ、その成立の古さから言っても非常に重要な人物です。私は日本の文化史において、空海の次に世阿弥が重要な人物だと考えています。
 観阿弥・世阿弥によって成立した申楽は江戸時代には武家の式楽となります。武士であれば皆、能を必須教養として習得していました。また町人の中にも、例えば俳諧では能の内容が前提となって詠まれている句が多く、能は親しいものとなっていました。
 その能が明治維新によって武家階級その日本の最も秀れた文化にものがなくなってしまいます。しかし、能を伝承してきた人々は何とかこれを次に繋げようと努力しました。明治6年の西欧使節団が欧米を歴訪しての帰国後に、列強と対等に渡り合うには独自の文化が必要な旨を建白し、能と歌舞伎と文楽を日本の伝統芸能として指定するまで、各流の家元たちは能面や装束を売り払うなどして、何とか生計を立てていました。これ以後明治政府の担い手である貴族と財閥によって、能は支えられて行きます。
 昭和の敗戦によって貴族と財閥がなくなると、いよいよ能の存在は危うくなるかと思いましたが、能に携わる人々はその無二の価値を信じて守り伝えて来ました。
 能は、武士によって完成されましたが、その価値観や美意識は「武士」という限られたものではなく、人間の根底にある普遍的な何かと密接に結びついているため、武家階級そのものがなくなってしまった後も、150年以上そのままの形で伝えられるというような事が起り得たのだと思います。舞台芸能というものは本来お客様を飽きさせないために、変わって行くものです。能も世相の変化につれて少しづつ変わってはいますが、その基本にあるところのものは700年間変わらずにいるのだと思います。
 近頃、三内丸山を始めとして縄文の文化が掘り起こされています。仮面土偶の存在など、私は芸能の初源が縄文にある気がしてなりません。能の基本であるスリ足という手法の原点は縄文にあると言うのが私の主張です。一万年に亘り営まれた狩猟採集生活は、半島や大陸で農耕が始まってからも数千年間、その受容を拒否して維持されています。これはそれを支える世界観・宗教観とそれを人々に浸透させる芸能がなければ考えられないと思います。
 こうして日本列島に営々として受け継がれて来た能は、謡うこと、舞うことを基本にし、これを修練してゆけば、強くしなやかな身体作りにも有効です。70歳を過ぎて始めて本物の芸になると言われる能のしくみは、インナーマッスルの強化にも秀れ、健康法にも通じています。
 欧米を範としていた時代は既に過ぎ去りつつあります。近代が私たちから奪った自然との交感を、タイムカプセルのように閉じ込めて今に伝えられているのが能です。せっかくこの日本に生まれたのであれば、これに触れていただきたいと思います。ものを習うのに遅過ぎると言う事はありません。どうぞご興味を持たれましたら、是非とも実際に自分でお稽古してみて、能をご覧になって頂きたいと思います。
 最後に、祝言の謡『高砂』の最後の部分「千秋楽」をお聞き下さい。本日はどうもありがとうございました。

2016年3月24日木曜日

三月十一日福島・安洞院鎮魂能楽らいぶ「中尊」のご報告

大震災と原発事故の後、能の本来の役目のひとつである鎮魂のために、新しい能『中尊』を作りました。一昨年の事でした。その能を各地でご披露しましたが、いずれも紋付袴姿での「らいぶ公演」でした。
今回は、他でもない福島の地でしかも三月十一日に公演するに当り、もう少し本格の能の形に近付けてみたいと思い、面装束を付けての公演となりました。お寺の本堂ですので、お囃子は笛のみ、地謡も四人で後見を兼ねる形で致しました。
公演後に書いていただいたアンケートには、「難しくてわからなかった」と言う感想もありましたが、「感動した」「涙が流れた」「鎮魂にふさわしく、心が安まった」「祈りと花の力をありがとうございました」など、概ね嬉しい言葉が並んでいます。
写真を何枚かご紹介します。お客様の写っているものが何枚かあって、皆様のお顔がとても一生懸命見て下さっていて良いのですが、色々と問題もありますので、ここでは私だけが写っているものに致します。

内陣の裏から登場します。面装束は観世九皐会からお借りしました。面は「霊女」です。右手に数珠、左手には蓮の実を持っています。
二枚目の写真は、その蓮の実を地蔵の祠に捧げて祈っている場面です。
震災後、福島から岩手へ子供と共に避難しながら、三年目に子供だけが福島に戻ってしまった、その子の行く末を案じてお地蔵さまにお祈りしています。
この蓮の実ですが、本物の中尊寺蓮の実です。一昨年、盛岡の一ノ倉邸で初演した折に、記念に頂戴したものです。
詩人に請われて自分の身の上を語る女。
 中尊寺蓮の謂れを語るうちに、何かに憑依されて舞を舞い始める女。藤原泰衡の首桶に残っていた蓮の種が、八百年後に花を咲かせ、その鮮かな紅が、濁世を微かに照らしている、と言う謡に乗せて舞う曲舞の最後の部分です。
 女に憑依したのは、太古よりの地霊でした。舞の衣を身に纏い、蓮の花を手にしています。
蓮の花を本堂正面の一輪挿しに捧げました。石牟礼道子さんの詩「花を奉る」の謡に乗せて動いています。
「かの一輪を拝受して、寄る辺なき今日の魂に奉らんとす。花や何。人それぞれの涙のしずくに洗われて咲き出ずるなり。花やまた何。亡き人を忍ぶ、よすがを探さんとするに、声に出だせぬ、胸底の思いあり」



 そして胸底の思いを花あかりとして舞を舞います。


















「この世を縁といい。無縁ともいう。その境界にありて。ただ夢のごとくなるも  花」





「かえりみれば。まな裏にあるものの御かたち。かりそめの御姿なれども・・・」
 


「地上にひらく一輪の花の力を念じて合掌す」









最後に、祭壇に捧げた一輪挿しの蓮の花に向って合掌して終曲となります。
この様な機会を与えて下さった安洞院のご住職に、あらためて感謝申し上げます。














2016年3月15日火曜日

2月28日『葛城 大和舞』のビデオを見て思うこと

先月の月末に舞いました『葛城 大和舞』のビデオを見ました。能は現場から離れてしまうと生命を失ってしまいます。ビデオは単なる参考でしかありません。でも、自分の技術を確認して、思うようにいっている点、いっていない点をそれぞれ自分なりに評価するには有効な道具です。

当日の舞台をご覧下さり、感銘を受けたと言って下さる方がいれば、その舞台は一応の成功だと思います。でも、悪い評価の方が一人でもいれば、やはりまだまだ課題があるわけです。自分はやはり辛い評者でなければなりません。

能はその気になればずっと高みへ登り続けられる芸能です。先日、宝生流の三川泉師が94歳でお亡くなりになりました。数年前に仕舞のお姿を拝見したことがありますが、確固とした品格の高さに打たれました。実際にその高みを垣間見ることの出来た幸せに感謝します。

世阿弥は「時々の花」と言う事を言っています。今の自分に咲かせる事の出来る花を精一杯咲かせ続けて行けば、いつかは「真の花」になると信じて続けて行きたいと思います。






2016年3月7日月曜日

福島・安洞院鎮魂能楽らいぶ『中尊』 ご挨拶

 3月11日『中尊』公演のために書いた「ご挨拶」の文章です。
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ご挨拶

能は中世において様々な鎮魂を意図して成立した芸能です。原発事故三年目にあたる一昨年、私はこの度の災厄に傷ついた魂を鎮めたいと思い、能『中尊(ちゅうぞん)』を創作しました。

鎮魂の方途を探る中、石牟礼道子さんの詩「花を奉る」を知り、この詩を能に仕立てることでそれが可能になるような気がしました。被災者の声を聞き集める和合亮一さんをモデルにワキを配し、シテの女性に「花を奉る」舞を舞わせ、それを八百年の時を超えて復活した中尊寺蓮の物語でつないだのがこの一曲です。

「中尊」という曲名は、復活の蓮が中央に対する東北の歴史そのものを象徴していることから名付けました。中尊寺の寺号そのものが謎なのですが、『法華経』「序品」にある「人中尊」に依るとも説明されています。「人は皆、自らの中に仏様となる尊いものを持っている」意であるとすれば、それはまさに「個人の尊厳」に他なりません。先人の掲げた「中尊」の言葉の中に、個人の尊厳を求めて進むべき「花あかり」を求めるのです。

今日という日にこの地でこの作品を演じることを厳粛に受け止め、先に逝った方々と残された方々のために蓮の一輪を捧げたいと思います。

中所 宜夫
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つい先日のことですが、村松恒平さんのメルマガで、「個人の尊厳」と四つの虚無についてとても素晴しい文章がありました。FBでも公開していましたので、ご興味のある方は是非お読み下さい。
それに時を置かずにこの文章を書いていて、私自信が『中尊』=「個人の尊厳」だったことに改めて気がついた次第です。

2016年2月27日土曜日

3月11日の鎮魂能楽らいぶ『中尊』を福島にて

二年前に創作した能『中尊』を3月11日に福島のお寺・安洞院の本堂で小規模ながら致します。


安洞院の横山俊顕さんは、昨年お父様の後を受けてご住職になられました。俊顕さんとの出会いは平成12-3年頃に岐阜県多治見市で催した「能楽らいぶ『融』」の時です。源融の歌「みちのくのしのぶもぢずり誰ゆゑに乱れそめにし我ならなくに」は有名ですが、横山さんの安洞院はすぐお隣にある文知摺観音を管理なさっていて、融のお墓を京都の清涼寺から分けてもらい、融が陸奥国の按擦使で赴任した際に地元で見染めたと伝えられる虎女と二人のお墓を並べてお弔いしている、そういうご縁で、福島からはるばる岐阜の多治見までいらしていたのです。

『中尊』のワキの詩人のモデルである和合亮一さんとの出会いもこの安洞院でした。
俊顕さんとのご縁により平成17年に『融』の能楽らいぶをやり、翌18年に『光の素足』をしたのですが、らいぶの導入部で童話「ひかりの素足」の朗読を安洞院の檀家である和合亮一さんに、朗読に挿入しての如来寿量品の読経を俊顕さんにしていただきました。

『中尊』は一昨年の九月に盛岡の一ノ倉邸での「中尊寺ハスを愛でる会」で初演しました。八月に一ノ倉邸に行き、中尊寺蓮のお話しを伺い、それまで震災の鎮魂を能でやらなければと、石牟礼道子さんの詩「花を奉る」だけ抱えて、気持ちばかり前のめりになっていた私に一つの道を与えてもらいました。その後の僅かの期間で辛くも作り出された作品です。
震災後三年の段階での曲であり、今回は舞台も変る事もあり、少し改作しなければいけないと思っていたのですが、稽古をしてみるとこれがなかなか直し様がないのです。一度作り上げて世に送り出した作品と言うものは、なかなか自分の思うようにならないものです。

『中尊』はこれまで4-5回の「能楽らいぶ」公演を行っています。今回は、能楽らいぶに「鎮魂」の場を与えられた事を期に、始めて面装束を着けて公演致します。






























2016年2月26日金曜日

『葛城 大和舞』を前に

2月28日(日)若竹能で『葛城 大和舞』を致します。今日(26日)申合せを既に終え、愈々本番を待つばかりとなっています。

『葛城』についてはこのブログに以前にも書きました。今回「大和舞」で再演するに当りますますこの曲が好きになりました。「役行者に縛めを受ける神様」、「人間なのに」などと思っているとこの曲は見えてこないのではないでしょうか。

「日本霊異記」などで語られる葛城明神の説話は、作者(おそらく世阿弥)にとってはこの能を具体化するための種の一つにすぎません。大和猿楽の者たちが奈良盆地に一座を構え、日々芸の研鑽を積んでいる時、南を見ればそこにはムックリと葛城山が聳えていました。吉野へ頻繁に通う際には葛城山の麓を通り抜ける、つまり最も親しみを感じる故郷の山だったと思います。
そしてそこには既に滅んでしまった大和舞の伝承がありました。芸能を伝える者として、神代に盛んに行われていた霊力を秘めた舞こそが、作者の目的だったのでしょう。「しもと結ふ葛城山に降る雪の間なく時なく思ほゆるかな」と言う古今集の「ふるき大和舞のうた」と題された歌を頼りに、その大和舞を復活させる、いや具体的なことは何もわからないので舞そのものではなく、舞の霊力を復活させる、そんなことを世阿弥は考えていたのではないでしょうか。

三代将軍義満が微妙ながらも作り出した平安の世を、何とか維持しようとする四代将軍義持。その下で世阿弥は芸能による平安の確立を本気で指向しました。私は世阿弥が芸に向う姿勢に、例えば禅の悟り、世俗に隔絶した修道僧たちなどと同じものを感じるのです。「歌舞の菩薩」と言い、芸を極める事で菩薩となり衆生を救済しようとするのです。平安の世の危うさを古い神の力、芸能の力で維持しようとする、その為に故郷の山に眠る神を縛めから解き放つこの曲を作ったのです。

一月の舞台より

去年は『誓願寺』と『唐船』の二番の能をしたのですが、今年は当たり年とでも言うのでしょうか、一月中に羽村市で『敦盛』(装束を着けての一部上演)をし、このブログでもご案内した相模湖能で『羽衣』を致しました。さらに二月に『葛城 大和舞』、五月に『葵上』、九月に『楊貴妃』、十一月に『光の素足』の他、三月十一日に福島での鎮魂能楽らいぶ『中尊』、その他未だ日程のはっきりしない催しもあります。いったいどうしてしまったのでしょう。
でも、一番一番に稽古を尽して行くのみです。何卒宜しくお願いします。

さて、今日は少し時間が出来たので、一月の舞台の写真を整理していました。

気に入った写真をご紹介して、催しのご報告とさせていただきます。

まづは羽村市ゆとろぎでの『敦盛』より。

 十六歳で一の谷の合戦で討たれた平敦盛の亡霊です。この催しは面打の新井達矢さんの仮面展との連動企画で、使用の能面も新井達矢作の「十六」です。

























次は、相模湖交流センターでの相模湖能『羽衣』。

羽衣を返してもらえず悲しむ天女と、返してもらった羽衣を身に纏い舞う天女です。

面はこれも新井達矢作の「小面」です。























写真はいずれも芝田裕之氏の撮影です。

2016年1月4日月曜日

ふたたび「羽衣」公演のご案内

新春にふさわしい能『羽衣』を相模湖能で致します。

中央線終点の高尾で乗り換えてわずかひと駅の相模湖駅から、冬枯れの里山の姿を眺めながら歩いて十分、小さな湖を堰き止めているダムの傍らに、会場となる相模湖交流センターはあります。ここのホールは音響の良さで知られ、世界的な演奏家がここを指定してレコーディングするという、隠れた名ホールです。

羽衣をめぐる漁師と天女の物語は、白鳥伝説として東アジア各地に伝えられています。能『羽衣』は駿河国風土記を下敷きに、能作者の様々な想いを詰め込んで、美しい詞章と分かり易い筋立てで、現在最も人気のある曲の一つです。

私見では、この曲は能が現代まで伝承されるに至る重要な鍵を隠しています。能をご覧いただく前にそのあたりを少しお話し致します。

どうぞ睦月晦日に都会の喧騒を離れて、幽玄のひとときをお楽しみ下さい。